ぽっかり穴あき(物理的)の一橋くん
郁は走っていた。
ただただ一心不乱に、彼のもとに向かって。
お菓子をあんなに山ほど食べなければよかったと思った。気持ち悪くて、胃の中がまぜっかえりそうだ。それでも、息が苦しくても、汗で張り付く服が不快でも、手足が重くても、一秒でも早く足を前に動かさなくてはいけない。
早くしなければ手遅れになると、郁の本能がガンガンと警鐘を鳴らしていた。
頭に浮かぶのは、彼の『穴』について助言をくれたあの人の言葉だ。
『たぶんだけどね、あの穴が広がりすぎちゃうと彼は――』
「――っ! そんなのダメ!」
郁は頭を振って走り続ける。
「佐波さん、そんなに勢いよく走ったら危ないよ」と、自分を嗜める優しい彼の声が幻聴で聞こえたが、いつもは「そうだね」と笑って素直に頷くことも、今は頷けない。
一橋くん、一橋くん、一橋くんと、郁は荒い息と共に何度でも彼の名前を繰り返す。
「一橋くんっ! お願い……!」
死なないで。
※
偏差値は県内では中の下。
勉強の出来はあまりよろしくないけど、体育会系の部活はそこそこ強くて、あとは制服が男女ともに特徴的でお洒落なのが取り柄。
そんな地元の私立高校に通う高校二年生の佐波郁には、最近気になる人がいた。
「はあ、星崎くん、めちゃめちゃカッコいい……イケメン……爽やか……レモンの香り……」
「トイレの芳香剤のCMみたいな言い回しはやめなよ。でもマジでイイ男だよね。顔だけじゃなくて中身も。この前のバスケの試合も、エースのアイツが土壇場でシュートを決めたおかげで勝ったんでしょ? それなのに『チームみんなの力だよ』とか、少女漫画のヒーローかよ」
「それだけじゃなくて、頭もよくて親切なの! まさにパーフェクト男子! そりゃモテるよ! 彼女いないとか絶対嘘でしょ。でもいないで!」
「どっちよ」
「私が彼女に立候補したいのー! でも倍率高すぎ!」
時間は昼休み。
夏休みを目前に控えた教室内は、心なしか普段に増して騒々しく、外の蝉たちの声量に負けないくらい多様な声であふれている。
机を繋げて一緒にお昼ご飯を食べている郁の友人二人も、例に漏れずお喋りに夢中だ。彼女たちは、クラスどころか学校一の人気者である星崎良平の話題で盛り上がっている。
教室の廊下側の壁にもたれて、クラスの男子達と快活に笑い合う星崎は、百人中百人が認めるだろうイケメンだ。自然にセットされた地毛らしい茶色がかった髪、高身長に薄ら焼けた肌は引き締まっていて、笑顔はなんとも爽やか。清涼感という言葉は彼のためにある。
ここらの高校では珍しい水色の半袖カットシャツも、緑チェックのスラックスも、ただの制服とは思えないほどモデルのように着こなしている。
なお女子用制服は、男子のスラックスをそのままスカートにして、胸元に黄色スカーフを巻く形だ。
クラス中の女子の視線は、ほぼほぼ星崎に向いていた。
だが、郁が気になるのはそちらではない。
「ねえ、郁もそう思うでしょ? カッコいいよね、星崎くん!」
「うん? ……うん、まあ」
ぷるぷる震えるプリンを、スプーンで掬って口に運ぶ。甘くとろけるプリンを味わったあとに、郁が気のない返事をすれば、「もー! 適当に答えているでしょ、郁!」「仕方ないわよ、郁は色気より食い気だもの」とか左右から言われる。
持参した弁当に加えて購買でパンを三つ、デザートに新発売のどんぶりプリンを食べているくらいで酷い言いがかりだ。
いくら食べても太らないしお腹空くんだからいいじゃん。
そんな女子全員を敵に回しそうなことを考える郁は、ふんわりしたショートボブに、小柄な体躯。大きな目にツンと上を向く鼻が愛らしい美少女だ。女子の視線が八割星崎に向いているなら、男子の視線は八割郁に向いているくらいにはモテる。
しかしながら、郁は友人の言うように色気より食い気。
可憐な見た目にそぐわない、自他共に認める大食いである。
