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第八話

 後期試験の全日程が終了した翌日、俺はキャプテンの彼に呼び出されて部室に(おもむ)いていた。

 君との(わだかま)りが払拭できないまま試験に臨んだ影響なんだろうね。テストはあえて言う必要がないほどにボロボロだった。そんな悶々(もんもん)とした状態で部室を訪ねた俺は、キャプテンから唐突に告げられた頼み事に驚きを見せるも、さして反発することなくそれを引き受けてしまったんだ。これをキッカケとして君と仲直りが出来るかも知れない。単純にそう思ったんだろうね。そしてキャプテンからの依頼を聞いた俺は、それを手にしながら君に久しぶりの電話を掛けたんだ。

 キャプテンの彼が俺に告げた一つの依頼事。それは入院中の彼女が部室に残した荷物を、本人に返却してほしいって事だった。

 彼女は自分から退部したわけじゃない。陸上を続けられなくなった今でも、きっと彼女は走り幅跳びを好きなままでいるはずなんだから当然だ。でも俺の属する陸上部は一年間に渡り活動を(おこた)った場合、その理由に関係なく部から去らなければいけなかったんだよね。

 彼女の病気の事は部の誰しもが承知する事実であり、同情の余地は多大に存在する。でもルールはルールだから仕方がない。キャプテンの彼とて、それは断腸の決断だったはずだ。

 部の規範を正しく律するため。また幽霊部員の排除を目的とした決め事だったんだろう。ただしその理由如何(いかん)では、条件付きではあるものの再入部は容認されている。だから彼女がまた、陸上の出来る元気な体を取り戻したならば、再び部に戻る事は可能なはずなんだ。でも今はとりあえず部の規律に基づき、彼女を一旦退部させる運びとなってしまったんだよね。そして俺は、そんな彼女が部室に残した荷物を返却する勤めを果せられたんだ。

 その理由は単純なものさ。彼女の最も親しかった同輩が君であって、俺はその彼氏なんだからね。そこに不自然さは見受けられない。まぁ本当のところは、キャプテンが彼女や君の連絡先を知らなかっただけなんだけどさ。

 しかし君に電話して俺は現状に息を飲んだ。いや、それは少しオーバーな表現かな。実はその時、君は季節的に流行するインフルエンザに侵され、高熱を出して寝込んでいたんだ。

 どうりで君からの音沙汰が無かったはずだ。携帯越しに聞こえて来るガラガラに(かす)れた声が、否応(いやおう)にも君の体調の悪さを感じさせる。でも不謹慎な事に、そんな声を聞いた俺はどこか胸を撫で下ろす安堵感を覚えていたんだ。

 ジョギングデートの日の俺の態度に業を煮やし怒っていたわけじゃない。極度の体調の悪さから、俺との接触を避けていただけなんだ。そう勝手に判断して安心していたんだよ、俺はね。

「何か必要な物はある? 今から見舞いに行くよ」

 俺は君にそう告げた。安心感を覚えた事で、少しだけど君を心配する気持ちの余裕が生まれたんだろう。でも君はウィルス感染を避けたいが為に、その申し出を断ったんだ。『ありがとう。でも今会うと風邪がうつっちゃうから止めとこう』ってね。

 それが会えない本当の理由じゃないって事に俺は気付かない。ほんの数日前、あれほど冷たく君をあしらったのだから、本来ならそれをはじめに謝罪して然るべきはずなんだよね。でも俺はその対応を(おこた)り、君が望む一言を最後まで伝えられなかったんだ。君はその一言だけを待っていたはずなのにさ。

 それなのに俺は完全に履き違えていたんだよ。君が電話に出てくれた事。そして風邪をうつさない様に気遣ってくれた事。その配慮に安心しきった俺の考えは、君の望む方向とは真逆の場所へと向かって行ってしまったんだ。

 彼女に荷物を届けるのは、別に急ぎの仕事ではない。けれど面倒事は早く済ませるに限る。まして風邪を引いた君に要らぬ体力を使わせるなんて(もっ)ての(ほか)だ。だからそんな面倒な仕事は俺一人で片づけよう。荷物をただ返しに行けば済むだけの簡単な依頼事なんだしねってさ。それに風邪ひきの君を病院に連れて行って、それが体力の弱った彼女にうつってしまっても大変だろうってね。

