司書と紙魚は、本を読まない。
卒業論文を倒したさきに、卒業がある。
決して薔薇色の未来が広がっているとは思えないけれど、いつまでもこの場所に留まっているわけにはいかない。なにごとにも終わりがあるのだ。
そして、肝心なことに私はいまだに奴を倒せずにいた。
「やっぱりテーマが微妙だったのかな」
私は画面いっぱいに広がる検索結果にため息をつく。
関連文献は一桁ほどで、貼られているリンク先のデータはどれも読み尽くしていた。
「行くしかないのかな」
面倒だから延ばし延ばしにしていたけれど、このままでは二進も三進も行かない。
指導教官にもこの際だから一度訪れてみるといいよ、と言われたばかりだ。
図書館。
それはかつて知識を貯蔵するために、本が収集されたという場所。
いまどきわざわざ図書館へ行くひとなんて、よっぽどの変わりものか用事があるひとだけだ。
現在は電子化が進み、ネットさえあれば、どこにいても公共施設や大学が持っている情報にアクセスできる。もちろんアクセス制限はあるし、大学とかだと学生や教職員だけしか入れないということもあるけれど、図書館なんて化石なものを使うひとはいないのだ。
電車賃を使って行かなければならない、というのがひたすらに面倒だ。
自分の卒業論文に使う資料は、電子データにするほどの価値がなかったのか、とすら思う。それが億劫さを強めていた。
ほかの同級生は、さっさと電子データを使って、早々に執筆にとりかかっていた。いつまでも情報がまとまらないのは、自分だけだ。どこか取り残されているかのような気持ちになった。
蔦が這う赤煉瓦に、はめ込まれた真鍮の門標。
ぱっと見ただけでも古い建物だったけれど、まさか県立図書館という文字も古いものを使っているとは思わなかった。何度も地図を見返しては、ここであっているのか、と確認したものだった。
磨り硝子越しに見ても中は薄暗く、開けるのにしばし勇気がいた。
えいやっと開けると、黴臭い空気が流れてくる。思わずくしゃみが出る。お化け屋敷と言っても正直過言ではない不気味さだ。
おそるおそる中の館内図を見やる。お目当の郷土史の資料はどうやら奥にあるらしい。
意を決して歩き出そうとしたとき、背後から声が聞こえた。
「あら、珍しい。利用者様ですね」
声にならない叫びをあげ、館内図を背にずるずると崩れ落ちる。
「驚かせてすみません」
とても美しい顔をした女性が謝罪をする。あ、と私はすぐにわかる。アンドロイドだ、と。崩れた顔を作るほうがコストがかかるので、基本的に人間離れした美しさを誇るのが、アンドロイドの特徴だ。
とても美しい彼女には、不釣り合いなごわごわとした黄色いエプロンをしている。赤いチューチップのアップリケがしており、そこに拙くも『ししょ』と刺繍されていた。
「ししょさん……?」
「はい、こちらの司書をしております」
ししょ。司書。かつては図書館を管理しているひとの役職名だったことを思い出す。あまりにも使わない言葉だから、出てこなかった。
司書さん、と何度か口のなかで転がしてみる。
「私の型式は、いやここは通称のほうがよいですね。館長にも言われました。館長は私のことをツヅリと呼びます」
「ツヅリさん」
私も自分の名前を告げ、本を探していることを告げる。
「その本ならございます。いま、お持ちしますね」
おかけになって待っていてください、と告げられた場所を見ると、申し訳程度に設置されている絵本のスペースだった。
きれいに掃除をしており、埃ひとつない。小さな椅子に腰をかけてみるが、少し窮屈で、仕方がなくカーペットに座った。
かさばるし、高いからとか買われることがなくなった絵本が、本棚にたくさん詰まっていた。私の幼稚園のころには電子書籍を使ったやや大きめのタブレットで読み聞かせしていたものだから、新鮮に感じた。
背表紙で本の題名をなぞるのも、不思議な感覚だった。題名と作者名。それしか情報がないのに、どうやって昔のひとは本を選んだのだろう。だって表紙が見えることが、普通なのだ。
一冊だけ、見知った本を見つけて、そっと抜き出してみる。ねずみ二匹がパンケーキを作るお話だ。母が一冊だけもっていた絵本で、紙の本でそれだけは繰り返し幼いころ読み聞かせしてもらった。めくるたびにばらばらになりそうな絵本で、セロテープやらつぎはぎした、あまり状態の綺麗ではない本だった。それでもページをめくる指の重さをよく覚えている。
開きもせず表紙をぼんやり眺めていると、ツヅリさんが戻ってきた。
「お待たせしました」
両手いっぱいに本を抱えてきたツヅリさん。受け取ってみると、重たさで腰がいきそうになる。ぷるぷると震えていると、ツヅリさんは机をひっぱってきてのせてくれた。
