5 ハニートラップ
『陽炎座』は一貫して松崎春狐の主観視座で語られる物語であるが、逗子逗留時代(明治38年7月下旬から42年2月)以降の鏡花作品の多くが観察者の視点から語られるようになったのと同様に、本作の実質的な主役は、お稲と品子のダブルヒロインである。
その品子自身の口から、幕のなかの人に向けて語られる彼女自身の物語は、かなり読者の意表を突く内容だった。
品子は、お稲という娘が実兄夫婦の出世欲のために、愛しい人との仲を断たれて狂い死にしたことを知り、さらにお稲が恋をした愛しい人というのが、結婚したばかりの自分の夫であると知った。お稲という娘の命を奪ってまで、自分の欲望やうぬぼれを優先する、男の傲慢や弱さに絶望した彼女は、お稲の兄と自分の夫の二人を同時に社会的な死に追いやるための計画を実行する。すなわち、お稲の兄にハニートラップを仕掛けて肉体関係を結び、なんらかの方法でそれを世間に知らしめて、自身は自殺をするか、あるいは姿を消す、という段取りだった。
「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです」(二十五)
いかに父権的な価値観の強かった時代とはいえ、世間からの非難を浴びている最中に、さらにその影響だとささやかれている妻の病中に、その事件の関係者の新妻を寝取った、あるいは寝取られたというドロドロの状況になれば、巷の噂の恰好の餌食となるスキャンダルに発展するだろう。
その、肉体関係を結ぶ「その望みが叶ったんです」(二十五)という直後のある日が、『陽炎座』で描かれた一日ということになる。
さて、肝心なのは次の段階、品子はどうやってその事実を世間に知らしめるのか、ということだが、それについては篇中では触れられていない。けれども、もしも作品の最後にその後の展開が明示されたとすれば、『陽炎座』という作品はハニートラップによる因果応報の復讐劇というオチに納まって、それまで築いてきた象徴世界が台無しになってしまっただろう。
現在の創作物であればどうするか。やはりネットの噂の広がりを暗示して終わるなんてことが、最もありがちではないか。
となると、それに相当するのは、松崎がお稲の事件をそこから知った、長屋の女房たちの噂話の拡散力、髪結いの噂話ネットワークの広がりである。本作での松崎の妻、隣家の女房、そして髪結いの存在は、その暗示のために配置されたのではないだろうか。
こんなふうに、鏡花の小説を読んでいると、なんとなく数十年後、百年後では当たり前になった感覚を、具体的にではないが予感していたのではないかと、ふと感じてしまう瞬間がしばしば訪れる。