涙の理由
井田晴也が本を読んでいた。
それ自体は別に珍しくもない。リビングの棚には住人たちが持ち寄った本が並んでいて、気まぐれに手に取ることは誰にでもある。しかし、ソファに深く腰を沈め、分厚い本をじっと見つめている姿は、彼らしくなかった。
晴也は無骨で、ストイックで、どちらかといえば体を動かす方が得意な人間。本を開いても、筋肉をつける料理のレシピやトレーニング方法をざっと流し見るくらいで、何時間もじっくりと読みふける姿など、颯は今まで一度も見たことがなかった。
(そんなに面白い本なのか?)
鳴渡颯は興味を惹かれながらも、特に声をかけることなくキッチンで水を飲んだ。日常の一コマとしては、何の変哲もない光景だ。けれど、次の瞬間、異変が起こる。
晴也の頬を、ひと筋の涙が伝ったのだ。
「――ふえ?」
思わず変な声が出た。ギョッとして目を見開く。今のは気のせいじゃない。確かに、晴也の目から涙が落ちた。
聞き間違いならぬ、見間違いかと思ったが、晴也はすぐにハッとしたように顔を背け、袖で乱暴に涙を拭った。
「……なんだよ」
低い声が飛んでくる。
颯は思わず口をつぐんだ。いつもの晴也なら、こんなふうに取り繕うことはしない。何かをごまかそうとしているのが、ありありと分かった。
「いや……」
とりあえず言葉を濁す。涙を見られたことを気にしているのか、晴也は視線を落としたまま、閉じた本を膝に乗せている。
(そんなに感動する話なのか……?)
表紙をちらりと覗き見る。タイトルは知らないものだったが、装丁からして文学作品っぽい。颯はそれほど本を読む方ではないが、少なくとも晴也が涙を流すほどの物語とは、一体どんなものなのかと気になった。
「……その本、泣ける話なの?」
ストレートに尋ねると、晴也は少し顔をしかめた。
「別に……」
そっけない返事だったが、涙の痕がまだ残っている。そう言われても説得力がない。
「じゃあ、なんで泣いたんだよ?」
何気なく問いかけたつもりだった。だけど、晴也は一瞬、言葉に詰まったようだった。
普段なら適当に流したり、茶化したりするところだ。それをしないということは、本当に何かを思って泣いたのだろう。
「……登場人物が、ちょっと……」
ぽつりと、晴也が呟く。
続く言葉を待つと、しばらく沈黙が流れ、それからぽつぽつと話し始めた。
「……途中で、主人公の相棒みたいな奴が死ぬんだよ。ずっと支えてくれてたのにさ」
晴也は、本をそっと撫でながら続けた。
「しかも、その死に方が……なんていうか……理不尽なんだ。頑張ってきたのに、あっけなく終わるっていうか……」
彼の声は低く、どこか押し殺しているようだった。颯は少し驚きながらも聞いていた。晴也が物語にここまで感情を動かされるタイプだったとは思わなかったから。
「そっか……」
それ以上、何も言えなかった。
話を聞いただけで、確かに胸が痛くなるような展開だ。
「……ちゃんと最後まで読めよ」
颯がそう言うと、晴也が驚いたように顔を上げる。
「途中でやめちゃうとと余計にモヤモヤするし、ラストで何か救いがあるかもしれないじゃん」
「……ああ、まあ、読むつもりだよ」
短く返事をして、晴也はまた本を開いた。
颯はそれを見届けると、何事もなかったかのようにキッチンのグラスを片付けた。
この話の結末がどうなるのか、晴也が最後まで読むのか、感想を話すのか、それは分からない。けれど、彼が本に感じた気持ちは、きっと嘘じゃない。
それだけで、十分だった。