プリンを食べ終わっても物足りなくて、非常食として用意していたスナック菓子と、シメのイチゴ牛乳の紙パックをバッグから取り出しながら、郁は二人に「あのさ」と話しかける。
「一橋くんのことはどう思う?」
「一橋? ……って誰だっけ」
「酷過ぎかよ。星崎の親友の眼鏡くんじゃん。ほら、星崎の横にぼんやり立っている」
二人の目線が、星崎から横にスライドする。
その先には、笑い合う男子たちの中にひっそりと控え目に交ざる、一橋道影がいる。
重たい印象を受けるボサッとした黒髪に、影の薄い気弱そうな面立ち。背はそこそこあるが肌が白く不健康そうで、眼鏡は面白みのないレトロなデザインの黒ぶちだ。
星崎の幼馴染かつ親友であり、ああやって普通にクラスに馴染んでいるので、根暗ないじめられっこなどではないが、目立つような男の子でも決してない。
「どう思うって……モブな感じの一般ピープル? この前も私がばら撒いちゃったプリント集めるの手伝ってくれたし、悪いヤツじゃない、むしろいいヤツなんだけどさー。なんていうか地味だよね」
「委員でもないのに、花壇の手入れをしているとこを見たことあるくらいかしら。ああ、あとよく先生の手伝いとかもしているわね。でもあの星崎の親友ってのがちょっと不思議なくらいで、まあ、よくも悪くも普通な男よね。あと地味」
それっきりこの話題を終わらせた二人は、今度は好きなアーティストについてお喋りを展開し出す。どうやら二人には、一橋は地味なだけの、いたって普通の男の子に見えているようだ。
郁はイチゴ牛乳にぷすっとストローを挿して、こっそりと溜め息を吐き出す。
(……やっぱり、私だけか)
――――彼の身体のド真ん中に、ぽっかり穴があいて見えるのは。
郁には一橋の身体の中心、胸の真ん中あたりに、ピンポン玉くらいの丸い穴があいているように見える。血などは流れていない。ただただ綺麗な空洞が出来ている。
一橋は位置的に教室の入り口を背にして立っているのだが、穴を通して扉の取っ手が見えるのだ。ものすごくシュールである。
「君を失って、僕の胸にはぽっかり穴があいたようだ……」みたいな台詞をドラマで聞いたことがあるが、郁からすれば一橋には物理的に空いている。
はじめて見つけたときは、目を見開いて半狂乱になったものだ。授業中に「きゅ、救急車あああああ!」と叫び、なにを寝ぼけているんだとクラス中から笑われた。神経質な担任には「お前のせいで、俺が胃痛で救急車に運ばれそうだ」とかなんとか嫌味を言われた。
ちなみにそのときは、もっと大きくてゴルフボールサイズの穴だった。穴は見る度に大きさを変えるようである。
(あ、穴が大きくなっている)
星崎を取り囲んでいた男子メンバーの一人が、なにやら一橋に絡んでいた。クラス一のお調子者で、憎めないが無神経さが玉に傷。そんな浅井がまたデリカシーに欠ける発言でもしたのか、一橋は困ったような顔をしていた。
見るからに気の弱い一橋は、浅井を拒むことも出来ないのだろう。
それでもしつこく絡み続ける浅井。
じわり、と穴が広がっている。
だけどそんな一橋を助けるように、星崎が浅井と一橋の間に入った。星崎はさすがのコミュ力を持って、浅井をあしらっている。
一橋の方は眉を下げてやんわりと笑みを浮かべながらも、心なしかホッとした顔をしている。
(……穴が戻った)
再びピンポン玉サイズに戻る穴。
郁はゼリー飲料を口に含みながらも、パチパチと長い睫毛で瞬きを繰り返す。
いったい、あの穴はなんなのか。
どういった意味があの穴にはあるのかとか。なんで私にだけ見えるのだろうとか。どんな法則性があるのかなとか。
あれ、広がり過ぎたらどうなっちゃうの? とか。
疑問だけがまた積み重なって、謎は本日も解けなかった。
キーンコーン……と昼休み終了のチャイムが鳴る。
郁はストローを口に咥えながら、チャイムが鳴り終わるまで、一橋の胸に広がる穴をジッと観察していた。




