第六話
当初は2段階スタートを予定していた1万メートル走だったけど、出場選手数に変更があったため、開始直前に一斉スタートへの変更がアナウンスされた。
確かに競技の運営上、それは事前に決められた手順だったのかも知れない。ただ軽く見積もっても四十人程度の選手が居るはずなんだ。そしてそんな選手達が一堂に揃ってスタートラインに詰めかけている。こんな乱雑な状況で正しいスタートが行えるのだろうか。直感としてそう思った俺は、身が竦むほどの不安を抱かずにはいられなかった。
選手同士の間隔は息苦しさを覚えるほどに狭い。まるですし詰めにされた満員電車の様だ。でもこの場にいる者達みんなの心情は、純粋にも前向きなんだよね。一歩でも、いや半歩でも前からスタートを切りたい。馳せる気持ちが姿勢に現れ、前へ前へと進まずにはいられないんだ。
そんな選手達に対して係りの者達が落ち着くよう働きかける。けどスタート直前のこの時間帯に、それを促したところで聞く者なんかいるはずがない。いや、ここに来て滾りきった感情を抑えろって言う方に無理があるんだ。
初めの予定通り、2段階スタートならば混乱は抑えられただろう。だってこの混乱状態の主因は、箱根を走るほどの精鋭達が、俺の様な低レベルの選手と同スタートする事を嫌った結果なんだからね。
彼らは箱根という勝負の場を控え、その調整という意味合いでこの大会に参加している。本番さながら他校の有力選手と競う真剣なせめぎ合いなんて、なかなか出来るモンじゃないからね。貴重な練習の一環なんだろう。ただ彼らにしてみれば不運な事に、このレースには招かざる者が多数含まれていたんだ。俺みたいな実力に劣る選手がね。
正直な所、彼らから見れば俺なんて邪魔な存在でしかないんだろう。コースを塞ぐ障害物。まさにそんな感覚なのかも知れない。でもだからこそ、精鋭である彼らは少しでも前方に陣取り、支障になりえる存在を置き去りにして走り始めたいんだ。
どうせ勝負になどなりはしない。君の為に全力で走る事を誓った俺だけど、レースについては早々に見限っていた。さすがに箱根を激走するほどの勇士達を目の前にして、少し気が引けていたんだろうね。それに俺にとって重要なのは結果じゃない。精一杯頑張り抜く事なんだ。この日まで努力してきた成果を自分なりに出し切る。それこそが君への報いに繋がるはずなんだからね。
けど実力の見合わない者達が皆、俺と同じに勝負を諦めているとは限らなかった。そこには空気の読めない勘違い野郎どもが幾人も群がっていたんだ。
奴らは自分の力量を考えもせず、箱根の勇士達に割って入りスタートラインを目指した。そしてそんな奴らを勇士達がさらに掻き分けて前へと身を乗り出したんだ。
集団の入り乱れっぷりは誰の目にも明らかだった。こんな状態でまともなスタートなんか出来るわけがない。今からでも2段階スタートに切り替えるべきなんじゃないのか。集団の最後方に構えた俺は、そんな寒気立つ不安で身を強張らせた。
しかし大会を仕切る審判員達に変化は見られない。彼らは混乱するこの状況を黙殺するがの如く蔑ろにし、怠慢にもこのままスタートさせるつもりなんだ。いや、スタートさせる事しか出来ないんだろう、今の彼らにはね。だって審判員達の表情を見る限り、選手である俺達よりも緊張する素振りが見え隠れするんだからさ。
まさかあの審判達は素人の集まりなのだろうか。いや、そんなはずはない。いくらこれが公式の試合じゃないからって、それなりの強豪校が毎年参加している大会なんだし、その運営方法にはそれなりの信頼があるはずなんだ。
