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第九話

「…お、おかえりなさいませ、白瑛はくえいさま…」

「ああ、茉莉まつり。ただいま。」

今日の分の皇后教育を終わらせ 自室に戻った私の顔を見て、茉莉が表情を曇らせた。

「どうなさったのですか?

お疲れのご様子とお見受けしますが…。」

「……聡いじゃないの。」

無表情がお崩れになっておりますもの、と言いながらも すっとお茶を出してくれる。

そんな いつも通りの気遣いに、疲れきっていた心が ゆっくり解けていくのを感じた。

「何があったか、お伺いしても…?」

「……大したことなんてなかったわ。

朱火しゅか殿に抱きついてしまったこと以外は。」

「…えええ!?」

茉莉の薄茶の瞳が ぐっと見開かれる。

「白瑛さま、そんな積極的な方…でした?」

「……はい?」

絶対零度の瞳で睨めつけると、返って来たのは冗談ですよう という笑えない答え。

「…あれ、でも、白瑛さまって…人に触れられるの お嫌いでした…よね?」

「……そうよ。」

正確には、触れるのも触れられるのも嫌い。

…いや、嫌い という言葉は相応しくないか。

触れ合うことは、私にとって 恐怖そのもの。

過去の忌まわしい記憶を蘇らせるものだ。

例え相手に悪意がなくも、そして 私が そのことに気付いていたとしても、触れられた瞬間 相手を全力で拒絶してしまう。

例外は、目の前にいる 茉莉だけ。

あの記憶が植え付けられる前からずっと 優しい手で 私に触れてくれるから。

彼女の手が私に害を及ぼすことなんてないと 本能的に知っているのだ。

…勿論、本人には教えてあげないけれど。

「朱火さまに抱きつ…いえ、触れてしまわれた時は 大丈夫だったのですか?」

「……そう言われてみれば…。」

突拍子もないことをしてしまった申し訳なさと 恥ずかしさ以外には、何も感じなかった。

感じる暇がなかった、とでも言おうか。

あの時は 馬から逃げることが最優先事項だったから。

「…もしや、朱火さまには触れられるようになられたのですか!?

朱火さま限定で、でございますか!?」

目をやたらときらきらさせ こちらを見つめてくる茉莉。

何を考えているのかわかりやすいことこの上ない。

「いや、違うから。」

期待を裏切るようで悪いと思いつつ ばっさり切り捨てると、案の定 茉莉の顔全体に落胆の色が広がった。

「…そ、そこまで否定なさらなくても…。」

「ただの事実よ。

……それに、そんな特別な人がいてほしいなんて、思わない。」

運命的な出会いなんていらないのだ。

私に求められているのは、幸せな結婚ではないから。

紗奈しゃなのためになるならば、私は誰と結婚することも厭わない。

「左様、ですか…。……では、翠風すいふうさまは?」

「翠風殿?」

「はい。…よく、気まずい顔をなさっている、気がして。」

ぎくり。

「気づいて、いたのね。」

「まあ…何となく、ではありますが…。」

やはり、長年の付き合いは伊達ではないようだ。

無表情なこの私が、重ねて表情に出さないようにしていたことに何となくとはいえ気づいてしまうなんて。

「間違ってないわ、茉莉。その見立てで正解。」

「…正解してこんなに嬉しくないのは人生初です、白瑛さま。」

苦笑した茉莉が、でもどうして と首を傾げる。

「失礼を承知で申し上げますが、翠風さまは 白瑛さまをとても気にかけてくださっているように見受けられます。

あの青い方とではなく、翠風さまと、なのですか?」

あの青い方、って…。碧流へきる殿のこと?

