第九話
季節は夏を過ぎ、秋へと移り変わっていた。
あの日君と拗れてから、俺達は一度たりとも顔を会わせてはいない。まぁそれは当然だろう。俺は君に思い出すには耐えないほどの言葉を浴びせたんだからね。
あの日、俺がどれだけの苦痛を君に虐げたか。泣きながら立ち去る君の後姿を思い返す度に、その痛ましさを痛感せざるを得ない。
それでも俺は少しの間、甘い考えを抱き続けていたんだ。まったく救いようの無いバカだよ、俺って奴は。だって時間を置きさえすれば、また君との生活が修復出来るって考えていたんだからね。
君は優しい人だから、俺が本心で謝罪の言葉を告げさえすれば、きっと許してくれるだろう。そう思ってたんだよ。
でもそんな現実あるはずがない。どうつくろったって、君との関係を修復出来るはずがない。それほどまでに俺は君をボロボロに傷付けてしまったんだ。そしてなにより俺が許されなかったのは、君に対して謝罪しようとする気持ちが極めて希薄だったって事なんだよね。
確かにあの時は自分の就活で頭が一杯だった。追い詰められた状況による極度の精神異常状態だったと言えるほどにね。しかしだからと言って君を傷付ける権利なんてあるはずも無く、俺に非があるのは誰の目から見ても明白だったんだ。
けど人生っていうのは本当に皮肉めいたものなんだよね。それからさして日が経たないうちに、俺は就職先を決めたんだ。すると単純な俺の性格が楽観的な一面を覗かせる。あの日君に叩きつけた苛立ちなんて、何処に行ってしまったんだろうって思うほどにね。
まず初めに俺がしなければいけない事。それは誠心誠意の謝罪を君にするべきだったんだ。それも病室における彼女との過ちを正直に告白し、かつ君との約束を破ってしまった事に頭を下げるべきだったんだよ。いかにそれが彼女の切なる願いを聞き届けただけだっていう、致し方ない理由だとしてもね。
いや、そもそもそこにどんな理由が存在しようと、俺が君を裏切った事に変わりはない。くだらない言い訳を思い浮かべてしまう時点で、俺は自分の心の弱さを受け入れられなかったんだ。ううん、それを受け入れるのが怖くて堪らなかったんだ。だから俺は君と向かい会うことを避けてしまったんだよ。
最優先事項であるはずの君との仲直りを先送りにして、俺は友人からの誘いに乗り遊び呆けた。就職が決まった安心感もそこに上乗せされてしまったんだろう。俺はそれまで見せたことがないほどの高揚ぶりで遊び続けたんだ。君の存在を忘れるほどにね。でもその本質は違ったんだ。君に会いに行くことが怖かったから、君に連絡する事が気恥ずかしくて耐えられなかったから、だから俺は君のことをあえて考えないよう努め、無理に全力で遊んでいたんだよ。
あの日以降、君は陸上部に一切顔を出さなくなっていた。もちろんその理由はあえて言う必要はないだろう。俺に会いたくない。それ以外の何ものでもないんだから。
ただそれでも君についての便りは友人達より耳にしていた。どこか意気消沈する素振りが見えるものの、大学には通い続けているってね。
それを聞いた俺は根拠のない安堵感を覚えて胸を撫で下ろしたんだ。さほど大きな大学ではないけど、学部が違う俺と君は待ち合わせでもしない限り顔を会わせる機会は無い。だから君は普段と変わらずに大学の講義に足を向けている。そして講義を受講するってことは、俺との仲違いを引きずっていない表れなんだ。たぶん俺はそう自分自身に納得させていたんだろうね。
失恋した女子学生が家に引きこもり、学校に顔を出せなくなってしまう。そんな噂を耳にした事がある俺だけに、君が大学に通学しているって情報を聞いただけで、俺は安心しきってしまったんだよ。あの日の出来事を君はそれほど気にしてないんじゃないか。君はよく気が付く人だから、俺が冷静さを失っていた事を理解してくれているんじゃないか。そんな都合の良い身勝手な考えばかりを思い浮かべていたんだよ。現実にはまったくの逆だったっていうのにさ。
