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婚約者の不実に気が付いたのは、卒業まであと一年と二か月を残した頃だった。
貴族の子息令嬢が集う王立学園に通い始めた二度目の冬。
幸せそうに笑む婚約者とその眼差しを受け頬を染める少女。
全く気が付いていなかったわけではなかったが、二人の仲睦まじい姿を目の当たりにして血が逆流するような心地がした。
それから酷い癇癪を起こし、泥棒猫、ぬすっと、その他思いつく限りの罵詈雑言を吐いた。
卒業までずっと彼女に思いつく限りの嫌がらせを繰り返したが、それらが功を奏することもなく、わたしは婚約者から断罪された。
彼女を手にかけ殺そうとしたのだ。
わたしは捕らえられ、大衆の面前で首をはねられ死んだ。
ああ、なんでこんなことになってしまったのだろう。
分かっている。
人を殺そうとしたから、罰を受けていることくらい。それが重罪だったことも。
でも、なんでこんな簡単なことも分からなくなるほど、狂ってしまったのだろう。
わたしは貴族令嬢として、勉強も作法も何でも一生懸命に取り組んできた。
馬鹿ではないはずだ。
それなのに、何故こんな愚かなことを。
最期に見た空は雲一つない、青空だった。
「目を開けて、ハーライト!」
悲鳴のような叫びに弾かれたように瞼を開く。
ビクンと肩が跳ねて、眼前の瞳と目が合う。
「……ハ、ハーライト……?」
「…………?」
大きな緑色の瞳が驚いたように瞬きを繰り返している。彼女の瞳に溢れていた涙がその度に零れていく。
わたしは名を呼ぶその人を視界に捉えたまま、ゆるゆると口を開いた。
「お義母さま。何故、泣いていらっしゃるの? 何か悲しいことが……?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに相好を崩す。
「いいえ、いいえ、嬉しくて泣いているのよ」
義母の綺麗な指がわたしの頬を優しく撫でた。彼女は嗚咽を堪えるように片手を口にあて顔を逸らす。肩が震えている。
「お嬢様、ご加減はどうですか?」
隣からわたしの専属侍女ネージュが不安気な表情を浮かべている。その後ろで慌ただしく走り出す使用人たち。
「お医者様を! 早く!」
「だ、旦那さまあああ!」
たくさんの声が耳に届き、微睡んだ頭の中が鮮明になり始める。
確か私は断頭台で処刑された。
この天井は……わたしの部屋!?
勢いよく体を起こすと義母が焦って止めようと動く。
「だ、だめよ! 意識がやっと戻ったばかりなのに!」
ベッドに押し付けられながら、わたしは頭を動かして辺りを見回す。
「わ、わたし……いったい」
声が掠れている気がする。
言葉を吐いた瞬間、ずきんと頭に痛みが走り顔を顰めた。
「ああ、ハーライト、大丈夫だから落ち着いて」
義母が子供をあやすように頭を撫でてくれる。侍女が額に冷たい手布を置いてくれた。
「あなたは学園で倒れたの。体調が悪かったことを隠し、ずっと頑張っていたのでしょう? 病が酷くなってしまって何日も高熱で意識が戻らなかったのよ」
「……学園……? え?」
「女神の生誕祭を祝うパーティの日に倒れ、もう二週間経ったわ。本当に意識が戻ってよかった」
義母がまた涙を零す。
わたしはその言葉に目を瞠ってしまう。
そのパーティはわたしが初めて婚約者の不実を見て、暴れた日だ。
しかしそれは一年以上前のことだ。確かにあの癇癪を起こした後、私は倒れた。
意識が戻り体調が回復した後、学園に復帰した頃には完全に婚約者の心は私から離れていた。
あの日の癇癪は頭に血が上ったせいだと、途中から記憶がねじ曲がっていた。けれど確かにあの日は体調が悪かった。
思い起こせば、あの頃は療養中も苛々していた。婚約者は見舞いになど一度も来なかった。
既に経験したはずの光景が再び繰り返されている?
どういうことだろう。思考が混乱しているが、それを思考できる体調ではない。体は重怠く、頭は割れそうに痛い。
違和感はそれだけじゃない。
義母がベッドの際で涙を流し、侍女が心配そうにずっとわたしの様子を見ていた。使用人たちがわたしの意識が戻ったくらいで大騒ぎしていて、とにかく慣れない景色だ。
「ハーライト! 目を覚ましたって本当ですか!」
扉がやかましく開き、その人は慌てた様子でベッドの隣に膝をつく。
義兄が眉を下げてこちらを見遣った。彼は義母の連れ子だ。義母と容貌のよく似た美しい面立ちで、プラチナブロンドと透き通るような緑色の瞳を持っている。
「ダイオ、声が大きいわ! 目を覚ましたばかりなのよ!」
「あ……!」
義母に咎められ彼は口を両手で隠した。
似た顔が二人並んでいる。こうやって彼らを見比べるのは初めてかもしれない。
母の死後、十年目に父は義母と義兄を連れてきた。再婚したいと。それまで甘やかされて育てられたわたしは彼らを受け入れられなかった。
殆ど会話もせず、特に同性である義母にはあたりが強かった。でも義母はいつも困ったように微笑んでいた記憶しかない。
意地悪をされるわけでもない。いつも気づかわしげに、言葉を選んでわたしに声をかけてきていた。
義兄はわたしを嫌いだと思っていた。つんとした態度をとると、むっと眉を寄せていた姿を思い出す。
何も言葉を発さないわたしに、彼らは不安そうに視線を交わしている。二人とも綺麗な髪が乱れている。そして目の下の隈が酷い。貴族として見た目はどんな時も気を付けなくてはならないのに。
