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父の執務室でわたしは大きな鏡を前に憤然としていた。
「どうしてですか、おばあ様! 一か月も猶予を与えるなんて!」
鏡の中には祖母であるジェム国女王の姿が映っている。これは魔法によって離れた場所と交信できる物だ。
魔法の普及している国々では当たり前の物らしいが、ルフス国で育ったハーライトには慣れない物だ。
ジェム国第二王子であり叔父のタンザが鏡とわたしの間に立ち、諭すように言葉を発する。
「ハーライト、もう決定したことなんだよ」
「叔父様もどうしてそんな!」
祖母が困ったように眉を下げている。その手にはハーライトの日記帳が握られていた。もう手元に送られていたのか。
「ハーライト」
とても落ち着いた声音で祖母が名を呼ぶ。
大国の為政者として威厳を感じさせながらも、孫娘を慈しむ声音が含まれている。
「なにもこの一ヶ月で考え直せと言っているわけではない。何事も熟慮を重ねなければならない。特に二人の婚約は国家間のことでもあるからね」
「……おばあ様……」
祖母の言うことはもっともだ。しかし、早く事を終わらせたくて納得出来そうにない。そんなわたしの姿を見ながら、祖母は苦笑する。
「そもそもルフス国は女神の寵愛を取り戻したくて、ハーライトとの婚約を望んでいる。何故ルフス国が女神に愛されていないのか、その理由を考えたことがあるかい?」
「いいえ。でも女神を怒らせることをしたと学びました」
「そうだね。でも何をして怒らせてしまったのか、それを解決しないことには、いくら我がジェム国と同盟を結ぼうが、ジェム王家の血族をルフス王家に入れようが変わらない」
祖母が何を言いたいのか分からない。
「私はルフス国王太子と話をしようと思っている」
「……っ!」
「そして、魔法を取り戻したいのならば、女神を怒らせた原因を知るよう提言するつもりだ。寵愛さえ取り戻せれば、ルフス国もお前に執着などしないだろう」
「そんな雲をつかむようなお話……。それにジェム国にとってこの婚約を続ける必要性はございませんよね?」
「ああ、その通り。だから一か月だ」
「今まで何百年も寵愛を取り戻せずにいたのに、一か月でルフス王家は怒りの原因を突き止められるでしょうか」
「さあね。彼はやるしかないと思うが」
祖母の言う彼とはアゲートのことだろう。そんな温情をかけるような提言をする必要性を感じない。
今すぐにでも婚約を破棄して、彼の存在を感じない生活を送りたい。
「……分かりました。一ヶ月を待ちます」
「ハーライト」
「はい、おばあ様」
祖母は優しく笑んでいる。それなのにその表情が泣き出しそうにも見えて、わたしは目を瞠った。
「一か月後、何も進展がなかったら、お前はジェム国においで」
「え!」
予想もしなかった言葉を聞いて、隣にいた父に顔を向ける。彼は困ったような表情で頷く。
「お前は我が子シトリンの娘だ。きっとこのジェム国の大地を踏めば女神がお前に気が付いて寵愛をくれる。きっと偉大な魔法使いの素質も持っているはずだ」
「で、でも」
「それがお前にとって幸せになる近道だと私は思うよ」
祖母の言葉にどう答えたらいいのか分からずに俯いてしまう。わたしは一礼して鏡の前から離れる。
祖母は父や叔父と言葉を交わして、鏡の魔法を消した。
「ハーライト、ルフス国が女神を怒らせてしまった理由を、兄と共に調べないか?」
わたしを隣から覗き込むように、義兄が穏やかに笑んでいる。
「女神を怒らせた原因。きっとこの国に情報があるだろうし、何もせず一ヶ月待つのは辛いだろう?」
「お義兄様、でもどこをどうしたらいいのか」
「そうだなあ。古い文献が残るのは城の書庫だと思うけど、そう簡単に見つかれば苦労はしないよねぇ」