表面上では必死に堪えていたんだろうけど、でも君は落ち着いてなんかいられなかった。それどころか、気が狂ってしまうほどに深く悩み続けていたんだ。あの日に俺が吐き捨てた言葉を真正面から受け止めた君は、それを自分自身の過ちだと捉えてしまったから。
君に落ち度はまるで無い。それなのに君は俺や彼女を追い詰めてしまった責任と悲しみを背負い、その苦痛に苛まれていたんだ。まるで自分一人が全て悪かったんだと、罪の報いを受けるかの様にね。
正直な気持ち、君だって大学になんか行きたくなかっただろう。いや、むしろ苦痛で仕方なかっただろう。それでも君は怯まずに大学へと足を運んだんだ。俺はその理由をずっと後になって知る事になる。でもその時の俺は、見当違いも甚だしいほどに君の気持ちを履き違えていたんだ。
君が強い心の持ち主だから、変わらずに大学に顔を出し続けている。君の優しさが海より深いから、俺の心無い暴言の数々を許してくれている。そんな恐ろしいほどに無知な錯覚を抱いていたんだよ、俺はね。
そんな浅はかな思いばかり浮かべていたから、俺はいつになっても君に連絡を取ろうとはしなかったんだ。もう少し、もう少しだけ時間が経てば、冗談を告げるほどの軽いノリで謝ることが出来る。そう俺は期待していたんだよ。君が俺からの連絡を何よりも待ち望んでいたっていうのにさ。
それからしばらくして秋も深まった頃のこと。とある週末の寒い日に、陸上部のキャプテンだった彼から俺は連絡を受けたんだ。
『みんなの就職祝いを兼ねて、久しぶりに飲まないか』ってね。
俺の陸上部は代々三年生がキャプテンを務める事になっている。四年生は就職活動があるため、本格的な練習が出来ないっていうのが名目らしい。だから彼はもうキャプテンではない。ゆえに彼はその役目を御免してから、陸上部のみんなとは少し疎遠になっていたんだ。就活が忙しかった。やはりそれが大きな要因だったんだろう。
ただそれも彼の就職が決まったことで、いつもの面倒見の良い性格が顔を覗かせたんだね。俺が知っている限り、陸上部の面々はその全ての就職が決まったはず。だから彼は久しぶりに四年生一同を集合させて、それを皆で祝おうと言い出したんだ。
その動機に妙な疑いなんて感じるはずがない。でも俺は少しだけ不思議に思ったんだ。だって彼から飲みに誘われるなんて、昨年の大会の打ち上げ以来無かった事なんだからさ。
珍しいこともあるもんだ。俺はそう感じていた。でも陸上部に所属する四年生全員を束ねるなんて、彼以外に出来る仕事ではないからね。必然的にそう納得してしまったんだよ。そして俺はろくに考えもしないで参加を承諾したんだ。
だけどその後に直ぐ様気が付いたんだよ。陸上部に所属する四年生全てを集わせるって事は、もちろん君も参加するってことなんだってね。
「やってくれるぜ」
俺は彼に何気なく問い質した。このタイミングでの飲み会開催に、どことなく引っ掛かるものを感じていたからね。すると彼は薄笑いを浮かべながら白状したんだよ。今回の飲み会がみんなの就職を祝ったものだっていうのは本当のことだ。でもそれとは別にもう一つ理由があるんだってね。
何故にこうも気が回るんだろうか。それとも俺や君の普段の態度が明らかにおかしかったとでも言うのだろうか。彼は俺達二人の関係がうまく行っていない事を察してくれていた。だから祝賀会を開いて、そこに俺と君を呼んで仲直りさせようと計画したんだ。
それを聞いた俺の背中からどっと冷たい汗が噴き出す。まったく余計なお世話してくれるぜ。俺はそう強がるも嬉しさは隠せない。君に会うのが未だに怖いという罪悪感に駆られた不安は依然として俺の心を広く覆っている。でも君と以前のような愛らしい関係に戻りたいという期待感に胸を膨らませているのも本心なんだ。そしてその後者を現実のものとするには、気恥ずかしくとも前向きに一歩を踏み出さなければならない。だって悪いのは全て俺のほうなんだ。君のほうから歩み寄ってくれるのを待つなんて、虫が良過ぎにも程があるってモンだろ。