「お義母さま、お義兄さま、隈が酷いですわ。肌も荒れているみたい。ちゃんと寝ていらっしゃいますか。貴族は見た目が大切ですわ……」
喋るのがつらい。わたしが息を切らしながら告げると、二人は驚いたように目を丸くし吹き出した。
二人が面白そうに笑うので、思わず顔を顰めてしまう。
「い、いや、すまない。そうだよな。とにかくハーライトの調子が戻ったようでよかった」
義兄が目を細め笑みを浮かべる。
この人はこんな風に笑うんだ。柔らかく笑む姿は含みなどなく慈しみを感じさせる。
「お嬢様。奥様は何日もお嬢様の看病をされておりました。ダイオ様も貴重なお薬を買いに馬を走らせて、数刻前にお戻りになったばかりです。二日ほど寝ておられません」
侍女の言葉に驚いて二人を見遣ると、いつもの困ったような表情を返される。
義兄はぷいと横を向いてしまった。
わたしの名を叫びながら廊下を走る音が響き始めた。
「お父様……?」
義兄の時と同じくやかましく部屋に入ってきた父はベッドに縋るように近づいた。確認するように大きな手がわたしの頬に触れている。
苦笑している義母と義兄が視界の端に見える。
大好きな父も義母たちと同じように目に見えてやつれていた。
いや、それ以上にも見えた。
美丈夫と名高い父の甘い面立ちは鳴りを潜め、濃茶の髪は乱れ、同じ色の瞳も眠れていないのか憔悴しきっている。
妻を亡くしてから、一人娘を溺愛してきた父だ。その深い愛情を誰よりも享受し知っていたはずなのに。
あんな愚かなことをして、処刑された娘のことをどう思っていただろう。
彼らを不幸にしたのは間違いない。
「……ごめんなさい……お父様。こんな、娘で……ごめんなさい……ごめんなさい」
大好きな父の顔を見て涙が零れた。顔を両手で隠し、しゃくりあげる。
「……お義母さま、お義兄さま、ごめんなさい……ごめんなさい」
「ハーライト、どうしたんだ……落ち着いて」
優しい父の声に涙がますます溢れてしまう。
「……死んでしまえばよかった……そうしたら誰にも迷惑をかけずに済んだのに……ごめんなさい……」
こんなに泣いたのは母が亡くなった日以来だ。
涙が溢れて止まらない。嗚咽が止まらず、しゃくりあげる度に喉が焼け付く。
表情を見られたくなくて顔を持ち上げることが出来ない。わたしは俯いたまま何度も謝罪を繰り返した。
申し訳なくて、父や義母、義兄の顔を見られなかった。
「ハーライト、可愛い顔を見せておくれ」
優しい声音と共に大きな手が頭を撫でた。父は髪を梳くように指に絡める。そして彼はもう一度語りかけてくる。
「君は僕の愛しい天使だよ。産まれた時からずっと言っているだろう? 覚えているかい?」
わたしはその呼び方に頬が熱くなり恥ずかしさが増す。
「お、お父様! もう子供ではないのですから、その呼び方はやめてください!」
思わず顔を上げると優しい父の微笑みが待っていた。その表情に動きが止まる。
「可愛い娘のことを迷惑だなんて思うわけないだろう? もし迷惑をかけるようなことをしたら、私は父として君を諭すだろう。共に考え、何が最良だったかを導き出す助けをするだろう。君が寂しくてたまらない時は、ずっと抱きしめているだろう。父は君にとって、そういう存在で在りたいんだ」
「おとう……さま」
「死んでしまえばよかっただなんて、そんな悲しいことを二度と考えないでくれ」
父は瞳に涙を浮かべ、ぐしゃりと表情を歪めてしまう。
「そうですよ!」
突然の大きな声にぎょっとして声の主を見遣る。
茫然とする父や義兄の視線を受けているのは、号泣し続けていた義母だ。
「そ、そんなこと……また、言ったら、絶対に許しません! はっ、母が子供に先立たれて幸せだと、思いますか……っ!」
泣きすぎて義母の言葉が途切れ途切れだ。眉を跳ね上げ顔を真っ赤にしている。初めて義母が怒っている姿を見た。わたしは言葉を失ってしまう。
義兄がおろおろと間に入った。
「お、お母さま、落ち着いて……」
「おだまりなさい! 落ち着いてなどいられますか! ダイオ、あなたもですよ! わたしより先に死んだりしたら許しませんから!」
普段温厚な義母の姿にさすがの父も驚き苦笑している。そして、わたしに視線を戻した。
彼は身を屈めて腕を伸ばす。
幼い頃、父が腕を開いたら飛び込むように抱き着いて、呼吸が苦しくなる程に抱きしめられた記憶が蘇ってくる。
「ハーライト、早く元気になりなさい。大好きだよ」
「……う」
「う?」
「うわああああああん! おとうさまあああ」
自分でも驚くくらい大きな声で泣いた。
涙が止まらなくて、慟哭のような声で泣いた。
力強く抱きしめてくれる父の温かさが嬉しくて更に泣いた。
たくさんの感情が溢れ、涙と共に流れていくような心地になる。
嬉しい。悔しい。幸せ。憎い。
どうして過去に戻ったのかは分からない。
一度経験した時間のはずなのに、同じ経験をしなかった。
きっと私が彼らを拒絶したのだ。
あの時も同じ感情を彼らは向けてくれていただろうに。
一頻り泣いて、元気になったら全てやり直そう。
大事な家族を守るために。そしてわたし自身を幸せにするために。
その後、散々大泣きしたせいか熱が上がり、わたしは再び倒れた。
おろおろする家族を置き去りに、それからわたしは二日間眠り続け、ベッドの上で起き上がれる程度に回復したのは更に一週間後だった。