第七話
5位入賞。それが今回の大会で俺が残した結果だ。そしてもちろんながら、それは我が部始まって以来の快挙でもあった。
さらに付け加えると、今回の大会で実施されたその他の種目においても、俺以上の好成績を勝ち取った部員はいない。言ってみれば、俺は数多くいる部員達の中で、最高の結果を残してしまったんだ。
とにかく信じられないというのが俺の本音。予期せぬアクシデントが連発した影響とは言え、まさかこれほどの結果を刻む事になろうとは、俺自身まったく受け入れられていない。でも現実として決して覆せない入賞という記録が、皮肉にも俺に不吉な思いを連想させてしまうんだよね。
「参ったな。こいつはどうも、マズイ事になりそうだ……」
君と一緒に帰り支度をしていた俺は、心の中でそう感じていた。今後の展開が、なんとなくだけど予想出来たんだよね。だから誰にも気付かれないよう、静かにこの場から立ち去ろうと努めていたんだ。
しかしそんな俺の姑息な想いは早々に崩れ落ちてしまった。息を潜めて会場を後にしようとした俺と君だったけど、でもそこに一番見つかりたくなかった相手である、キャプテンの彼が立ち塞がってしまったんだ。
「ハッハッハッ。何処に行こうというのかね」
どっかで聞いた事のあるセリフで俺と君を呼び止めるキャプテン。そして案の定、彼は俺の予想通りの言葉を続けたんだ。
「まさか帰るなんて冗談は言わないよな。大会が終了したら盛大な打ち上げを企画してるんだ。そこに我らが陸上部創設以来の快挙を成し遂げた【お前】が居なかったら話にならんだろ。だからお前達はこのまま俺と一緒にいてもらう。分かったな!」
意気揚々とするキャプテンは、満弁の笑みを浮かべてそう告げた。でも明らかにその目の奥には強引で脅迫めいた圧力を感じ取る事が出来る。他人に対して常に及び腰の俺の性格を良く理解しての対応なんだろう。俺が逃げ出さないように厳しく監視するつもりなんだ。
クソっ。このままじゃ打ち上げの主役に祀り上げられちまう。そんなの俺に耐えられるわけがない。どうにかしてこの場から逃げ果せなくては。
俺は助け船を求める為に、君に対して目配せをした。けれど君の方もキャプテンの強引な態度に諦めていたんだろうね。軽く首を横に振って俺に答えたんだ。『今回ばかりは参加するしかなさそうだね。結果残しちゃったんだから仕方ないよ。それに今日はみんなが祝福してくれるわけだから、その好意は受け入れないとね。人の多い場所は私も苦手だけど、一緒に居るからガンバろ』ってさ。
マジかよ。いや、俺だって君が言う様に、みんなの気持ちは本当に嬉しく感じているんだ。だけど飲み会に行くなんてまっぴら御免なんだよね。だって彼らが祝いたいのは俺が叩き出した成績についてであって、それを口実にしてバカ騒ぎしたいだけなんだからさ。そして俺自身については相変わらずの日陰者扱いなんだろうし、場合によっちゃぁ君との関係についても、有る事無い事揶揄されるだけなんだろうからね。それに根本的な問題として、俺は飲み会のハイテンションなノリについていけないんだよ。どこかそんな雰囲気に気持ちが引いちゃうんだ。恐らくみんなの輪に上手く入り込めない事が、俺の心に疎外感を抱かせてしまうんだろう。結局のところ、他人との関わり合いが怖いんだよね。
でもその時の俺に逃げ場は無かった。諦める以外に選択肢を見つける事が出来なかったんだ。だってそれほどまでに俺の築いた入賞という結果は、輝かしい価値を生み出してしまったんだからね。
君が隣に居てくれる事だけを救いにして俺は覚悟を決めた。どんな冷やかしがあろうと耐え抜いてみせる。今まで散々陰口を叩かれてきた俺だ。この期に及んで怖気づく必要はどこにも無いはずなんだって感じにね。
