春の宵の恋煩い① 夜々の家の邑珠姫Side
桜の花の蕾が膨らんできている。
空気に春の期待が満ちて、もうすぐ春だと喜びに満ちたたあとのこと。またひんやりとした切望のような白い雪が舞い、一度に冬に押し戻されたかのような寒波に襲われた。
雪が舞っている庭は、夜更けに見ると儚げで私の恋心とは対照的な美しさだ。
でも間違いない。
春は、すぐそこまで来ている。
私の人生で一度きりの特別な春が、すぐそこまで来ている。
私の新たな恋は許されないものだ。
まだ、今は。
鷹宮さまの妃選抜の儀第1位の私は、今は前宮の青桃菊棟の立派な寝室で寝ていた。32位まで順位をつけられて入内した姫君たちの中では一番立派な部屋を与えられていた。
鷹宮妃選抜の儀開始時、頂点を極めたのは西一番の大金持ちである夜々の家の姫の私。妃に選ばれたのは32位で滑り込み入内した済々の家の花蓮姫。
運命とは苛烈なもの。
人の心とは他人が制御できぬもの。
この春の入り口で、花開く蕾のような美貌と体を持て余して今世最高美女と称えられている私は、恋の真っ只中にいる。
「邑珠……」
誰かが囁く声がする。艶っぽい声音が耳元で囁いて私は期待で震えた。
私はゆっくりと目を開けた。目の前に誰かの顔があるのだが、目が暗闇になれるまで少し時間がかかった。
私を見下ろしているのは誰?
侍女では……ない。
男……?
私は目が一瞬で覚めた。
「みり……」
そうだ。
今、私が夢の中で望んでいた愛しい人は、紛れもなく美梨の君だ。
私は暗闇の中で思わず手を伸ばした。
だが、私を艶やかな瞳で見つめる美梨の君は、暗闇の中に跡形もなく消えた。
あぁ、また私の願望のようだ。
心の底から恋しく思うと夢にまで現れるのか……。
今世最高美女と誉高いわたくしが激しい恋をしているのは鷹宮さまだと自覚していた。
それなのに。
どうやらこの私が本気の恋をしたのは、美梨の君の方だった。
この事に気づいたのはつい1月ほど前のことだ。バレてはならない絶対秘密の恋だ。
私はどうするの?
これから鷹宮さまに抱かれながら、美梨の君のことを思うの?
私はその映像が脳裏に浮かんで、自分の胸がやるせなさと切なと共にちくりと小さな痛みを感じるのを自覚して、ため息をついた。
つい先日、とんでもない事件が起きた。
選抜の儀第2位の冥々の家の茉莉姫は、気立の良く、白魚なような手で琴を奏でるたおやかな美しさのある姫だった。
彼女の事を思うと、泣きたくなる。
彼女は彼女で、とても完璧な姫だった。優しくて穏やかな笑みを浮かべて、美貌と気立の塩梅が最高だと讃えられていたのは、私ではなく冥々の家の茉莉姫の方だ。
私は気位が高いから……。
今世最高美女と私のことを皆が口々に噂している。私はそのことを十分に自覚している。
そうだ。私は美しい。そして気性は激しくて気位が高い。
私はあっけなく冥々の家の茉莉姫の夢が散ったことを思い、物憂げなため息をついた。彼女はあれほど完璧だったのに、鷹宮さまへの恋に執着するがあまりに一線を超えてしまった……。
恋とは恐ろしいものだ。
今頃、彼女はどこで何をしているのだろう?
西一番の大金持ちである夜々の家の邑珠姫である私は、20歳だ。この夏には21歳になる。
手に入らぬ独身男性などないと言われてここ数年過ごして来た。それなのに、最大の目的だった鷹宮さまの妻の座は、済々の花蓮姫に奪われた。
選抜の儀32位の姫に第1位の私がかなわなかったのだ。
そして冥々の家の茉莉姫が起こした恐ろしい事件が私を苦しめた。選抜の儀第2位で、前宮に入内以来、私と同じ青桃菊棟の一つ屋根の下で暮らした茉莉姫は、羅国と手を結んだ。鷹宮さまに薬を盛って無理やりことを成そうと悪どい計画を遂行しようとした……。
それは未遂に終わったが、あろうことか美梨の君を天守閣から突き落として殺害しようとしたのだ。
青桃菊棟の同志のような存在だと、私は勝手に茉莉姫のことを思っていたのに……。
私が受けたショックは大きかった。
今、暗闇の中で私は心から泣きそうだった。
私はひとりぼっちのような気持ちだった。
次に敵は、鷹宮さまを手にいれるために、選抜の儀1位の私におそらく近づこうとするのではないだろうか。きっとそうだ。
選抜の儀2位だった茉莉姫は罪を暴かれて追放された。
今頃、彼女は刑に従っているのだろうが、いったいどこでどうしているのだろう?