 そう思った俺は、一人で彼女の元へ向かう事を決めたんだ。君からのお願い事である『一人で彼女のお見舞いに行かないで』という言葉を、頭の片隅に置き忘れてね。

 ほんの少しの善意だったんだよ。そこに深い考えなんかあるはずもない。だってその時の俺は、まだ何も知らなかったんだからさ。


 彼女の所に行く事を君に告げぬまま、俺はその日の内に病院へと足を向ける。もう遅い時間だった為に、面会時間が過ぎ去ってないか心配だった。けどギリギリそれには間に合う事が出来た。やっぱり人の役に立つ事をしようとする時は、神様は見ていてくれるモンなんだね。そう一人感心しながら足早に病室へと俺は向かったんだ。

 病院内は閑散としている。面会時間の終わる間際だという事もあり、また平日だった事もその要因なんだろう。彼女の病室に向かう途中、ナースステーションに数人の看護師の姿を見かけたくらいで、それ以外には誰にもすれ違わなかった。

 そんな人気(ひとけ)の無い時間帯だったせいもあり、かつ彼女にしてみれば唐突な来訪だったんだろう。見舞いに訪れた俺に彼女は驚きを見せたんだ。それも君を連れずに、俺一人で病室に来たから余計にビックリしたんだろうね。

 正直、俺のほうも緊張してたんだよ。だって彼女とは君と見舞いに訪れたあの一度きりしか会ってないんだし、これと言って話題も見つけられそうになかったからね。だから長居なんてするつもりもなく、荷物を置いてさっさと帰るつもりだったんだ。

 でも俺はすっかり忘れていたんだよね。彼女が思いのほか饒舌だったって事をさ。それに彼女の顔つきは、以前病室に訪れた時に比べてだいぶしっかりものになっていた。恐らく病状はかなり回復しているんだろう。その証拠に彼女は嬉しそうに言ったんだ。

『新学期からは、また大学に通えそうなんだ』ってね。

 その表情につられて俺もなんだか嬉しくなった。彼女の話し振りからして、決してそれが強がりでない事が分かる。本当に体調が良い方向に持ち直しているんだろう。

 けどこの一年、彼女は他人では知り得ないほどの苦しみを味わったはずなんだ。生死の境を彷徨(まなよ)い、意識を取り戻してからも苦痛は彼女を(むしば)み続けた。その病は時に彼女の心をボロボロに砕いていたのかも知れない。もう死んだ方がマシだと、弱音を吐いた事ともあっただろう。それでも彼女は持ち前の強い精神力でそれを克服し、日常生活が出来るほどにまで回復する事が出来たんだ。だからそんな彼女の微笑みに、俺は素直な嬉しさを覚えずにはいられなかったんだよね。

 思いのほか話が弾んだ。いや、以前この病室に来た時と同じで、彼女のマシンガントークを俺が一方的に聞いている。そんな感じだった。でもそれだけで病室の雰囲気は十分明るくなっていったんだ。たぶん家族や病院関係者以外で、この病室に足を運ぶ者はあまりいないんだろう。だから話し好きの彼女は、あの時と同じでお喋りが止まらなかったんだろうね。

「秋の大会はおめでとう。すごく良い成績だったんだよね。話しは聞いてるよ!」

 思い掛けなく告げられた祝福に俺は顔を赤らめた。入院中とはいえ、彼女も一応陸上部の一員だったわけだし、知っているのは当然の事か。ただその理由を聞いて、俺は少しだけ胸に引っ掛かる何かを感じたんだよね。

 俺の成績を彼女に報告した人物。それは君だったんだよね。俺は知らなかったんだけど、君は一人でこの病室を度々訪れていたんだ。

 君も水臭いよな。俺も誘ってくれれば良かったのに――。初めに頭に浮かんだのはそんな印象だった。でもふと思ったんだよね。もしかして、俺が一緒に居たらダメな理由があったんじゃないのかってさ。

 女同士でしか話せない下世話な話題なんてのもあるだろう。最近は同性の友人とばかり行動を共にしていた俺だけに、そう自身に重ねて思ったんだ。だけどその時になって俺は(ようや)く思い出したんだよ。君が俺に願った『一人で彼女のところに行かないで』っていう約束をね。

