梅の匂い、春の気配とランニング
朝の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がする。
井田晴也は、いつものようにランニングシューズを履き、シェアハウスを出た。冷たい風が頬をかすめるが、冬の厳しさはもう和らぎつつある。
「……そろそろ春か」
そう思いながら、ゆっくりと走り出した。
***
晴也のランニングコースは、シェアハウスの周辺をぐるりと回るルートだ。大通りを抜け、公園の周りを走り、住宅街を通って帰ってくる。朝のランニングは、彼にとって大事な習慣だった。
呼吸を整え、足を前へ運ぶ。走り始めは少し寒いが、体が温まるにつれて気にならなくなった。
住宅街を抜け、公園の脇を通りかかる。
その時、ふと、甘い香りが鼻をかすめた。
「……?」
足を止め、少し振り返る。
公園の入り口近くに、小さな梅の木が立っていた。
細い枝に、薄紅の花がいくつも咲いている。朝の光を浴びて、淡く輝いているようだった。
「梅、か」
近づいてみると、さらにふわりと香りが広がる。優しく、ほんのり甘く、それでいてすっきりとした香り。
晴也は深く息を吸った。
「……いい匂いだ」
この香りを感じると、冬が終わりかけていることを実感する。まだ空気は冷たいが、確実に春の気配が混じり始めている。
昔から、梅の花は春を告げるものだと言われている。
「春告草、か……」
少し前に凌生が話していたのを思い出す。梅にはいくつもの異名があるらしい。その中でも「春告草」という呼び名が、なんとなく気に入っていた。
春を告げる草。
それはただの言葉ではなく、本当にこうして春の訪れを知らせてくれるのだと、今、目の前の梅を見て実感する。
晴也はもう一度、大きく息を吸った。
そして、再びゆっくりと走り出す。
***
シェアハウスに戻ると、リビングにはすでに何人かが集まっていた。
「お、晴也。お帰り」
キッチンでコーヒーを淹れていた慎一が声をかける。
「……外、もう春の匂いがしてた」
「春の匂い?」
「梅の花が咲いてた」
「おお、いいねぇ 」
隼哉がテーブルに肘をつきながら身を乗り出した。
「そういえば、凌生が言ってたよな。梅の異名」
「春告草、だろ」
「そう、それ」
晴也が頷くと、慎一が少し考えるように言った。
「梅の花ってさ、桜みたいに派手に咲くわけじゃないけど、なんか風情があるよ」
「うん。走ってたら、ふわっと香ってきて……それで気がついた」
「梅って、匂いがいいんだよなぁ」
「梅の香りって独特だけど、嫌味がなくて落ち着く」
「たしかに。なんか春っぽい気分になるよな」
颯が頷いた。
凌生がソファから本をめくりながら、さらりと言う。
「梅の香りは、日本人にとって馴染み深いものだからな。昔の和歌にもよく詠まれてるし」
「そうなんだ?」
颯が興味深そうに本を覗き込む。
「例えば、『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花』とか」
「それ、聞いたことある!」
「菅原道真の歌だな」
慎一が補足する。
「そう。『春風が吹いたら、梅の花よ、香りを運んでおくれ』って意味だな」
「へぇ……梅って、昔から春を感じさせるものだったんだな」
「まあ、実際に今もそう思うんだから、昔の人も同じように感じてたんだろうな」
慎一がカップを置きながら言う。
晴也は、走っているときに感じた梅の香りを思い出した。
「……春が来るのって、意外とゆっくりなんだな」
「ん?」
「一気に暖かくなるんじゃなくて、こうやって少しずつ香りとか、空気とかが変わっていく」
「確かに。朝起きたときの空気とか、日差しとか、なんとなく違う感じするよな」
颯が頷く。
「季節の変わり目って、そういうのが面白いな」
晴也は、ゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。
梅の花が咲き、香りが広がり、そして春が少しずつ近づいてくる。
冬が終わり、また新しい季節が巡ってくるのを、静かに感じながら。