第 3 話 Amur adonis (6)
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お世話になっている不動産屋を訪ねてから1週間ほど経過したある日。
若社長から電話があった。
「悪いけど、急いで店に来てもらっていい?可能なら実印と支払いに使う予定の通帳持ってきてもらえると助かるのだけど。」
手短に伝えられたものをもって店に行くと奥のカウンタ席に案内された。
そこには、見知らぬ一人の老人が待っていた。
「君が大熊さんが言っていたあの物件を欲しがっている人かい?」
老人はそう言うと僕の顔をじっと見つめている。
「はい。そうです。」
僕はそう答えると老人はそっと目を閉じ、しばし考えるとゆっくりと話し始めた。
「そうかそうか・・・君か。君は良い目をしているな・・・。君になら、あの物件を譲ってもいいかもしれんな・・・。」
その後、老人の思い出話が続く。要約するとあの物件は老人にとって幼き日の思い出の場所であり、貸すのであれば厳しい条件の飲める人でなければ貸さないし、手放すのであれば自分が納得する人以外には売りたくない大切な場所。
老人にとっての幼き日の思い出。それは亡き実の母との思い出の場所。継母とは上手く行く事が出来なかった老人にとってかけがえのない記憶が詰まったそんな場所を譲ってくれるというのは相当な事である。
この話を進めてくれた若社長もここまでスムーズに行くとは思っていなかったようで吃驚した顔をしていた。
話はそのまま譲渡に必要な書類や物件にかかる費用、不動産仲介料の話になり、その都度必要な書類を作成し、とんとん拍子で売買契約に至る。
まさかこのような事で家を買う事になるとは思ってもいなかった。本当はあの両親には感謝したくない気持ちが大きいのだか、この時ばかりは大金を残してくれた事を感謝するばかりだ。正直、あのお金が生まれたが経緯が経緯なだけに複雑な心境ではあるのだが。
嫌っていてもどんなに酷い仕打ちをさて続けてきても親は親であるのは変わらない。
今、目の前にいる老人も僕と同じような思いをしてきたのだろうか?そう思うと、あの家を譲り売ってくれる気になったのには何かの巡り合わせがあるのかも知れない。
不動産屋からの帰り道、僕はこれからの事を考える。
これから僕は何をすべきなのか、何が出来るのだろうかと。正直、この都市にいる事に疲れつつある僕自身がいる。
ここ最近、色々な事が起き過ぎたのも大きい。良い事も悪い事も含めてだ。
ましてや人混みの多さで僕自身が僕自身である必要があるのか分からなくなる時がある。
僕でなくてもこの都市では代わりは沢山いるだろう。敢えて僕である必要がないのではと思ってしまう事が多い。都会の雑踏が人の多さが僕自身をそうやって惑わせているのもあるのかもしれないが。
ならばいっそのこと、購入してしまった家の譲渡手続きが済み次第引越してしまってからこれからの事を考えるのも一つの方法かもしれないと。
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しばらくしてすべての手続きが完了し、引き渡しの日にちも決まった。
僕はその日に合わせて引越す事を決め、今住んでいるマンションの引き払い手続きを済ませ、荷物をまとめた。
もちろん、ベルも一緒に新天地へ行く事になる。
これから、どんな事があるかは分からないけれど、今出来る事は僕自身を僕自身が壊さない事だけだ。
お読みいただきありがとうございます。
次話は 2020/05/16 19:00頃 公開します。
(すいません、ちょっと一息つかせてください。予約投稿だけど、連投し過ぎな気がしてきたので。)




