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7 綻(ほころ)び

 ここではまず、子供芝居の舞台を最初から観ていたとおぼしき、頬被りの若者について考えてみたい。

 頬被りの若者は、一読したところでは物語の道化役として消費されるだけのように思われる。しかし作中でことばを発する、つまり現実の存在であることを示す数少ない人間の一人であり、かつ、作品の中盤で、謎めいたことばを発する人物として重要である。


 「ざまあ見ろ、巫女(いちこ)宰取(さいとり)、活きた兄哥(あにい)の魂が分るかい」(九)


 というのがそれで、このことばは、『幻の絵馬』の花政老や『鷭狩』の女中お澄などが発する謎のことばと同じく(それぞれの別稿解説を参照)、この時期の鏡花作品でくり返し遭遇してきた、物語の謎を解く鍵になることばに違いないように思われる。

 頬被りの若者は寝ている新粉細工売りに向かってそのことばを言うのだが、そこまでの話のなかで、巫女(いちこ)だの宰取(さいとり)だのというものはほのめかされてもいなかったから、読者は意味不明なことばとして読み流すことしかできない。ちなみに宰取とは、仲介業者、売買の仲介をして手数料を取る人のことで、字義通りに解釈すると、ここでは巫女(いちこ)の客引きのような人を表すのかもしれない。しかし、そんな人が巫女(いちこ)のそばでじっとしているというのもおかしいので、なにかに向かって八つ当たりをして、「お前は巫女(いちこ)とグルになりやがって」くらいの意味の悪口を言ったのか。

 いや、巫女(いちこ)というのは、霊の宰取(さいとり)をするような商売だといって、巫女(いちこ)その人に罵声をあびせてると考えたほうが適切かもしれない。


 (むしろ)舞台の子供芝居が松崎の想像世界だとすると、頬被りの若者が口にした意味不明なことばは、松崎の想像を取りはらった現実の世界に係わるものではないかと思われる。

 とすると、いま彼らがいる場所は現実世界の巫女(いちこ)のそばであって、頬被りの若者が悪口を浴びせる新粉細工売りは、現実世界に存在はしているものの、4で検討した「ものを言う者と言わない者」の原則によれば、「そこにいる人間」ではないので、新粉細工売りは実在する人間ではないということになる。頬被りの若者は、巫女(いちこ)のところに生き霊の口寄せのようなことを頼みに来て、なにかそういうもの、あるいは巫女(いちこ)本人に向かって、自分に対してだけ扱いが雑であったことの不満をぶつけているようだ。


 それでは新粉細工売りとはだれ(なに)なのか。松崎がはじめて新粉細工売りを見て思ったのは、


 「男か、女か。」(三)


 である。脚絆(きゃはん)をつけて、おそらく足袋に草鞋(わらじ)履きで、腕を組んで、襟もとには手ぬぐいを巻き、頭部は笠で隠していたとなると肌や髪の露出は皆無で、男か女かの区別はつかないのだろうが、それでも、荷車を引く行商人に対してまず男か女かを疑うのは、ちょっと普通ではない気がする。直後に松崎自身が親仁(おとっ)さんと呼びかけているように、男だと思うのが自然ではないか。それをわざわざ男か女かと問うたのは、新粉細工売りが、男か女かといえば女のように見えた、ということを言いたいのだろう。

 二十二節で不意に起きあがった新粉細工売りが無言で迫ってくる、全編中もっともホラーチックな場面は、幕のなかの人(つまり巫女(いちこ))のことばが熱を帯びるタイミングなのを考えれば、新粉細工売りは巫女(いちこ)の霊媒師としての分身か、お稲の霊を下ろすのに使われた、憑依をうながす道具か、依り代のようなものなのではないか。

 また、起きあがった新粉細工売りは、「三人に床几を貸した古女房」と並んで立つことになる。となると古女房は、巫女(いちこ)の家にいる使用人なのか、あるいは幕のなかの人、巫女(いちこ)自身の分身なのかもしれない。その場合、普通の商売人として接客をする巫女(いちこ)の姿が、古女房として現れると考えられる。

 霊媒が霊に憑かれる様子を観察すれば、霊が降りてきて人格が変わったと思うはずだから、巫女(いちこ)には複数の人格を投影する対象があってもなんら不思議ではない。


 さて、松崎の想像世界が(ほころ)びを露呈する場面はほかにもある。

 まずは八節で、子供芝居の舞台として敷かれた(むしろ)の上に、蟻が出現するくだりである。

 顔を近づけて覗きこんでいるわけでもない筵の上に影が差して四、五匹の蟻が見えるというのがそもそもおかしいし、その蟻が、きたれや、きたれ、という文字列になったとなると、幻覚としかいいようがない。四、五匹の蟻では「き」の字さえ作れない。

 もう一つは十二節で蚊が出現する場面で、蚊に対する恐怖が、奇妙なほどリアルに執拗に描写されている。


 「この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹も曇ろう」


 というのだが、いきなり無関係に登場する四ツ目(竹を方形に編んだ垣根)とは、どこの垣根をいっているのか。

 この二つの幻覚はそれぞれ、「蟻は隠れたのである」、「(うつつ)なの光景(ありさま)は、長閑(のどか)な日中の、それが極度であった」と、意味ありげな一文で締めくくられている。

 ……のだけれど。

(うつつ)な(非現実)」などと書かれているのだけれど、である。そもそも現実として書かれているのが松崎の想像世界なのだから、それが綻びたところから見えるもののほうが現実なのである。『陽炎座』の世界は、非現実は現実だと解さなければならない、逆転世界なのである。

 頬被りの若者の場合と同様、実際に起こったことを推測すると、次のようなことではないだろうか。


・蟻……巫女(いちこ)の儀式の最中に雲の蔭が差して、ふと目を向けると、室内に(あるいは縁先に)四、五匹の蟻が這っている。戸外からは、だれかが「来たれや、来たれ」という軍歌を口ずさむ声が聞こえて、あの歌の歌詞が書かれていた(?)草紙の絵まで思い出してしまう。かつて若者たちを日露戦争に駆り立てたあの歌が、いまでは霊を呼び立てる呪文のようにも聞こえてくる。


・蚊……そろそろ日が落ちてきたせいなのか、巫女(いちこ)の家の庭先では、蚊が群れをなしている。蚊というものは苦手だし、同じ部屋にいる美しい(ひと)や、もしかすると呼び出されたお稲の霊にまで襲いかかるのではないかと思うと、心配でならない。こうまで蚊がたかると、この庭を囲った四ツ目垣に咲いていた、紅白の牡丹も色を失うだろう。


 「来たれや、来たれ」というのは、当時歌われていた軍歌の題名でもある。小学唱歌の本にも収録されて、当時はすでに懐メロだったのかもしれない軍歌「来たれや、来たれ」が発表されたのは、明治十九年、鏡花が数え十四歳のころだった。


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