4 沈黙
『陽炎座』の世界で特徴的なのは、しばしば沈黙が強調されることである。
松崎や美しい女、若紳士を子供芝居に誘いだした狸囃子が聞こえなくなったとたん、気まずくなるような沈黙の時間が、間歇的に訪れる。
通常ならば会話文が篇中のかなりの部分を占める鏡花作品にあって、これほど喧噪と沈黙のコントラストが強調されることは珍しいことのように思える。舞台の子供役者が発するセリフ以外、ことばを発する人物(あるいは人間以外?)が限られていることも、理由の一つだろう。
2で挙げた、謎めいた五人の存在のうち、新粉細工売りと屑屋は最後まで一言も声を発さないし、古女房は決まり切ったことを言うだけで、会話の意思がないように思える。観客の子供たちも笑い声やどよめきを聞かせるだけで、すくなくとも言語的な意味のあることは口にしない。唯一の例外として、子供たちにまじっていた子守の娘と、そのそばにいた小さな子が短いことばを交わしあうのだけれど、それは子守の娘という者が、生前のお稲を連想させるという特権的な存在だからなのかもしれない。
そして、舞台上の雪女に前掛けを貸すように促された子守の娘たちがしりごみをしたのは、もしかすると、過去の自分(子守の娘=少女時代のお稲)が自分(雪女=お稲)にものを貸すことができない、という意味だったのではないか。その雪女に、(のちに立ち位置が入れ替わることになる)品子が羽織を貸したというのも、なんだか象徴的なことのように思える。
観客の子供たちはものを言わないという原則はあるが、子守の娘が口を利く場面では、なにか言いそうだと思えば原則が破られる。乙女牡丹の花があると思えば現れて、ないと思えば消えてしまう。ことばがあれば、思いがあれば、それが示すものが実体としてそこに現れるというのが『陽炎座』の舞台の世界である。
では、そのことばや思いはだれのものなのか。それは松崎春狐以外にはありえない。なぜなら、子守姿のお稲の面影や、乙女牡丹の花のイメージは、松崎のプライベートな記憶のなかにしかないものだからだ。(これでようやく、『陽炎座』の子供芝居の世界は松崎の意識、無意識が作ったものだ、ということを、前提として言えるようになった。)
思いがあれば、それが実体となるという小説は、以前にも読んだことがある。フィリップ ・K・ ディックの『宇宙の眼』(旧訳名『虚空の眼』)というSF小説である。申し訳ないけれどネタバレをしてしまうと、陽子ビーム加速器の漏洩事故に巻きこまれた数名の人々の意識が浸食しあって、全員が、そのうちのだれかの潜在意識の世界の住人になってしまうという作品である。他人の無意識が即物的に反映される世界というものが、不条理で、グロテスクで、ときにコミカルに描かれるのだけれど、それが『陽炎座』の世界の味わいと、とてもよく似ている。
ただしディックの場合は陽子ビームというSFガジェットによってその世界が実現するのだが、鏡花の場合は、驚くことに、文飾の力が、陽子ビームの代わりを務めることになるのである。
さて、また話を戻すと、ものを言う者と言わない者との違いとはなんだろう。
子供芝居の役者や子供の観客たちは、最終的にこの世の者ではない去りかたをしたり、いきなり消えてしまったりするのだから除外するとして、簡単に思いつくのは、ものを言う者は此岸の者で、ものを言わない者は彼岸の者という区別である。
しかし、頬被りの若者が新粉細工売りに声をかけることからして、あるいは屑屋は松崎の分身ではないかと考えたことからして、彼岸、此岸という分けかたは、どうもしっくりしない。
ここで思い出したいのが、二十四節で品子が放つ、決定的なことばである。
「ここには幾多居ます。指を折って数えるほどもない」
つまり、指を折るということばの感覚からいえば、実際はそこには、四、五人くらいの人しかいないのだという、本作の種明かしがされている。それまでに筵の芝居小屋で、意味のあることばを発した大人は、松崎、品子、若紳士、頬被りの若者、幕のなかの人の五人だけであって、しかも頬被りの若者はすでに立ち去っている。四、五人というのは、「指を折って数えるほどもない」ということばにしっくりとくる人数で、これが一人から三人でも、六人以上であっても、違和感が発生する。
どうやら、ものを言う者は、実際にそこにいる(いた)人間であり、ものを言わない者は、実際はそこにいない人間、あるいは人間以外の存在、あるいはなにかを反映したイメージなのだと考えられる。