 なぜ今になってそれを思い出したのか。それは元気に喋っていた彼女の表情が、あの大会の話題に変わった途端、切ないものに感じられたからだ。そして彼女から受けるその感情の変化に間違いがないって事を、俺は徐々にではあるけど理解してしまったんだよね。

 君がこの病室に訪れた時の状況は、決まって彼女の止まらないお喋りを聞き続けている。そんな感じだったんだろう。でも昨年の秋、君が俺の大会での結果を彼女に報告した時は、その立場がまったくの逆に入れ替わっていたんだね。

 君は彼女の前で饒舌に俺の話をしたんだ。普段の君からは想像できないほどに多弁で、また熱狂を帯びるほどに興奮してね。そんな君の姿に彼女が抱いたのが、確かな【(ねた)み】だったんだ。

 まぁ、それは無理も無いだろう。病気で意気消沈しているところに、試合で好成績を叩き出した愛しい彼氏の勇敢な話を聞かせたんだからさ。それもハプニング続きのレースだっただけに、余計にドラマチックな話に聞こえてしまったんだろう。

 入院中の彼女の前で、そんな惚気(のろけ)た話をしてしまった君の気配りに問題が無かったかと言われれば、それは少し配慮に欠けていたと言わざるを得ない。でもそれが仕方のない事だってのも理解は出来る。だってもし俺と君の立場が逆転していたなら、間違いなく俺は君の事を友人達に自慢していたろうからね。それは付き合う恋人同士ならば当然な素行というモンだろう。

 ただそこには一つ、俺の知り得ない根深い間隙(かんげき)が存在したんだ。君と彼女の間に潜む(おぼろ)いだ(へだ)たりがね。


 俺は彼女が何を言っているのか、はじめの内は全然理解出来なかった。だって彼女は俺と君が付き合う事を、誰よりも祝福してくれているものだと信じていたからね。

 でも彼女の話しを聞くうちに、俺は身の(すく)む事実を目の当たりにしてしまう。いや、悪い冗談だと切望するほどに狼狽(うろた)えてしまったんだ。だって彼女もまた、こんな俺を(した)ってくれていたのだから。

 嘘だろ、信じられない。だけど彼女の口ぶりからして、それが真実なんだって事が空しくも俺の胸に響いて来る。それも彼女の悲痛に足掻(あが)く心の叫びがね。

 いつから彼女が俺の事を意識していたのか、また俺のどこに好意を抱いたのか、それは分からない。ただ少なくとも、俺が君と付き合う以前より、彼女は俺に想いを寄せていてくれたようなんだ。

 しかし彼女にはいつ発病するか分からない持病がある。それゆえに彼女は俺に対してもそうだし、今までに想いを寄せた男性の誰に対しても、その想いを伝える事が出来ていなかったんだ。きっと迷惑を掛けてしまうかもしれないからと、自分自身を自制していたんだろうね。

 ただ彼女は時同じくして、親友であるはずの君が俺という同じ相手に好意を抱いている事を知った。それだけでも辛かったはずだろう。だけどそれをあざ笑うかの様にして、俺と君は付き合い始めてしまったんだ。それも【彼女(じぶん)】という存在をキッカケにしてね。

 忸怩(じくじ)たる感情は極まったであろう。君の事を恨んだり、呪ったりしたかも知れない。でも、それでも彼女は自分の心情を必死に誤魔化して、俺と君の交際を祝福するよう努めたんだ。

 こんな体である自分が、俺に想いを伝えたところで困るだけだろう。それに当然ながら、健康な体の君と付き合う事の方が、比較にならないほど幸せになれる。それは好意を抱く俺にとっても、親友である君にとっても最良な成り行きになるはず。胸が張り裂けるほどの遣る瀬無い感情を抱きつつも、彼女はそう思って身を引いていたんだ。それなのに俺が大会で好成績を残してしまった為に、それを君が上機嫌に彼女に物語ってしまった為に、彼女は酷く傷付いてしまったんだ。

