三色花火
主人公視点でいくと、ハッピーエンドだと思います。
一般的な恋心よりも、幼い感じです。
少年の初恋の衝撃を書いたつもりです。
生まれた時から少年の世界の色彩は白、黒、灰色しかなかった。どうしてだとかは考えなかった。それしかないのだから、それ以外のことなど知る由もなく、知る必要もない。音も聞き取ることができず、だから喋ることもできない。そのせいなのか感情にも乏しく、いつも少年は同じ柱時計ばかり見つめていた。親しい友人もおらず、共に話せる相手もいない。
虚しいと言われればそうなのだろう。しかし、どうにかしたかというと、そういう訳でもなく、このままに一生を過ごしてもいいと思っていた。
どれくらいそうして生きてきただろうか。
ある日、少年は窓越しに、一人の少女をそのガラス玉の瞳に映した。
赤、青、黄色、青、黄色、赤、アカ、あか
衝撃的だった。
色の乏しい箱庭の中で、少女だけが鮮烈に色を纏っていたのだ。この少女が存在するゆえに、少年の瞳に映るすべてが曖昧に造られていたのだと思えるほど、少女は明瞭で可憐だった。
空を割ったような青い瞳に捕らえられた瞬間、少年はものすごい引力に惹かれていく気がした。そして、少女もまたそうであるかのように少年の手を取った。
金細工のような少女の喜びに触れて、少年は、少女が自分と同じ気持ちであることに堪らない気持ちになった。
モノクロの花々を躊躇なく踏み荒らし、戸惑う少年の内に入り込んでくる少女。白と黒の花びらが悲痛に暮れれば暮れるほど、少年は宙に浮いているような気分だった。
少女は少年をナルミと呼んだ。だからその日から、少年はナルミになったのだ。
ナルミよりも少しばかりお姉さんな少女は、ナルミに絵本を読み聞かせ、いろいろなことを教えてくれる。少女が読んでくれる絵本はどれも面白く、ワクワクするものだった。時には文字なんかも教えられ、そうやってナルミは、自分の名前や動物や花なんかも知っていった。
ナルミは、夢中で絵本を読んでいる少女の横顔をときどきのぞき込み、楽しそうにしている様子を見上げる。細い髪の間から、丸っこい輪郭がちらつく。ナルミといるときの少女は、少女の纏う鮮明な色のように鮮やかな表情を見せた。
アカ、アオ、キイロ、アカ、キイロ、アオ。
そんな、きれいで無邪気な少女がナルミは大好きだ。
ナルミの視線に気づいた少女が、瞳の青をナルミに向ける。真っ赤な髪が揺れた。くせ毛でくるりとした毛先がひらひらと遊んでいる。それがナルミに当たるたび、くすぐったくて笑ってしまった。少女の青い瞳に映る不格好な自分の姿も、少女に見つめられている間は、海の底のように青くてきれいだと思えた。
こうして少女と一緒にいるうちに、自分にも少女の色が移ってしまったのだろう。少女と一緒に見る景色にはどんどん色が灯っていく。
―ああ、自分はいま、生きているのだ。
ナルミは信じていた。この景色に色を付けてくれたのは少女であると。ナルミは信じていた。心に滲んでいく色が美しいものであるのだと。すべては完璧で、少女と自分は永遠なのだと。
少女が微笑む。ナルミも微笑んで、二人だけの部屋で絵本を読み続けた。乱雑な線で描かれた絵でも、なるみにはとてもきれいなものに感じられた。色が付くとはどういうことなのか、それはナルミにしかわからないだろう。少女にさえ、覗くことはできない赤い実の園がここにはあった。
移り変わりの早い少女は、絵本に飽きると新しく買ったばかりの図鑑を開く。図鑑には、可愛らしい花やきれいな花、見たこともない植物が載っていた。その中でも、特にナルミの脳裏に焼き付いて離れなかったのが、ひときわ色彩強く、凛々しく花を咲かせている、カトレアという花だった。
赤、青、黄色、アカ、アオ、キイロ。
ナルミは少女にそっくりだと思った。
いろいろな色合いのカトレアの花の中で、黄色と赤色で色づいたカトレアの花がとくに少女に似ている。