義兄は腕を組んで思案する。話を聞いていた叔父が口を挟んだ。
「私もジェム国の古い文献を調べてみるよ。何かあれば連絡する」
「タンザ叔父様、ありがとうございます。でももうお戻りになるんですか?」
「ああ。仕事も残っているしね。元気なハーライトの姿が見られて嬉しかった」
叔父は母の下の弟だ。母に似た笑顔が懐かしくて、泣きそうになる。
「お忙しいのにこんなことで呼び寄せてしまって、申し訳ありません」
「気にしなくていい。本当は兄も飛び出していきそうな勢いだったんだよ」
叔父は楽しげに笑う。兄とは母の上の弟のことだろう。彼らは母をとても慕っている。仲のいい兄弟なのだ。
「そうだ。私の息子にも、君が女神のことを調べる手伝いをさせよう。ジェム国に伝わる女神の知識を知りたい時に、役に立つかもしれない」
「息子ですか?」
わたしはジェム国に行ったことがない。魔法の鏡越しや、ルフス国に来てくれた時に会うくらいしか親族と面識がなかった。
この叔父は外交を担っていることもあり、よく我が家を訪れているが、その息子となると名前を知っているくらいだ。
「ダイオと同じ学年で、学園で親しくしているはずだよ」
そう告げられ義兄を振り返ると渋面を返された。
「お、お義兄さま」
「あははは、ダイオ。君は素直すぎる」
叔父が吹き出してしまった。
「とにかくそのうち来ると思うから、できれば仲良くしてやってくれ」
「はい。ありがとうございます、叔父様」
柔和な笑顔を浮かべて、叔父は父と共に退室した。
義兄の溜息が耳に届く。今までの優しげな表情を一変させて、心底不愉快そうである。
「お義兄さま、その方とは仲がお悪いのですか?」
「悪くはない」
「そうですか?」
そんな感じには見えなかったが、これ以上聞くのも野暮だろう。義兄は気を取り直すように咳払いをして、話の続きを進めた。
「とりあえず城の書庫に入る許可をお義父さまにとってもらおう。まあ、すぐに許可が出ると思うけれど」
「……お義兄、女神の寵愛なんて取り戻せるんでしょうか。わたしには想像もつきません」
産まれた時からこのルフス国で生きてきた。魔法がないことは当たり前で無くても生活が出来ている。
確かに便利な力だとは思うが、わざわざ魔法を得たい気持ちが分からない。
「ハーライト。女神がいないこの大地しか知らないから想像がつかないと思うけれど、寵愛を受ける国の大地を踏むと女神の寵愛の意味が分かると思う」
「……?」
「私も最初はハーライトと同じように思っていたんだ。でもジェム国に初めて踏み入ったとき、女神が大地を通じて私の存在に気付いた気配がしたんだ。言葉にするのは難しいけれど、守られている感じがした」
女神は大地を通じて人間の存在を知る。
ルフス国は女神から見放されているので、この国にいる間は女神に気付いてもらえない。他国の大地を通じて女神の寵愛を受けても、魔法を使う技術を持たなければその魔力をうまく利用することが出来ない。
だから、他国の魔法を学ぶ機関に、留学という形で赴かなくてはならない。
長く鎖国状態だったルフス国にとって、全てが初めての経験だ。
「大地も空も命ある全ての存在が異なる色に変わる。ハーライト、君もきっとそうなるよ」
「……そう、なんでしょうか」
実感が湧かないと言うよりも、想像がつかない。
一ヶ月でアゲートがそれを見つけられる気もしない。もし見つからなければきっとジェム国優位に婚約破棄を進めることになるのだろう。
ふとアゲートの赤い瞳を思い出した。
燃えるような色をしているのに、闇を混ぜたような陰った赤になる時があった。
忘れたいし、嫌いになりたい。心底幻滅している。
それなのに彼を思い出すと胸が疼いてしまう。さすが初恋の相手だ。美化も相当されているのだろう。
わたしは誤魔化すように小さく息を吸った。