きっと……。
海の向こうや山の向こうからもっと大きな陰謀が私に迫ってきているのではないか。
この不安な気持ちを美梨の君に告白してしまいたい。そして、どうしても、自分の気持ちを美梨の君に伝えたい。
何もかも忘れて快楽に耽りたい。
私は追い詰められているのだ。
何もかも忘れて美梨の君の腕の中に抱かれる自分を想像して、そのまま何もかも忘れて眠ってしまいたい。
絶頂を迎えて震える体が欲しているのは……美梨の君……。
夜々の家の邑珠姫である私は鷹宮に恋焦がれていたはずなのに、今、美梨の君に夢中だということは秘密だ。
侍女にも誰にも知られてはならない秘密。
ついに涙が溢れた。
恋焦がれて、欲しくて欲しくて泣いてしまう。
わたくしのこの美しさに勝てる姫君がいるとは思えないわ。
しかし、鷹宮さまの心は末席だった姫に無我夢中に……。
生まれて初めて私は絶望を感じていた。
私は鷹の宮妃選抜の儀1位の夜々の家の姫で、鷹宮さま一直線だったはずなのに、心の中にはいつの頃からか、あの小柄で美しい若君が大きく占めてしまっていた。
選抜の儀を辞退することは決して許されないこと。
鷹宮さまにこの気持ちを打ち明けることも許されないこと。
私は泣きながら眠りにつこうとした。
朝になったら、この気持ちを済々の家の花蓮姫に相談しよう。
春の桜が咲く頃に、私は前宮を追われるかもしれない。だが、このままこの気持ちを隠してはおけない。
誰かに聞いてもらいたい。
鷹宮さまにすでに選ばれた花蓮姫ならば、私の気持ちを素直に聞いてくれるかもしれない。
後宮の春の宮にいる花蓮姫に文をことづけよう。私の侍女の暸寿に、花蓮姫の侍女の小袖に文を渡してもらうように頼もう。
私はそう自分に言い聞かせた。
そうだ。
花蓮姫はきっと……。
彼女が赤い美しい煌めく竜の主であることを想いながら、私は望みを託すことに決めた。
この春、私の恋は始まったばかりだった。
鳴物入りで入内したのに、鷹宮様のお心は32位の済々の傷物姫と噂が絶えなかった花蓮姫一直線であると判明し、わたくしは第一の妃には選ばれなかった。
手のひらをギュッと胸の前で組み合わせて、祈った。
どうか、一度だけ、美梨の君と口付けをしたい。この気持ちを伝えたい。そんな奇跡のようなことが許されるのだろうか?
妃に選ばれなかったらどうなる?
このままいずれの妃にも選ばれなかった場合、西一番の大金持ちの夜々の家としては、権力の中心からは少し遠ざかることになる。
だが、夜々の家は現時点でも十分繁栄している。姫の私が今世最高美女だからと期待が相まって家の価値が高まっているのは事実かもしれないが、私が鷹宮さまの妃にならなかったとしても、夜々の家の価値が大幅に下がることはないはずだ。
ならば、美梨の君に身も心も捧げることはできるはずだ…。
まずは、鷹宮さまの妃に選ばれさえしなければいいのだ。
第2位の妃にも、第3の妃にも、第4の妃にもだ。
ただ、わざと選ばれないようにするのはいけない。
さりげなく、確実に選ばれないようにするのだ。
福は満ちれば落ちると言う。何もかも手にいれるのは避けるべきだ。今世最高美女で大金持ちの家に生まれた私は、1つ足りないぐらいが幸せだろう。
あぁ、美梨の君に会いたい……。
この時、私が見つめる先には確かに暗闇が広がっていた。人の気配は無かったと思う。
しかし、朝目覚めると私の枕元には不思議な香りのついた文が置いてあった。
文の上には紙で包まれた薄餅と、美しく碧い宝石のついた櫛が置いてあった。薄餅の匂いを嗅ぐと、微かに何かの花の香りがした。
昨晩、誰かが私の寝室に忍び込んでこれらを私の枕元に置いたのだろうか。暗闇の中で私のことを誰かが見ていたのかと思うとゾッとした。
震える手で文を開いた。文字と数字が規則正しく文には記されてあった。
これは、何かの暗号よね……?
羅国?
激奈龍?
深野谷国?
豊かな御咲の国を取り囲む国々を私は思った。
いよいよ、私は敵に目をつけられたようだ。
私の初めての恋は敵につけ込まれた。
私はこの気持ちを敵に見透かされているとはこの時全く思いもよらなかった。しかしこの春、私はこの密かに恋する気持ちを敵に利用された。
鷹宮さまの巨大な敵は、実に繊細に心に入り込む術を持っていたのだ。