10 行燈の世界
子供芝居の舞台で、饂飩屋の道具一式や雪女が覗く鏡台に見立てられる行燈は、巫女の家へと向かう松崎が、周辺の木賃宿街で心を奪われた行燈のイメージを連れてきたものである。
「この春の日向さえ、寂びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた明に映る……」(三)
と感じた松崎の想像力は、町全体を「木賃の国、行燈の町」(三)と行燈にたとえ、まるで地球を地球儀にまとめるように、世界が内包された行燈を子供芝居の舞台に据えている。そんな行燈というものを、舞台の小道具であると同時に、『陽炎座』の世界の構造でもある、と考えてみたらどうなるだろうか。
紙幕のなかの楽屋を探検したいという若紳士に対して、
「それはよくない、不可ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」(二十三)
と、松崎が主張する、芝居の世界の不文律に則していえば、巫女が位置する子供芝居の楽屋は、紙幕のなかの、視線が立ち入れない領域――つまり行燈の内部にある。
立方体の四つの側面がある行燈の一面が藍で塗られた冥界の鏡なら、その面にいるのはお稲だろう。そしてお稲と向き合う対面は、品子が位置するのがふさわしい。行燈の内部にいる巫女が、お稲と品子の仲介をするのだから。
残る二面は消去法で、松崎春狐と若紳士が対面することになる。お稲―巫女―品子のやりとりの傍観者としても、最後には「貴方を、伴侶、伴侶と思います」(二十三)と、すがり、すがられる関係になることからしても、悪くない配置だと思える。
品子
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若紳士 | 巫女 | 春狐
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お稲
これが、実際にそこにいた人たちとお稲の霊の、それぞれの立ち位置のイメージだとしてみると、松崎の考えたドラマの構造を単純化した図面として、腑に落ちるものになりそうな気がする。二人の男は、巫女を通じた品子とお稲のやりとりを見せつけられながら、一方は現実的な煩悶と絶望を、他方は創作の煩悶と愉悦を味わっている。
そして、二十三節以降のクライマックスでは、品子は巫女に詰め寄った末に、
「ああ、膚が透く、心が映る、美しい女の身の震う影が隈なく衣の柳条に搦んで揺れた」(二十三)
と、自らが発光して光源になることで行燈の内部を貫通して、お稲の場所に行ってしまう。そうして松崎の手に残った黒髪は、お稲のものであると同時に、品子のものにもなるのである。
「私……行燈だよ。」(十)
という品子の不吉な予言の実現が、すなわち松崎の組み立てた行燈の世界の幕切れになる。
崩壊した世界からは、実際にはいなかった者たちの虚像がバタバタと撤退し、実際にいたのだがそこから行方不明になった、品子のその後も暗示される。
あとには、なにもない、創作の夢から覚めた松崎には、現実の世界だけが残されることになった。
……私が企てた『陽炎座』の迷路の解体はこれで終わってしまう。いざ迷路の仕切りを取りはらってみると、あれほど騒ぎたてていた登場人物たちは跡形もなくどこかへ消えてしまって、あとは松崎とともに「とやせんとばかりで迷の巷」(二十五)と、今度は現実世界という迷路のなかに、ぽつんと立ちつくしてしまうだけだ。
これで終わってしまうのは、寂しい気もする。
ただし、松崎の想像世界の最後に置かれた締めくくりの二文を目にしたとき、ひとまずはこれで終わるべきなのかな、という気持ちになった。
「四ツの壁は、流るる電と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘の波の唸りである。」(二十五)
つまり……
四ツの壁は、
流るる 電
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鳴るかみ | 巫女 | 波の唸り
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輝く 雨
「流るる電」が「輝く雨」に落ちて混ざれば、なんの変哲もない「流るる雨」と「輝く電」になって、イメージと文飾によって構築された世界は終わりを告げるのである。
(了)
追記
十四章で、子供芝居の総踊りで歌われる歌、
▶必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな
柳田國男の『山の人生』を読んでいたら、「ヘイボウ太郎」ということばを見つけて、ヘイボウ太郎とはなにかと調べていたのだけれど、どうやら上の「丹波の太郎」の歌は、は日本各地に伝わる昔話のパターンに由来するもののようだ。
ヘイボウ太郎(シッペイ太郎)の昔話は、次のようなもの。
信濃国の伏見で、庄屋の娘が、鎮守の人身御供にされそうになっていた。そこへ来合わせた山伏が、自分が身代わりになろうと言って、人身御供を差し出す箱のなかに身を隠した。やがて鎮守の社から出て来た怪物が踊りながら、
「このことばかりは信州信濃の光前寺、ヘイボウ太郎に知らして呉れるな」
と歌ったのを聞いた。そこで「ヘイボウ太郎」なる人物を探して訊ね歩いたところ、ヘイボウ太郎とは信州信濃の光前寺で飼われている犬のことだとわかった。その犬を借りて社に供えたところ、犬は怪物を噛み殺した。怪物の正体は大きな狒々であった。
(「竹篦太郎」というのがこの系列の昔話の総称のようなのだが、この犬は、脚が速かったので早太郎と名づけられ、そのうちにハヤを訛ってヘイと呼ばれ、寺の犬であるからヘイつながりで仏具の竹篦とも呼ばれ、村人からはハヤ坊、ヘイ坊と呼ばれ、結果的にヘイボウ太郎とも呼ばれていた、というのだからややこしい)
――つまり「丹波の太郎」(夕立雲)は、この世の者ではない子供芝居の役者たちの弱点であるという歌であり、じっさいに子供役者たちは夕立とともに姿を消してしまう。
このことは、「なぞとき」の8で書いた内容を否定しかねないものだけれど、そもそも「なぞとき」は論文や注釈の類いではなく、松崎(=鏡花)の創作の意識の流れ、心象的な動機を想像してみようという読み物なので、本来の意味内容がどうだというのではなく、結果として書かれたことばをどう働かせようとしたのかを考えたのだから、読み違えているわけでもないと思っています。