第伍話
人も、動物も、草木でさえも。
まるで、万物が寝入ってしまったよう。
「…。」
そんな真夜中に、私は1人で廻廊を歩いていた
理由は、至って単純だ。
周囲の環境がいきなり変わったせいで、寝付けなくなってしまったのである。
一度は寝台の上に寝転んで眠気の来訪を待ってみたものの、翠風殿の手を拒絶してしまったという事実が脳裏をよぎり、かえって目が冴えてしまった。
風に吹かれて頭でも冷やさないと、思考回路が爆発してしまいそうだ。
「…はぁ。」
あれはもう、不審に思われたに違いない。
もしかしたら、嫌われたかもしれない。
どうにかして好かれるように努めなければ。
…あれ。好かれるって、何?
どうしたら、好いてもらえるの?
そう必死に考える一方で、堂々巡りを繰り広げる自分の思考をまるで他人のもののように感じてもいた。
東宮の気持ちにここまで固執しなければならないなんて、何と滑稽なことだろう。
自分のしていること全てが馬鹿馬鹿しかった
――キィ…
鬱々とした気持ちを抱えたまま中庭への扉を押し開くと、ぴんと張り詰めた冷たい空気が私の髪を小さく揺らした。
白い息を吐きながらしばらく歩を進め、昼間にも来た四阿に腰を下ろす。
頭が次第に冷やされていくのを感じながら、私はしばし放心していた。
「…。」
―それから、どれほど時間がたったのだろう
気が付くと、気持ちは大分落ち着いていた。
しかし、その代償と言うべきか、外套を着込んできた体までもが冷え切っている。
早く帰らねば、と手燭を持ち上げたその時。
「そこにいらっしゃるのは、どなたかな?」
突然、後ろから 若い男の声に誰何された。
「…っっ!?」
驚きすぎて、喉がひゅっと鳴る。
こんな時分に外をうろついているなんて…。
怪しいことこの上ない男だ。
もしかして、賊、なのだろうか。
「…。」
嫌だ。怖い。早くここから逃げ出したい。
そう思うのに、足が全く動かない。
そして、その間にも ひたひたという足音が徐々に近付いてきていて。
「…ぃ、や…っ!!」
私は、自分の肩を抱き締めてしゃがみ込んだ
そのまま 両膝の間に顔を伏せ、全身で相手を拒絶する意を表す。
―しかし、いつまでたっても 恐れていたような事態は起こらなかった。
「…もしかして、白瑛姫、では…?」
…それどころか、相手は知っている人…?
恐る恐る面を上げると――
「…やはり、そうでしたね。」
目の前で、手燭の赤い光に照らされた 端整な容貌の男が微笑んでいた。
「きっ、黄和、殿…!?」
思わず口から漏れたのは、頓狂な声。
しかし、黄和殿は気にする素振りも見せずにこちらへ手を差し伸べる。
「お立ちください、姫。
そんな所に座っていては体が冷えますし、衣も汚れてしまいますから。」
「…は、い。」
慌てて立ち上がろうとしたものの 先程の恐怖のせいで膝が震え また座り込んでしまった。
なぜ自分に掴まらないのか、と訝しむような顔をした黄和殿が はっと目を見開く。
「…事の仔細は 翠風から伺っております。
浅はかな真似を、お許しください。」
「いえ、そんな…。」
どう考えても、悪いのは私なのに。
行き場のない感情が 胸の中で燻った。
このいたたまれない空気から逃げたいのに、体が全く言うことを聞かない。
そのまま 何も出来ずに座り込んでいると
「…これなら いかがですか?」
黄和殿が適当な大きさの木の枝を示してきた
杖として使えばどうか、ということだろう。
ありがたく頂戴し、何とか立ち上がった。
「…ありがとう、ございます。」
相変わらず膝は笑っているが、棒にすがれば歩けないわけではない。
少しずつ 転ばないように歩みを進めていく。
ふと左を見れば、付かず離れずの位置を黄和殿がのんびりした足取りで歩いていた。
「…自力で室まで帰れます。ご心配なく。」
私の可愛げのない言葉も、笑顔で流される。
「私の室は白瑛姫の室の近くにあるのですよ
せっかくですし、しばしお供ください。」
「…。」
そう言われてしまっては、無下に断れない。
しばらく無言で歩き続けていくうちに 脚の震えが治まり、棒が必要なくなった。
「…黄和殿。やはり、こちらで結構です」
彼の先程の発言が嘘だということぐらい。
夜着に外套を羽織っただけの彼を 早く室に帰さなければならないということぐらい。
