第七話
室に入ると、朝食の準備は既に整っていた。
どうやら 私で最後らしい。
お待たせして申し訳ありません と頭を下げながら、明日は もっと早くに起こしてもらおうと心に決める。
「おはよう、白瑛。
そんなに待ってないから 気にすんなよ。」
「…はい。おはようございます。」
精悍な顔に笑みを刷いて迎えてくれた朱火殿に挨拶を返せば、自然と 隣で仏頂面をしている男の姿も目に入った。
「…おはようございます、碧流殿。」
「………。」
瑠璃色の瞳は僅かに動いたが、それだけ。
返事も何も返ってこない。
………無視? どう考えても 無視だよね?
かなりむっとしたものの 怒って朝の爽やかな空気を壊す訳にも これ以上の失態をお見せする訳にもいかないので 努力して口を噤んだ。
「…………さ、食べましょうか。」
聞こえよがしに溜息を吐いた黄和殿が 困ったような笑顔で音頭をとる。
めいめい食前の挨拶をしてから 箸をつけた。
「白瑛、昨夜はよく眠れたか?」
「っ……、はい。」
途端に 朱火殿からどきっとする質問をされて思わず咳き込みそうになる。
「そうか。それは良かった。」
何とか堪えたところで 優しい色に満ちた朱の瞳と目が合い、胸がざわめいた。
こんな目、今まで向けられたことない。
本気で私を案じ、慈しむような瞳。
父も母も いつだって私の兄妹を見ていた。
誰かの目に 私が映ることなんてなかった。
…こんな幸せ、私が手にしていいの?
道具として嫁がされた、この国で。
「……白瑛?」
私の動きが止まってしまったことに驚いたのか、朱火殿がひらひらと掌を動かす。
「…申し訳ありません。考え事を。」
我に返った私は、脳内をよぎる甘ったれた考えを振り払い 箸を手にした。
「ねーねー、姫。」
すると今度は、左側から名を呼ばれる。
「はい。」
顔を向けると 翠風殿が邪気のない笑顔を振り撒きながらこっちを見ていた。
「突然ですが、今日から姫には 宋馬の皇后教育を受けてもらいまーす!」
「………はい。」
「え………びっくりしないの?」
私より 余程驚いたような顔をする翠風殿。
驚いてはいるけれど、立后されるまでにやらなければならないことだとわかっていたので そんなに大きな衝撃ではない。
そもそも、驚きが顔に出る質ではないし。
そう言おうと思って口を開きかけると――
「こーら。」
柔らかな笑みを浮かべた黄和殿が、翠風殿の頭に拳骨を叩き込んだ。
「……ぃ………ったぁ……!!」
今、確かに星が飛んだような…。
温和な表情に似合わぬ暴挙に、何が起こったか理解できなかった私は 目を瞬かせる。
「何すんの、黄和!!」
「『何すんの』じゃないでしょう まったく。
先程の約束を お忘れになったとでも?」
円卓に座っているせいで 黄和殿の笑顔を真正面から受け止める羽目になった私は、その凄みと迫力に思わず肩を竦めた。
何でだろう。敬語を話してるはずなのに。
脅されているのでは と思えるぐらい怖い。
「…忘れてない、けどさ。」
後頭部を押さえた翠風殿も、少々気圧された様子でで 口をむにゅむにゅと動かしている。
「朱火と黄和だけ 姫と話して、ずるい…。」
消え入りそうな声で呟かれた一言に、朱火殿が箸を取り落とし 黄和殿は目を丸くした。
当の私は、訳がわからずに内心首を捻る。
「……おい、翠風…。
お前そんな恥ずかしいこと よく言えるな…」
「わっ、わかってるなら言わないでよ!!」
朱火殿が心底感動したように放った一言で、
翠風殿は耳まで真っ赤に染まってしまった。
彼は 肌の色が透き通るように白いから その様子が手に取るようにわかってしまう。
それが面白くて 思わず笑みが零れた。
「…まあ、とりあえず。」
どこかほのぼのとした空気になったところを笑顔の黄和殿がさっくりと引き締めていく。
「翠風。」
「…ハイ……。」
「いくら羨ましいからといって、妬かない・拗ねない・先走らない。いいですね?」
妬く…。…一体、何に対して?