けど1万メートル走を取り仕切る審判員達の表情には明らかに硬いものがある。特にスタートを告げるピストルを携えた初老の男性審判の身動きは拙過ぎだ。俺からその男性まではけっこう距離があるっていうのに、震える彼の手先がのがはっきりと確認できたほどだからね。
乱雑に混迷する目の前の選手達には目もくれず、高級そうな腕時計ばかりをじっと凝視している初老の審判。そんな彼の姿に俺はこう思ったんだ。スタートの合図を担う使命に舞い上がり、大切なその瞬間を前にして気持ちがフワフワと浮ついているんじゃないのかってね。
どこかの大学のお偉いさんなのだろうか。それとも大会運営に関わる何らかの権威のある人なんだろうか。でもそんな事はどうでも良い。俺はただ、無事にスタートが遂げられるようにと祈ったんだ。スタンドで見守ってくれている君に向かってね。
強風は収まるどころか更に激しさを増していく。まるで現状の混乱ぶりを物語っているかの様に。いや、この先に起きるかも知れない不吉な何かを暗示しているかの様にね。
俺は不安を紛らわす為に軽く屈伸運動をした。竦んだ体を解す目的も兼ねて。最後尾にいる俺の周りに選手は疎らだから、その程度の運動に気兼ねはいらなかったんだ。それに隣を見れば、俺と同じ様に体を動かしている者の姿を確認することが出来る。それらの表情から察するに、きっとその選手らも俺と同じくレースを諦めた者達なんだろう。
他人事のように冷めた視線が前衛に向けられる。そんな彼らの姿に矛盾した頼もしさでも感じたのだろうか。理由はよく分からないけど、俺は胸に抱く嘆かわしい不安から少しだけ解放されたんだ。『お前のどこに他人を心配する余裕があるっていうんだ。前の奴らなんか放っておいて、自分の事だけ考えていろ!』って、強く励まされる様にね。
そしてもう一つ。偶然にもその時、俺のすぐ隣に身を置く選手と目が合ったんだ。するとその彼は前方の人だかりを指差してから、呆れる様に溜息を深く吐き捨てたんだよね。やれやれ、こうなっちまったら、後は天命に任せるしかないって感じにさ。
俺はその仕草に思わず吹き出しそうになってしまった。レース本番の緊張感とはあまりに掛け離れた彼の姿勢に、俺は無二の共感を覚えて仕方なかったんだ。だから俺は彼に向かい両方の手の平を上に向けて、この混乱した状況を憂いてみせた。すると彼は含み笑いをしながら頷いてくれたんだよね。
強豪校のユニホームを着てはいるものの、あまりアスリートとしての品格は持ち合わせていない。恐らくはレギュラーと控えの境目あたりの選手なんだろう。だからこんなにもレースに関心が無い素振りをしていられるんだ。
俺は共感を覚えた彼についてそう思った。無意識にも波長の噛み合った彼と自分を重ね合わせていたのかも知れないね。でもそれが大きな間違いであるという事に俺が気付くのは、もう少し先の事だったんだ。
スタート時刻までもう1分を切っている。俺は自分の腕に嵌めた時計の表示を時刻からストップウォッチに変更させた。ただそれと同時に俺の後方から猛烈な突風が吹き抜けたんだ。
立っているのが困難なほどの強い風。俺はそんな風に煽られ体勢を崩す。それでもどうにか足を踏ん張り傾いた体を支え直した。しかし突風が巻き上げた大量の埃が、同時に視界を酷く霞ませてしまったんだ。
とてもじゃないけど目なんて開けていられない。コンタクトレンズをしていた俺は、条件反射的に目を閉じて埃が収まるのを耐え忍んだ。――と、その瞬間、
『パン!』
俺の耳に乾いたピストルの爆発音が響く。まさしくそれは1万メートル走のスタートを告げる合図だった。でも目を開けることが出来ない俺はスタートを切ることが出来ない。
(フザケんなよっ! いくら時刻ちょうどだからって、こんな最悪のタイミングでスタートを告げることないだろうに!)