「自分で言うのもなんだけどさ、私って救われないんだよね……」

 切なさを(にじ)ませながら彼女は話し出す。静かな口調ではあったものの、彼女は自制していた気持ちに歯止めが掛けられず、思いの丈を俺に(ほとばし)らせたんだ。

 彼女の痛烈な感傷が俺の胸に伝わってくる。決して親友である君を(ひが)みたくない。(ねた)みたくもない。彼女の優しさが自身の気持ちに必死で対抗している。でも、それでも彼女には耐えられなかったんだ。俺という気持ちの引き金が、彼女の中で完全に(しぼ)られてしまったのだから。

「いつだってそう。あの()は私の欲しい物ばかりを奪っていく。服にカバン、化粧品だってそう。いつも私が良いなって思うものを先に手に入れて、そしてそれを自慢げに見せびらかすのよ。私だけにね」

 震える口調で話す彼女の言葉に、俺はただ耳を傾ける事しか出来ない。

「大人しそうに見えるから意外に思うかもしれないけど、でも本当の事なの。あの()は昔から私に引け目を感じていたから。体は健康でも、陸上選手としては歯が立たない。そんな私の事を、あの娘は内心で(うと)んでいたのよ。だから陸上以外のところで私の気持ちを踏みにじる、嫌がらせみたいな事ばかりをしていたのよね。でも私がさらに(いぶか)しんだのは、あの娘がそれを意図的に行っていたのかどうなのか、それが判断できなかった事なのよ――」

 いつしか彼女の瞳からは、大粒の涙が流れ落ちていた。

「あの娘は鼻が利いたんだと思う。それも自分の感情とは切離れたところでね。だからあんなにも私に対して無垢に微笑んでいられたんだよ。自分が嫌がらせみたいな行為をしているなんて、これっぽっちも気付いていなかったんだからさ。だから私は諦めたの。一々あの娘のする事に腹を立てたって仕方ないって。自分自身にそう必死で言い聞かせたんだ。だってそうすれば傷つかずに、苦しまずに済むんだから……」

 陽の陰った病室はいつしか暗闇に覆われている。まるで彼女の胸の内に引き込まれたかの様な錯覚を感じさせるほどだ。それほどまでに彼女が心に仕舞い込んでいた痛みは、重く深いものだったんだろう。彼女の目から零れ落ちる涙が、きつく握りしめるシーツを濡らしていく。でも俺にはどうする事も出来ない。いや、どうすればいいのか分からないんだ。なんて声を掛けていいのか思い付かないし、まして震える彼女の体を抱きしめるなんてわけにもいかない。静寂だけが広がる空間に、俺の心は唸りを上げて混乱している。そんな俺の目を見て彼女は続けた。そして最後に俺に向かって一つの願いを告げたんだ。

「オシャレだとか、甘い物とか、そんな些細な事で言い争って、あの娘の事を嫌いになれるわけがない。私が胸の中で抑え込んでさえいれば済むこと。そう、それで良かったはずなの。でもね、まさか好きになる人まで奪われるなんて――。いくら私が病気持ちだとしても、いつまでも子供じゃいられないのよ。私だって人並みに恋くらいしてみたい。それなのにあの娘は、それまでも私から取り上げていく。ううん、それにも増して私から生きる気力まで奪い去っていこうとするのよ! …………でも、私には(あらが)えない。だってそれでもあの娘は私にとって、掛け替えの無い【友達】なんだからさ。だからお願い――」

 彼女は潤んだ瞳で俺を見つめて言った。

「あなたを(あきら)める代わりに、一度だけでいいから。――キス、してくれないかな」

 一瞬その意味を俺は捉えられなかった。彼女が俺に何を求めたのか、まったく理解出来なかったんだ。そんな俺に対して彼女は軽く微笑みながら付け加える。でもその表情からは、今にも崩れ落ちそうな心の嘆きが感じられた。

「お願い、私を楽にさせて。私のワガママを聞いて。そうすれば私はあなたを忘れる事が出来る。それにあの娘とあなたの未来を祝う事も出来る気がする。だからお願い。一度だけでいいから、ね。お願い」

