0 序
いきなりの話で恐縮だけれど、まずは『陽炎座』のわりと冒頭に近い部分、第一節にある次の原文を読んでみてください。
「絶えず続いて、音色は替っても、囃子は留まらず、行交う船脚は水に流れ、蜘蛛手に、角ぐむ蘆の根を潜って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽の上になり下になり、陽炎に乗って揺れながら近づいて、日当りの橋の暖い袂にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退いて、
――おいで、おいで――
と招いていそうで。」
まるでイメージの破片が散乱して乱反射するような文章で、一読すれば、あるいは朗読してその音声を耳で楽しめば、心地よい春の日差しのなかを浮遊するような感覚はじゅうぶんに伝わってくる。けれども、さて、それぞれのことばのつながりや、細部が表す意味となると、二読、三読しても、なんとなくわかるのだが、という程度にしかつかみにくい。
もともと、はっきりした意味のつながりなんてないよ、詩的な自由連想みたいな感覚で書かれた文なのだから、と思うかもしれない。
そこで、試しに同じ文を、今度は次の【 】でくくった部分を飛ばして読んでみてください。
「絶えず続いて、音色は替っても、囃子は留まらず、【行交う船脚は水に流れ、蜘蛛手に、角ぐむ蘆の根を潜って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。】浮けば蝶の羽の上になり下になり、陽炎に乗って揺れながら近づいて、日当りの橋の暖い袂にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退いて、
――おいで、おいで――
と招いていそうで。」
どうだろう。おっ、これならわかるぞと思える、つながりのすっきりした文として読めたのではないだろうか。
つまり【 】の部分は、音がどのように伝わっているかを表す比喩で、かつ直下の「浮けば」ということばを導く枕詞として働いている挿入部にすぎない。語彙の選択、口調子などをいじって、あるいは、わざと句読点をずらし、つながりを示すことばを削って、挿入部であることを暈かしているだけなのだ。
しかし、逆に考えれば、たったそれだけの操作を加えるだけで、流麗な美文が、複雑なイメージの乱反射する妖しい魅力を孕んだものに化けてしまうのだから驚きである。
ちなみに、原文【 】内の「船脚」ということばは、辞書的には「船の速さ」などの意味なのだが、ここでは「船が残した水面の波紋。航跡。曳き波」という意味にとらなければ、文意が整わない。
現代語拙訳では、次のようにリライトしてみた。
「音色は変わっても、囃子は絶えず鳴り続ける。【ちょうど川面を行き交う船が引き波を残し、その波紋が水に流れ、蜘蛛が脚を掲げたように新芽を伸ばした葦の根をくぐって、消えたかと思えば、まだふわふわと浮いていているかのように聞こえてくる。】音はそのまま宙に浮いて、蝶の羽の上になり下になり、陽炎に乗って揺れながら近づいて、日当たりのよい、暖かな橋のたもとにまとわりついて、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を軽くトンと叩いて、スッと離れると、
――おいで、おいで――
と招いていそうである。」
イメージの乱反射は無残に減退したけれど、意味なく置かれたことばや、意味の通らないことばのつながりはどこにもない。たんに詩的だなどというよりも、ロジカルな文章をテクニカルに崩して詩的な印象を与えるように仕上げた文章、とでも捉えるのが似つかわしい。
……鏡花のことは、手放しで魔法使い扱いしなくてもいいと思う。いや、信じられない発想や文藻を自在に跳梁させるさまは、日本語を使う者にとっての魔法使いそのものではあるが、その結果として、テキストとして残された文章にかんしては、ちゃんとタネも仕掛けもある奇術として(つまり近代の作家としての見識を持って)、鏡花は書いてくれている。
その「見識」が存在した近代というものが、いまや百年以上の昔であって、しかも鏡花の場合は、江戸や加賀の住人や、遊廓とその周辺の人々や、一部の知識人、趣味人や、近しい関係の間だけにあった「見識」を、そして希には自分の頭のなかにしか存在していなかった「見識」を自明のこととして書いているというのが、あいかわらず現代の読者にとっての頭痛のタネではあるのだけれど。
小説『陽炎座』が、軽く読み流そうとする読者を撥ねつけてしまうのは、独特の文飾や語彙が多用されているせいでもあるし、上に挙げたように、意味を伝える部分や飾りにすぎない部分の境目が、意図的に曖昧にされているせいでもある。さらに、そういった曖昧化が、部分的なつながりどころか全体の構成にも及んでいるようで、順接的に読んだだけでは、その場その場で書いてあることがわかったとしても、どういう意図でそれを書いているのかがつかみにくい。
その結果として、単純なストーリーのようにみえて、ストーリーを追えなくなってしまう。確たる意図があるようにほのめかされているが、なにを言いたいのかわからない。シンプルな構成のはずなのに、不用意に破綻していると思えてくる。加えて、百年前の「見識」のありさまが、今では把握しにくい、という部分も散見される。
曖昧にされているものをぜんぶ解き明かしてみせる、などという知識も能力もないのだけれど、以下では、今回の精読のでわかったつもりになったことを書いてみようと思う。
鏡花の小説、とりわけ『陽炎座』という小説の文章は、さらりと読むと不明快なことを不明快に書いているように思えるが、丁寧に読めば明快なことを不明快に思わせるように書かれているのだから、同じようにストーリーについても、明快な内容を明快な意思をもって不明快に思わせるように述べられているのだろう。
だとしたら、明快な内容とはなんなのか。
記述されていることを頭から順を追って解釈すれば、最初に読んだ原文のように迷路にはまってしまうように仕掛けてあるのだから、ストーリーをいったんバラバラにして、迷路を作っている仕掛けそのものと思われる要素をひとつひとつ検討することで、『陽炎座』の迷路の仕切りを取り外せないだろうか、と思う。
迷路を構成する要素としてリストアップした次のような項目に沿って、あれこれ考えてみることにした。
1 狂言方
2 屑屋
3 巫女
4 沈黙
5 ハニートラップ
6 忠臣蔵
7 綻び
8 現実
9 鏡
10 行燈の世界