第1話 噴出
一人の少年がいた。
一人の少女がいた。
少年は少女を助けた。別に深い意味があったわけではない。襲撃者から身包みをはがすため、結果として馬車の中にいた少女を助けただけのことだった。しかし、少女は少年の行動に深く感謝した。
少女は言う。
「私は貴方にお礼がしたい」
少年も言う。
「だったら金をくれ」
少女は返す。
「お金は持っていません」
少年も返す。
「だったらその馬車をくれ」
少女は困る。
「この馬車も、その中身も今は借りているだけで私のものではありません。だから勝手にあげることはできません」
少年も困る。
「だったら何をくれる」
少女は答えた。
少年もまた、それに応えた。
その国は大陸の中でも最も北部に位置していた。古くから存在する五大国の内の一つ、正式名称をガイルス聖帝国という。秀でた軍事力に加えて周囲に大国が存在しないこともあり、その国は侵略の危険こそ無かったが、常に周辺の部族や小国から敵意を向けられていた。
聖帝国は後年にも例を見ない歴史上唯一の「皇帝を戴かない帝国」であった。もともと帝政を敷いていたこの国は、国土こそ大きかったがやせ細った土地しか持たず、非常に貧しかった。皇帝一派は貧しさから逃れるために民から搾取を繰り返し、多くの餓死者を出した。そしてその結果、革命が起きた。
革命を起こした中心人物は、聖女と呼ばれる女性であった。聖女は当時には珍しく魔術によって人の傷を癒すことができた。その力を使い、彼女は見事皇帝を打ち滅ぼす。
しかし、その力の代償は聖女自身に降りかかる。
新政府発足からわずか一年、聖女はこの世を去った。力の使用により、彼女の体は回復不可能なまでに疲弊していたのだ。
人々は噂した。聖女亡き今、また以前のように独裁が始まるのではないかと。一部のものが利権をむさぼる世に戻るのではないかと。
そんな時である。聖帝国の小さな村で傷を癒すことができる少女が見つかったのは。
「そしてその女の子は新しく聖女と呼ばれ、この国の象徴となりました。それ以来聖女様は数十年間隔で選ばれ、この国を導いていらっしゃいます、ってかぁ」
騒がしい酒場の中、酒を片手に軽い調子で、若く軽薄そうな男は言った。
「つーかお前どうしたよ。今まで建国秘話なんか微塵も興味なかったくせに、『この国の歴史と聖女について教えてくれ』って。あまりに無表情で迫ってくるから襲われるかと思ったぜ」
あー無表情はいつものことか、と男は上機嫌に続ける。
それに対し対面の男は、見事な仏頂面でつぶやくように答える。
「いろいろあってな」
ここはガイルス聖帝国の首都ブラン。近々建国500年のパレードが行われることもあり、例年より多くの人がにぎわっている。そんな中でも特に酒場の騒がしさは尋常ではない。昼だというのに人がごった返し、店内を若い給仕の女が走り回っている。そんな女の一人をニヤニヤ見つめながら軽薄な男は言った。
「まー俺は酒が飲めるなら何でもいいけどよ。後はあれだな。聖女を継いだ女の子が周りの国を吸収してどんどん国がでっかくなってった。俺達が生まれたころには五大国の一角ってわけだ」
「戦でか」
「いや、まあ戦争も少なからずあったけど、ほとんどうちの国は小国や部族から攻め込まれてるのを応戦してるだけだからな。国が大きくなったのはどこも飢えてたからだ。うちの国の一部になればある程度保護してくれるって聖女様が約束したからな」
まったく聖女様様だぜ、と男は冗談交じりに笑った。
「今の聖女は」
「今の聖女?って言うとジャンヌ様か。まぁ今のところ悪い噂は聞かねえよ。前の代と違って優しそうな方って評判だ。5年前に改名騒ぎがあったくらいだな」
「改名だと」
「おう、つうかそれも知らねぇのか?すげえ騒ぎになったじゃねえか。7年ぶりだがお前昔から周りの言うこと気にしなさすぎだろ。大体お前は……ってそんな話じゃなかったか。分かった、分かったから睨むな!全く表情変わらねえくせに目だけで睨んでんじゃねえ!無茶苦茶怖えんだよ!ええと改名の話だな、改名の話。って言ってもたいしたもんでもねえよ。単純に元はシャンヌ様って名前だったのがジャンヌ様になったってだけの話だ。ただそれだけの話だったけど、今まで聖女の改名なんざ例がなかったからな。教会、軍の上層部、果ては帝国議会まで大混乱だったらしいぜ」
「ふむ」
「まあ聖女様が引かなかったこともあって、改名も認められたんだけどな。結局なんで改名なんて言い出したのかは聖女様以外誰にも分からん」
それこそ神様のお告げかもしんねぇな、男はそう笑うと残った酒を一気に飲み干した。
「ま、大雑把かもしんねえけど、俺の知ってることっつったらこんなもんだな」
「そうか、礼を言う」
「いいってことよ。また酒が飲めるんなら遠慮なく呼んでくれ。できればきれいなねーちゃんも一緒がいいけどな」
「その機会は無いだろうな」
「まぁお前の鉄仮面で引っ掛けられる女がいるとも思えねえけどな……ん?」
男は訝しげに言葉を止めた。見ると酒場の入り口で眼鏡をかけた上品そうな若い女が誰かを探すようにきょろきょろと辺りを見回している。いかにも酒場慣れしていない雰囲気が周りから浮いていた。
「どうした」
「いや、女がな、ってうおっ」
女はこちらを見ると、獲物を見つけたと言わんばかりにこちらへ一直線に向かってきた。そして男が二人で座っている席の前まで来ると、一息にまくし立てた。