「――無理だよ。俺には出来ない」

「良いじゃない、そんなに難しく考えないでよ。それに一年前に一度、あなたにはしてもらってるんだから。今更恥ずかしがる事でもないでしょ」

「いや、それは違うだろ。あの時は命を救う為に人工呼吸しただけなんだ。キスとは次元が違う」

「だから今回も私の心を救う人口呼吸だと思えばいいのよ」

「そ、それは屁理屈だよ。それに俺には」

「強がってはいるけど、もう限界なの。このままじゃ私の心は粉々に崩れてしまうの。だから、ね。お願い。一度でいいの。一度だけでいいから」

「ダメだよ。こんな事したら」

「意気地なし! この病室には私とあなたしかいないのよ。お互いに誰にも言わなければ問題ないんだから、それくらいの事でビクビクしないでよ。それに良いじゃない。あなたにしてみれば、バカな女一人とキス出来てラッキーだった。そう思えば済む事なのよ。だからお願い、私の想いにケジメをつけさせて――」

 君は彼女が俺を慕っていることを知っていたんだね。だから俺一人で彼女に会いに行かないよう願ったんだ。こうなってしまう結末を予想出来たから。

 俺は弱い男だ。そう痛切に感じずにはいられない。でも彼女の気持ちにどう折り合いを付ければ、君に対しても収まりがつけられたんだろう。ただ一つ言えるのは、俺にはその答えが見つけられなかったって事なんだよね。

 唇に残る罪悪感が俺の心をすり減らしていく。そして君への背信行為とも呼べる今回の裏切りが、更なる君への冒涜(ぼうとく)にへと向けられる事になってしまうんだ。



 7月も半ばを過ぎた頃。大学4年の俺は就職活動の最前線に立たされていた。そして初めて肌身で感じる社会という現実に、俺の精神は追い詰められていたんだ。

 やっぱり俺って男は社会ってものを甘く見ていたんだろうね。世間では就職氷河期だなんて言って、学生の就職難が取り沙汰されている。それでも自分ならばさほど手間を掛ける事なく、就職出来ると思っていたんだよ。

 根拠なんてどこにも無い。それどころか社会に対する信念や希望すら持ち合わせてもいない。それなのに俺が高を(くく)っていられた訳は、初めから会社選びを放棄していたからなんだ。

 俺にはこれと言ってやりたい仕事が無かったからね。だから就職出来れば何処(どこ)でも良い。そう思っていたんだよ。

 初めから就職先へのハードルを下げる事で、簡単に就職戦線から離脱することが出来る。そう甘い考えを巡らしていたんだろう。要は競争を嫌う俺の性格がゆえに、少しでも早く気持ちを楽にしたいだけだったんだ。

 それが将来を決める大切なレースより身を引いてしまう行為なんだって事は、それなりに理解はしていた。でもそれは俺自身の責任であって、誰に文句を垂れる訳でもない。ハンパな覚悟だけど、その事についてはそれなりに自分でも考えはしていたんだよね。

 それでもいざ就職活動を始めると、その厳しさを痛感せざるを得なかった。いや、違うか。相手のハードルを下げたつもりが、それと同時に自分自身の価値をも下落させてしまったんだよ。

 会社側の目だって節穴(ふしあな)じゃないんだ。目的意識も無く、ただ漠然と就職がしたいだけの俺なんて、採用するはずもないんだよね。それに何処でもいいなんて思っておきながら、俺は結局のところ給料面や福利厚生面で高望みしていたんだよ。やっぱり就職するからには、ここは(ゆず)れないよなって感じにさ。

 そんな俺は就職難に(なげ)く学生の典型的なパターンに(おちい)ってしまったんだ。そして周囲の友人達は、俺をあざ笑うかの様にして次々と就職先を決めていく。それでもまだ、現状を把握して冷静な対応が取れていたならば、俺は救われていただろう。いくら就職氷河期と言えども、就職先がまったく無いわけじゃないんだからね。でも焦りと憤りで疲弊する俺の心に、それを望む事は無理だったんだ。

 今になって思えば、たとえ就職先が何処でも良かれ、相手にそれなりの気概(きがい)を見せられていたならば、あるいは当初の思惑通りに就職活動は事なきを得ていたのかも知れない。でもそれに俺が気付いた時にはもう、全てが遅かったんだ。そして終わりは唐突に訪れる。それも呆気(あっけ)ないほどにね。


