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鏡に映る花、水に浮かぶ月

 さらりと風が頬を撫ぜたような気がして、目を覚ました。


 窓を開けたまま寝てしまったのかとヒヤリとしたけれど、ベッドから身を起こして確認するとどうやらそうではないらしい。




 風が吹いたのは、私の夢の中だけだったみたいだ。




 どんな夢だったっけ、と思い出しながら体を伸ばす。


 まだつぼみが多い桜の木の下。チェックのスカート。それから、彼。それだけ思い出せれば充分だった。




「…また、あの夢」




 それはまだ私が恋をしていた時の、そしてそれが儚く散った日の夢。




『ごめんね、咲良』




 あんなに悲しい別れだったのに、胸が張り裂けそうに辛かったのに。夢の中で見るあの頃の思い出は、美しくて愛おしい。




 戻りたいとすら思ってしまう。最後には辛い思いをすると知っているのに。




「鏡に映る、花」




 あの夢を見る度に、そんな言葉が心に浮かぶ。




 鏡に映る花は華やかで美しく、人々の目を楽しませてくれる。けれど、本物には決して触れられない。伸ばした手が、指ができることは、冷たい鏡の表面をなぞることだけだ。




 手に入らない。触れることも出来ない。それでも、手を伸ばしたくてたまらなくなる。そんな夢を見ることは、私にとってとても美しく、残酷な仕打ちだった。




 暖かなベッドを抜け出して、小さく息を吐く。週半ばの水曜日だと言うのに、憂鬱な目覚め方をしてしまった。




「…っん、みつきぃ」




 のそのそと服を着替えたところで、ベッドの中から眠そうに私の名を呼ぶ声がした。




「倫さん、今日は早起きでき…るわけないか」




 期待を込めて振り返ってみたけれど、ベッド上の布団の塊が起き上がる気配は無い。


 布団の塊の中心にいるのは婚約者の倫さん。彼はそれこそ病的なまでに早起きが苦手だ。私より先に起きられたためしがない。




 ついさっき私を呼んだのも、どうやら寝言だったらしい。仕方のない人だ。




 布団の端から覗く髪をそっと梳いてから、寝室を出る。




 朝の洗顔と、化粧と、朝食と。自分の用を一通り済ませると、彼の分の朝食とお弁当の用意に取り掛かる。




 栄養のバランスを考えつつ、慌ただしい朝や忙しいお昼休みでも食べやすい簡単なものを。大の大人に対して過保護すぎるような気もするけれど、そうしないと面倒くさがりの彼はご飯を抜いてしまうのだ。




 『一食や二食抜いたくらいで死なないよ』と当の本人は笑うけれど、そうでなくとも線の細い見た目をした彼のことだ。心配にはなる。




「できた」




 RRR...