俺はそう強がりを決めて胸の内を騙し続けた。恥ずかしい話しだけど、そうしなければ足が竦んで動かなくなりそうだったんだ。
キャプテンの彼に促されるままに俺は打ち上げ会場へと足を運ぶ。そこにはさほど言葉を交わしたことの無い同輩達が、数多く詰めかけていているはずだ。そしてその同輩達とこれから数時間に渡り、肩を並べて酒を飲を酌み交わさなければいけない。そう考える俺の背中に走ったのは、レースに臨んだ時とはまったく違った緊張感だった。
アルコールについては嫌いなほうじゃない。いや、むしろ家ではよく飲むほうだ。でも酒の味っていうのは、その場のムードで激変するモンなんだよね。だからこれから飲む酒が、たとえどんな銘酒であろうとも苦く不味いものだということは容易に想像することが出来た。
君と二人きりで祝賀会が出来ればどれだけ幸せなんだろうか。そう思わずにはいられない。未だ現実味の無い大会結果を君と一緒に振り返り、それが本当の事なんだと確かめ合う。そして嬉しさを共に分かち合いながら、熱く甘い夜を過ごす。それが高望みだというのだろうか。レースの疲れとは明らかに異なる足の重さを感じながら、俺はキャプテンに従い席に着いた。
少し小さめな居酒屋を借り切った打ち上げ会場は、詰めかけた陸上部員達でびっしりと埋まっている。そして代表であるキャプテンの彼の挨拶で打ち上げは幕を開けた。
ついに苦痛の時間が始まってしまった。でも一次会は長くても3時間程度なはず。二次会は確実に断るつもりだから、ここをなんとか耐え抜けさえすれば、心は解放されるだろう。
そう覚悟を決めた俺は周囲を無視するが如く、君と二人きりの世界に入るよう無理に努めた。たとえこんな賑やかな場所であろうとも、二人の空間を築けさえすれば、時間なんてあっというまに過ぎ去ってしまうだろう。俺はそう期待したんだよ。そして君も俺のそんな気持ちを快く察してくれていたんだ。乾杯が終ると、君は微笑みながら俺だけを見つめてお喋りを始めた。周囲の雑音から俺を守ってくれるかの様にしてね。
俺は君の心遣いがとても嬉しかった。気持ちの部分で俺と君は通じ合っているんだって思えもしたから。でも俺達の意図は即刻に破綻してしまう。開始から5分と経たずして、陸上部の中でも最もアクの強い奴が俺達に絡んで来てしまったんだ。
よりによってコイツが初めかよ。俺は嫌悪感を抱かずにはいられない。だってまだ乾杯してから大して時間は経っていないのに、そいつはすでに生中を3杯ほど飲み乾しているんだからね。そしてテンションは恐ろしいほどに高揚している。
思えばコイツは俺と君が付き合い始めた事を誰よりも嫉んでいたはずだ。ならば間違いなく嫌味を言いに来たんだろう。『少しくらい大会で良い成績を取ったからって、調子にのるなよな!』って感じにさ。
俺は奴から投げ掛けられるであろう卑劣な言葉を受け止める為に身を強張らせた。だってその言葉の中身次第では、打ち上げをブチ壊すほどに衝動を暴発させてしまうかも知れないのだからね。君がテーブルの陰から上着の袖をそっと摘んだ行為からして、俺の醸し出す焦燥感は煩わしさを抑えきれていなかったんだろう。
拳にベトついた汗が溢れて来る。次の瞬間に自分が何を仕出かすか分からない。そんな鬱屈した心情の中で、しかし俺の耳に聞こえて来たのはまったく予想しない言葉だったんだ。
「お前があんなにも頑張れる男だったなんて、俺は誤解してたみたいだよ。それに今日のお前の走りには、こっ恥ずかしいけど感動しちまってな。正直見直したっつうか、スゴイ奴だったんだなって思ってね。今まで陰で色々と悪口とか叩いちまったけど、悪かったよ」
