第壱話
「っ、…」
細い木の枝が、容赦なく私の手を引っ掻く。
「白瑛さま、大事ありませんか!?」
手の甲にうっすらと滲んだ赤には気付かないふりをし、私は侍女の茉莉の方を向いた。
「大丈夫。心配いらない。」
「ならば、良いのですが…。
紗奈からは歩き通しでございましょう。
そろそろ休まれてはいかがですか?」
「心配ないと言っているでしょ。」
尚も言い募ろうとする彼女にきっぱりと背を向け、私は再び歩き出した。
ここは、我が国 紗奈と隣国 宋馬の国境沿いに鎮座している広大な森の中。
宋馬に向かう道中で見事に道に迷ってしまい森の中をさまよっているところだ。
「…それにしても、白瑛さま。
行けども行けども獣道しかありませんね。」
「そうね。」
言われなくても知っている。
歩きづらいことこの上ないのだから。
「宋馬の使者の方が私達を探してくださっていたり…しませんでしょうか?」
「私達が迷っていることを知らないんだからあり得ない。」
「…ですよね。」
落ち込んだのか、お喋りな茉莉が黙りこむ。
それを気にせず歩き続けること、四半時。
「あ。」
鬱蒼と生い茂る木々の向こうに、平坦な道がちらりと見えた。
「白瑛さま。あちら、公道では…?」
一拍遅れて、茉莉も声を上げる。
「多分、そう。」
「良うございました!」
心底嬉しそうに微笑む茉莉の姿を見て、思わず私も笑んでしまった。
「もう少し進んでから、あっちに移ろう。
ここからだと危ない。」
私達の進む獣道は、公道よりも少し高い位置に存在している。
できるだけ安全な場所から移らなければ、崖を転がり落る羽目になるかもしれない。
「そうでございますね!」
あっという間に元気を取り戻した現金な茉莉を見ていると、少し心が和んだ。
そんなところが、彼女の長所でもあるのだ。
決して、面と向かっては言わないが。
「…さあ、行こうか。」
そう言って、前に向き直った瞬間。
「!?」
目前に、音もなく1人の男が佇んでいた。
燃えるような緋の短髪をした、男が。
驚きに目を見開いていると、深い朱色をした切れ長の瞳と私の視線とがかち合う。
「「……。」」
静寂だけがその場を支配した。
途端、冷たく重たいものが私にのし掛かる。
指1本動かすことも、瞬き1つすることさえも許されないその重さは。
男があからさまに放つ、殺気だった。
「…白瑛さまっ!!」
茉莉からぐっと手を引かれ、走らされる。
私は、そこでようやく自分が男から逃げられていなかったことに気付いた。
背筋が、すうっと冷たくなっていく。
「何なんですかっ、今のっ、男はっ!!」
「知らない。」
こんな森の中で出会うなんて、9割9分9厘の確率でまともな人ではないだろうけど。
そう続けようとしたが、慣れない全力疾走のせいで息がすっかり上がってしまっている。
手を引かれるまま走るだけで、精一杯だった
「(それに引き換え…!!)」
後ろの男は、表情1つ変わっていない。
逃げ出した子供を遊び半分で追いかけているような、そんな余裕さえ感じられる。
「…ぁっ!」
と、いきなり前を行く茉莉の足が止まった。危ういところで衝突を回避し、彼女の肩越しに向こうの様子を窺う。
「お嬢さん達、どちらへ?」
そこにいたのもやはり、異形の男だった。
若草色の長い癖っ毛に、深緑の瞳。
どこかあどけなさの残る子犬のような風貌ながら、その大きな目は少しも笑っていない。
「いたのか、翠風。」
「っ!?」
そうこうしている間に、後ろから来ていた赤い男に追い付かれてしまった。
やはりと言うべきか、この2人は仲間のようだ
「…ねえ朱火。このお嬢さん達何者?」
「さあな。」
じりじりと、2人が間隔を狭めてくる。
「ど、どうしましょう…!?」
「しっ。」
いくらしっかりしているとは言え、茉莉はまだ15を迎えたばかり。
この状況は、あまりにも酷すぎる。
「茉莉、あなたは黙ってなさい。」
既に半泣きになっている彼女を背に庇い、私は被っていた笠に手をかけた。
「…!白瑛さま、なりません!」
「黙ってなさいと言ったでしょ。」
「…何を話している。」
私達の小声の会話に痺れを切らしたのか、朱火と呼ばれた男が私に手を伸ばしてくる。
その手が届く直前に、私は笠を脱ぎ捨てた。
「控えよ、主ら。」
意識して出した厳しい声に、男の手が止まる
「我を誰だと心得ておる。
紗奈が第3公主、白瑛であるぞ。」
露になった髪が、木漏れ日を反射して煌いた
「「!?」」
男達が、揃って驚いた様子を見せる。
なぜなら、私もまた異形の者だからだ。
白金の髪と銀の瞳。
黒や茶の瞳と髪を持つ者が多い紗奈で、私に付いた二つ名は『色なし公主』だった。
「今ならば、主らの狼藉は闇に伏してやる。
さあ、疾く立ち去れ。」
大抵の者は、私の容貌を見ただけで逃げ出す
私がしたのは、この男達もそうであろうと踏んでの一か八かの賭けだった。
もし失敗すれば、命はない。
「…。」
真後ろで、茉莉が唾を飲み込む音が聞こえる緊張感が極限に達した、その時。
「…とんだ失礼をいたしました。」
ざっ、と2人が同時に膝を付いた。
「私は宋馬禁軍の将軍、朱火と申します。」
「宋馬筆頭術者、翠風にございます。」
「…は?」
普通、こんなところにそんな高官いる?