 就職活動に(あえ)ぐ俺を尻目にして、君は就職を決めた。それもそこそこ名の知れた大企業だ。君は運が良かっただけだって言って、その嬉しさを隠そうとしていたね。俺が苦しむ時期だっただけに、気を遣っていたんだろう。本当は俺にも一緒に喜んでほしかったはずなのにね。

「おめでとう」

 俺は君にその一言を告げるだけで精一杯だった。真面(まとも)に向き合って祝福してあげるなんて、とても無理だったんだ。だって君が(うらや)ましくて仕方なかったからね。

 君は(いま)だにジョギングデートの日の(わだかま)りを引きずっていたろうに、それでも表面上は俺に対して変わらず接していてくれた。いや、変わらず接するよう努力してくれていたんだ。

 でもそれがいつの頃からか、俺の(わび)しい心を酷く(ゆが)ませていったんだよ。その原因は言うまでもない。あの日、誰もいない病室で彼女からの話しを聞き、そして彼女のたった一つの想いを()んでしまったからなんだよね。

 俺の胸の内に後ろめたさが残り続けているんだろう。謝らなければいけないのは俺の方なのに、それは分かっているのに、でも君を近くに感じるほど、君が俺への想いを必死で駆り立てようと努力するほどに、俺の気持ちは冷めてしまったんだ。

 君を誰よりも愛おしく想っていた心情に変わりはないはず。いや、変わってはいけないはずだったんだ。でも俺にはどうすることも出来なかった。だって彼女が告げた君のしたたかな心底が、あの日を境にして俺の感情を侵食し始めてしまったんだからね。

 君の就職活動が、決して順風満帆だったわけじゃない。様々な苦労を乗り越えて勝ち取った賜物なはずだ。でも俺はそこに至るまでの経緯には一切(いっさい)目を向けようとはせず、輝かしい結果だけに意識を奪われてしまったんだよ。そしてそこには()じ曲がった(ひが)みと(ねた)みだけが顕在化(けんざいか)されてしまった。

 心疚しくも俺は思う。やっぱり彼女の言った通りだと。君は身近な者の幸せを奪い、それを見せつけては心の中で優越感に浸っているんだとね。そしてその(けが)れた感情は、俺の胸の内を悪意に満ちたものへと急速に変化させていったんだ。

 彼女が病に倒れてからは、恐らくその標的を彼氏である俺に向けたんだろう。俺に就職先が見つからない状況で、君は一流企業に就職して自尊心を満たしていく。いや、そもそもあのジョギングデートの時もそうだったんだ。俺の練習不足は明らかだったはずなのに、君は(なか)ば無理やりに俺を誘った。俺に走りで勝てる事を知っていたんだ。だから君はついて行くにも困難なほど疲れた俺の情けない姿を垣間見る事で、自らに(おご)りを感じ気持ちを高揚させたんだろう。君はそうまでして矜持(きょうじ)を保ちたかったのだろうか。そうする事で、自らの生きる証しでも確かめたかったのだろうか。ただ一つだけ俺にも分かる事がある。それは君が無意識に他者を傷付けているって事なんだよね。

 俺はそれ以外に考えられなかった。君を(うらや)ましいと思うほどに、その感情はズルく卑猥な性質にへと、黒く染め上げられてしまったんだ。まるで彼女の遣る瀬無い気持ちが感染してしまったかのようにね。そして君が告げた俺への気遣いに端を発し、ついに逆上は抑えを利かなくなってしまったんだ。


「大丈夫だよ。もう少し頑張れば、ちゃんと決まるよ」

「何をどう頑張ればいいって言うんだよ。軽はずみな事言ってくれんな! お前が言ってるのは就職決まった勝ち組の余裕な意見なんだ。まだ何も決まってない奴の気持ちなんか、分かるわけないんだから黙っててくれよ!」

「そ、そんな。私だって簡単に決まったわけじゃないんだよ。だから就職活動してる人達みんなの苦労は分かってるつもり。もちろんあなたの事だって」

「だったら放っておいてくれよ! 俺は明日面接なんだし、今だってこうして油を売ってる(ひま)ないんだからさ。そもそもお前の自慢話しなんて聞きたくもないし、まして俺の就活の参考にもなりゃしないんだ。俺が受けてんのは三流以下の会社ばかりなんだからさ!」