ナルミは、少女が自分に名前をつけてくれたように、少女にもこのきれいな花の名前を付けてあげようと思った。
カトレア カトレア カトレア
少女には聞こえていないようだったが、ナルミは何度も少女の名前を呼ぶ。それだけ、少女のことを愛おしく思えた。名前の付いた特別に、ナルミはふわふわとした心地になる。それを少女には秘密にしておきたくて、ナルミは頬のピンクをそっと手で隠した。
ある日、久しぶりにカトレアはナルミを連れて外へ出かけた。花模様の、ワンピースとはまた違う服を着たカトレアは、見てわかるぐらいそわそわしていた。日も暮れ始めているというのに、カトレアはお母さんとナルミの手を握り、閑散とした道を楽しげに歩く。
ナルミは夜が嫌いだった。せっかく色のついた景色が、あのころと変わらない黒になってしまうからだ。カトレアとお出かけすることは嬉しかったが、夜が来てしまうことがどうしても許せなかった。
なんでこんな時間を選んだのだと、カトレアを責めたい気持ちもあったが、なんとかその感情を押しとどめる。カトレアがあまりに楽しそうにしているようだったので、それを台無しにしたくなかった。
いつのまにか、ナルミとカトレアは赤で埋め尽くされた場所へと来る。
門のように構えた赤い鳥足に、その奥にはへんてこな楕円がいくつも連なっている。そこには知らない人がたくさんいて、カトレアと同じような服を着て笑っていた。
到着してすぐ、弾む足取りが、カトレアの髪についている花かざりを揺らす。こんな赤いところにいても、やはりカトレアはひときわ夜に透けていた。
あわてないで、ころんじゃうよ。
声にならずとも、ナルミは握られた手を強く結ぶ。
おいしいもの、ふわふわしたもの、きれいなもの、お魚さん。
カトレアは、いろいろなものを買ってはキラキラと笑った。そんなに買ってどうするのだとも思ったが、カトレアの無邪気にしている様子に、ナルミもつい笑ってしまう。
夜でも明るいこの場所をナルミも好きになった。たくさんの色が交わって、ナルミを愉快な気分にさせた。
なにより、隣にはカトレアがいて、無邪気で宝石のようなこの子は、世界の何よりもきれいだ。
そして、ようやくナルミは気づいた。
ナルミは、どんなに色にあふれた場所にいても、カトレアを見つけることができるだろう。それは、少女が特別なのではなく、ナルミがカトレアを大切に思っているからに他ならないのだと。何者であったとしても、たとえカトレアが色を纏っていなかったとしても、ナルミは少女を探していた。
あのね…カトレア……
そうナルミが言いかけて、カトレアが空を指さした。
どうしたのかと、ナルミはカトレアの指す先を見上げる。
そして、ナルミは、まん丸の瞳をさらにまん丸にさせ、まばたきすら忘れて言葉を失った。
「###、####!」
カトレアが何かを言っている。
きっと同じこと思っている、そうに違いない、ナルミは確信して夜空を仰いだ。
赤、青、黄色、青、黄色、赤、アカ、あか
シャンデリアよりも煌びやかで、濁流よりも力強く、花よりも儚い極彩が、真っ暗な空の上で踊りあかす。命が散っていく轟き音さえ、体に響いてくるようだった。散っては開き、散っては開き、せわしない光の粒が下へと落ちていくのに、決してナルミたちの元へ降ってくることは無い。
呼吸も忘れて、ナルミは届きもしない腕を必死に伸ばした。
もしこの手が届くなら、カトレア。僕は君に、このすべてをあげようと思うんだ。
ナルミは、どうしようもない気持ちになってカトレアを見る。すると、蜜を煮込んだようなカトレアの瞳がナルミを見つめていた。カトレアもナルミを見てくれていたことに気づき、ナルミは先ほどまでの口惜しさも忘れて惚ける。
