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杖なしで歩けるようになり、眩暈も治まり始めた頃、部屋の窓から見える花壇の花が咲いた。
「ネージュ。昨日まで蕾だったのに花が咲いているわ」
専属侍女を手招きで呼び寄せる。彼女は窓の外を見遣り直球の感想を述べる。
「本当ですね。きっと肥しがいいのでしょう」
「ふふっ、本当ね」
ネージュの本気なのか冗談なのか分からない皮肉に笑えてしまう。あれはハーライトに送られてきた花を燃やし土に混ぜて作った花壇だ。まさかこんなに早く花が咲くとは。
「高級な花だと肥しの質もあがるのかしら」
「どうでしょうね。まだ試せそうですから、観察日記でもつけられますか?」
「ふふふ、そうしようかしら」
そう言いながら二人で机に置かれた花束を見る。手紙はいつものように同じ文面だ。
自分で筆がとれるようになった頃、教本に載っている文面通りの手紙を返信として送っている。
ばかばかしくて最近は手紙の中身を見て、すぐに暖炉に投げ入れている。
三日後から王立学園に復帰予定だ。
長い冬の休みを経て、それから更に二週間臥せっていた。けれど、そろそろ復帰できそうだ。
父母は退学してもいいと言っていたが、それでは逃げ出すのと同じだ。
いまだに断頭台に歩いていく時の悪夢をみる。息が出来ないくらい、思い出すと泣けてくることもある。
でも、わたしの汚名はわたし自身が濯がなくてはいけない。
時を戻る以前、罪を犯したのはわたしだ。そこは言い訳出来ない。その罰も受けた。
つい首元を触れてしまう。
痛みも何も感じなかったけれど、あの死に向かう恐怖も瞬間も全て覚えている。ずっと牢の中で、どうしてこうなったんだろう、と考えていた。思い浮かんでいたのは、恋していた相手だけだった。
今まさに不実を犯しているのはあの王太子だ。あの人の存在をわたしから消さなくては。
復讐をしたいとかそういう気持ちはない。
わたしはわたしの権力を使い、最良を選び取らなくてはならない。あの時は死んで無くなってしまった未来だが、また未来を選び取って生きて行かなくてはならないのだから。
引き出しから小さい日記帳を取り出す。
そして違和感に気付いた。日記帳の鍵が壊されている。驚いて中を捲るが、破られているとかそういうページはない。
「ねえ、まさかと思うけど、これ読んでないわよね?」
ネージュに問いかけると彼女は顔色一つ変えない。
「わたしは読んでおりません」
「……は、って?」
「お坊ちゃまが険しい顔で読まれておりましたが」
「お、教えてよ!」
「お嬢様の意識が無い時です」
「……いや、そういう問題じゃなくて」
この侍女のこういうはっきりとした物言いは好きだが、それは早いうちに伝えて欲しかった。
嬉しいことも恥ずかしいことも苦しいことも悲しいことも、全て書いてある。これは幼い頃からの、王太子とのやり取りの証拠だ。
日記帳を手に持ち、わたしは父の執務室へと向かった。執事の先導で室内に通されると、仕事中の父が愛娘の姿を見て満面の笑みを浮かべる。
「どうしたんだ、ハーライト。そうだ。ちょうど休憩しようと思っていたんだ。お茶の用意を頼もう」
うそばっかり。執務机に積みあがった書類の束を見て父の優しさに苦笑してしまう。
何故か父と隣同士で長椅子に腰かける。そして彼は手にしていた日記帳の表紙を見て、あ、と息を詰めた。
「……もしかして、お父様も中身をご存じなのですか?」
じとりと睨みつけると父は狼狽えだす。
「し、心配だったんだ……」
申し訳なさそうに視線を落とす姿に胸がきゅんとしてしまう。美形は得だ。
「まあ……たくさん心配をかけてしまったので、許しますわ」
「ほ、本当かい! ああ可愛い、ハー!」
父がぎゅうっと抱きしめてきた。すりすりと頬擦りまでしてくる。
以前だったら、淑女扱いしてこない父に憤慨していたが、今となっては癒される。気付いてしまったが、誰かに甘えたかったのかもしれない。
ずっと独りで立っているような心地だったのに、こうやって接していると支えられていることが伝わってくる。胸に広がる温かさが幸せだ。
「お、お父様、本題に入りたいのですが」
「ああ! ごめんよ」
「私と王太子殿下との婚約を破棄してくださいませ」
「……」
父が無言になってしまった。眼差しは真剣なものに変わり、そして小さく息を吐く。
「その可能性は考えていた。もしお前から言い出さなければ、思いとどまろうとも思っていた。でも私としても異論はない。本当にいいんだね?」
「はい。お父様」
「そうか……」
「ずっと盲目的に恋をしてまいりました。沢山迷惑をかけてしまい、申し訳ありません」
謝罪の言葉を述べると彼は困ったように笑む。
「また謝ったね、ハーライト。君が謝罪を口にするたびに、父の心は痛むよ」
「……お父様」
「婚約破棄の書状を送る前に、一度、おばあ様とも相談しなくてはならない。この婚約は公爵家と王家のみでは判断できないものだから」
「はい、承知しております」
「おばあさまはハーライトの味方だ。ただ……揉めることになると思う」
ハーライト=カエルレウム公爵令嬢はジェム国第一王女の娘である。
産まれてくる子供にジェム国王家の名を冠することを条件に嫁ぎ産まれた子供。つまりわたしはジェム王家の姫という扱いなのだ。
筆頭公爵家の令嬢でジェム国の姫。国家間の様々な思惑の絡む婚約だ。一方的にルフス王家が婚約放棄することも出来ないが、こちらも同じだ。しかし不実を犯したのは私ではない。
責められて困るのは王太子だ。
なんて愚かなんだろう。わたしが愚かならば、彼も愚かだ。
何故過去の自分はこの権力を使わなかったのか。
ただ一心に恋をして振り向いて欲しくて、権力を使うことが、ますます彼を遠ざけることになると分かっていたんだろう。でも今はその権力を使わないといけない。
「覚悟の上ですわ。お父様、協力をしてください」
「もちろんだよ」
「あと、もう読まれているならご存じだと思いますが、これに今までの全てと私の気持ちも記しております。……恥ずかしいですが」
「……たくさん辛い想いをしてきたんだね」
優しく頭を撫でてくれる父のぬくもりに涙が零れる。
「おばあさまにお見せしてください。きっと役に立つと思います」
「ああ、言う通りにしよう。火に油を注ぐことになると思うけれど」
「ふふっ」
父が冗談めかして言うからつい笑ってしまう。
ただでさえ祖母はわたしを溺愛している。この日記を見たら、大火が巻き起こるだろう。
「君が学園に復帰するその日に行動するよ」
父がわたしの額に優しくキスをした。
慈しみ愛をもって育ててくれた家族。そしてこの屋敷に勤める者たち。
わたしのせいで路頭になんて迷わせない。絶対に。