顔を真っ赤に染め上げた彼は、そう言って俺に握手を求めて来た。彼の素振りからして、その言葉の心意が本物なんだと言う事が伝わって来る。たぶん彼が打ち上げ開始して間もないのにビールをガブ飲みしたのは、俺にそれを告げる恥ずかしさを紛らわせる為だったんだろう。でもその時俺は彼が何で握手を求めて来ているのか、よく理解出来ていなかった。あまりに想定外の発言に戸惑っていたんだよ。するとそれを感じ取った君が、俺の手を強引に持ち上げて彼と握手させたんだ。いがみ合う要因なんて初めから存在してやしない。些細な誤解がそこにあっただけなんだ。まるで君はそう告げているかの様だった。
硬く手を握り合った俺と彼は照れ臭そうに笑みを漏らした。そしてそれを優しく見つめていた君は、俺に向かって早く返事しなさいって促したんだよね。
「ゴ、ゴメン。俺のほうこそ変に意地張っちゃってるとこあったろうから、みんなに誤解させたのかも知れない。それに感謝を伝えるべきなのは俺の方だよね。ラストの直線で、みんなが送ってくれた声援がすごく力になったんだ。最後まで全力で頑張れたのは、きっとみんなのお蔭だよ。本当にありがとう」
自分でも驚くほど素直に口から出た言葉だった。誠意を持って向き合ってくれた彼に対し、俺の心が正直に本音を告げたんだろう。ただふと隣を見ると、君が大粒の涙を流して泣いていた。それがとても温かい嬉し涙なんだろうってことは直ぐに把握したけど、でもなんで君がそこまで涙を流すのだろうか。それが君の優しさなんだって事は十分理解はしていたけど、俺は声を出して笑ってしまった。だってそうでもしなければ、俺も泣いてしまいそうだったから。
それから一次会の終わるまでの3時間は、とても充実したものだった。初めに彼が俺との蟠りを取り除いてくれたことで、その他の部員達も俺に対して変な抵抗を覚えなかったんだろう。冗談を踏まえつつも、好成績を刻んだ俺に向け温かい祝福の言葉が浴びせられる。もちろん怯えるほどに当初考えていた打ち上げ参加への拒否感は、いつしか見る影も無く消え失せていた。
思いがけなく陸上部の仲間達と邂逅出来た事に、俺の気分は舞い上がるほどに軽やかだった。でもさすがに試合当日である事もあってか、一次会終了時には体に極度の疲れを感じる様になっていた。必要のない気苦労を感じていたため、余計にここに来て疲労感が表面化して来たんだろう。
二次会への抵抗感は無かったけど、でも俺はそれを断った。初めて共有した仲間達との時間をもっと楽しみたかったけど、酔いのせいもあってか体が限界を迎えていたんだ。
口惜しむ部員達に別れを告げて、俺は君と一緒に最寄りの駅に向かい歩み出した。足元が覚束ないのは疲れの影響なのだろうか、それとも酒に酔ったせいなのだろうか。でも心地よい気分に身を委ねている様で悪い感じはしなかった。
繋いだ君の右手を俺のジャージの左ポケットに仕舞い、肩を寄せ合って進む。今晩は満月なのか――。見上げた夜空には真ん丸に輝く月が浮かび、優しい光で輝いていた。
そうだ。今日これほどまでに頑張れたのは、他ならない君が心から応援してくれたからなんだよね。そう思った俺は、少しだけ気恥ずかしさを感じながらも、君に感謝の気持ちを伝えようと改まった。でもその時、淡い月の光に照らされた君の表情がとても綺麗なものに見えて、伝えたい気持ちが声にならなかったんだ。すると君は何を思ったのだろう。俺の顔を見て軽く微笑むと、一言だけ小さく告げたんだよね。
『打ち上げに来て良かったね』ってさ。
本当にその通りだ。十分に彼らとは分かり合えた。きっと明日からは今までとまったく違った生活が待っているんだろう。でもそのきっかけを作ってくれたのは、やっぱり君なんだよね。
