(7)幸せな交流
「ルーファ!」
ルーファが父の居住スペースから兄夫婦のそれに向かっていると、背後から駆け寄る足音と共に明るい声が響いてくる。反射的に振り返ると、予想通り兄であるライオネルが自分に向かって駆け寄って来た。
「ご無沙汰しています、兄上」
笑顔でルーファが頭を下げると、ライオネルは上機嫌に彼の肩を叩きながら、苦笑まじりに告げる。
「本当に久しぶりだな。もう少し、こちらに顔を見せに来い」
「そうしたいのは山々ですが……」
困ったように微笑む異母弟を見て、ライオネルは彼とは対照的な同母姉妹を思い出し、思わず溜め息を吐いた。
「姉上やアマンダなどは、大した用事もないのに城に入り浸っているのにな。まあ、お前が足を向けたくない気持ちも分かるが」
「申し訳ありません」
「お前が謝る事はない。悪いのは母上と姉上達だ。ところで、もう父上との面会は終わっている筈だし、今日は少し時間があるのだろう? 少し茶を飲んでいけ。話もあるからな」
「ですが兄上。政務の方は大丈夫なのですか?」
「心配するな。万人に休息は必要だ」
「分かりました」
どうやら臣下に政務を押し付けてきて抜け出してきたらしいと察したものの、父との対面でかなりの精神的疲労感を覚えていたルーファは、素直にその誘いに乗る事にした。
「シルヴィア、戻ったぞ」
自分達夫婦の居住スペースに戻ったライオネルは、機嫌良くシルヴィアに声をかけた。対する彼女も、笑顔を深めながら二人を出迎える。
「お帰りなさい。あら、ちょうどルーファを捕まえていらしたのね?」
「ああ。隙あらば逃げ帰ろうとするからな。首尾よく捕獲できて良かった」
「兄上、義姉上……。私を獲物のように仰らないでください」
溜め息を吐いたルーファを見て、夫婦がくすくすと笑みを零す。
「すぐにお茶を淹れますから、二人とも座ってください」
「ああ、頼む。ルーファ、遠慮するな」
「はい。失礼します」
仰々しい面会時の応接スペースではなく、落ち着いた私室に通されたルーファは、兄と共に丸テーブルを囲んだ。すると大して待たされずに、侍女を引き連れたシルヴィアが戻る。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
目の前に茶器と菓子皿が準備され、お茶を出されたルーファは、ゆっくり味わいながら飲み始めた。するとシルヴィアが、さりげなく話を切り出す。
「ところで、お父様のご機嫌はどうだったかしら? 最近、お加減が優れないのか益々気難しくおなりで、侍従達が手を焼いているようだと聞いているの。それなのに今日ルーファが来ると聞いていたから、不愉快な思いをしなかったか心配していたのだけど……」
控え目に問いかけられたルーファは、溜め息を吐きたくなるのを堪えながらカップをソーサーに戻した。
「義姉上にまでそんなご心配をかけてしまって、申し訳ありません。確かに少々不愉快な思いはしましたが、気鬱の病人の戯言を一々真に受けていては、とても日々心穏やかには過ごせませんので」
「まあ……」
「いつもなら温厚なお前が、そこまで言うのは珍しいな。父上に何を言われたんだ?」
兄にまで心配そうに問われてしまったルーファは、仕方なく父とのやり取りについて言及した。
「それが……。端的に言えば、『お前の縁談を調えてやったからありがたく思え』ですかね」
それを聞いた途端、ライオネルとシルヴィアが揃って目を丸する。
「は? ルーファの縁談?」
「え? あなた。それは本当ですか? 私は全く伺っていませんが」
「私も初耳だぞ。一体、誰との縁談だ?」
「デニロス公爵の次女だそうです。それと共に、公爵に私の侯爵位継承に助力してもらう内諾も取ってあるそうです」
「それは願ってもない話だな」
ライオネルは表情を明るくして頷いたが、そんな夫をシルヴィアは軽く窘めた。
「あなた。そうは言っても、いきなりそんな話を一方的に聞かされるなんて。ルーファだって、言い分があるでしょう。確かに良いお話だとは思うけど、相当驚いたのではない?」
心配そうに問いかけられたルーファは、呆れ気味に頷いてみせた。
「それはもう。完全に寝耳に水でしたからね。前々から分不相応な爵位など要らないと固辞しているのに、未だに理解して貰えないようです」
しかしここで、ライオネルが真剣な面持ちで訴える。
「分不相応など! お前はれっきとした王子で、母親は異なるが私のただ一人の弟だ! 能力的にも問題はないし、本来ならもっと然るべき爵位と領地を保持するべきなのに!」
「あなた? ルーファ相手に、お義父様と同じ論争をしたいのですか? 今以上に、こちらに出向いてくれなくなりますよ?」
やんわりと妻に指摘されたライオネルは、すぐに自分の意見が押しつけがましいものだったと反省し、謝罪の言葉を口にした。
「……すまない。本当に今更の話だったな」
「いえ、兄上と義姉上が変わらず私を心配してくださっているのは、良く分かっております」
善意からの発言であるのは十分に理解しており、父から見ればこういう所がお人好し過ぎると言いたいのだろうが、兄はこのままで良いのではないかとルーファは思っていた。
「それで……、デニロス公爵家との縁談はどうするつもりなの? この際、ありがたくお受けするのかしら?」
「いいえ。父上にも宣言してきましたが、お断りします。当面、結婚する気はありませんので。明日にでも直接、正式に文書で婚約破棄の申し入れをするつもりです」
「それは少々、勿体ない気がするのだがな……」
「それでは、デニロス公爵とお義父様の間で、当事者抜きで婚約が成立していたという事なのかしら?」
「そうらしいですね。呆れる事に」
ルーファは心底うんざりしながら肩を竦めた。そこで少しの間考え込んだシルヴィアは、隣に座る夫に声をかける。
「あなた。デニロス公爵と内々に話をして、婚約話を公にしないで解消、もしくは婚約話自体がなかったことにできないかしら? ルーファに気持ちを尊重したいけど、仮にも婚約解消の話が世間に広まったりしたら、相手のご令嬢の評判に係わりますから」
令嬢の今後を懸念する妻を見て、ライオネルが真顔で頷いた。
「それもそうだな……。よし、分かった。私からデニロス公爵と連絡を取って、穏便に水面下で話を纏めよう。公爵も、こんな事でご令嬢の評判に傷をつけたくはない筈だ」
思わぬ事で兄夫婦の手を煩わせることになってしまったルーファは、思い直して素直に頭を下げる。
「私事でお二人にご迷惑をおかけする事になって、誠に申し訳ありません。確かに相手のご令嬢にとっては、私以上の災難でしょう。勢いに任せて公爵邸に乗り込まなくて、良かったと安堵しております」
「これくらい、迷惑をかけられたうちに入らん。もっと私達を頼って良いのだぞ?」
「ええ。困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね?」
「はい。その折には、宜しくお願いします」
この兄夫婦には全く頭が上がらないと思いながらも、それは十分に幸せな事なのだろうなとルーファは実感していた。