体温と頬が熱くなる。夕闇が、ナルミのか細い吐息を織り交ぜて飲み込んだ。くらりとゆがむ視界に、脳みそは焼け付いていくようで、綿菓子に揺さぶられた心臓が激しく高鳴っている。
「###」
アカが舞っていく。ちらちらと赤が舞って、心臓を焦がしていく。風が運んできた、生温い夏の空気が肌に張り付いて、初めて会ったあの日を思い出させた。
なにもかも真っ赤っかっかだ。
この日、ナルミは自分の恋心を知った。
どれほど長い時間、少女と過ごしただろうか。可愛かった少女はすっかりきれいになって、長かった真紅の髪も短くなってしまった。
短くなったのは髪だけではない。ナルミと一緒にいてくれる時間も減って、時折目が合っても、すぐそらされてしまうことが増えた。
悲しかったが、それでもナルミはずっと少女が好きだった。今だってその気持ちは変わらない。
それでも、彼女はもう、ナルミの知るカトレアじゃない気がした。様々なものを見て、知って、経験して、ずっと向こうまでナルミを置いて行ってしまった。
『スキーバス転落22人死亡』
『田中剛人 木村真紀 福岡正人 大塚恵美 日下部史夫 朝日恵子 大谷凛 石井栄太 雨宮俊 加賀美信二 天道めい 東朱莉 静鳴海 明石史郎 斎藤淳 村田潮子 高橋真衣 佐藤晶紀 絵里沢亮太 大上理沙 田辺詩織 小川誠……』
カトレアは、こうして文字が書かれた紙をじっと見つめていることも多くなった。どうしてなのかはわからない。いつも思いつめた表情で紙を見ている。理由を聞いても教えてくれず、やはり、変わってしまったカトレアは、あの頃とはまるで別人のようだった。
対してナルミはどうだろう。少しばかり知識は付いたが、根本のところはずっと変わらない。
これ以上、カトレアにおいていかれたくなくて、ナルミは以前よりも彼女に思いを投げかけた。そうしていないと、繋がっていられないような気がしたからだ。実際、それでどうにかなったかというと、そうではないのだが……。
そして、ついにその時が来た。
「##、###?」
「###。######」
泣きそうなカトレアを、ナルミの知らない青年が慰めていた。カトレアの部屋に、男の人が来るのも、カトレアが他人に涙を見せるのも初めてだった。
困ったような表情をする青年に、ナルミは今までに感じたことのない怒りを覚えた。どうしていいかわからないのはナルミの方だ。カトレアの隣を自分から奪っておいて、さも当たり前のようにカトレアに寄り添う男が憎らしかった。
やっと泣きやんだカトレアが、涙を拭いて青年に笑いかける。
………カトレア。
ああ、その人にはそんな顔をするんだね。
ずっと見てきたからナルミにはわかる。きっとカトレアは……。
それから、さらに日はたっていく。
カトレアと青年はいっそう親しい仲になったようだ。カトレアに簡単に触れる青年は、ナルミの気持ちなど知らず笑っていた。
これ以上、二人を見ているのは辛くて、ナルミは涙を流す日が続いた。でも、泣いているところをカトレアに見られたら、泣き虫だと思われるかもしれない。だからこのことを知っているのは、枕元に置かれたカエルの置時計ぐらいだ。
「###########」
「##、#########。#############」
二人が、ナルミに見せつけるようにして、楽しそうに話している。今ばかりは、音を聞くことができないこの耳に感謝した。
ナルミはずっと考えていた。この青年のどこに自分が劣るのだろうか、この青年は自分以上にカトレアを大切にできるのだろうか、この青年をどうしてカトレアは気に入ったのだろうか。
どれほど考えたところで、堂々巡りするだけで答えなどでなかった。だからもう考えない。いや、答えが出たとして、自分が救われないことが、ナルミにはわかっていたのかもしれない。だって、カトレアが青年を選ぶだろうことは、変わらないのだから。
何日も何日も、窓の外の星空を眺めて、青年に注がれるカトレアの視線を眺めて、ナルミの涙は枯れたようだった。そして、一つの思いがナルミの中に芽生え始める。