部の仲間達が俺を快く受け入れてくれたのは、今日の結果があったからに他ならない。もちろん些細な誤解を解く方法は他にあったかもしれないし、時間が経てば自然に打ち解けあえたのかも知れない。けど俺の頑張った姿にみんなが少なからず感動してくれたのは事実なんだ。そしてそれだけの頑張りが出来たのは、偽り無く君の為に走ろうと誓ったからなんだよね。
「ありがとう」
彼に対してはあれほど自然に告げられたその一言が、どうして君に言えなかったんだろう。狎れあった彼氏と彼女という関係が、僅かに俺の気持ちを希薄なものに変えさせてしまったとでもいうのだろうか。いや、そうじゃない。馴染めなかった部員達と心を通わせられたことで、俺の気持ちは完全に酔いしれてしまったんだ。だから君の気持ちを御座成りにしてしまったんだよね。
『一つだけお願いがあるの』
だからその後に続けた君の言葉の心意を、俺はまったく理解する事が出来なかった。と言うよりも、軽く聞き流しただけだったんだ。君が精一杯の決意でそれを俺に告げたって言うのにね。
『入院している彼女のお見舞いには、決して一人で行かないでね』
今頃なに言ってんだよ。たった一度だけしか真面に話していない彼女の所へ、俺一人でなんて行くわけないじゃないか。人見知りの性格は君なら十分過ぎるほど分かってくれているはずなのに、どうして今更そんな事を俺に願うんだよ。
結局のところ、俺は自分の事しか考えていなかったんだろう。感謝を込めた君への優しい気持ちが溢れて来るのは確かなのに、それは一方通行になるだけで【君からの想い】には耳を傾けなかったんだ。
自分勝手に想いを馳せる俺は、君の未来に俺の居場所はあるのか、共に並んで未来に進めるのか、そんな独りよがりな心配だけを胸に抱いていたんだよね。救い様の無いバカだよ。俺って奴はさ。だってその希薄な気持ちが、後に取り返しのつかない裏切り行為にへと及んでしまうんだからね――。
季節は冬が終わろうとしていた。大学3年の後期も終盤に入り、もう直ぐ期末試験の日程も発表される頃合いだろう。気温の低さも相まってか、なんだか胸の内が重い気がする。それでも俺にとって、あの大会が終わってから今までの期間はとても充実したものだった。
というのも、大会後に訪れた君の誕生日やクリスマス、そしてお正月と、君と共に過ごす時間がとても多かったからね。その度に俺は君と愛情を育み、お互いの存在意義を確かめ合ったんだ。
掛け替えの無い存在と大切な時間を共有する。これ以上の幸せがこの世の中にあるんだろうか。これ以上に何を望めば良いのだろうか。君の温もりから伝わる幸福感に癒されながら、俺の心は穏やか和んでゆく。それなのに何故なのだろう。俺の気持ちの中で、確実に変化する部分が芽生えていたんだ。
君の事が大好きなのは変わりがないし、変わるわけがない。絶対に手放せない親愛なる君という存在。でも同じ時間を長く共にすることで、そんな感覚が少し麻痺してしまったのかも知れない。その兆しとして、俺は君を放って出掛ける機会が増えていたんだ。
その理由はあの大会後の打ち上げにある。あの日、俺はそれまで疎遠だった陸上部のメンバーと腹を割って話す事が出来た。それが大きな契機になったんだろう。俺は時折そんな【新しい仲間達】に声を掛けられ、遊びに出掛けるようになっていたんだ。
不思議だよね。あれほどにまで毛嫌いされていた俺なのに、今ではそんな仲間達と冗談を言い合ったり、悪ふざけをする間柄にまでなっている。恐らくあの大会で結果を残した事が、何よりも彼らに衝撃を与えたんだろう。それに影口を吐き捨てながらも、彼らは俺が暑い夏に過酷な練習を積み上げていた事を目の当たりにしていたんだ。そしてその頑張り抜いた姿に彼らは内心で驚いていたんだよ。感銘を受けるほどにね。
それだけでも彼らが俺を見直すには十分だったかも知れない。でも打ち上げ会場で改めて俺と遠慮の無い話しをすることで、彼らは俺という存在を受け入れてくれたんだ。