またしても 心中で首を傾げる私だった。
「…では、細かいことはまた後ほど。」
かっくりと肩を落としつつも頷いた翠風殿を見て、黄和殿が満足そうな顔をする。
…どうやら、誰も彼には逆らえないらしい。
私の野生的勘も 朧げに察知していたことだったが、決して忘れないよう 心に刻み込んだ。
「ごちそうさま。」
と、私の左前の人影が立ち上がる。
「碧流。」
それを咎めるような朱火殿の声に、彼は不機嫌さを隠そうともせずに応えた。
「何だよ。終わったからいいじゃねーか。」
「…そういう問題じゃないだろ。
皇后教育のことについて、決めたよな?」
これまで笑顔しか見たことがなかったから 気付かなかったけど、さすがは武官。
朱火殿は 表情が消えたとたんに 見るもの全てを威圧する 厳しい目付きになった。
「協力すればいいんだろ? 安心しろって。
手抜きなしで みっちり教えてやるからよ。」
相対する碧流殿は、朱火殿の圧なんて気にもとめていないような表情で立っている。
親切そうな言葉の端々から滲む馬鹿にしたような声音も 少し顎の上がった尊大な表情も。
貴族然とした彼の美貌によく似合っていた。
もっとも 彼が馬鹿にしている当人は私なので腹立たしいこと この上ないのだが。
「お前が言いたいことなんてそれぐらいだろ
じゃ、俺は行くからな。」
「おい、へき――」
朱火殿の言葉を遮るように 扉が閉まる。
後には 何とも言い難い沈黙だけが残された。
「……悪い。少し むきになりすぎた。」
いつもより低い声で 朱火殿が言葉を発する。
「白瑛も 気にせずに食べてくれ。」
彼に 何と言葉をかけるべきなのか。
そもそも 言葉をかけるべきなのか否か。
対人経験が少なすぎて 答えが出せなかった私は、取り敢えず 黙って頷く道を選んだ。
「朱火、気持ちはわかりますが…。」
少したち ほとぼりが覚めた頃合いで 黄和殿がやんわり窘めると、朱火殿も苦笑で応じる。
「悪かった。周りのこと考えられなくて。」
その様子をぼんやりと見ているうちに 1つの疑問が浮かび上がってきた。
この4人、もしかして、不仲なの…?
朱火殿と翠風殿は、昨日からの様子を思い返す限り 仲が良さそうな感じがする。
でも、他の組み合わせで話しているのを見ると上手くいっていない感じが拭えないのだ。
朱火殿と碧流殿は すぐ言い争いに発展するし
翠風殿と黄和殿は どこか遠慮しあっているし
並列で東宮になっているということは、この4人って 少なくとも親戚関係にあるのよね…?
少しぐらい交流があってもいいと思うけど。
…いや、親戚同士で皇帝の座を争っているのだから 仲が良い方が不自然かもしれない。
でも、この4人って 私と同じような歳なのに かなりの高官に任じられているのよね。
皇帝に選ばれなかったとしても 国政の中心を担う存在になることは 火を見るより明らか。
だとすれば、もう少し関係性が良い方が…。
悶々と考え込みつつ 食事を終えると、黄和殿がそっと声をかけてくる。
「…お口に合いましたでしょうか?」
「はい。」
迷いのない返答を聞いた彼は一瞬にこりとしそれから 改まった顔で咳払いをした。
「では、食事後 急ですが 皇后教育の件についてお話しさせていただきたいと思います。」
「はい。」
くるだろうな と思っていたので 迷いなく頷くと、今度は朱火殿が口を開く。
「わかっていると思うが、白瑛にはこれから宋馬式の行動をしてもらわなければならない
いずれ国母となるような人が 他国の振る舞いをしていては 民が不満を持つからな。」
「と言っても、立ち居振る舞いを一から変えていくのって とっても難しいんだよね…。」
続いて口を開いたのは翠風殿。
「もちろん、自力でやれなんて言わないよ。
必要なことは 全部僕たちが教える。
だからね、安心して 姫。一緒に頑張ろ?」
その大きな瞳が 私を捉えてにっこり笑んだ。
…こんな邪気のない笑顔を向けられて、断れる人なんているのだろうか。
そんなことを考えながら頷くと 翠風殿は顔をぱあっと輝かせて、また嬉しそうに笑う。
昨日 私にあんなことされたのに、ここまで含みなく笑いかけられるって…。
感嘆半分 呆れ半分で見詰めていると、それに気付いた翠風殿が 驚いた顔をして 首を傾げた
「姫 どうしたの? わかんないことあった?」
「…いえ、何でもありません。」
素敵な笑顔だなって思ってました、なんて口が裂けても言えるはずがない。
「??」
頭上に疑問符を浮かべる彼には悪いが 気恥しいので とっとと目を逸らさせてもらう。
「…習得してもらうのは、礼儀作法・馬術・宋馬史・宋馬古語の4つです。」
そんな私たちの様子を見た黄和殿が 肩を震わせながら 情報を補足してくれた。
「…馬術、ですか。」
その中に 皇后には似つかわしくないような言葉があった気がして聞き返したのだが…
「ああ、馬術 やるぞ。」
どうやら間違っていなかったようだ。
「宋馬は元々 騎馬民族の国だからな。
今でも馬を移動手段として使うことが多いし 宮中の祭祀にも遠駆けがあったはずだ。」
「……そうなのですね。」
紗奈で馬に乗れるのは武官だけだったはず。
なるほど、これが文化の違いというものか。
…って、ちょっと待って。
馬って…あの、大きくて顔が長い動物…?
あんな大きい動物、私が乗りこなせるの?
見たことすら ほとんどないのに。
さあっと血の気が引くような感覚がした。
…怖い。できるかどうかわならない。
できることなら、やりたくもない。
……でも。それでも。我儘なんて言えない。
宋馬の皇后になるために 必要なことだから。
そうでしょう?
…だったら、答えは、1つしかない。
「至らぬ所はあると思いますが 精進致しますので 何卒よろしくお願いします。」
そう答えながら 自分が道具でしかないことに 改めて気付かされた気がして 唇を強く噛む。
それがばれないように深く頭を下げても 胸の疼くような痛みは 中々取れなかったのだった