俺はそう不快感を募らせつつも、薄目を開けて走り出した。けどそんな状態の俺の目に何かが映り込んだんだ。素早くグラウンドを横切る、白く小さい影の塊をね。
「なんだ?」
埃の舞う中薄目を開き、かろうじて前方を見ていた俺にとって、それは良く理解出来ない存在だった。でもその時、すでに事態は深刻な状況に陥っていたんだ。
今か今かとスタートラインに押し寄せていた選手達。その中には俺と同様にコンタクトレンズを目に備えていた者も少なくないだろう。そして突風に吹き付けられた埃を避けるために、そんな選手達も目を塞いだはずなんだ。それはコンタクト常用者に宿命られた不可避の行為なんだからね。
その結果、彼らは体を強張らせざるを得なかった。目が開けられなくなると、人の体は自然とそうなるモンなんだ。でもそこで最悪なことに、スタートの合図が発せられてしまった。
長い陸上生活を営んできた者にしてみれば、たとえ目が開けられなくともスタートが告げられれば自然と足は動くもの。でも一旦強張った体が瞬間的な動作の遅れを誘発してしまう。そしてその一瞬の遅れが、一斉スタートのリズムをバラバラに狂わせてしまったんだ。
ただでさえ選手同士の間隔はゼロに等しいほど密集していた。その状況で動き出しに僅かであっても差が出るというのは致命的な事なんだ。
足を踏まれる者や、強く体を接触させる者が多発しただろう。それだけでも大変な事態だっていうのに、さらにそこに白い影という災厄が付け足されてしまったんだ。
白い影の正体。それは全身を真っ白い毛で覆った一匹の【猫】だった。なぜそんな猫が試合会場のトラックにいたのかは分からない。ただ走り去る姿からして、野良猫なんだろうとは想像がつく。
強風に煽られたからなのか、それともスタートの合図であるピストルの音に驚いたからなのだろうか。ただ確実に言えるのは、その猫がスタート直後の選手集団の前を横切ったという事実なんだよね。
人っていうのは不思議な事に、目の前に何かが飛び出して来たら無意識にも自分自身にストップを掛けるものなんだ。そしてその結果、後方から詰め寄る選手に押され転倒する者が連鎖的に続出してしまったんだ。
観客スタンドからは突発したアクシデントに叫喚が上がる。またインフィールドで競技中だったハンマー投げの選手達からも響めきが起きていた。これほどにも集団で転倒する事態なんて、誰がどう見ても異常事態としか言い様がないからね。
折り重なりながら倒れ込む選手達。前衛に詰めていた選手のほぼ全員が転倒したと言ってもいいだろう。それもかなり激しく倒れた者がほとんどだ。
あちこちから悲痛な呻き声が聞こえて来る。どうやら出血している者までいるみたいだ。それらの選手は傷口を懸命に抑え、苦痛に表情を歪ませている。それにまだ幾段にも重なって倒れている選手達の中には、もっと重大な損傷を被った者がいるかも知れない。
俺は集団の最後尾にいただけに、その被害に巻き込まれはしなかった。でも目の前に広がる大参事に気持ちが怯んでしまい、足が止まってしまったんだ。
ただその時俺の頭に浮かんだのは、レースの中断という二文字だったんだよね。だってもうこれじゃレースになんてならないし、これだけ負傷者が出れば続行不能は当然の判断だろうと信じて疑わなかったんだ。
ハンマー投げの選手達が急ぎ救助に駆けつけて来る。彼らは事態の重大さを即座に嗅ぎ付け、自分達の競技を放って救済に向かい出したんだ。誰に指示されたという訳でもなくね。そしてそんな彼らの迅速な行動にハッとした俺も、倒れ蹲る選手の救護に足を向けた。でもその時、俺は視界に映る一人の選手の姿に愕然としてしまう。だってそれは敬意の対象でもあった、あのキャプテンの彼の傷ついた姿だったのだからね。
彼はグッと歯を喰いしばりながら右の足首を抑え苦痛に悶えていた。その様相からして、かなりの激痛に苛まれているんだろう。俺はそんな彼を救助するため、間近に駆け寄り声を掛けようとした。しかし彼は自分に起きた災難を微塵にも顧みず、近寄る俺に向かって強く叫んだんだ。
