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余話 勇者の記憶

時は、平成から令和に変わってから幾年か過ぎた頃。


その頃の僕は、東京の片隅で名もなき一介のサラリーマンとして働いていた。


と、言えば、何となく聞こえは悪くないが、正直に言おう。

僕は、ブラック企業に勤める社畜社員として、毎日をただただパワハラに怯えながら、仕事とも言い難い苦役をこなしてなんとか日々を暮らしていた。




勤め先は、神田駅から歩いて10分ほどの雑居ビルの4階。吹けば飛ぶような小さな広告代理店。

元々は本を読むのが大好きで、本に携わる仕事がしたかったのに、出版関係の会社をことごとく不採用となって、気が付くとそこしか就職出来なかった。


そこでの僕の仕事は、大して金にもならないチラシやポスターの広告依頼を、とにかく駆けずり回ってかき集める事だった。

客筋も悪く、下手をするとその微々たる出稿料さえ踏み倒されることもある。


今日もまた、半分ヤクザみたいなサラ金のオヤジから、出稿料を踏み倒された。

散々粘ってはみたものの、無いものは払えないの一点張りで、仕方なく僕は仕事終わりのサラリーマンでごった返す神田の街を抜け、とぼとぼと会社へと戻る。


こんな時は、でっぷりと肥え太った頭の薄い社長から、延々と死ぬほど怒鳴りつけられるのがお決まりのコースであった。





「バッカ野郎!!相手に払えませんって言われて、そうですかって手ぶらで帰ってくるやつがいるかぁ!!!」


ドンッ!と、安い事務机が激しく叩かれ、その衝撃で灰皿からタバコの吸い殻が盛大に飛び出す。

顔面を茹でダコの様に真っ赤にしながら、目の前の社長はいつもの様に怒鳴り散らしている。


僕は、その目をまともに見返すことも出来ず、首を(すく)めて嵐が過ぎ去るのをじっと待っていた。



だが、普段なら一時間程度の罵声で終わるところ、何故かこの日は社長の機嫌が殊の外悪く、

「金取り立てるか、仕事取ってくるか、どっちか出来るまで俺の前に面見せるな!

このゴクツブシ!」


ぶんっ!と、社長の投げた分厚い本が頬をかすめる。


僕は、社長の罵声を背中に浴びながら、一目散に事務所から逃げ出した。



その後、目につく個人商店を次々と訪問したものの、そんなに都合良く仕事が取れるわけもなく、結局は全ての人に断られてしまった。

そうして時刻は深夜0時を回り、流石にこれ以上の営業を諦めかけた頃、社長から僕の携帯に連絡が入る。


曰く、明日朝イチで会社に来て、今日の成果を報告しろ、と。


僕は先程見た社長の鬼の形相を思い返し、思わずため息をつく。


僕にはもう、明日手ぶらで出社する勇気も気力も湧いてこない。

仕方がない、もう一回りしよう、と、僕は夜の神田の歓楽街に再び足を向けた……。







そんな、悲惨な社畜ライフを送る日々の中で、()()()()()は起こった。


その時、終電近くの駅のホームで帰りの電車を待っていた僕は、本当に偶然にも、ある衝撃的な場面に立ち会う事になる。


隣に立っていた若いスーツの女性が、どんな理由かは分からないが、突然線路に身を投げたのだ。


まるでドラマの一場面の様に、ひどく現実感のない光景が眼前にゆっくりと展開される。

彼女は、スカートの裾をはためかせながら、まさに駅に進入しようとする電車の前に落下していった。


誰かの悲鳴、耳をつんざく電車の警笛と急制動のスキール音。


あまりに非現実すぎる状況のなかで、僕の中の何かが突然、僕を突き動かした。

気が付くと、僕も線路に飛び降りていた。

ぐったりと動かない彼女をホームへ抱えあげようとしたが、僕一人の力では上手く持ち上げられない。

そこでやむなく、僕はホーム下の退避スペースに彼女を投げ飛ばした。



最後に僕が見たのは、視界いっぱいに広がる巨大な電車の鋼鉄のスカートと眩いヘッドライトの光だった。


それが僕の、前世の最後の記憶だった…。






「お早う御座います、ご主人様。」

優しい女性の声に促され、天蓋付きの巨大なベットのうえで、僕はひとり目を覚ます。


この世界に来てから10年経つが、悪夢にうなされて迎える朝は、自分が一瞬何処に居るのか分からなくなる。

だが、前世では想像もつかないような豪華な調度品が目に入れば、嫌でも現実を認識する。


そう、ここは前世ではない世界(ワルデリア)なんだ、と。




僕は少し汗ばんだ身体を起こし、傍らに立つ家政婦長のマリーネさんに微笑む。


「おはよう、マリーネさん」

「ご主人様、いつもの湯浴みの準備が出来ております」

この屋敷に僕がいる間は、毎朝の日課として起き抜けに風呂に入ることにしている。

蛇口を捻ればお湯が出てくる現代日本と違い、ここではごく限られた特権階級にしか許されない贅沢だった。


僕は、寝室の隣りにあるバスルームで、ゆっくりと湯船につかる。


そうして入浴を済ませたあと、腰にバスタオルを巻いただけの格好で、僕は姿見の前に立った。


この世界では誠に珍しい、黒髮黒瞳(こくはつこくどう)

10年もの間実戦で剣を振り戦い続けてきた肉体は、贅肉一つなく、全身が(しな)やかな筋肉の鎧に覆われていた。

そして、日本での僕は中年だったはずだが、ここではなぜか10代後半の年齢と容姿だ。

オマケに僕は、この世界を魔王の手から救った英雄ときていた。


何か悪い冗談に付き合わされている気がするが、それがまごうこと無きこの世界での現実だ。


ただ、僕は思う。


無気力に暮らしていた前世での最後の日、その最後の瞬間に突然僕を突き動かした何かが、この世界での僕を支え続けてくれた気がする。

結局あの女性が助かったのかどうかさえ分からない。

だがあの時以来、自分が食いつなぎ、ただ生きていくためだけの人生から、人のために命懸けで戦う人生に変わった。


魔王を倒し、当初与えられた目的は何とかやり遂げた。

だがそれで、この世界の問題が全て片付いた訳でもない。




この世界は、依然として弱肉強食の非情な世界であり、富はごく一部の特権階級が独占し、一般的な人々の生活水準は極めて低かった。

人間世界の中だけでも、ひとたび飢饉が有れば、人が人を襲い、或いは我が子を奴隷として金に変える親さえいた。



何年この世界で暮らそうが、それら全てを当たり前とは思えない自分がいる。

魔王討伐の次は、そうしたこの世界の秩序(ルール)そのものを打ち破り、僕なりに改変したいと思っていた。


そして僕は、まずはそれを、自らに与えられた領地から始めるつもりだ。






本日これから、僕は新しい家臣達と共にクレーヴィアへ旅立つ。



願わくばその道の先に、希望の光があらんことを。


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