初めのうちは気恥ずかしさもあってか、なかなか上手く仲間に解け込む事が出来なかった。今まで人とツルんで行動することなんて、ほとんど無かった俺だからね。無理もない事さ。でもそんな俺の性格を仲間達は機敏にも察し、強引と呼べるくらいの温かさで迎え入れてくれたんだ。
そんな彼らに対し、俺が心を開くのは至って自然の流れであり、さして時間は掛からなかった。なにより同性の仲間達と遊ぶ時間を共有する事が、俺にとっては非常に新鮮であり、また理屈抜きに楽しかったんだ。
その結果、俺は君を一人置き去りにして、彼らとの戯れ事を優先する様になっていた。どこか同性との気兼ねの無いバカな繋がりに、居心地の良さを覚えていたのだろう。酒を飲んだり、マージャンをしたり、時にはナンパに繰り出したりもした。――まぁ、それは成功には至らなかったけどね。でもそんな他愛のないお遊びに、俺の心は今まで感じたことの無い喜びを抱かずにはいられなかったんだ。
その時の俺は意味も無く得意げな表情をしていたのかも知れない。気分上々の日々を送り、付け上がっていたろうからね。だけど君はそんな俺を快く送り出してくれたんだ。『行ってらっしゃい』って、笑顔を浮かべてね。
たぶん君の事だ。疎外され続けていた俺が、陸上部の仲間達と楽しそうに出掛ける姿が微笑ましかったんだろう。みんなと打ち解け合えた事が、君にとっても嬉しかったんだろう。だから君は何も言わずに俺を送り出してくれたんだ。一人になることが寂しくてもね。
それにきっと君は信じていたはずだ。俺が君の元に帰ってくるのだと。今は初めて味わう男友達と遊ぶ楽しさに呆けているだけで、それが落ち着けばまた今まで通り自分と一緒の時間を大切にしてくれる。そう信じて疑わなかったはずなんだ。だから君は忸怩たるも俺が遊びに行くのを止めなかったんだよね。
でも俺はそんな君の心情を、これっぽっちも捕える事が出来ていなかった。それどころか、増々仲間達との時間を優先するようになっていたんだ。「明日こそは必ず君との時間を作るからさ」なんて、口から出任せを並べてね。
君のいる生活を何よりの中心としていたはずなのに、いつしか俺は仲間からの誘いの連絡ばかりを待ち侘びる様になっていた。今になって思えば、そうまでして彼らと遊ぶ事に何一つ意味は感じられない。けれどその時の俺は自分の愉悦を満たしたいが為だけに、君を一人残して毎晩遅くまで遊び呆けていたんだ。携帯に残る君の着信記録に気付かないフリまでしてさ。
そして更に救われなかったのは、君と過ごす時間を無下にしてしまった事だ。俺と会えない時間が増えた分、君は一緒にいるその瞬間を今まで以上に大切にしたかったんだろう。だから君は俺に対し、それまで以上に多くを語り掛け、また甘えもしたんだ。それなのに俺は積極的に君の話を聞こうとはしなかった。いや、むしろ煩わしく思うほどに、君を蔑ろにしてしまったんだ。
話し半分に君のおしゃべりに付き合いながら、携帯ばかりを見てしまう。それが怠慢な素行なんだということは十分に理解している。だけど俺は身勝手にも、自分だけの楽しみにしか悦びを見出せなかったんだ。
自分を犠牲にしてまでも、この先ずっと君を守り抜こうと決意したはず。その想いは決して嘘なんかじゃなかったはずだ。
夜が明けるほどまでに遊んだ挙句、薄らと明るくなる空を見上げては、俺は次こそは君との時間を大切にしなければと自責に駆られた。こんな事ばかりをしていたら、いつの日か君が俺の元を去ってしまうんじゃないかって、怖くなったんだ。でも仲間達からの誘いが来る度に、その感情は露と消えた。