『早く走れバカ野郎ッ! 審判はレースを中断してないんだ。俺なんかに構わないでお前は走れ!』ってさ。
この状況で何言ってんだよ。どう考えたって、こんなんじゃレースなんて続けられるわけないじゃないか――。そう思った俺は、寄り合って話をしている審判員達に視線を向けた。だけどそれらの姿に俺は唖然としてしまったんだ。だって審判員の彼らは、ただオロオロするばかりで現状を何一つ正確に受け止めようと努めていないんだからね。
冗談じゃないぞ。大の大人が揃いも揃って何を取り乱してんだ。ハンマー投げの学生達のほうが、よっぽど冷静で適切な対応をしているじゃないか。
会場中が期せずして発生したアクシデントに騒然とする中で、渦中の責任者である審判員達だけが完全に状況に飲まれきっている。いや、それとも競技を滞りなく進行したいと願う、彼らのクソ真面目な本意だとでも言うのか。それにしたってもう少し臨機応変な対応が出来ても良いモンだろうに。
ただそんな緊迫した変事の中で、冷淡にも競技を続行する選手が現れはじめる。俺と同じで事故に巻き込まれなかった者や軽症で済んだ者が、一人また一人と駆け出したんだ。まるでキャプテンの彼が叫んだ激励に促される様にしてね。そしてその中にはあのアフリカからの留学生である、漆黒の彼の姿も含まれていたんだ。
嘘だろ。負傷した彼らを見捨ててこのままレースを続けるなんて、人としてどうかしている。俺には到底無理な行為だ。そう思った俺は、先に進めと急き立てるキャプテンに反抗して救助を続けようと試みた。けどその時キャプテンの彼は、俺の背中を強く突き飛ばして命令したんだ。『お前がここまで頑張った努力を無駄にするな!』ってさ。
その言葉に俺は心の底から怒りで震えたんだ。だってキャプテンの彼だって、この大会に向けて相当な努力を積み重ねて来たはずなんだからね。それなのに意味の分からないアクシデントでその努力は水の泡になってしまった。でも彼はこんな時ですら、チームメイトを気遣って励ましてくれているんだ。自分の痛みや辛さをじっと我慢してね。
立ち上がった俺は猛烈な勢いでトラックを走り始めた。自分の中で培ったはずの走るペースなんか、完全に度返しするスピードでね。もう頭ン中は憤りを通り越し、怒気で真っ黒に塗りつぶされている。バカな審判員達への怒号が俺の全身に響き渡っていたんだ。
負傷者の度合いを調べてから再度レースを仕切り直す。それのどこに問題があるって言うんだ。計画通りに大会を進行する事が、そんなにも優先しなければならない責務なのか。いや、間違ってる。これは絶対に間違っているんだっ! ――って感じにね。
でも案の定、ペースを乱しきって走っていた俺の体力は早々に悲鳴を上げた。強風が向かい来るバックストレートを走り終えた俺の肺は、はち切れんばかりに唸りを上げていたんだ。けど簡単に立ち止まるなんて出来るはずがない。だって俺は忸怩たるも負傷で棄権せざるを得なかった、キャプテンの彼の分まで走らなければいけないんだから。
ちょうどトラックを一周しスタート地点に戻って来た俺は、ハンマー投げの選手に抱えられながら医務室へと向かうキャプテンの後ろ姿を見てしまった。辛そうに足首を抑えているその姿態からして、捻挫でもしてしまったんだろう。でも審判員が冷静な対応に留意し、再スタートの執行を取り計らってくれたならば、彼は走れたかも知れないんだ。
彼はチームのエースとしてこの大会に臨み、みんなの期待を一身に背負ってレースに挑んだはず。その意気込みは並々ならぬものがあったはずだ。それなのに、彼のレースは数歩にも満たずに終わりを告げてしまった。
俺はそれを思うと悔しくて仕方なかった。俺の息苦しさなんて、彼の無念さに比べればクソ程にも価値なんてない。そう思えて仕方なかったんだ。
彼がこの日の為に血の滲む練習を積んできたのは他ならぬ事実のはず。いや、彼だけじゃない。このレースに参加した誰しもが例外なく、筆舌に尽くしがたい努力を重ねてきたはずなんだ。それなのに低能でグズな審判のせいで、その努力がまったくの無駄になってしまった。
