第八話
朝食から半刻後。
私は自室で 皇后教育の講師が現れるのを 緊張気味に待っていた。
記念すべき初回の授業は、宋馬古語。
教えてくれるのは 確か――
「姫、遅れてごめんっ!!」
翠風殿、だ。
「いえ、それほど待ってはおりません。
急がせてしまい 申し訳ありませんでした。」
正式な礼を取って出迎えようとしたが、軽く手を振って制されてしまう。
「僕が担当するの 礼法の時間じゃないし、毎回そんな大袈裟なことしなくていいよ。
さ、時間も惜しいし 早く始めよう?」
「…は、はあ……。」
その発言に戸惑いながらも 言われるがままに翠風殿と向き合って 机についた。
「じゃあ、早速 始めるね。
今日は導入しかしないから 緊張しないで」
人懐こく微笑んだ彼が つと指を立てる。
「今 僕たちが話してるのって 何語?」
「…大陸共通語、です。」
「そう、正解。」
約200年前 大陸を治めていた3つの大国の君主が協力し 定めたといわれる大陸共通語。
大陸の全ての国で公用語として定められ、経済や交易の爆発的成長を後押しした。
母音と子音を表す記号が1つずつ組み合わさって文字を形成しており、習得が比較的簡単なことで よく知られている。
「その通りだよ。よく知ってるね、姫。」
これくらいなら子供でも知っているような一般常識なのだが、翠風殿の言葉からは純粋な賞賛の色しか伺えず 妙な照れ臭さを感じた。
「宋馬古語っていうのは、大陸共通語が作られる以前に 宋馬で使われていた言葉でね。
真名と仮名の2つから成るんだよ。」
「まな と かな……?」
不思議な響きの言葉に首を傾げていると
「こっちが真名で、こっちが仮名。」
翠風殿が どこからともなく折り畳まれた紙片を取り出し、私に指し示してくれる。
真名は 線が多く 角張った印象を受ける文字。
逆に 仮名は 線が少なく 柔らかく見えた。
「…どのような使い分けをするのですか?」
「ん、いい質問。」
私がぽろりと漏らした疑問を拾って 翠風殿が悪戯っぽく目を細めてみせる。
「宋馬古語はね、大陸の言語の中で最も難しい言語だと言われているんだよ。」
…………え、嘘。
「理由はね、同じ文字の並びで いくつか 違う言葉を表すことができるから なんだけど。」
…何でそんな紛らわしいことしたんだろう。
「書く時は どの真名を使うか、話す時には どんな抑揚をつけるか で意味を識別するんだ。
あと、助詞は仮名で表記する…かな。」
情報量が多すぎる上に、理解が難しすぎる。
必死に頭を働かせていると、私の顔を見た翠風殿がぷっと吹き出した。
「姫、明らかに目が泳いでるよ…?」
「………!!」
理解出来ていないと知られてしまったこともそんな顔を見られてしまったことも恥ずかしくて、彼の視線から逃れるように下を向く。
と、翠風殿が 慌てた顔で 机に上体を伏せるようにして 私の顔を覗き込んできた。
「ごめん、姫…!
いきなり難しい話したら、駄目だ…よね…。
困らせようと思った訳じゃないんだ…。
核心衝いた質問が来たのが 嬉しくて つい…」
冬特有の 眩しい陽の光に照らされた翠風殿の瞳が 真っ直ぐに私を見据える。
「……別に、怒っている訳では。」
その瞳に晒されることが耐え難くて、私は更に俯いて 自分の顔を隠すことにした。
「……ほんと?」
「はい。」
ああ、この声。
彼はきっと 昨日と同じ顔をしているのだろう
棄てられた仔犬のような、寂しそうな顔を。
「…もうすぐ、時間だね。」
乾いた声で、翠風殿が告げる。
「宿題は特にないけど、次回までに やる気と元気を用意してきてくれると嬉しいな。」
冗談めかしたその台詞に、胸がきりきりと痛むほどの申し訳なさを感じた。
「……。」
口を開いてみたものの、対人経験が浅いせいで 相応しい言葉なんて1つも出てこない。
「……次回も、よろしくお願いします。」
結局、彼と同じような乾いた声で 挨拶をして初回の宋馬古語の授業を終わらせたのだった
「……白瑛?はーくえーい?」
目の前でひらひらと手を動かされ 我に返る。
顔を上げると、次の授業の講師であるところの朱火殿が 心配そうな色を浮かべた顔でこちらを見下ろしていた。
「……朱火、殿。申し訳ありません。」
先程あったことを引きずって 次の授業に穴を開ける訳にはいかない。
そう思って精一杯の笑顔を浮かべてみせたが朱火殿の表情は変わらないままだった。
「何か、あったのか?」
「…いえ?」
あからさまに誤魔化そうとしている私を見て彼は困った と言うように微笑む。
次いで、何かを閃いた顔をして手を打った。
「白瑛。俺の担当授業、何か覚えてるか?」
「……馬術、だったと記憶しておりますが」
「よし、行こう。ついて来てくれ。」
…何が『よし』なの? どこに行くの?