 お弁当を綺麗に詰めたところで、家の固定電話が鳴った。こんな朝から電話なんて珍しい。誰からだろう。




「はい…杉元です」




 急いで受話器を取る。少しの戸惑いを含んで唇から滑り落ちたのは、まだ私のものではない新しい名前だ。




「朝早くにすいません。飯田です。…あれ?杉元先生は?」


「あぁ、杉元ならまだ寝てますけど…。伝言しましょうか?」




 電話口で焦った声を上げるのは、私より3つか4つくらい年下の大学生くらいの男の子。どうやら倫さんの教え子らしい。




「あ、じゃあお願いします。今日のゼミなんですけど、就活の面接被っちゃって行けそうになくて。欠席します、すいません。って伝えといてください」


「はい。わかりました。頑張ってね」


「…!ありがとうございます。朝早くからすいませんでした」




 受話器を置いて、簡単にメモを残す。就活、懐かしい響きだ。




「今の、誰?」




 過去を懐かしんでいたら、眠そうな声と共に背中が重くなった。倫さんが起きてきたらしい。




「飯田くん。今日のゼミ、就活の面接があるから休むって」


「よしだ…?ああ、そう。にしても朝早すぎでしょ…」




 私の背中にへばりついて、彼は肩甲骨の辺りに頭をぐりぐりと擦り付けた。


 仕草としては可愛いけれど、それを今年で35になる大の大人がやっていると思うと滑稽さが先に立つ。




「きちんと連絡してくれたんだからいいじゃない」


「よくない。俺より先に美月の声を聞くなんて許せん」


「そう思うなら早く起きてください」




 おどけて少し強い口調で言えば、彼は黙ってしまった。早起きが苦手なことを、少しは気にしているみたいだ。




「それにしても、美月が『杉元』って名乗るのなんかいいね。嬉しい」


「そう?」


「うん。美月、大好き」




 彼はいつも、本当の恋人のように私を扱う。互いの親同士が決めたこの婚約に、愛や恋は存在しないのに。


 それに私はどう言葉を返したらいいのかわからない。彼を愛しているのか、それすらも。




「ありがとう。そろそろ私行くね」


「うん、行ってらっしゃい」




『大好きよ。咲良』




 あの頃の彼には、自信を持って言えたのに。今は感謝を告げるだけが精一杯。




 間違いなく私は幸せなのに。どうして私は今でも彼を忘れられないのだろう。




 ◇◆◇◆◇




 夢を見ている。


 それがはっきりとわかるのは、目の前に彼女が立っているからだ。まだつぼみの多い桜の木の下で、俺も彼女も昔通っていた学校の制服を着ている。




『ごめんね、咲良』




 何度も見た悪夢だ。去り行く彼女の背に、俺は何度となく手を伸ばす。今日こそは、と必死になって追いかける。


 あと少しで届く。その瞬間ー、




「おい、起きろ。デスクで寝るな」


「…編集長。おはよーございます」




 ペシリと後頭部を叩かれて、夢から覚めた。今日も届かなかった、と心が沈む。たかが夢だけど、夢だからこそ届いて欲しかった。




 中堅どころの出版社に就職して早3年。この春の人事異動で俺は文学系の専門誌の編集部へ配属された。主に大学の教授先生たちの論文が載るような、論文誌だ。


 それまでいた漫画雑誌の編集部とは勝手がまるで違うが、忙しさはそう大差ない。締め切りを破られる頻度も、同様に。




 昨日もそのせいで家に帰れず、デスクで寝落ちして悪夢を見る羽目になってしまった。




「で、届いたのか?原稿。そのために待ってたんだろ?」


「届きませんでしたー。待ち損ですよ」




 俺は机に身をうつぶせたまま応えた。昨日の電話で『今日中には絶対送るから!』と約束した、締め切り破り常習犯の声が耳の奥に蘇る。


 それを信じて編集部のパソコンの前に張り付いていたのに、結局メールの一通も来なかった。




 大学の先生が約束破っていいのかよ。嘘つきめ。




「なんとかして今日中にもぎ取ってこい。そしたら今日は家に帰っていい」


「わかりました」




 帰っていい。その言葉に少し元気が出た。家に帰れる、なんて魅力的な言葉なんだ。




 俺はもはや覚えてしまった先生の携帯へと電話を掛ける。そういえばあの人は朝に弱かった。もう起きているだろうか。




「はい、杉元です」




 俺の心配に反して、わずか数コールで眠たげな男の声が電話口から聞こえてきた。




「おはようございます。杉元先生、吉野です」


「ああ、さくらちゃんか。おはよう」


「…先生、その呼び方はやめてください」


「なんで?吉野咲良。いい名前じゃん」




 さくら。滅多に呼ばれない下の名前は、俺のコンプレックスだ。春生まれだから、と両親が付けた女のような名前。それに、桜には苦い思い出もある。




「もういいです…。それより先生、原稿できてます?」


「ああ、うん。出来てるよ。朝ごはん終わったら送るね」


「今!すぐ!送ってください!!電話繋げたまま待ってますから!」




 呑気な相手の声に、寝不足の頭がイライラする。俺は家に帰りたいんだ。




「えぇ…俺朝ごはんはゆっくり食べたい派なんだけど…」


「知ってますよ。年下の彼女さんが作ってくれる美味しい朝ごはんなんですよね。だからこそ嫌がらせです。そうすれば今度からは早めに原稿上げる気になるでしょう?」


「彼女じゃないよ、婚約者。…仕方ないな。ちょっとまってて」




 ため息と共に、電話口から声が遠ざかる。原稿は無事回収できそうだ、と俺は安堵した。




 ほどなくして、俺のメールボックスに杉元先生からメールが届いた。念のため添付されていたファイルを開いて中身をざっと確認する。大丈夫そうだ。




「届いた?」


「ええ、届きました。今度からはもっと早くお願いします」


「ふぁい」




 何かを口に含んでいるのか、もごもごと返事が返って来た。いいなぁ、手作りの朝ごはん。実家を出てから、食べられる機会はぐんと減った。




「さくらちゃんも恋人に作ってもらえばいいじゃん。朝ごはん」


「え?ああ、残念ながらそんな相手いません」




 心の呟きがうっかり漏れてしまったのか、そんなことを言われてしまった。少し前まで彼女はいたが、あっさり振られたばかりだ。


 仕方ないだろうな、と大して傷つきもしなかった。




『ごめんね、咲良』




 たとえ何人彼女が出来ようと、ふとした瞬間にあの面影を思い出してしまう。そんな俺が他の女性と長続きするはずもない。


 水に浮かんだ月のように俺の手をすり抜けてしまった彼女の面影を、未だに探している俺なんかが。




「そうだ。今度俺にも会わせてくださいよ。先生の婚約者さん」


「絶対やだ。さくらちゃんに会わせたら盗られそう、俺の未来の奥さん」


「まさか、盗りませんよ」




 俺より10近くも年上の癖に、彼の声は大人げなく必死だった。その様子が微笑ましい。きっと大事にしているのだろう。




『愛してるよ、美月』




 不意に暖かい感情が蘇ってきた。誰よりも大事だった、彼女。




 もしもう一度会えたなら、今度は二度と離さない。




「だから、会わせてください」


「…しょうがないな。今度聞いてみるよ」




 きっと会うことなんて、もう二度とないだろうけれど。

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