「ぶっ倒れるまで走り続けてやるさ!」
退場した選手全員の口惜しい気持ちを背負ったかの様に、俺は意固地になって怒りのままに走り続けた。彼らの無念を渾身の力で激しくレースに叩きつけたい。そんな気分だったんだよ、本当にね。
でも1万メートル走という競技は、そんな俺の沸騰した怒りを簡単に冷ましてしまうものだったんだ。俺は完全に忘れていたんだよ。この種目が陸上きってのハイレベルで過酷な競技なんだということをね。
向かい風のバックストレートを走る度に、尋常でないほど体力が削ぎ落されていく。逆に追い風であるメインストレートでは、体力的には楽なはずなのに、浮き上がるほどに軽く感じる足に違和感を覚え、思うように力が入らずスピードを加速させることが出来ない。
クソっ垂れが。今になって自分のアホさが嫌になる。大切なレースなのに怒りに感情を流されて自分を正しく制御することが出来なかった。これじゃ自分の力量を把握せずに、先頭集団の早いペースに釣られてしまう、いつもの自滅パターンと何も変わらないじゃないか。
息苦しさに足掻きながら走る俺は、そう自責に駆られ悔しさを噛みしめた。ただそれでもあの怒りを否定してしまう事なんて出来はしない。だって今の俺がここまで頑張り続けていられる要因は、あの気持ちの高ぶりがあったからに他ならないんだ。
いつもの俺ならとっくに心が折れているはずだろう。でも胸の奥底で今も微かに熱く燃えている力の源は、あの怒りの心情から来るものなんだよね。
肉体的には限界が近い様にも感じられる。でも走る事を止められない理由は理屈どうこうじゃないんだよ。もっとこう感覚的というか、昔の言葉で言えば不屈の闘志とか粘りの根性とか、そんな気持ちの強さだけで俺は走り続けていたんだ。
ただその感情の高まりにおける弊害として、その時の俺は自分が何周目を走っているんだか全然分からなくなっていた。1万メートル走はトラックを25周もする競技だから、時間が掛かる上に視覚的にも変わり映えが無い。それゆえ一度狂ってしまった試合運びを修正するのは非常に困難なことであり、また走るほどに蓄積されてゆく疲労感で俺の思考回路は停止寸前の状況に達していたんだ。
走行タイムから逆算すれば大凡の見当はつくはずだけど、今は腕に嵌めた時計を確認することすら困難なほどに疲弊している。走る以外に体力を使いたくなかったのかも知れない。いや、それ以前に疲労のせいで頭がうまく働かなかったんだろう。走らなければという使命に駆られた責任感だけを頼りに、半分意識が無い中で足をひたすら前へと進める。もうゴールまでがどれくらいかなんて、考えるのも面倒だったんだ。
ただそれから間もなくして、俺は一人の選手に追い抜かれる。無自覚の状態で走っていた俺だったけど、でも何気に見つめるその選手の後ろ姿に見覚えを感じハッとしたんだ。強豪校のユニホームを纏って走る精悍な後姿。そうだ、彼はスタート前に前衛に詰め寄った選手達を見て呆れていた、あの彼じゃないかってね。
俺と一緒で集団の最後尾にいた彼が、あのスタート直後の事故に巻き込まれなかったのは至って当然の事。でもまさか俺よりも後方にいるとは思わなかった。だって俺がスタートを躊躇している間に、彼はさっさと走り始めたものとばかり思っていたからね。
もしかして周回遅れにされたのか? いや、それは無い。だって俺が把握している限り、先頭を走っているのはあの留学生のアフリカ人選手のはずなんだからね。それにその漆黒の彼を含めた先頭集団は、ずっと先を走っているはずなんだ。でも俺はまだ、そんな先頭集団に一度も抜かれてはいない。
「ん、待てよ!?」
俺は衝撃的な事実に気付き一驚する。そうなんだ、自分でレースを考察して初めて気がついたんだ。致命的に乱れたペースで走り進んで来たにも関わらず、俺はここまでに【一人の選手】にしか抜かされていない。それを逆に捉えれば、箱根を走るほどの精鋭達とレースをしているのに、おれはまだ周回遅れにすらなっていなかったんだ。