脳内が疑問で上書きされていくが 尋ねることもできず、首を傾げながら彼を追い掛ける。
そのまま歩き続けること、しばらく。
「着いたぞ。」
私たちが辿り着いたのは、厩だった。
「……え、っと…?」
朱火殿の行動の意図するところが汲み取れなくて 立ち止まってしまうと、彼が はっとした顔でこちらを振り返る。
「…もしかして、馬、苦手だったか?」
「い、いえ……あの……苦手と言えるほど 接したことがありません…し…。」
「そうなのか…。まあ でも、大丈夫だ。
あいつら可愛いし、きっと好きに…って 白瑛 どこに行こうとしてるんだ?」
……朱火殿が話している間に 厩から遠ざかっていこう作戦、あえなく失敗。
開き直った私は、取り敢えず 手近な柱を掴んでから 朱火殿と向き合った。
「……あの、朱火殿。」
「ん?」
「皇后教育を 放棄するつもりは ありません」
私が何を言いたいのか想像がつかない という顔をしながらも、耳を傾けてくれる朱火殿。
「ただ、あの……。」
「何かあるのか?」
その優しい声に申し訳なさを感じ、心が怯む
しかし、私は 言わなければならない。
「……馬が………怖い……です…。」
なぜなら、命の危機を感じるからだ。
「へ?」
「…馬が、怖いんです…。」
3拍の沈黙の後 朱火殿が ぶはっと吹き出した
「わ、笑わないでください……!」
「ごめ、ごめん……な…っははっ!」
涙を拭いながら爆笑する彼が落ち着くまで、どれくらい時間がかかっただろうか。
「…もうよろしいのですか、朱火殿。」
「すまん、白瑛。そんな顔しないでくれ。」
そろそろ頃合か と冷めた目で見上げると、未だに笑みが浮かんでいる顔で謝られた。
「…そんな謝罪頂いても 嬉しくありません」
「本当に悪かった、って。ほら。」
急に真面目になった顔から 手が差し出される
「人肌に触れたくないなら 袖を掴めばいい。
縋るものがあった方が 少しはましだろう。」
「………良いの、ですか?」
荒療治と称して厩に放り込まれるか、馬術は諦めろと言われるか、2つに1つだと思っていた私は 目を瞬かせた。
「白瑛が 馬が怖いのを我慢してまでも、皇后教育を頑張りたいって言ってくれてるんだ。
俺は その気持ちを尊重したいと思うよ。」
「………あ、ありがとう、ござい、ます…」
慣れない優しい言葉に どう反応すれば良いのかがわからない。
「ん。じゃ、行くぞ?」
顔に上った熱をどうしようも出来ないまま、私は朱火殿の後ろに隠れるように 厩に入った
「………。」
途端、そこかしこから 生き物の気配がする。
先程の動揺など すっかり頭から吹き飛び、朱火殿の袖を握るのも忘れて 硬直してしまった
「白瑛?大丈夫か?」
「…朱火殿 こちら側を向かないでくださいませ向かい側の馬と目が合ってしまいます。」
そう一息に言うと、朱火殿が くくっ と喉を鳴らしながらも前を向いてくれる。
「悪かった 悪かった。
…さて、どうやったら慣れられる?」
「どうやったら……。」
さっき目が合った時ですら 怖かったのに?
どうすればいいのか、私にはわからない。
「…申し訳、あり……っきゃああ!?」
一旦 厩を退出させてもらおうと口を開いたところで、髪が後ろに かっくん と引っ張られた
「白瑛!?」
朱火殿が、驚いた顔で振り返る。
私も咄嗟に振り返った結果――
「「………。」」
至近距離で、一対の瞳と、目が合った。
「――っ!!??」
声にならない悲鳴をあげた私は、それから距離を取るために 目の前の『物』にしがみつく
「おい、はくえ――」
朱火殿が向こうで何か言っている気もするが今はそれどころではないのだ。
いやいや と頭を振りながらますます強く抱きつくと 困ったような溜息の後に
「こら、黒夜。下がれ。」
そう命じる声が聞こえてきた。
「わかった、わかったから。
取り敢えず 今は勘弁してやってくれ。」
朱火殿、誰と話しているんだろう。
頭の片隅で ぼんやりと考えていると
「あーそのー、白瑛? そろそろ、いいか?」
そう、声をかけられた。
「……このままでは 私、宋馬に嫁ぐ前に 馬から食べられてしまいます。」
「食われないって。馬、草食だからな。
…というか、頼むから 離れてくれ、白瑛…。
俺にもこう、限界というのが…あるんだが」
らしくない まどろっこしい話し方を疑問に感じて、恐る恐る顔を上げる。
近くに、あの 真っ黒で大きな目はない。
それにほっとしたのも束の間。
「…………!?」
自分が抱きついているのが 両手を肩の高さまで上げた朱火殿だということに気付き、私は再度悲鳴を上げるはめになったのだった。