「会社の大きさなんて関係ないよ。それに私は自慢なんてしてないし、あなたに何かを教えられるほどの事もしてない。私はただ、あなたの苦痛を和らげたいだけなの。何も出来ないけど、あなたの(そば)に居ることで助けになりたいの」

「それがいらないお世話だって言ってんだよ! はっきり言って邪魔なんだよ。俺は今、就活に集中しているんだ。だから余計な口出しは止してくれ」

「そ、そんなつもりは全然ないよ。私はただ、あなたが心配で」

「そう言えば俺が喜ぶと思ってんのか。本当は俺が就活に悩んでいる姿を見て楽しいんじゃないのか? 俺がお前についていけない姿を見て、滑稽だとあざ笑ってんじゃないのか!」

「えっ、何を言ってるの?」

「とぼけるのもいい加減にしてくれよ」

「ちょっと待って。私にはさっぱり」

「いつだってそうさ。いや、ずっと前からそうだったんだ。お前は内心で哀れな他人を(いや)しみ、もがき苦しむその姿を覗き見る事で、更にそれらを(さげす)んでいたんだよ。きっとそうすることでお前は心を満たしていたんだろう。人を小馬鹿にすることで、お前は自分の存在意義を自身の心の中に確立していたんだ。だからそんなにも無頓着に、就活に悩む俺に向かって心無い気遣いが出来るんだよ」

「そ、そんな事ないよ。私は本当にあなたの事が心配で」

「それが思い上がりだって言ってるんだよ! それに以前、お前はグラウンドの休憩所で言ったよな。彼女がいつの日か倒れるのを期待していたってね。初めは無意識だったかも知れない。でも今は気付いてるんじゃないのか。そんな自分の心の腹黒さにさ」

(ダメだ――)

「でも実際に彼女が倒れた姿を見て、君は衝撃を受けたんだ。自分が願っていた事が現実となった。けどそれは自分の望みを超えた痛ましいものだったんだとね。だからあの事故の後、君は俺を探してグラウンドに向かったんだよ。君があの日グラウンドにいた理由。その一つは彼女が無事に目を覚ました事を俺に伝える為。でも肝心なのはもう一つのほうの理由だったんだ。休憩所で俺に告げたように、君は君自身の弱さを抑えきれなかった。だからあの日の事故を共有した俺に(すが)り、自分の心の傷を癒したかったんだ。そして君は俺に身を任せる事で、その傷を柔和に(ふさ)いでいったんだよ。たぶんそれだけでも十分に君の胸の内は救われた事だろう。でも俺と付き合い出した事で、皮肉にも君は君自身の中に(くす)ぶっていた心情を知ってしまったんだ」

(それ以上言ってはダメだ――)

「君は走る事を覚えた。そして走る事で何も考えずにいられる自分自身に気がついたんだ。それが何を意味するのか。もちろんそれは、君が彼女という呪縛から解放された事を意味するんだよね。俺と共に過ごす事で、君の気持ちが和んでいったのは事実だろう。でも彼女の倒れた姿を見た君は、その訝しさを胸に抱き続けていたはずなんだ。だって彼女と幼馴染(おさななじみ)の君にしてみれば、あれはそう簡単に振り払える記憶じゃないはずだからね。だけど君は走る事で、それら全てから解放される事に気がついたんだ。恐らくそれは君にとって、目を見張るほどの発見だったんじゃないのかな。辛く悩ましい記憶から、すっきりと解き放たれたわけだからね。だけどそこに新たな課題が浮き彫りになってしまったんだよ。彼女の存在は自分自身を苦しめつつも、逆に自分の存在意義を見出す事にも繋がっていた。その彼女という存在が手の届かない場所へと行ってしまったんだ。でもそこで君は新しい生き甲斐を見つけるんだ。俺っていうバカな存在をね」

 必死で言い聞かせるも、俺の口から出る浅ましい言葉は止まらない。それがどれだけ卑猥で許しがたい発言であるのか。それは口から出るその瞬間より理解することが出来ていた。でもそれなのに俺は止める事が出来なかったんだ。

