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喫茶プレリュードへようこそ~軍人喫茶は侯爵令嬢の職場体験先になりました~

「いらっしゃいませ」






 無愛想な声が響き、喫茶店へ訪れた客はへたりこむ。




 刃のような鋭い殺気が、声に感じられたからだ。




 店主の声と店の落ち着いた雰囲気との差に、癒しを求めて訪れた客は悲鳴を上げて逃げてしまう。




 冷めた目で彼ら彼女らを見送りながら、またか、と小さく呟く男。手にしたコーヒーカップは、既にぴかぴかだ。






「……今日も客は0か」






 太陽の傾き具合から考えると、閉店時間までしばらくあった。




 しかし男は今日はもう客は来ないだろうと踏んでいる。




 今日は年に1度の建国記念日。




 表には煌びやかな飾りがアーチを描いて町中を彩っている。……更に、表の道には、寂れた喫茶店よりも魅力的に思える出店がずらりと並んでいた。




 もちろんだが、客はこんな狭く、暗い場所に来るはずがない。




 仮に来たとしても、店主である男の気迫、雰囲気、緊迫感――など、思わずしりもちをついてしまうほどの気迫を受けて、すぐに店から出ていく。






「……結局、このエプロンもミトンも意味がなかったなぁ」






 猫柄のエプロンと、肉球柄のミトンを外して男はひとり呟く。




 ……可愛い柄が余計に強面の男に違和感を覚えさせ、初対面の印象を悪くしているなど気づくはずもない。




 それもそのはず。軍人である男はこれまで、軍服と略式礼装しか着ることがなかったのである。




 残念な服のセンスは、軍に所属していたせいで培われなかった一般的な感性が原因である。






「……もういいか。流石に夜の部が始まっちゃ、ここに客は来ないだろう」






 一時期は軍に身を置いていた男は、祭の盛り上がりについては知るところがある。




 このまま誰もが表の出店で飲めや歌えやの大さわぎに突入することだろう。




 残念そうに深く息を吐きながら、店の前に置いてある看板をしまおうとしていたところ――。






――じーっ。






 店先に、一つの影があった。何かを見つめているようで、微動だにもしない。




 穴が開きそうなほどに見つめているのは、男が描いたスパゲティの絵であるらしい。




 とてもおいしそうに描画されている絵は、いかにも不器用そうな男が描いているとは到底思えない程。




 お客であるかもしれない小さな影を、そのまま放っておくわけにはいかない。




 迎え入れるべく、男が扉へと近づいた瞬間、影と目が合った。




 空色の瞳は、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。




 どこかのお嬢様かと思うほどに綺麗な肌に、腰まであるサラサラの髪。太陽に負けないほどの、輝かしい金髪だ。




 迷子なのだろうか? それにしては不安な様子も見られないが――。




 男は不思議に思った――が、今は関係ないと頭を切り替える。




 問題は、今目の前で、男のことをじーっと見つめている少女についてだ。








「……いらっしゃいませ?」






「ん」






 少女は一回だけ頷いて、カウンターへとすたすたと歩いていく。




 その様子を見た男の内心は、行動を疑問に思うでもなく、意図を探ろうとするのでもなく――ただ嬉しさに興奮を露わにしていた。






(客が――客が来てくれている!)






 この喫茶店を開いてもう3年の月日が経っていた。




 喫茶店に訪れた客は延べ数百人。うち喫茶店で飲食した客は――たったの五人。うち四人は退役前に男が務めていた職場の部下だった。




 収益を気にせず、趣味として喫茶店を経営する男だったが、それでも客が来てくれないのは少しだけ寂しく感じていた。




 しかし、今この瞬間、男の目の前には一人のお客様(・・・)がいた!






「……メニューは?」






 柄でもなくわくわくし始める男だったが、少女の平坦な声で我に返った。




 まるで風のように少女へとメニューを差し出す。




 一つの動きに喜びが満ちていて、男の険しい雰囲気を少しだけ和らげていた。






「……マスター、おすすめは?」






 マスター! なんと甘美な言葉だろうか!




