第九十三話 フレイエル城
シュッ、というしなやかな衣摺れの音と共に、薄暗い室内でもそれと分かるほど形の整った真っ白な素足が、ベッドから寄木細工の床へと零れ落ちた。
サイドテーブルに置かれた大判のバスタオルを体に巻き付けた彼女は、手近な窓に近づき、厚手のカーテンを一気に引き開ける。
窓から降り注ぐ朝の日差しが彼女の白金髪を宝石のように煌めかせ、華奢でほっそりとしたその姿は、物語の中でしか存在し得ない様な、蠱惑的で完成された美しさだった。
彼女が起きた気配で目覚めた僕は、ベッドから背もたれに身を起こすと、その陽光に包まれた窓際のフィリーを見詰める。
彼女は、少しはにかんだ笑顔を見せながら、
「おはよう、今日も良い天気だよ」
と、日常のありふれた挨拶を返してくる。
僕もまた、
「おはよう、そろそろ起きようかな」
いつも日課にしている朝風呂を浴びるため、温泉を引き入れている隣室の浴室へと向かった。
フィリーは「私も」と小走りに来て僕の腕に自分のそれを絡める。
いつもと変わらない、幸せに満ちた何気ない日常。
だが僕は、これから我が侯国開国以来初めての、軍勢を率いた国外遠征の途につかなくてはならなかった。
目指すは侯国の南側に広がる沼沢地の、南部一帯を占領する半魚人勢力の排除と同地域の奪還だ。
この作戦が成功すれば、今後の侯国発展の礎となるべき外海に開かれた貿易港が、遂に手に入る。
先のリザードマンとの和平交渉の結果、我が侯国側からの六項目の要求は、表面上は全て受け入れられる事になった。
が、その中身は、何とか長老議会議長ザハラウーツェの政権を維持するために、こちら側が譲歩に譲歩を重ねた妥協の産物であった。
もちろん我が侯国は、彼等から仕掛けてきた侵略戦争の被害者であり、かつその戦争の勝利者でもあった。当然、リザードマン側に対して、強硬に補償を求められる立場にある。
にもかかわらず、そこまで一方的に譲歩せざるを得なかったのは、そうでもしなければ、リザードマンの社会秩序が完全に崩壊してしまう可能性が有ったからだ。
圧倒的な支配力を持っていた現政権が失政により倒れれば、実力の伯仲した弱小勢力同士の泥沼の後継争いが生じる。そしてその争いによる混乱のツケは、餓えや貧困となって、必ず名もなき市井の人々を直撃する。
そこに半魚人による外圧が加われば、生活に追い詰められたリザードマン達が、唯一の陸続きで、かつ政治的に安定している我が侯国領の南部へと殺到するのは、火を見るより明らかだった。
一度その様なことが起これば、遠からず我が侯国南部も混乱状態となり、人族とリザードマンの間に血で血を洗う抗争が勃発するという、最悪の事態も想定された。
それは、建国間もない我が侯国にとって、致命傷にもなりかねない由々しき事態であった。
幸いなことに、我が侯国は国民主権国家ではなく、良くも悪くも僕の独裁政権だ。
通常ではあり得ない外交的な譲歩も、僕が納得すればその様になる。
我々はまず、ザハラウーツェの国外侵攻の軍事的失敗を糊塗するため、賠償金の支払いを当面凍結した上で、一度は武装解除したリザードマン侵攻軍六千の再武装を許可し、痛み分け的な和睦の体裁を整えさせた。
加えて、貿易港開港用の領土の割譲は、リザードマンとの共闘により半魚人勢力を沼沢地南部から撃退した場合に限るとし、それに伴い、貿易港までの運河の掘削権や同運河の交通の安全確保要請も、全ては共闘後の成功報酬とした。
そうした交渉の結果、我が侯国からすると、とにかく半魚人勢力との争いに勝たない限りは、実質的に何も得ることが出来ない形となってしまった。
だが、考えてみればリザードマン達とは数百年に渡り、お互い不干渉な隣人として争いもなく共存してきた実績がある。
仮に半魚人勢力による沼沢地南部の侵攻が無ければ、この先もずっとその様な安定した状況が続いた可能性が高い。
しかしながら半魚人勢力は違う。
彼等の目的は不明だが、聞けばここ何年も積極的に沼沢地南部へ侵攻し続けているという。
半魚人勢力の存在がある限り、リザードマン達のテリトリーは永続的に脅かされ、それは間違いなく我が侯国南部の安定への脅威であった。
かくして、我が侯国とリザードマンとの半魚人勢力に対する共闘が成立し、本日、沼沢地南部の奪還作戦の開始となった。
今回の初の国外遠征に備え、僕等はアルロンの南方、沼沢地の森との境目に、侵攻作戦の拠点となる砦を構築していた。
付近の農村の名前を取って『フレイエル城』と名付けられたその拠点は、以前パルティナ王国との国境地帯に築いた砦よりも更に規模を拡大し、今回の遠征軍2,000名の兵站を支える要塞としての機能を持たせた。