強風の吹きつける最悪なコンディションが、レース全体のスピードを上げられない障害にでもなっているのだろうか。いや、それだけなら尚更俺なんて置いてきぼりを喰うはずだ。それなのに、なぜかまだ先頭集団の足音は後方に近寄って来ない。
意味が分からないなりにも、俺は現状を正確に捉える事に成功した。それなりにレースを戦えている。それが現時点での俺の結果なんだ。そして少しだけ冷静さを取り戻した俺は、さらにもう一つ気付く事が出来た。
唯一俺を抜き去った強豪校の彼。その走り方が目を見張るほどの鮮やかさだったんだ。バックストレートを走る彼は、強風を避ける為にワザとペースを落として前方を走る選手の背後に張り付いた。そしてメインストレートになったら追い風を味方にして一気に加速してみせたんだ。
俺はそんな彼の走りに唖然とした。いや、感銘を受けたと言ったほうが正しい表現だろう。彼の走りは風の強い状況の中でのセオリーとでもいう正攻法な技だ。でもそれを実戦で垣間見た俺は衝撃を受けたんだよね。知識としては当然のことながら持ち得ていた走行法だけど、でも効率良く走り行く彼の姿に俺は灼然とした輝きを見つけたんだ。
やっぱり強豪校の看板を背負う選手っていうのは伊達じゃないんだよね。それによく考えてみれば、俺の想像は最初から間違っていたんだ。彼はレースに感心が無く呆れていたんじゃない。レースに勝つ事を真剣に考えていたからこそ、察し得るアクシデントの危険性から身を守るために、後方へと構えていたんだ。
そんな精悍な後ろ姿から推測するに、彼は既に箱根のレギュラーの座を確固たるものにした選手なんだろう。だからこそ、余裕を持ってレースを後方から始める事が出来ていたんだ。むしろ前方に詰めかけていた選手達のほうこそ補欠ギリギリの者達であり、自分を必死にアピールしたいが為に、気持ちが不用意にも前のめりに成り過ぎていたんだろう。
見よう見真似だったけど、俺は彼の走りに続いた。バックストレートでは抜けそうな選手であっても、俺はあえてその選手にスピードを合わせて背後に寄りついたんだ。吹き付ける強風から身を守る為にね。そして風向きの変わったメインストレートでは、耐え忍んでいたスピードを一気に解放して力強くトラックを蹴り、前を行く選手をあっさりと追い抜いて進んだんだ。
するとさっきまで感じていた尋常でない苦しさが幾分改善された。またそれ以上に走るスピードにキレが戻って来たんだ。本当にその時は驚いたよ。自分でも信じられないほど自然に体が前に進むんだからね。
そこからの俺は完全に走るリズムを掌握していた。大袈裟なほどにメリハリを付けたレース運びは、俺に走る楽しさを呼び起こしてくれたんだ。バックストレートでは馳せる気持ちをグッと堪えて誰かの背後に張り付き、そしてメインストレートでは追い風を利用して自分の実力以上の早さでトラックを駆け抜ける。そんな抑揚をつけた走りはこの上なく俺の気分を高揚させたんだよね。試合で走るっていうのは、こんなにも気持ちが良いものだったのか――ってさ。
ただそうなると浅はかないつもの俺が顔を覗かせるんだよね。このまま走り進むことが出来たなら、もしかすれば上位に食い込めるんじゃないかって具合に。まったくもってお調子者なんだよ、俺って奴は。チャンス到来の今だからこそ、落ち着いてレースを進めなくてはいけないはずなのに、肝心な所で自分を見失ってしまう。でもそんなテンションの高まりがあったからこそ、体力の限界が目前に迫っている事にもまだ気付かずにいられたんだけどね。
けど現実がそんなに甘いモンじゃないって事に、俺は改めて思い知らされる。残り3周という大詰めを迎えたレース終盤、俺の体に蓄積された疲労が一気に噴き出したんだ。
追い風のメインストレートを走っているにも関わらず、足が重くて仕方ない。羽根の様に軽かった両腕は、今は見る影も無く垂れ下がっている。胸は張り裂けるほどに息苦しく、なんだか視界もぼやけて見える。走るスピードは目に見えて減速していくというのに、胸を打つ鼓動だけは早さを増し続けていく。