俺が何をしなければいけないか、その行動理由は明白だった。ただ俺にはそれを実行する意気地が無かったんだ。でも彼は俺のそんな脆弱な心情を弁えていてくれた。だからあえて祝賀会開催の名目のもと、君との関係を修復するキッカケの場を設けてくれたんだよ。
彼の配慮には頭が下がるばかりだ。もしかして、本当の友人とは彼の様な者を指し示すんじゃないのだろうか。俺はそう思わずにはいられない。だって普段一緒に遊び呆けていた同輩達は、そんな気の利いた行動なんて微塵にもしてくれなかったからね。でも会場に足を運んだ俺は息を飲むほどに驚愕してしまったんだ。だってそこには病から復活して大学に戻って来ていた【彼女】の姿が含まれていたのだからね。
キャプテンだった彼は、俺と彼女の関係にまでは知る所ではない。だから彼を責めるわけにはいかないんだ。彼にしてみれば退部してしまったとはいえ、彼女が無事に元気な姿で大学に通えるようになったことを祝福してあげたかった。そんなところなんだろうからね。ほんの少しの善意が招いた結果なんだよ、これはさ。
でも俺の心境はとても穏やかになんてしてられやしない。君との関係に溝を生じさせた彼女という存在がそこにいるんだから当然だろう。
もちろん俺はあの病室での過ちを誰にも言ってないし、彼女だって公になどしているはずがない。だけど彼女を目の前にした俺は、呼吸の仕方を忘れるほどに動揺を露わにしてしまったんだ。だって今はまだ姿を見せてはいないものの、この場所には君も来るはずなんだからね。
そんな俺の尻込みする姿勢に、彼女はどこか薄笑いを浮かべる様にして口元を緩めていた。その表情に俺は胸クソの悪さを感じずにはいられない。彼女は一体何を考えてるんだ。病室であんな事をしてしまったのに、よく平然とみんなの仲に入って来れるモンだ。俺はそう思わずにはいられなかったんだ。
ただそんな俺の胸の内をスルーして、彼女は淡々と告げた。君は今日、就職先で行われている何かしらの説明会に出席している。その為にこの飲み会には少し遅れてしまうらしいって事をね。でも君は必ず来る。彼女はそうも付け足したんだ。まるで俺の心を強く揺さ振るかのようにね。でもそれ以上に俺が気を揉んだのは、彼女が俺と君の現状を知ってしまったって事なんだよね。
キャプテンだった彼は今回の就職祝賀会の参加を君に呼び掛けるため、彼女を経由させて連絡を取ったんだ。まぁ、その成り行きは偶々だったんだろう。彼は君のものより先に、彼女の連絡先を入手した。そうなれば親友である彼女から君へ連絡してほしいと頼むのが自然の流れだろうからね。ただそこで彼は無用な配慮を彼女に口走ってしまったんだ。俺と君の関係が上手くいっていない。それを今回の祝賀会でどうにか修復させよう。彼は彼女に対してそこまで言ってしまったんだよ。
彼女がそれをどう思ったのか、それは分からない。ただ理解出来る事実とすれば、それは彼女が君に連絡を取りついだっていう事と、遅れはするものの君は必ずこの場に駆け付けるっていう事なんだ。
釈然としない歯がゆさが込み上げてくる。君に会うのが怖いからなのか。ただ単に臆病風に吹かれているだけなのか。いや違う、それが理由じゃない。ならどうして俺はこれほどまでに嫌悪感を抱くのだろうか。その原因の正体を俺は直感として肌で感じてはいたものの、でもそれを受け止める事を否定した。だって縦にした人差し指を自身の唇に押し当てる彼女の仕草に、俺は気圧されて茫然としまったんだよ。
俺は彼女に促されるまま、その正面の席に腰掛ける。すると彼女は微笑みながら告げたんだ。『心配しなくても大丈夫だよ。今日は彼に招かれて快気祝いを楽しみに来ただけだから』ってね。でもその言葉に俺の胸の内は震えた。軽く微笑む彼女の笑顔から訝しい印象を抱いてしまったんだ。
