気ままな聴講
昼過ぎの大学構内を、隼哉は気ままに歩いていた。
いつもならこの時間は講義を受けているはずだったが、朝、教授からの一斉メールで「本日の授業は休講」と知らされ、急に予定が空いてしまったのだ。
「まじか~……」
友人たちはそれぞれ別の講義に出ているし、図書館で時間を潰すのも気が乗らない。一人でカフェテリアに行っても、手持ち無沙汰になりそうだった。
そこで、ふとある人物の顔が浮かんだ。
(晴也が取ってる講義、今ちょうど始まるよな)
シェアハウスの住人であり、同じ大学に通う井田晴也。学科は違うが、彼の取っている講義なら、なんとなく興味がある。
隼哉はスマホを取り出し、晴也にメッセージを送った。
「今、何の授業?」
すぐに既読がつき、短い返信が返ってくる。
「〇〇学。なんで?」
「休講になったから、そっち行ってもいい?」
一瞬、既読がつかない時間があったが、やがて返ってきた。
「好きにしろ」
(よし、決まり!)
隼哉はさっそく教室へ向かった。
晴也が受けている講義は、定員の多い大教室で行われるものだった。出席確認はたまにしかなく、講義内容に興味があれば他学科の学生も聴講できるため、紛れ込んでも問題なさそうだった。
教室に入ると、すでに多くの学生が席についている。教授はまだ来ていないが、ざわざわとした雰囲気が広がっていた。
(お、いたいた)
真ん中の方の列に、ノートを広げて座っている晴也の姿を見つける。
隼哉はニヤリと笑い、彼の隣に腰を下ろした。
「よっ。」と、小声で声をかける。
「……本当に来たんだな」
晴也がちらりと隼哉を見る。
「だって暇だったし」
「なら、適当に時間潰せばいいだろ」
「一人でダラダラするより、たまには他の学科の講義を聞くのもいいかなって思って」
「ふーん」
晴也は呆れたように鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
ほどなくして、教授が入ってきた。
「では、授業を始めます」
教室が静まり、プロジェクターにスライドが映し出される。
隼哉は最初こそ、興味津々で前を見ていた。しかし——
(……え?)
教授が話し始めた途端、意味不明な専門用語が次々と飛び交い、隼哉の頭は一気に混乱した。
(え、なんて言った今……?)
スライドには専門的な図と文字が並んでいるが、それが何を意味しているのか全く分からない。
周りの学生たちは熱心にノートを取っている。特に、隣の晴也は真剣な表情で教授の言葉を聞き取り、素早く手を動かしている。
(マジか……すげぇ……)
隼哉はぼんやりと隣のノートを覗き込んだが、そこに書かれている内容すらちんぷんかんぷんだった。
(いやいや、みんな普通に聞いてるけど、これ理解できるもんなの……?)
横目で晴也を見ると、彼はペンを走らせながら、時折頷いていた。
(お前、なんでそんなに真面目に聞いてんだよ……)
隼哉は思わず溜息をつき、机に頬杖をついた。
教授の声は淡々と続く。
「この理論に基づくと——」
(理論!? もうその時点でついていけないんだけど!?)
目の前のスライドが、だんだんとただの記号の羅列に見えてくる。
一方、晴也は教授の言葉をひとつも聞き逃さないように、しっかりとメモを取っていた。
(くそ……俺もノート取るか……)
隼哉は試しにノートを開き、ボールペンを手に取る。
——が、教授の話している内容が理解できないので、書くことがない。
(……)
結果、ノートには「???」とだけ書かれた。
(無理だ。諦めよう)
完全に戦意喪失した隼哉は、静かにペンを置き、ただぼーっと座ることにした。
講義はまだ半分も終わっていない。
「……」
講義が終わり、学生たちが席を立ち始める。
隼哉は力尽きたように背もたれに寄りかかり、大きく息を吐いた。
「……この講義はもういいや」
「だろうな」
晴也は淡々とノートを閉じ、ペンケースにしまった。
「お前、最初の5分で諦めてただろ。いや、5分も持たなかった」
「無理だって。専門用語多すぎだし、スライドの文字も意味不明すぎるし」
「まあ、お前の学科とは違うからな」
「晴也は、よくあんなの理解できるよな……」
隼哉が感心したように言うと、晴也は肩をすくめた。
「慣れれば普通」
「いやいや、すげえよ……俺、ノートに『???』しか書けなかったんだけど」
「ふっ……」
珍しく、晴也が小さく笑った。
「お前がまともにノート取れるとは思ってないって」
「いやいや、最初はやる気あったんだって。でも、途中から脳がシャットダウンした」
「まあ、お前には向いてないってことだ」
「くっそー」
そう言いながら、隼哉は立ち上がる。
「じゃ、俺は次の講義行くから」
「ああ」
晴也も鞄を肩にかけ、講義室を後にした。
隼哉は、晴也がすらすらとノートを取っていた姿を思い出しながら、改めて彼の凄さを実感するのだった。
side H
昼下がりの講義室。
井田晴也は、机の上にノートを広げ、授業開始の時間を待っていた。
この講義は比較的人数が多く、出席確認も厳しくない。内容はそこそこ専門的だが、聞いておけば実用的な知識も得られるため、晴也は真面目に受けている。
(さて、今日の内容は……)
講義資料を見返していると、不意にスマホが震えた。
画面を覗くと、沢弥隼哉からのメッセージだった。
「今、何の授業?」
(……なんだ?)