「いきなり姿を消さないでください!書置きに『酒場に行ってくる』と書いただけで何が伝わると思っているんですか!どこの酒場か、いつ帰ってくるか、何をしに行ったのかも何も分からないでしょう!というか貴方が酒場に来ること自体許されてはいません!真昼間から酒場に入り浸るなどと評判が立ったらどうするおつもりですか!人を使うなり、場所を変えるなり手段はいくらでもあったはずです!」
目を白黒させている男の前で、無表情の男は冷静に返した。
「酒は飲んでいない、奢りはしたが」
「そういう問題ではありません!」
怒りが収まらないような様子で肩を上下させている女の横で、軽い調子の男は恐る恐る尋ねた。
「ええと、こちらはどちら様なんだ、ジャンク」
「シアラだ、私の補助をしている」
無表情の男は立ち上がりながら言った。
「聞きたい話は終わった、そろそろ行くとしよう。世話になったな」
「いや、まあ話自体は簡単だったんだけどな、つうかお前今何してんだ」
その質問には答えず、無表情の男は言った。
「一つだけ訂正がある。今はジャンクという名前ではない」
「え?」
「それこそ改名してな、シャンクという。まあ、お互い用があればまた会おう」
呆気にとられた男を置き去りにし、無表情の男と眼鏡の女は酒場から出て行ったのであった。
「貴方はこれから騎士になるのですよ。このような騒ぎを起こしていては困ります」
シアラは未だ怒りが収まらない様子でシャンクに語りかけた。シャンクは歩を進めながらも、眉一つ動かさずに反論する。
「主に騒いでいたのはお前だったが」
「誰のせいですか!」
「それに騎士というのは正確な表現ではない。軍人と言ったほうが正しい」
帝国には2種類の兵士が存在する。一つは主に貴族で構成され、国の顔とも称される近衛騎士。もう一つは比較的簡単に入れる帝国軍人である。
「近衛騎士の試験を受けたわけではないからな」
「聖女様から近衛騎士も含めた試験結果はトップだったと伺いましたけど」
「作法、教養の試験を受けていない」
「それ以外の試験結果が他の騎士を寄せ付けなかった時点でおかしいのですけどね……」
シアラの呟きは平然と無視された。
元々シアラは聖女を補佐する教会の一員である。帝国の上層部ともなればどうしても男の比率は高くなる。そんな時に貴重な同姓の心配りができるよう、教会から何人か女性が派遣されるのだ。当然聖女に仕えることができるこの仕事は希望者が多く、競争率も高い。そんな狭き門をくぐりぬけ、周りから羨望のまなざしを受けた自分が。
「どうしてこんな鉄仮面に」
「聖女の命令だろう」
嫌味にも全く動揺しない。これならば噂のカメレオンとかいう生物の方がまだ感情を露にするに違いない。見たことは無いが。というか。
「様を付けなさい!様を!聖女様を呼び捨てなど畏れ多いことです!」
シアラは自分が何故こんな可愛げの欠片も無いような男の世話をする羽目になったのか、怒鳴りながらも思い出していた。
「……教育、ですか?私が?」
「建前としては補助になりますが」
シアラは半ば呆然としながら目の前に座る女性に尋ねた。しかし、返ってきた答えは至極穏やかなものだった。
「優秀な騎士が試験を突破したことは聞きましたね」
この女性こそがガイルス聖帝国11代目聖女、ジャンヌである。当時12歳の少女でありながら、その人柄と癒しの術が前聖女に認められ、聖女の座へ着いたのが5年前。それ以来、大過なくこの国を治めている。
「ええまあ、そのようなことを侍女が言っていたのは知っていますけれど」
シアラはこの聖女に忠誠を捧げていた。帝国の教会に属する者であるならば当然とも言えるが、シアラは心の底から今の聖女を尊敬している。今も聖女に大事な話がある、と言われ内心誇らしく思いながら紅茶の席に招かれているところだった。そこに突然の話題である。
だからこそ今回の配置換えには納得できなかった。これまで聖女の傍にいた人間が一介の騎士、それも新米騎士の補助にまわるなど普通はありえない。
自分は何か聖女様の不興でも買ってしまったのだろうか。シアラは内心で不安に思った。
それを察したように聖女は微笑みを浮かべた。
「シアラは良くやってくれています。私の周囲の人間では、最も気心が知れていると言っても過言ではありません。だからこそ、あなたにお願いしたいのです。それというのも、件の騎士には後ろ盾が何も無いのです」
この発言を聞き、シアラは首をかしげた。
「後ろ盾が無いとは、その、どういうことでしょうか。貴族であるならば好むと好まざるとに関わらず、派閥に組み込まれていくものだと思うのですが」
シアラの意見は的を射ている。貴族社会で生きる以上、どの派閥にも所属しないということは通常有り得ない。極端な話をすれば、たとえどこに所属していなくとも、無所属という中間派閥に存在することになる。
聖女はシアラに紅茶を勧めながら言った。
「その騎士はほとんど全ての試験でトップの成績を取りました。特に現役騎士との模擬戦では5戦5勝。通常は3戦のところを騎士団長の決定で5戦に延長したようです。恐らく、近衛騎士としての誇りが許さなかったのだと思いますが、結果は現役騎士の全敗。最後は大隊長格が直接剣を取り、敗北しました。その結果、現役騎士のほとんどは件の騎士に敵意を持っているようなのです。嫉妬や羨望も混じっているとは思いますが、その、まあ」
ここで聖女は言葉を切り、目をあさっての方向に向け、言いにくそうに先を続けた。
シアラは内心、聖女様が言いよどむなんて珍しいなー、と思いながら紅茶をすする。
「その騎士は貴族の出身ではなく、スラム出身、それも元傭兵だったようなので」
シアラは紅茶を噴き出した。目の前の聖女に向けて。