「紙の本って重いんですね」
いまさらながら当たり前のことを言う。
「ええ。だから昔の方は腰を悪くする方も多いと聞いています」
アンドロイドだから腰痛とも無縁なのだろう。
「こちらの本は借りて行かれますか? それとも読んで行かれますか?」
正直重たいのを持って帰るのはしんどい。またこちらへ返しにいかないといけないのもきつい。何冊か読んでまとめてからにしよう、と考える。
「では、そちらはどうされます?」
ツヅリさんが指差すのは、さきほど読んでいた絵本。
「つい懐かしくなってしまって、読んでいただけですから。パンケーキを焼くくだりがとてもおいしそうで、すごく好きだったんです」
「ISBN978-4834000825の本ですね。これはかすてらを作る本ではないのですか」
ツヅリさんは不思議そうな顔をする。慌ててページをめくると、確かに『かすてら』と書かれている。フライパンの上で焼かれているからてっきりパンケーキだと思い込んでいた。記憶の曖昧さに情けなくなる。
「でも、とてもおいしそうで母に作ってとねだったんです」
結局忙しいからと作ってくれることはなかったのだけれど。
「ツヅリさんもこの本を読まれたんですか」
つい嬉しくなって聞いてみれば、予想外の回答が返ってきた。
「いえ、私は読んだことはないのです。ただ国会図書館をはじめ、たくさんのデータにアクセスすることができるのです」
登録されているあらすじでは、かすてらなのです、とツヅリさんは淡々と言う。
「私は何かあなたを悲しませることをしたのでしょうか?」
ツヅリさんは私の顔を覗き込む。
「……ツヅリさんはこの図書館にある本って読まれたことはあるんです?」
「いえ、ございません。私の仕事はここの管理です。私にはあらかじめここに収蔵されている全ての本のあらすじが収録されております。データ上あらすじが存在しない本がありましたら、館長に依頼して、あらすじを入力してもらうようになっております」
つまりはツヅリさんは本を読まないということだ。
効率的に管理するためには、確かにそれが正しいあり方なのだろう。
おかげでこの図書館は古びながらも清潔に保たれている。
「館長はよく言うのですよ、ここにいるのは私と紙魚くらいなものです。なのに、本を読まないって」
ツヅリさんはおかしそうに語る。その様子に私は違和感を拭えない。
「さきほどあなたは館長と同じ顔をされました。館長はよく言うのです。ひとは本を通じて美しい何かをわかちあっている、と」
ツヅリさんは、誰よりも詳しくて、誰よりも知らない。
「私はその美しい何かをあなたとわかちあえなかったのですね」
人工的に計算され尽くされた顔は、それはとても美しく笑った。それが私とツヅリさんの距離を遠くに感じさせた。
当たり前と思っている彼女の言葉に、私は違うと言いたかった。
でも、その言葉は間違っている。
それは私とツヅリさんの間を埋めるものではないのだ。
「……ツヅリさん、ここの閉館って何時?」
「五時ですが」
時計の針はまだ十一時ちょっとだ。
「ちょっとこの絵本だけを借りて行く」
学生証とIsbnの数字をなぞるだけで、簡単に手続きが終わる。その本を抱え、私は走り出していた。
「ツヅリさん!」
閉館間際の図書館へ駆け込めば、ツヅリさんはきょとんとした顔をでこちらを見た。
「これ!」
差し出したのは、あの絵本に出てきた『かすてら』。
まだ熱くて湯気立っている。
「えっと、ここ飲食禁止でして……」
出鼻をくじかれるも、ふたりで飲食ができるスペースに移動する。
「これ、あの絵本に出ていたかすてらなの」
「これがかすてらなのですね。私、アンドロイドですので、食べることはできないのです」
だからふたりで食べることはできない。それはさすがの私も知っている。
それでも私は切り分け、紙皿にのせてツヅリさんへ渡す。
「美しい何かがなんのことか私にわからないけれど、でも、私と一緒にその時間を過ごしたこと。時間というものを分かちあうことはできるでしょう?」
私はふわふわのカステラに口に入れた。
「これおいしいんだよ、ツヅリさん。あのね……」
私はこどものころの思い出をツヅリさんに一方に語る。母が作ってくれなかったからこっそり作ろうとして失敗したこと。カチカチに焦げたパンケーキを前に、勝手に火を使ったのを怒られたこと。そしてそのとき、本の端っこを焦がしてしまったこと。
ツヅリさんは何も言わず、微笑みながら聞いている。
本音を言えば、分かち合えるなんて思えない。一方的すぎる、自分勝手な行為だと思う。
本を読むことで双方向的に分かち合うことは、アンドロイドであるツヅリさんには難しい。
でも、初めから美しい何かを分かち合えないと信じたくないのだ。