本来ならば窘めなければならないところだが、その敵意むき出しな言い方が面白くて 思わず口端が上がってしまった。

「碧流殿とは、気まずくなる以前に口をきいていないから。

翠風殿は…純粋すぎる、ような。」

「純粋すぎる…ですか?」

「ええ。」

彼の印象は、最初から全く変わっていない。仔犬みたいだ。

丸く大きな目と、尻尾のようにぶんぶん振れる 結わえた長髪。

それと、人慣れしていない私にもわかる 真っ直ぐな優しさ。

―――はっきり言うと、私は、怖いのだ。

あれほど曇りなく、ひたすらに慕われるのが。

これまで一度もそんな感情を向けられたことがないから。

優しさを知れば、きっと縋ってしまう。

縋ってしまえば、もう逃れられなくなってしまう。

そうなった時に裏切られるのが怖い。裏切ってしまうのが怖い。そんな自分の考えを、ぽつぽつと述べていく。

「…白瑛さま、朱火さまや黄和きわさまに対してそうお思いになることはないのですか?」

「ない、ことはない。」

優しさを向けられること自体に慣れていないのだから。

「ただ、こんな風に思ってしまうのは、翠風殿だけ。」

「そうなのですか…。」

どうしてだろうか。

仲良くなりたいと。もっと密な関係を築きたいと。

そう、心から願っているのに。

体が、心が、全く言うことを聞いてくれない。

「白瑛さま?」

「…なに。」

呼び掛けに応じると、ふわりと右手を握られた。

「あまり…ご自分をお責めにならないでください。

確かに、この度のご婚約は紗奈と宋馬そうまの関係をより深めるために設けられたものでございます。

ですが、だからと言って白瑛さまのお気持ちが無視されるようなことがあっても良い、とは私は思いません。」

「…。」

「白瑛さまは、紗奈の公主でいらっしゃると同時に私の主です。

従者として、主の幸せを願うことは許されませんか?」

茉莉が可愛らしい顔に必死の色を浮かべて訴えてくるのを見ていると、不覚にも鼻の奥がツンと痛くなってきた。

「紗奈と宋馬の架け橋としての務めを果たそうと努力なさっているのは、本当に素晴らしいことだと思います。

ですが―――」

「…茉莉。」

空いた左手で茉莉の肩を軽く叩くと、彼女は立ち所に、我に返ったように身を震わせた。

「もっ、申し訳ございません、出過ぎた真似を…」

「違う。」

「……え?」

「ありがとう。」

戸惑っている彼女に、心からの笑顔を向ける。

「私のこと、そこまで考えてくれて。ありがとう。」

「白瑛さま…。」

「でも、頑張らなくてはいけないのは変わらない。

それが、今の私の使命だから。

紗奈のためになりたいと思ったのも、私の意志。

紗奈のためになれるなら、どんな相手と結婚することになろうと私は幸せよ。」

「……はい。」

「でも、茉莉が私のことをこんなに思ってくれているということだけは、忘れないわ。

確かに…少し焦りすぎていたかもしれないし。」

茉莉が髪を払う仕草に紛れるように涙を拭ったのは、見なかったことにした。

気付いたら、私も涙が零れてしまいそうだったから。

「東宮さまたちにも、もう少しゆっくり…私のことをお伝えしていかなければならないのかも、ね。」

「そうですよ、白瑛さま。」

ふっ、と茉莉が悪戯っぽい笑顔を浮かべる。

「素の白瑛さまの可愛さがわからないお方に、白瑛さまを嫁がせるつもりなど毛頭ございません!」

「…言うわね、茉莉。」

「言いますよ!白瑛さま、今とても緊張なさっているでしょう?

あれ、いつもの白瑛さまの10分の1も可愛くないですから!!!」

「…………失礼な。」

私なりに苦労しているのに、その言い方は酷い。

「東宮さま方が誰も私の目にかなわなければ、その時は手に手を取って愛の逃避行でもいたしましょうか…。」

「………………え?」

この子、一体何を言っているの?

「白瑛さまのためなら、例え火の中水の中。

茉莉はどこまでも共に歩んでいきます!」

「嫌。」

「じょ、冗談ですよ…。」

嘘だ。目が結構本気だったもの。

「…まあいいわ。茉莉、おいで。」

本能的な恐怖を感じたので、更に話を掘り下げるのはやめ、彼女を近くに呼び寄せた。

「甘いもの好きだったでしょう。あげるわ。」

「…あ、飾り飴!これ、どこで…?」

「茉莉、あなたが後宮の厨房からくすねてきたのよ…。」

飾り飴は紗奈の後宮の住人がよく食べる菓子で、飴を吉祥模様や動物の形に固めたものだ。

『宋馬までの旅路で、もし食料が足りなくなってしまったらどうしましょう…。

…疲れた時には、甘味、ですね…。

わかりました、どうにかくすねてきます!』

そう言って、わざわざ御膳房に忍び込んで私の分だけを手に入れてきてくれたのだ。

幸い、道中で食料が不足することはなかったため、私の手元には飾り飴が丸々残っている。

「このまま私が持っていても、食べきれないから。」

言葉を重ね 少々強引に袋を握らせると、ようやく茉莉は袋を受け取ってくれた。

「…ありがとうございます。大切にいただきますね。」

と言いながらも 茉莉は早速袋を開け、1つ口に放り込む。

「あ、白瑛さまもいかがですか?」

普段ならば断るけれど、今日は何故か茉莉と同じものが食べたいと思った。

「……あまい。」

口に含むと、脳が痺れるほどの甘みに襲われる。

「白瑛さま、甘味あまり召し上がりませんもの」

そう言っておかしそうに笑う茉莉。

私を大切にしてくれる彼女を、私は同じように大切にしたい。

茉莉をこれ以上泣かせないためにも明日から新たな気持ちで頑張らなくては。

そう強く感じた、よく晴れた昼下がりだった。

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