それぐらい 私にもわかっている。
だからこそ、早く帰ってほしかった。
物わかりが悪いと思われるのも嫌だし。
「そういうわけにはいきませんよ、白瑛姫。
こんな時刻に女性を一人で帰してしまっては男の名が廃りますからね。」
…何だろう、この気障ったらしい言葉は。
整った顔立ちのせいか その台詞がしっくり来てしまうのが また腹立たしい。
「……っくしゅ!」
どう断ったらよいものか と考えあぐねていると 唐突にくしゃみが出た。
それも、立て続けに2回。
「も、申し訳ありません…!」
咄嗟のことで顔を背けきれなかった私は、慌てて黄和殿に頭を下げる。
「いえいえ、大丈夫ですよ。」
その声は 本当に怒っているようには聞こえなくて、私は密かに安堵の溜息をついた。
「…時に お伺いしたいことがあるのですが」
「はい。」
唐突なその台詞に、私は一抹の不安を覚える
「姫、どれほど外にいらっしゃいました?」
「…はっきりとは。
それほど長くはなかったように思います。」
「…ふむ。」
顎に手を当てる何気ない仕草も、端正な顔立ちのせいか まるで一幅の絵のように美しい。
思わず見惚れていると、黄和殿がこちらを向いて 鮮やかに微笑んだ。
「では 白瑛姫、こちらへ。」
彼が恭しく指し示す先は――
「…私の室ではありませんが。」
「ええ、存じておりますよ。
ここは、私が 先程までいた室ですから。」
……え? どうして私、ここに案内されたの?
「まあ、そんな顔なさらずに。」
柔らかかつ洗練かれた動作で押し開かれた扉に、訝しみながらも視線を向けると
「暖か…い。」
向こう側からゆるりと流れて来た空気が、私の頬を撫でるように通り過ぎた。
その暖かさに、脚が勝手に動き出す。
部屋の片隅に置かれていた火鉢に手をかざせば、強ばっていた手が解けていくようだった
「今 室にお戻りになっても、どうせそのままお眠りになられるだけでしょう?
風邪を引いてしまっては大変ですよ。
風邪は万病の元、と申しますしね。」
温かい言葉と重なって、茶器の音が聞こえる
はっと振り返れば 湯呑みを手にした黄和殿が柔らかく微笑んで立っていた。
「どうぞ、白瑛姫。」
「あ…ありがとう、ございます…。」
冬の夜という物寂しい環境のせいか。
はたまた 暖かくて心まで緩んでしまったのか
口からこぼれ落ちた言葉は、いつもの何倍も素直なものだった。
「いいえ、お気になさらず。」
少しの温度も逃さないように 両手で湯呑みをくるみ込み 少量ずつお茶を啜っていく。
柄にもなくほのぼのとした気分になったのでそれを楽しもうと 私は目を閉じた。
しばらくそのままの状態で座っていると
「……。」
何やら肩のあたりに視線を感じる。
ちろりと目を開けると、形容しがたい表情を浮かべた黄和殿がこちらを見ていた。
にへら と笑み崩れそうな顔を必死に引き締めているようなのだが、引き締めすぎて ちょっと、いや結構怖い顔になっている。
「……何か。」
無礼な作法でもあったのかと見つめ返すと、今度こそ 本当に笑み崩れた顔が返ってきた。
…気味が悪い。と言うか、ぶっちゃけ怖い。
そう思うものの、一応婚約者(候補)である相手にそんなこと言える訳がなく。
「……………お茶、美味しい、デス、ネ。」
私は、ぎこちなく会話を続ける道を選んだ。
「わかってくださいますか?
わざわざ城下から取り寄せているんですよ。お褒めいただけき、光栄ですね。」
にへら。
「…な、なるほど。」
「はい。…おや、もう湯呑みが空ですね。
もう一杯いかがです、白瑛姫?」
「……で、では…。」
にへら にへら。
「……。」
どんな言葉を発しても、どんな会話の内容でも、最終的ににへらにへらされてしまう。
もう一度言う。怖い。何だろう、この人。
にへにへしないと爆発でもするのだろうか。
…まあ 言動に裏の裏を感じないから、その点 黄和殿といるのは それなりに心地良…
「はい どうぞ、白瑛姫。」
にへら。
前言撤回。やっぱりめちゃくちゃ怖い。
初日からこんな感じで大丈夫なのだろうか。
残りの東宮の本性が みんなこんな感じだったら、相手できる気がしない。
そんなこんな考えながら、怯えた私と不気味な笑顔の東宮が顔をつきあわせる不思議な夜は更けていったのだった。