かなり疑わしく思いながら、私は彼らが掲げる佩玉に目を向ける。
それに施された細工は、宋馬独特の様式。
佩玉が示している身分も、彼らが先ほど口にしたものと違わなかった。
どうやら嘘は吐いていないようだと判断し、彼らの言葉に耳を傾けてやることにする。
「我らは、今上帝の勅命により公主様を迎えに上がった者でございます。その、髪と瞳。
真の白瑛殿下とお見受けいたしました。」
「数々のご無礼、お許しくださいませ。」
「…え?」
事態の展開と態度の豹変があまりにも急で、頭が着いていかない。
「あの、どういうことでしょうか。」
思わず普段の言葉遣いで問い直してしまった
「どういうこと、と言われましても…。」
私に釣られたように言葉遣いが崩れた朱火という男が、人好きのする笑みを浮かべる。
「我らは、公主様をお捜ししていたのですよ
ご到着があまりにも遅かったので。」
「…申し訳ありません。」
色々事情はあったのだが、言う必要もない。
「白瑛さま!」
呼び掛けられて振り向けば、茉莉が輝くような笑みを浮かべている。
「これで、宋馬まですぐでございますね!」
…全く、現金な少女だ。
「…つかぬことを伺いますが、姫。」
茉莉に呆れていると、右から声をかけられた
「まだ信じておられないのでしょう?
我々が、今上帝直々の使者だということを」
「…何、を。」
翠風とやらに図星を付かれ二の句が告げない
そんな私の様子を見て、彼は微苦笑した。
「侍女殿。包みの中に書簡がありませんか?
できれば見せていただきたいのですが。」
「あ、はい!ただいま!」
茉莉があたふたと背中の行李を開け、中からそれらしきものを取り出す。
「朱火も、あれちょうだい。」
「ああ。」
朱火殿も、懐から書簡を引っ張り出した。
2通の書簡を開き、合わせると。
「…!」
「これで、信じていただけますか?」
双方の書簡を跨ぐようにに押されていたのは巨大な鳳凰の姿が描かれた印。
それは、父帝だけが使用を許された物だった
これを、見間違えるはずもない。
「…我が父の印に、相違ありません。
疑ってしまい、申し訳ありませんでした。」
「いえ、構いませんよ。
怪しまれて当然のことをいたしましたから」
翠風殿が、今度は優しく笑んだ。
「我々と共に、いらしていただけますか?」
「…はい。」
宮城を出発する際に、心に決めたことがある
私は、呪われた『色なし公主』だ。
姉上達のように本来の公主としての扱いを受けたことは全くないが、この歳まで育て上げてもらったことには本当に感謝している。
今回の婚約、私は捨て駒だ。
そんなこと、自分で重々承知している。
辛くないと言えば嘘になるが、紗奈の役に立てるなら道具として扱われても良い。
私は、何としてもこの結婚を成功させるのだ
「では、こちらへ。」
改めて決意を固め、私は朱火殿に続いて1歩足を踏み出した。
「…!」
途端、ぐにゃりと地面が歪む。
「白瑛さま!?」
「姫!」
耳に茉莉と翠風殿の焦った声が届く。
それにより、地面が歪んだのではなく自分が倒れ込んだのだと遅ればせながら理解した。
しかし、理解を最後に意識が遠のいてしまい体が思うように動かない。
「…っ」
自分がどのような体勢に陥っているのか。
それを考えることすらも放棄し、私は意識を手離した。