9 鏡
もちろん、小説『陽炎座』のなかで実際に起こったらしきことがわかったというのは小説を読み解いたということではなくて、実際に起こったことを巫女が口寄せによって導きだし、それが松崎によって変容されたものが小説の本体だとわかったということである。その本体というものがどう仕組みになっているのかを確かめるためには、実際にはなかったはずのものに目を留めなければならない。
篇中で、なかったのにあるとされたものといえば、饂飩屋小僧や雪女が自分の姿を映した鏡だろう。鏡といいながらもそれは、白い紙を張った行燈の一面を藍色の絵の具で塗っただけのものだった。
なぜ藍色が鏡面を意味するのかといえば、江戸時代には大気というものが浅葱色(薄い藍色)だという認識があったからで、晴れた日には遠くの山々が浅葱色に見えることからそう考えたらしい。歌舞伎の舞台で浅葱幕がかぶさると、そこにはなにもない(空気しかない)ということになる。よくわからない感覚だが、いまでも子供が水というものを絵に描くときは水色に塗るのと同じような、当時の人になんとなく染みついていた約束事である。
「鏡 浮世絵」というワードで検索をしてみると、鏡に映った人物の姿の背景が青っぽく塗られた浮世絵がたくさん引っかかる。それはその人物が青い背景の場所にいるのではなくて、鏡に映った空気を描きこんでいるのだ。つまり、鏡に見立てた場所に濃い紺色が塗られているとなると、その鏡には闇に包まれた空気が映っている、ということになる。
闇しか映さない冥界の鏡に自分が映っているように演技する饂飩屋小僧と雪女は、自分が此岸の者ではないと白状しているようなもので、その蒼い蔭がさしかかる品子にも、不吉な演出がほどこされている。あまつさえ彼女は、
「私……行燈だよ。」(十)
とつい口走ってしまうのだが、言われたほうの饂飩屋小僧(つまり口寄せの語りをしている巫女)は、お客から、自分もあちら側の存在だと言われたようなもので、驚くのももっともな話だ。このあたりは巫女の側が、「口を利くな、口を利くな」とカマをかけてみたら、品子の側からとんでもない事実がほのめかされたといった、巫女と客の駆け引きが脚色されているのかもしれない。
……と、こうして一つ一つの事物を検討しても際限がない。憶測でしか考えられない領域に、どんどん足を突っこんでしまいそうだ。あとは松崎の、「三十五座の座附きで駆出しの狂言方」らしい発想から生みおとされた、芝居がらみのキャラクターや事物だとまとめたほうが賢明ではないか、という気がする。
ただし、一つだけどうしても外せないのは、その鏡が貼られた本体であり、かつ『陽炎座』のイメージの根幹をなしていると思われる、行燈というものだろう。