この気持ちは、カトレアに押し付けるために生まれてきたわけじゃない。カトレアから、同じような気持ちが返ってこなくても、それを嘆くことはナルミが望んだことじゃない。
ナルミはカトレアとの未来をあきらめた。ただ、カトレアの幸せだけを考えるようにした。隣があの青年でもいい。心の中の記憶が、嫉妬と憎悪に焼かれてしまう前に、ナルミは、カトレアが好きな自分でいることを選んだ。
カトレアへのキモチが、僕の永遠となりますように。
毎晩、すがるように星に祈り続けた。
するとどうだろう、荒れ狂う波のようだった胸の内が、平静を取り戻したように穏やかになっていった。忘れていた幸福が、本当は手の内にったのだと、ナルミは気づいた。キラキラと輝く、万華鏡。ナルミの心は、本物になったのだ。
この気持ちに答えてくれなくていい。僕は愛を知ったんだ。
カトレアが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。成長し、大きく、少し硬くなった手でナルミの手を取った。今日、青年は来ていないようだ。
微睡むような昼下がり、今のナルミに映るカトレアは、もうあの花には似ていなかった。当然だ、彼女もナルミも、変わったのだから。
しかし、それでも色あせはしない、確かなものが、そこにはあった。
彼女はあの頃のように、ナルミに絵本や図鑑を読み聞かせた。
君とこうして時間を過ごすのは何年ぶりだろう?
ナルミが微笑むと、彼女は優しい目元を歪めて、口の端を強く結んだ。こうして黙ったまま、二人は手を握り続けた。
空が夕暮れのオレンジに染まり始め、彼女はナルミの手を握ったまま立ち上がる。そして家を出ると、昔よく一緒に散歩した道を歩き、暗くなるころには、空に浮かぶ火の花を見た、いつしかの場所に来ていた。
彼女はナルミの手を放し、なにかをナルミに投げかける。それは火のついたマッチだった。
「######」
最後に口にした少女の言葉は、きっとナルミの知っている言葉だ。ナルミは理解して、倒れた体で空を仰ぐ。
シャンデリアよりも煌びやかで、濁流よりも力強く、花よりも儚い極彩が、自分という舞台で踊りあかした。命が散っていく轟き音さえも体に響いてくるのだ。
今までの少女との思い出が脳裏に浮かぶ。散っては開き、散っては開き、せわしない光の粒は下へと落ちていくのに、決してナルミの元へ降ってくることは無い。
呼吸もできなくて、ナルミは届きもしない腕を必死に伸ばした。
カトレア、僕は本当に、僕のすべてを君にあげようと思ったんだ。
ナルミは、どうしようもない気持ちになってカトレアを見た。すると、深海を浮かべたカトレアの瞳がナルミを見つめていた。カトレアもナルミを見てくれていたことに気づき、ナルミは先ほどまでの口惜しさも忘れて、少女の瞳を見つめ続けた。
体温も頬も熱くなる。夕闇が、ナルミのか細い吐息を織り交ぜて飲み込んだ。くらりとゆがむ視界に、脳みそは焼け付いていくようで、炎に揺さぶられる心臓が激しく唸っている。
アカが舞っていく。メラメラと赤が舞って、心臓を焦がしていく。風が運んできた、生温い夏の空気も蒸発して、もうあのころには戻れないと知った。
大丈夫。きっと君は、これから幸せになれる。
最後、ナルミのために泣いてくれたから、もういいのだ。なにも望まぬと決めたナルミにとっては、これ以上にないことだろう。だからこれで、お別れだ。
サヨウナラ、カトレア
誰もいない神社には、燃えた人形の灰と、静すみれの陰だけがポツリと残った。彼女の、数年の苦悩と思いを考えれば、随分とあっけない終わりだったかもしれない。十年前に死んだ、すみれの弟の鳴海は、はたして天にあがることができたのだろうか。燃え残ったガラス玉を見て、彼女もまた、鳴海のこれからを祈る。