3 巫女
『陽炎座』での巫女ということばは、神楽のそれと似たようなケースであって、現在も見かけるような、神社で神事に携わる若い女性を指してはいない。手っ取り早くWikipediaを見ると、「巫女は柳田國男や中山太郎の分類によると、おおむね朝廷の巫系と民間の口寄せ系に分けられる」と書いてあって、本書のそれはもちろん後者の口寄せ、つまり霊媒師のことだ。そもそも鏡花は「巫女」に「いちこ」というルビを振っているので、三十五座がなんなのかという疑問よりもずっとわかりやすい。
ただし、現在、自分たちが知っている霊媒師をイメージして、昔の人は今よりもっとそういう神秘的なものを信じていたんだろうなと想像するのは、間違いだと思う。
十返舎一九の『膝栗毛』に出てくる巫女は、死霊や生き霊の口寄せを見せる若い女の旅芸人で、弥次郎に酒や料理をおごらせて夜の相手の期待までさせる、なんだか移動キャバクラみたいな存在である。巫女の口寄せにまんまと乗せられる弥次郎を見て笑っている北八の様子からみると、最初から口寄せなんてものを信じてはいず、娯楽として楽しんでいるのがわかる。
『膝栗毛』は鏡花の愛読書ではあるし、三編上の巫女の場面で一九が使っている「瓜の蔓の次郎どの」や「中風」ということばが、本編の「茄子の蔓に茄子」(五)という言い回しやお稲の父の病名になんとなく反映しているようで、もしかすると鏡花は執筆中に『膝栗毛』のその部分を読み返したのかもしれない。
巫女という存在は、鏡花が寄りかかりたがる江戸の感覚ではいかがわしいものであって、松崎の狂言作者たる自我(屑屋)からすれば、じろじろと疑いの目をもって警戒すべき対象なのだ。
こういった、昔の人ほど超自然的なものを信じていたのではないかと誤解されやすい存在として、ヨーロッパにおける魔女というものがある。ヨーロッパ中世の社会には、実際に魔女に相当する人がいたのだが、そういう人は迷信にとり憑かれた頭のおかしな人だとみなされていた。鼻で笑われながら、「杖や棒切れにまたがって、だれが空を飛べるものか」と、歌や絵に登場するコミカルなキャラクターの一つとして扱われていたのである(ヨハン・ホイジンガやノーマン・コーンの著書を参照)。いわゆる魔女狩りが猖獗を極めるのは、中世が終わりを告げたあとのルネサンス期、ヒューマニズムの時代が到来してからのことだった。
話を戻して、上に書いた『陽炎座』の世界は松崎の意識、無意識が作ったものだという考えに沿っていえば、筵の舞台で演じられる子供芝居が、しばしばセリフ飛ばしや段取りの不手際でぎくしゃくとするのは、霊媒がことばを選びながら相手の反応を見て、それなりに相手が思いあたりそうな話を、手探りしながら創作していく過程を反映しているのかもしれない。
松崎が狂言作者であるのと同じように、巫女もまた、お客さんを納得させる物語を即興で紡いでいく作家の一種だという感覚をもって、鏡花は『陽炎座』を書いていたのではないだろうか。