どうしてそんなにも彼らと遊ぶ事が楽しかったんだろうか。初めて共有する男友達とのバカな結びつきに、ただ夢中になってしまっただけなんだ――なんて、とても理由としては解釈出来ない。そしてもう一つ理解出来ない事がある。それは君が俺に対して腹を立てなかったって事なんだ。
どうして君は無責任な俺に不満をぶつけなかったんだろうか。いや、それどころか愛想を尽かして立ち去ったとしても、俺は文句も言えなかっただろうに。それなのに君は健気にも、俺のことを待ち続けていてくれたんだ。
君がどれほどの想いで俺に気持ちを寄せていたのか。不覚な事に当時の俺には考える由も無かった。いや、そもそも俺は君の気持ちを理解する以前に、君の想いになんて気付きもしなかったんだ。そしてそんな浅はかな俺の態度が、さらに君の気持ちを踏みにじってしまったんだ。君はいつでも俺の事だけを見ていてくれたっていうのにね。
後期試験が始まる前の最後の週末。俺は久しぶりに君とのデートに出掛けた。それも夏以来となる皇居外苑でのジョギングデートだ。
俺の大学は試験の1ヶ月前より、強制的に部活動は休止になる。だから体を動かすのは久しぶりだったんだよね。ちゃんと走れるのか少しだけ不安を感じる。でも君の笑顔に釣られて俺は走るのを決めたんだ。
勉強疲れをリフレッシュさせる行為として、君は俺をジョギングに誘ったんだろう。気持ちの良い汗を流す事で、改めてテストに向けて気合を入れ直す。君はそう考えたんだ。
俺達はお互いの体を支え合いながらストレッチ運動を熟し始める。昼時であるにも関わらず、顔は凍てつくほどに冷たい。ケガをしたら身も蓋もないから、ウォーミングアップは入念にするとしよう。丁寧な動作でしっかりと全身の筋肉に熱を伝わらせてゆく。ただそこで俺は君の表情を見て目を細めたんだ。
君がとても楽しそうに微笑んでいたからね。その笑顔が一際輝いていて見えたんだ。久しぶりのジョギングデートが嬉しいんだろう。俺はただそう感じていた。走る楽しさを覚えた君にとって、ここはそのキッカケにもなった場所なんだから。でも君の笑顔が透き通るほどに輝いて見えた理由は、それだけじゃなかったんだよね。君は久しぶりに共有する俺との時間を、この上なく幸せだと感じていたんだ。だから俺に向けるその優しい笑顔は眩しかったんだよ。
けど寂しい事に、その時の俺は君の気持ちをそこまで察してあげられなかった。君との時間を大切にしようと努めていたはずが、心の片隅ではこの瞬間にも仲間達から遊びの誘いが来るんじゃないかって考えていたんだよ。だから今一つジョギングにも集中しきれていなかったんだ。
それでも俺は高を括っていた。いかに君が持久走の素質を持っていようとも、俺は強豪校の選手の混じる大会で入賞したほどの実力者なんだ。先を行く事はあったとしても、まさか君に遅れるなんて事は決して有り得ないんだってね。
だが内堀を一周した時点で俺は愕然としてしまう。信じられない事に、君の走りに付いて行くだけで精一杯だったんだ。またそれにも増して驚いたのは、君にまだ余裕があったということなんだよね。
走るペースとしてはそれほど速いわけではない。ただそれは大会に臨んだ俺の感覚が告げるものであって、恐らく一般のジョギングレベルにしたら、十分なほどのスピードが出ているはずだろう。
『大丈夫? 顔色良くないけど、少し休む?』って、君は走りながら俺に言ったね。
「問題ないよ」
それが強がりだというのは見え見えだったろう。どう誤魔化したって、隠しきれないほどに全身から疲れが吐き出されていたからね。もちろん君だってそれに気付いていたはずだ。でもだからと言って簡単に走るのを止めるわけにはいかない。俺には大会入賞者という意地とプライドが固持されているんだから。