俺の疾しい気持ちが君への後ろめたさを隠したいがために、彼女という対象を悪者に仕立て上げたのかも知れない。だって彼女が俺に望まなければ、こんな不条理な気持ちになんて、ならなかったはずなんだからね。その反応の表れが、彼女から感じた訝しさだったんだろう。
俺は彼女に自分の犯した罪を全て擦り付け、重苦しい心情から解放されたかったんだ。お互いに大切な存在であるはずの【君】に対して、同じ罪を犯してしまった。でもその主因は彼女にある。だから俺は悪くないんだって感じにね。
しかし飲み会が開始されてからは、それまで感じていた不愉快な感覚は影を潜めてしまった。酒に酔った勢いで増々饒舌になってしまった、彼女の止まらない話しに呑み込まれてしまったからなのか。ただ彼女は君に全く関係ない話しばかりをしていたからね。そんな彼女の口ぶりに俺は安心したんだろう。
きっと彼女は辛い想いを振り払えたんだ。そしてもう俺や君の事を祝福出来るくらいに気持ちの整理を付ける事が出来たんだ。だから彼女は俺と君の関係に亀裂が生じている状況を知った上でも、何も無かったかのように振る舞っていられるんだ。俺はそう思ったんだよ。そして淡い期待に胸を膨らませたんだ。きっと彼女なら俺と君との関係を修復する手助けをしてくれるだろうってね。だって俺と君の関係が極度に悪化した理由は、彼女との病室での一件が原因なんだし、彼女だってそれを十分認識しているはずだろうからね。だから俺はそう期待せずにはいられなかったんだよ。
でもその期待は最高潮に達した彼女のテンションが弾け切った事で裏切られてしまった。いや、それは仕方のない事なんだろう。退院したとはいえ、彼女の体はまだ一般的な健康体までは回復しきっていないんだ。それなのに彼女は久しぶりに味わった悦びに羽目を外してしまった。飲み慣れない酒に深く酔い、気分を害してしまったんだ。
それまで赤々としていた彼女の表情が、みるみると青冷めていくのが分かる。そんな彼女に俺は一声掛けたんだ。
「今日はもうこの辺で終わりにしたほうが良いんじゃないか。かなり顔色悪いぞ」ってね。
それに対して彼女は意外にも素直に従った。
「つい調子に乗っちゃったみたい。気を遣わしちゃってゴメンね。私、先に帰るよ」
楽しい雰囲気だっただけに、俺は彼女の反発を予想していた。少しくらい体調が悪くたって、強気な性格の彼女ならば現状の楽しさを優先するだろう。そう思ったんだよ。でも彼女の返答は驚くほどに素直なものだった。恐らく自分でも体調の悪化を少しヤバいと感じたのかも知れない。スッと立ち上がったものの、彼女の足つきは誰の目から見ても不確かなものに映ったほどだからね。
これ以上の事をしたら、きっとみんなの迷惑になってしまう。たぶん彼女はそう考えたんだ。だから不本意たるも楽しさを我慢して、一人先に会場を後にしようと歩き出したんだ。でもその時の彼女の足取りはひどく弱々しくて、とても一人で歩ける状態ではなかった。
俺はそんな彼女を放っておくことが出来ず、そっと歩み寄って肩を支えたんだ。そして心配そうに彼女の姿を見つめる会場のみんなに向かって言ったんだよ。『彼女一人じゃ危ないからさ、タクシー捕まえるまで俺が付き添ってるよ』ってね。
別にその行動事態に疾しさなんて感じられないだろう。体調不良の彼女を誰かが補助しなければいけないのは疑いようの無いものだったんだから。その証拠にみんなの視線からは、変に怪しむ感覚は受けとれなかったしね。それにキャプテンだった彼だって、俺に気を回したほどなんだ。『助かるよ。幹事の俺がここを離れるわけにはいかないから、彼女の事よろしく頼むよ』ってな具合にさ。
俺はふらつく彼女を支えながら会場の外に出た。正直彼女と二人きりになることには抵抗を感じる。でもタクシーを捕まえて彼女を送り出せばそれで終わりなんだ。それにもうすぐ君が会場に到着する頃だろう。だから一刻も早く俺も戻らなければならない。俺にとっての今日のメインイベントはこれからなんだからね。ただ俺には彼女に一つだけ確かめたい事があったんだ。その為には少しだけでいいから彼女と二人になる時間が欲しい。だから俺は進んで彼女を助ける役目を買ってでたんだよ。
