8 現実
ここまでくれば、小説『陽炎座』のなかで現実に起こったことがそのままに書かれている部分は、かなり絞られてくる。
まず、確実に現実だと思われるのは、十六節の半ばから、二十節の半ばまでの、松崎が自宅でお稲の葬式について妻と会話をする、回想部分。
そして、全編の一番最後にエピローグとして置かれた、「後で伝え聞くと……」以下の、作品末尾のごく短い部分。
「後で伝え聞くと、同一時、同一所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら少い娘の余り果敢なさに、亀井戸詣の帰途、その界隈に、名誉の巫子を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の来きたった状は秘密だから言うまい。魂の上る時、巫子は、空を探って、何もない所から、弦にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで迷の巷。
黒髪は消えなかった。」
たったこれだけである。
それでは、現実に起こったけれど、そのままには書かれていない部分はどうなのだろう。
冒頭の「江東橋から電車に乗ろうと」して、美しい女と若紳士を見かけた部分は、事実かもしれないが、6で見たように、女の心が「透通って色に出る」ような、松崎の想像による脚色が含まれている。現実か、想像か、ということより、「仕事に悩んで」(二)いた、つまり、スランプに落ちていた狂言作者の彼が、気になる男女の姿を見かけて、創作意欲のスイッチがオンになった、ということを示している場面だろう。とすると、狸囃子というものも、実際に聞こえた音ではなく、松崎の高揚した気分を表しているのかもしれず、美しい女と若紳士が狸囃子に反応したというのも、どうも後付けした描写のような気がしないでもない。
そこから松崎は、木賃宿街にさまよいこむのだが、そこでもやたらと行燈ばかりが強調され、かつてそこにあった色街が大火で焼失する前の記憶に耽溺しがちな、歪んだ情景が描写される。
描写のトーンが変化するのは、「土御門家一流易道」(三)という派手な看板を目にしたあたりからで、おそらくここで、現実世界の松崎は「名誉の巫子を尋ね」たのだろう。
というのも、この世界では6でみた忠臣蔵のほのめかしと同じように、暗示されたものを断言されたとみなすようなセンシティブな受け取り方をしなければならないのであって、土御門家といえば、安倍晴明の母は巫女だという伝説もあったことを思いだせば「その近くに目指す巫女の家があった」と書かれているのと同然なのである。
もしかするとその直前に松崎が目撃した、猿回しらしき男の後ろ姿も、猿回しから猿楽を連想させて、猿楽から巫女の舞いを連想させることで、巫女の家が近づいたことを示す、迂回した暗示なのかもしれない。
すると残りの部分、松崎が新粉売りの屋台を目にしてからの、松崎と妻の会話部分とエピローグ部分を除いた、本作の大半を占める部分はすべて、現実に起こったわけでもないのに、現実に起こったように書かれている部分、つまりエピローグで「秘密だから言うまい」と書かれた「秘密」の部分である。この部分は、
「裲襠の袂に、蝶々が宿って、夢が徜徉とも見える」(十五)
というような表現に暗示された「胡蝶の夢」であって、松崎が巫女の家で見聞きしたことを、頭のなかで芝居めいたものに書き直した、即興の物語なのだろう。もちろんそれは、松崎の思考を垂れ流しているわけではなく、3でみたように、即興の作家である巫女の言動に反応しながら、狂言作者としての物語を組み立てているわけで、ジャンルの違う創作者と創作者がぶつかりあう真剣勝負という側面もある。しかし基本的に、しょせん松崎の創作意欲は、狸囃子に導かれた春先の浮かれ気分に乗せられた上でのそれであって、創作しつつも松崎は、創作の世界と現実の世界の間を、あちらに寄り、こちらに寄りと、浮遊している。
巫女の口寄せがお稲の霊を呼び戻すものである以上、悲劇的なものになるとわかっている話の結末を極力遠ざけてこの珍しい状況を楽しみたいという意思が、基本的にはエンタメ作家である松崎には働いて、
「陰気だ陰気だ、此奴滅入って気が浮かん、こりゃ、汝等出て燥げやい。」(十四)
と陰鬱を退けて、「必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな」と歌わせるのだろう。「丹波の太郎」とは雨雲のことで、春の晴天の浮遊感が続いてほしいと願っているのだ。
まあ、ちょっと、だれかに叱られそうなたとえではあるけれど、こういう場面での松崎は、ちょうどクリエイター気質のVチューバーがゲーム実況の配信をして、作業的なプレイをこなしながら、好きなアニメのキャラクターを使って即興のストーリーを語りつつ、要所要所でゲームの進行に引き戻されたり、ときどき喉が渇いたなどと地のしゃべりを挟んだりしているような、そんな状況ではないか。
閑話休題で、ここまでの検討から『陽炎座』という小説のなかで実際に起こった出来事らしきことをそれらしくまとめると、次のようになる。
狂言作者の松崎は、近所に住んでいたお稲という娘が狂い死にをしたという話を妻から聞いた。出世の手づるになる婿を求めた兄が、お稲が思いを寄せていた男との結婚話を断ったことが原因らしい。
仕事に行き詰まっていた松崎は、死んだ娘の鎮魂を願いがてら、亀井戸の神社あたりを朝から散策することにした。その帰路で耳にした祭り囃子の音から、松崎は創作意欲をかき立てられる。囃子に導かれた気分で、なにかのネタになるかもしれないと、以前から気になっていた評判の霊媒師を訪ねてみることを思いついた。
木賃宿街にあった霊媒師の家には、先客として貧しそうな若者と夫婦ものらしき客がいる。さっそく口寄せがはじまったが、若者は結果に満足せず、悪態をついて帰ってしまう。次の夫婦者らしき男女の依頼を聞いていると、なんと彼らは偶然にも、お稲の事件の当事者らしい。
松崎はさっそく、口寄せの様子を窺いながら、頭のなかで芝居仕立ての物語を組み立てはじめる。囃子の音を耳にした江東橋の情景から、できるかぎり劇的になるようにと書き直して、ここが子供芝居の客席だという見立てをしてみる。話を聞いているうちに、夫婦者だと思っていた二人は、お稲の兄と、お稲が思いを寄せていた男の妻だということがわかってくる。松崎は女が、男二人に忠臣蔵めいた復讐をするという筋書きを思いつく。
口寄せの内容はあらかたの想像通り、お稲の霊が冥界で悲惨な思いをしているというものだった。けれどもそれを聞いた男女の反応は、お互いを罵りあう激しいものとなり、ことに女のほうが、鬱積した憤懣をあらいざらい男にぶつけて激昂したすえに、二人は喧嘩別れした。
あの様子からするに、自分が想像した色仕掛けの復讐劇というのは、どうやら当たっていたらしい。女はその場から姿を消したまま行方不明だという。半信半疑であった霊媒というものについては、なんらかの真実を含むものなのか、判断を下しかねている。