しかし体は正直なモンさ。どれだけ気持ちで抗ったところで、足は思うように動いてくれない。完全なる練習不足の賜物だ。
正直焦ったね。これほどまでに体力と筋力が低下していたなんて、想像していなかったから。でも冷静に考えるまでもなく、それは当然の結果なんだよね。だって俺はあの大会以降、遊ぶ事を優先してロクに陸上の練習をしていなかったんだからさ。
それに引き替え君は走る事を続けていた。いや、俺が遊び呆けている分、君は余計なほど練習に時間を費やしていたんだ。
恐らく君は、一人孤独に感じる寂しさを紛らわせる為に走り続けたんだろう。かつて君は『走ってる時は、頭の中が空っぽになる』って言ってたからね。何もしないで俺を待つより、そうして体を動かす事で気持ちに折り合いをつけていたんだろう。何も考えずに済むという事は、不安を掻き消す事にも直結するんだからさ。逆にそうでもしなければ、気遣わしい嫌悪感に押し潰されていたかも知れないだろうしね。
それに君はやっぱり走る事が好きなんだ。高まる鼓動に早まる呼吸。それらがテンポ良くリズムを刻み、滑らかな波長を生み出した時、君は爽快感と共に今を生きる確かな実感を深く味わっていたんだ。だから君は微笑みながら走り続けていられたんだよ。
君は心から走る行為を楽しんでいる。それって凄い才能だよね。感心するあまり、震えが止まらなくなりそうだよ。陸上を嗜む俺にとって、それは敬意を表して余りあるほどの優れた感覚なんだからさ。
俺は偽りなく、そう心で直感していた。そして少し前までの俺ならば、そんな胸の内の感覚に嬉しさや湧き上がる希望を抱いていたことだろう。君の走りに刺激され、それに奮起し俺自身も頑張たれたことだろう。でもその時の俺の感覚は、まったく逆の感情で溢れ返ってしまったんだ。
練習をサボっていた俺への当て付けなのか。影でコソコソと練習を重ね、俺より早く走る事に嬉しさを感じているのか。走りについて行けない俺のへばり果てた姿を見るのが、そんなにも楽しいのか。沸々と熱を帯びる悔しさが訝しい妬みに変化していく。
それがどれほど惨めで悪しき想いなんだって事は分かっている。でもダメだったんだ。あの大会では、どんなに苦しくとも足を前に踏み出す事が出来たのに、でも今はどう足掻いても体は動かない。その悔しさが、結果的に君への低劣な捌け口として露出してしまったんだ。
「クソっ。今日はなんか気分悪ィから、帰って寝るわ」
走る事を放棄した俺は、そう悪態つきながら一人帰り路についた。まるで拗ねたガキそのものの様にね。逆恨みと同類な間違った怒りで胸の内を真っ赤に燃え滾らせる。でもそれが大きな過ちなんだって分かっていたし、直ぐに君に謝らなければいけない事も理解していた。けど気まずさに腰が引けていたんだろう。俺にはそれを行動として示す事が出来なかったんだ。
後期試験が始まった事情もあってか、それからしばらく君と顔を合わせる機会が無かった。自分勝手にジョギングデートを切り上げた罪悪感は胸にシコリとして抱き続けている。ただその反面、時間がそれを解決してくれるんじゃないかって、都合の良い考えばかりを俺は思い浮かべていたんだ。要は君の優しさに甘え、縋りたいだけだったんだろうね。
しかし後期試験の終わった翌日、俺は取り返しのつかない裏切り行為をしてしまった。運命と呼ぶにはあまりにも出来過ぎた巡り合せであろう。【あの日】からちょうど丸一年が経ったその日。俺と君との関係が始まったのと同じ日に、俺は最悪の間違いを犯してしまったんだ。
どうしてあんな事をしてしまったのだろうか。どうして自分を抑える事が出来なかったのだろうか。その想いは未だに俺の心を締め付けて止まない。
でも現実は残酷にも冷めたものなんだよね。全ては俺がバカだった。それに尽きるだけなんだけどさ――。