リザードマンとの共闘が決まってから直ぐに、僕等は彼らからもたらされた半魚人勢力の戦術に関する情報を徹底的に研究し、実質的な同盟関係にあるドワーフ王国からの技術援助を受けながら、それに対抗しうる武器や防具、その他装備等を侯都バーゼルにおいて大量に生産させた。
幸いなことに、侯都を流れるミューゼル河は、南ブランデン郡を通ってここフレイエル城の畔までたどり着き、その後沼沢地を抜けて海まで注いでいる。
バーゼルで生産された武具類や、侯国全土から侯都に集められた補給物資等は、このミューゼル河を使って川上から船で続々と送られて来ていた。
僕は南ブランデン郡の郡都アルロンを2,000名の兵士と共に出立し、侵攻作戦の物資で溢れかえったフレイエル城に入城した。
「随分と立派な城になったものですね」
僕は城門まで迎えに出てきた、侯国軍の最高責任者、軍務局局長ベーゼンハイムに声を掛ける。
「いやはや、今回の築城で、初めて魔族の土魔法の力を目の当たりにしましたが、正直度肝を抜かれましたよ。
文字通り何もなかった小高い丘に、あっと言う間にこれほどの規模の立派な城郭が出来上がってしまったのですから」
フレイエル城の築城のため、今回僕は魔族三姉妹の全員をこの地に投入していた。
ごく短期間で作られたはずのこの城の威容を見れば、その働きは、まさに期待以上と言って良いだろう。
「あっ!ユーキ!!!」
突然名前を呼ばれた僕は、若い女性と思われるその声の主を探し当てる。が、一瞬誰だか認識出来なかった。
だが、その声の主はなんの躊躇いもなく身体ごとぶつかるようにして僕に抱きついてきて、
「会いたかったよぉ〜!」
僕の首筋に顔を埋めるその若い娘は、魔族特有のボンデージ調の革鎧を身に着け、もちろんその頭からは細くて捻れた角が生えている。
僕の魔族の知り合いは3人しかいないが、この娘はソフィアとラミィでは無い。
ということは…。
「え、シオン!?…シオンなの?」
確か前にあった時は、前世日本の感覚だと小学生高学年くらいのあどけない美少女だったが、眼の前にいるのは、同じ感覚で言えば10代後半の、ややもすれば大人の女性の色気を身につけ始めた、若い娘になっていた。
でも、彼女と最後にあってから、まだ一年も経っていないはずだったけど…。
どうして良いか分からず狼狽える僕に、いつの間にか近くまで来ていた魔族三姉妹の長女ソフィアが、
「そう、シオンだよ。我々魔族は個人差もあるが、ある一定期間で急速に成長する。
シオンは、まさに最近その成長期を向かえたみたいだな」
僕はあらためてシオンと向き合う。
キリッとした顔立ちの長女ソフィアとも、聖母の様な優しい顔立ちの次女ラミィとも違う、大きな瞳が印象的な女の娘らしい顔立ちで、よく見ると確かに記憶の中のシオンの面影があった。
「ユーキ、お姉ちゃん達から聞いたけど、いま皆ユーキのお嫁さんになってるんでしょ?
当然ボクもユーキのお嫁さんにしてくれるよね?ね?」
え、いきなりその話!?
僕は困った時のフィリー頼みで彼女を振り返ると、ある意味期待通りに、安定のオドロ線&ジト目攻撃を僕に向けてきていた。
「もちろん、我等三姉妹は等しく我が君に心からの忠誠を誓うもの。
心配せずとも、たっぷり可愛がってもらえますわよ、シオン」
と、やはりいつの間にかすぐ近くまで来ていた次女のラミィは、三女のシオンの頭を優しく撫でながら、
「そうだ、久々に三姉妹が揃ったのだから、今宵は我等姉妹みんなでご奉仕いたしましょうか♪」
と、まるで『良いこと思いついた♪皆でピクニックに行きましょう』みたいな軽いノリで爆弾発言をブチ込んでくる。
「いやいやいやいや、倫理的にも色々問題有りすぎるでしょ!?」
と僕が全力で否定してるのを100%無視しながら、
「身体は大人になったけど、初めて何だから優しくしてよ?」
と、耳を赤くさせながらシオンが柔らかい身体を押し付けてくる。
「このー!ユーキ!!この変態!浮気者!!」
なぜそんな物がこの世界に存在しているのか理解不能だが、前世で『ハリセン』と呼ばれていた巨大な厚紙製の武器を振りかざしたフィリーが、躊躇いなく僕の後頭部に向けて全力で振り抜く。
ズバァーーーーンッッツ!!!!
もの凄い音と共に、強力な衝撃と激痛が僕の後頭部を襲う。
かつて魔王を倒して世界を救った召喚勇者といえども、この不意打ちの痛さには悶絶せざるを得なかった。
なぜ、僕の嫁たちは僕の扱いがこんなにも雑で理不尽なのだろうか?
僕はあまりの痛さにその場にうずくまりながら、いつもの様に答えのない愚痴を一人胸の内でこぼすのであった…。
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