祝賀会会場はタクシーの走る大通りから少しだけ奥まった場所にある。だから必然的に人気の無い細い裏路地を歩み進まなければならない。それでも普通であれば1分と掛からない距離だろう。でも足元の覚束ない彼女の状態では、その数倍の時間を費やす必要があったんだ。そしてそんな時間の僅かな積み重ねが、俺に一つ気付かせたんだよね。密着する彼女から伝わった温もりによってさ。
この季節は昼と夜の気温の差が激しい。その為なのだろうか、彼女が身に付けている衣服は少々薄着過ぎていたんだ。体調が悪い上に、この寒さでは余計に気分を崩してしまい兼ねない。だから少し無理やりにも俺は自分の上着を彼女に羽織わせたんだよ。これ以上体調を悪化させたくない。それにきっと彼女の勝気な性格なら、普通に上着を渡すだけでは受け取らないだろう。そう考えた上での行為だったんだよね。ただここでも彼女は俺の予想に反した言葉を小さく発したんだ。
「ありがとう。あったかいね。なんだか気持ちが和らぐよ」
クソっ。一体なんだって言うんだよ。今日の彼女は俺の知っている彼女とは明らかに違い過ぎる。彼女はこんなにも正直に感謝の言葉を口にする女だったろうか。もう少し勝気に強がってみせるのが彼女だったのではないのか。なぜに今日は弱さを露わにしてしまうのだろうか。
体調が優れないために弱気になってしまったのかも知れない。でも理解し得ない彼女の本当の気持ちを、それでも俺は知りたかった。だから彼女に確かめたかったんだ。俺や君の事を彼女が【現在】どう思っているのか。いや違う。もう俺や君に構わないでほしい。俺の本音はそう告げていたんだよ。だって祝賀会当初に感じていた嫌悪感の正体は、彼女の存在そのものだったんだからさ。
「なぁ。不躾になんだけどさ、俺達の間には何もなかった。それで良いんだよな。俺は【あいつ】とこれからも一緒に居続けたい。だからそれを応援してくれるよな。もう俺達を放っておいてくれるよな」
俺は願うように彼女へ問い掛けた。俺は君と未来を歩み続けたいだけなんだ。だからもう彼女には会いたくない。たとえそれが彼女を傷付ける事になろうとも、俺には君との関係を優先する選択肢しか持ち合わせていないんだ。だからもう、俺の胸に残るシコリを取り除いてくれないか。もう俺の前に姿を現さないでくれないか。俺は彼女に対し、心の底からそう切実に願ったんだ。ただその願望に彼女はやっと聞こえるくらいの小さな声で呟いたんだよね。
「意地悪なのはあなたのほうなのよ。私だって、あなたの事は諦めたつもり。でも、だったら優しくなんかしないでよ。忘れられなくなるじゃない――」
俺は彼女のその言葉に体を硬直させた。胸が押し潰されるほどの激しい圧力を彼女から感じたから。息苦しいほどに居た堪れない。でもそれを押し退けなければ俺はダメになる。彼女にとっては気の毒な事は確かだし、俺を冷たい男だと憎むかも知れない。だけど俺には【君】が必要なんだ。【君】だけが俺の全てなんだ。その君と一緒の未来を手に入れるためなら、俺は彼女に恨まれたって厭われたって構わない。だから最後に一言だけ念を押すんだ。『もう俺には二度と会わないでくれ。俺の前に現れないでくれ。俺が好きになれるのは【あいつ】だけなんだから』ってさ。
彼女を再び目の前にした今、俺は君の大切さを改めて思い知った。なぜこのタイミングでそれを心の底から強く感じたのかは分からない。ただ一つ言えるとするならば、それは俺が君のことを本当に心から愛しく想っているってことなんだよね。そしてその想いはどんどんと強まっていくばかりなんだ。