 内心で喜ぶ半面、表情は鉄のようだった。 






「おすすめ、か……。これは自信作だ」






 そういいながら、男はメニューの中にあるこげ茶色の液体を指差した。




 ちなみに、メニューは全て絵と少しの解説でできている。小さい子供にもわかりやすいようなメニューだ。






「これは?」




「喫茶:プレリュードの一番人気、エスプレッソだ」






 興味がある、と目を見開く少女。瞳は細められていて、男の動きを見逃すことはなさそうだ。




 お客様に期待を寄せられている。……ここが腕の見せ所だと、男は気を引き締める。




 戸棚からビンを取り出し、そこからこげ茶色の豆をすくい取る。




 一握りほどある豆をカウンターにある器具へと投入し、ゴリゴリとひき始める。




 周囲に香ばしく、どこか甘い匂いが漂い始める。豆がひかれる音もあいまって、少女は表情を緩めて安心したような様子になった。




 穏やかな時間が流れ始めて、少し経った。




 男はひいた豆を取り出し、それを茶色く塗装されたごちゃごちゃとした機具へと投入する。




 管や何かの数値が書かれた計測器、そしてレバー。




 管はレバーへとつながっており、レバーと接続している中央部は膨らんでいた。






「……見慣れない機具」




「当然だ。何せ知り合いに頼み込んで作ってもらった特注品だからな」






 男は少女の疑問に答えつつも、なれた手つきでレバーを操作していく。




 やがて、小さく空気が抜ける音が響いた後、中央部に取り付けられた管を通って、小さいカップへとこげ茶色の液体が注がれていく。最後に肌色の泡が液体を包み込むように、機具から降り注いだ。




 カップは、男が親指と人差し指でつまめるほどに小さい。そんなカップからは、芳醇(ほうじゅん)な香りが漂ってきていた。




 これまた小さなソーサーにカップを乗せて、たっぷりの砂糖と一緒に少女へと差し出す。






「待たせたな、エスプレッソだ」




「……これ、珈琲(コーヒー)? あんまり得意じゃない」




「大丈夫だ。飲みやすいようにひき具合と圧力の加え具合は調整してある」






 半信半疑と言った様子で、少女は男を見る。




 いかにも自信がある、というようににやにやと顔をゆがめている男の姿がそこにはあった。






「あ、そうそう。山盛りひとすくいの砂糖を入れるのがエスプレッソの飲み方だ。入れるときはゆっくりと、だ」




「……」






 少女は、まるで腫れ物でも扱うかのような手つきで、慎重に砂糖を入れていく。




 砂糖は肌色の泡に少し留まった後、ゆっくりとカップの底へと落ちていく。






「……それで、これからどうしたらいい?」




「あとは飲むだけだ。3口くらいで飲むといい。エスプレッソの良さがわかるだろう」






 神妙な顔つきで、カップを持つ少女。




 ほのかに香る珈琲の匂いはあまりは強くなく、少女の珈琲に対する壁を低いものにした。




 そっと、カップに口を近づける。




 そして、1口。






「――!」






 瞬間、少女の口から鼻へと、まるでフルーツのような香りが通り抜けた。




 珈琲豆に封じ込められていた香りが肌色の泡を通り抜けて、少女を包み込むように広がる。




 これ以上ないほどの珈琲らしい珈琲。最も一般的で、奥が深い珈琲の世界の門を、香りに導かれた少女は開いた。




 珈琲は苦手だと言っていた少女。しかし、2口目、3口目と、こくりこくりと飲み切ってしまった。




 目を細め、うっとりとした表情で小さなカップを見る。




 底には薄っすらと茶色くなっている砂糖があった。






「……底に残った砂糖をさじですくって食べるまでが、エスプレッソの楽しみ方だ」






――少女が砂糖まで綺麗に食べきるのに、時間はかからなかった。






「…………気に入った」






 少女は未だに残るエスプレッソの余韻に浸りながら、満足だ、と頷いた。






「……そう言ってもらえると嬉しいよ」




「決めた」




「決めた? 決めたって、何を?」






 男の投げかけた質問は無視された。




 すくっと立ち上がった少女は、金の長髪を揺らして、空色の瞳で男をしっかりと見た。






「名前は?」




「……名前? 俺の?」




「ん」




「俺の名前はセージュレット。姓はない。呼びづらいときはセトって呼んでくれていい」




「わかった。じゃあ、セト」






 少女は肩から下げていた鞄から一枚の貨幣を取り出すと、それを高々と掲げた。




 太陽の光に反射してきらきらと輝くそれは、この国で最も貨幣価値が高い、王国金貨。




 1枚あれば、40年は暮らしていける程の価値を持つ。




 それを、少女は。






「私、シャルロット・ド・グランフォリオは、グランフォリオ侯爵家の名に於いて――喫茶:プレリュードを私の職場体験先に指定する」






 セージュレットへと投げつけた。




 地面を転がって足元へと到着した王国金貨と、侯爵家令嬢と名乗った少女――シャルロットを、交互に、ゆっくりとセージュレットは見て。






「――」






 次の瞬間、卒倒したのだった。

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