突然の連絡に、晴也は軽く眉を寄せた。隼哉とは同じ大学に通っているが、学科は違う。普段、講義についてメッセージを送ってくることなんてなかった。
「〇〇学。なんで?」
淡々と返すと、すぐに返信が来た。
「休講になったから、そっち行ってもいい?」
(……は?)
思わず二度見する。
隼哉が自分の講義に来る? わざわざ?
適当なところのある隼哉が、興味のない講義にわざわざ足を運ぶとは考えにくい。
(どんな風の吹き回しだ……?)
一瞬考えたが、とりあえず適当に返しておくことにした。
「好きにしろ」
送信した瞬間、「じゃ、行く!」と即返信が返ってくる。
(マジで来るのか……)
晴也はスマホをしまい、少しだけ考え込んだ。
隼哉が自分の講義に出たいと言い出した理由はなんだろう。
(暇だったから? ……まあ、それが一番ありそうか)
休講でぽっかり空いた時間を持て余して、たまたま自分のことを思い出した……というのが妥当な推測だろう。
(でも、普通は図書館とかカフェテリアとかで適当に時間を潰すんじゃないか?)
わざわざ他学科の講義に来る必要はない。
いや、もしかして——
(……寂しかったから?)
一瞬そんな考えがよぎる。
だが、すぐに首を振った。
(いやいや、隼哉がそんなことで俺のところに来るか?)
隼哉は一人でも平気なタイプだ。人付き合いが得意で、誰とでも気軽に話せる。だからこそ、「寂しい」なんて感情を理由に、わざわざ自分の講義に来るとは考えにくい。
(オレに会いに来た? ……いやいや)
そもそも、隼哉とは毎日顔を合わせている。
同じシェアハウスに住んでいて、朝も夜も同じ空間で過ごしている。大学にいる間くらい別々に行動するのが普通だろう。
(なのに、なんでわざわざ……)
答えが出ないまま、講義が始まる直前になった。
すると、後方の扉が開き、隼哉がひょこっと顔を覗かせる。
晴也と目が合うと、隼哉はにっと笑いながら、空いている席にすっと座った。
「よっ。」
「……本当に来たのか。」
「だって暇だったし。」
やはり予想通りの答え。
(まあ、隼哉ならそんな理由でもあり得るか)
晴也は呆れながらも、それ以上は何も言わなかった。
教授が教室に入り、講義が始まった。
晴也はいつも通りノートを取り、真剣に講義に耳を傾ける。
だが、隣の隼哉は——
(……完全に迷子だな)
教授の言葉が理解できないのか、ノートを開いたまま硬直している。そのうち、机に頬杖をつき、だんだん脱力していった。
(最初から分かってただろうに……)
ちらりと視線を向けると、ノートには「???」とだけ書かれていた。
(何を書こうとしてたんだ……?)
呆れを通り越して、少し笑いそうになる。
普段は何事もそつなくこなす隼哉が、ここまでお手上げ状態になるのは珍しい。
しかし、それでも途中で席を立ったりせず、最後まで講義を受けようとしているのは偉い……のかもしれない。
結局、隼哉は授業の半分以上をぼーっと過ごし、終わる頃には完全に力尽きていた。
「……二度と来ねえ。」
講義が終わり、隼哉がぐったりと呟く。
「だろうな。」
晴也は淡々とノートを閉じる。
「お前、最初の5分で諦めてただろ、いや5分も持たなかったな。」
「無理だって。専門用語多すぎるし、スライドの文字も意味不明すぎるし。」
「まあ、お前の学科とは違うからな。」
「晴也、よくあんなの理解できるな……」
「慣れれば普通だ。」
そう言いながら、鞄にノートをしまう。
「で、結局、何しに来たんだ?」
「え?」
「講義、聞きに来たいって言ってたけど、内容に興味があったわけじゃないだろ。」
「あー……なんとなく?」
「なんとなくで人の講義に紛れ込むな。」
晴也が呆れると、隼哉は照れくさそうに笑う。
「……まあ、一人で時間潰すのもなんだし、せっかくだから晴也のとこ行くかって思ったんだよ。」
「……ふん。」
それを聞いて、晴也はふと最初に考えたことを思い出す。
(……やっぱり、ちょっと寂しかったのか?)
けれど、本人が自覚しているのかどうかは分からない。
(まあ、隼哉が来たところで、別に迷惑じゃなかったし……)
晴也は軽く息をつき、肩をすくめた。
「次はもっと分かる講義にしろよ。」
「お、じゃあまた来ていい?」
「……好きにしろ。」
そう答えると、隼哉は嬉しそうに笑った。
——結局、隼哉の行動の理由は最後まで謎のままだったが、晴也にとっては、それほど悪い時間でもなかった。