皮肉にも少しお互いに距離を置いてしまった今の状況だからこそ、君の大切さに気付いたのかも知れない。でもだからこそ、今なら君に向かってはっきりと言えるだろう。君を傷付けてゴメンと。君を信じていると。君のことが大好きだと。だからその前に彼女に向かって断言する必要があるんだよ。
あの日、あの病室で彼女にせがまれた時に強く断っておけば良かった事なんだ。その時点で俺が彼女に憎まれることを恐れさえしなければ、君をこれほどまでに傷付ける事もなかったのだから。全部俺の脆弱さが招いた結果なんだよね。でもこれ以上そのシコリを残しておくわけにはいかない。俺を強く縛り続けるあの日の誤った行為を清算しなければ、さらに君を、そして彼女をも不幸にしてしまい兼ねないのだから。
彼女の想いを断ち切るためにと思って行った病室での行為が、むしろ俺を蝕み続けた。なぜそんな気分に苛まれたのか。それは俺が病気に苦しむ彼女を憐れんだだけで、あの日の行為自体は優しさでもなんでもなかったからなんだよ。だから俺は悶々と鬱積した不満を抱き続けていたんだ。全てが間違いだった。それが理解出来ていたから。
でももう終わりにしよう。俺は自分に足りなかった【覚悟】を見出す事が出来たのだから。どれほど彼女に苦痛を虐げようとも、俺は君を選ぶ事に決めた。もうそれは覆しようのない本心なんだ。だから最後の一言を彼女に告げて終わりにしよう。俺はそう決意して彼女に向き直った。――――が、その瞬間、足元につまずいた彼女が体勢を崩したんだ。
俺は咄嗟に彼女の体を抱きかかえた。細い彼女の体を包み込むようにして。思い掛けなく接近した二人の顔の距離に俺は出鼻を挫かれる。一旦彼女の体勢を元に戻し、仕切り直してから最後の言葉を告げよう。一瞬の合間に俺はそう考えを巡らしたのかも知れない。でもその僅かな一瞬の時間のタメが、俺の全てを狂わせたんだ。俺に抱きしめられたままの体勢で、彼女が小さく口走しらせたから。
「私だって、あなたとケジメをつける為に今日ここに来たのよ。でもやっぱりあなたって優しい人だから。だから私、あなたの事が忘れられないのよ」
「!」
潤んだ瞳でそう囁いた彼女は、冷たい手で俺の顔を引き寄せると、徐に唇を重ねた。
一体俺に何が起きたのか。何をされているのか。あまりにも唐突な彼女からのキスに思考回路が寸断された俺は、状況を飲み込むことが出来なかった。
それでも体だけは無意識に彼女の行為に対して抵抗したのかも知れない。呆然としながらも俺はそっと彼女を引き離す。ただそれと同時に今まで感じたことのない、背筋が凍るほどの感覚に俺は襲われたんだ。だってその時の俺の目に映ったのは、会場に駆け付けて来た【君】の姿だったのだから。
神様はどこに行ってしまったんだろう。最悪のタイミングで祝賀会会場に到着した君と鉢合わせしてしまった俺。君が息を切らしているのは急いで駆けつけてきたからなのだろうか。それとも俺と彼女のキスする姿を目の当たりにしたからなのだろうか。ただ君の息遣いがやけにはっきりと聞こえてきたことだけは覚えている。
どう釈明すれば良いのだろうか。どう誤魔化せば許してもらえるのだろうか。でもそんな事を考える機能を俺の脳ミソは持ち合わせてはいなかった。いや、完全に崩壊し、機能停止の状態に陥ってしまったんだ。
俺はそれほどまでに罪深い過ちを犯したとでもいうのだろうか。全世界を敵に回すほどの報いを、どうして俺は受けなければならないのか。たとえ全てが俺の責任だとしても、でもこんな仕打ちって残酷過ぎやしないだろうか。
過去の過ちを清算し、彼女との関係を終わりにするはずだった。君と改めて未来に歩む決意を強く願ったはずだった。それなのに、全てが終わりを告げたのは俺と君のほうだったんだね。
俺は走り去る君を追い駆けもせず、また呼び止めようともしなかった。まるで俺だけの時間が止まってしまったかのような、そんな重苦しい感覚に覆われてしまったんだよね。そして感じるのは彼女の唇から伝わった微かな温もりと、高止まりする俺の胸の鼓動だけだったんだ――。