「君は俺に何も望まなかった。その事を俺は君の優しさだと思っていた。でも少し違っていたんだね。確かにそれが君の優しさからくるって事も本当だったんだろう。でも本質にはまったく違った感情が込められていたんだ。バカな俺の存在を身近に感じる事で、自らの優越感を満たし幸福さを(たしな)めていく。ようは彼女から抱いた自身の存在定義を、俺に移動させただけだったんだよ。だから君は俺に対しても、そして入院中の彼女に対しても、気立ての良い振りばかりをし続けていられたんだ」

 君は大粒の涙を流していた。今日くらい、本当なら就職を決めた嬉し涙を流したかったろうに。でも俺の卑屈な言葉は君の心に痛烈な一撃を与え、その涙を悲痛なものへと変えてしまった。――もうダメだ。俺にはもう、君を傷付ける事しか出来ない。

「いい加減、自分の気持ちに素直になったらどうだよ。そうすれば、君自身はもっと救われるんじゃないのか? いいじゃないか、そこに悪意が存在しようと、君の行為自体は犯罪でもないし、まして(とが)められる筋合いもなんだからさ。それに君は事実を正しく認識しているだけなんだ。俺っていう不甲斐ないバカな男の姿を蔑む。そこには何一つ、嘘偽りは存在しないんだからね。でももう耐えられない。俺にはもう、君を愛おしく想えない。――――だからもう俺達、この辺で終わりにしないか」

 疲れ切っていた。何もかもが嫌になっていた。だから激しく憤る感情の勢いに任せて、俺は心にもない一言を添えてしまったんだ。君に何を告げたのか理解出来ないままでね。でもそこで君が俺に返した言葉は意外なものだったんだ。いや、少なくとも俺には想像し得ない言葉だった。

「……ごめんね。私の気持ちがあなたにとって、どれほどの負担になっていたかなんて気付きもしなかった。本当にごめんなさい」

 涙ながらに君は続ける。

「いつだって私には自信がなかったから、つい人を頼ってしまう弱い心が潜んでいたんだと思う。だからあなたにも、彼女にも、私は気付かないうちに酷い事をしてしまったんだね。その事についてはちゃんと謝るよ。それにこれからはしっかり気を付けるよ。でもね、ただ一つだけ、信じてほしいの。私は嘘なんてついてない。いつだってあなたには、あなただけには私の本心しか語ってない。だからお願い、別れるなんて事だけは言わないで。私にはあなたが必要なの、だからお願い。私を信じて――」

 君の口から発せられた誠意の(こも)った謝罪の言葉と、俺だけを(すが)る哀切な眼差し。それが君の本心なんだって事は、錯乱したその時の俺ですら理解することが出来ていた。でも君が俺に『ごめんね』って謝るほどに、俺は自分自身の(あやま)ちから過度の重圧を受けずにはいられなかったんだ。本当は俺の方が、誠心誠意をもって君に謝罪しなければいけないのにね。でも俺にはそれが出来なかった。だから俺はこの居た堪れない状況から逃げる口実として、(てい)の良い建前を(かこつ)けてしまったんだ。

「このまま俺と一緒に居ても、君は幸せになれないよ。だからもういいだろ。出てってくれないか――」


 君が俺の為に告げた言葉の意味なんて考えようともしなかった。まして君が俺の為に流した涙の訳なんて、知ろうともしなかった。ううん、それだけじゃない。心無い言葉を浴びせられたのにも関わらず、それでも俺を想い続けてくれた君の優しさを、俺は無残にもバラバラに引き裂いてしまったんだ。

 全ては俺の(やま)しい気持ちを隠したいだけだったんだろうに。それがどうして君への()け口として激しく表面化してしまったんだろうか。俺がバカだった――なんて簡単な言葉では釈明できない苦しみを君に味あわせてしまった。でも救われないのは、それで俺と君との関係が全て終わったわけじゃなかったんだよね。

 俺は生きてる価値なんてない。そう思わずにいられないほどに、俺は君を更なる絶望の淵へと突き落としてしまったんだ。君を悪く言う権利なんて、俺には微塵にも持ち合わせていなかったはずなのにね――。

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