クソっ、ここに来て限界なのか。もう少しでゴールなのに、俺の体は持ち堪えてくれないのか――。俺は言う事を聞かない体に苦虫を噛みしめるほどの悔しさを覚えた。でもその反面、俺は自分自身に対して甘い感情を覗かせたんだ。ここまで走れたなんて、俺にしてみれば良く頑張ったほうじゃないのかって。いいや、むしろ出来過ぎと言っても過言じゃないはずだってね。
なんとか体を誤魔化せば、とりあえずはゴールまでは辿り着けるだろう。だからもうこの辺で【レース】は諦めようと思ったんだ。ざっと見渡しただけでも俺の前には10人程度の先行する選手がいる。表彰台はおろか入賞すら叶わない、レースとしては絶望的な状況なんだ。だからこれ以上勝負に拘る意味は無いんだってね。
レースを諦める為の言い訳が次々と頭の中を埋め尽くしていく。もう十分だ。良く頑張った。俺の走る姿勢はしっかりと見せられたはずなんだ。――――でも俺は誰に対して、こんなにも精一杯な姿を見せたかったんだろうか。誰の喜ぶ顔が見たかったのだろうか。なんだか大切な事を忘れている気がする。大きくて意味のある、とても大切な存在を……。
朦朧とする意識の中で、俺は霞む視界の先に輝く光を見る。そこには一人佇む影があり、そのシルエットには確かな見覚えが感じられた。そしてその人影は懸命にも俺に向かって何かを叫んでいる。でも何を言っているのか俺には分からない。ただ無意識にも俺はその投げ掛けられる言葉に耳を傾けようとしたんだ。――とその時、
『ガッシャーン!』
突然何かが崩れ落ちたかの様な姦しい金属音が競技場に響き渡った。そんなあまりにも猛々しい轟音に俺の体は一瞬だけ萎縮する。ただ俺が体を強張らせたのはその音による直接的なものではなくて、視界に飛び込んで来た光景に対してだったんだ。
有り得ない事に、インフィールドに設置されていたハンマー投げの投擲ミスを防ぐ為のフェンスが、強風に煽られて倒壊してしまったんだ。そしてその倒れたフェンスが、1万メートルの競技中であるトラックを塞いでしまったんだ。
幸いな事に、そのフェンスの倒壊に巻き込まれた選手はいない。でも高さ2メートルはあろうフェンスがトラックに横たわってしまったんだ。それも先頭集団の行く手を阻む恰好でね。
ただ何故か、その光景を目にした俺の足に少しだけ力が戻る。あれほど重かった足が、意識せずとも力を込めて前へと蹴り出せたんだ。
立ち往生する先頭集団までとの距離は三百メートル弱といったところか。少しくらい力が戻ったからって、とても追いつける距離じゃない。それは重々承知はしていたけど、でも俺の足は枯れ果てたはずの体力を強引に絞り出し、駆ける事を止めようとはしなかった。
ハンマー投げの選手達が急ぎフェンスをコースから取り除く。その間先頭集団は待ちぼうけを食っていたが、レースに支障が無い程度にフェンスが撤去されると、何事も無かったかの様に彼らは競技を続行し始めた。
あれほどのアクシデントが目の前で起きたにも関わらず、先頭集団の選手達は随分と冷静なモンだと感心する。期待はしていなかったけど、さして俺との距離は縮んではいない。
でもタイムを僅かでもロスしたのは事実なんだ。追いつけるはずがないと分かりきっているのに、その時の俺は無理やりこじ付けをして自身を駆り立てる為の理由を思い描いた。だって俺はあの輝きの中の人影を見て思い出したんだよ。俺がこのレースに誓った本当の決意をね。
【君だけの為に走る】
それが俺の誓った全てだ。そしてその姿勢とは、最後まで頑張りきったものを指し示すはずなんだ。
きっと君の事だから、たとえどんな姿であろうとも俺がゴール出来れば喜んでくれるだろう。でも最後に諦めた終わり方で本当にいいのか? いいや、そんなの良いわけがない。自分勝手に掲げた誓いだけど、やっぱり君には精一杯に最後まで走る俺の姿を見せて上げたいんだ。だから今は微かな望みであろうとも、それに縋って走り続けたい。諦めなければ、奇跡は起きるかも知れないんだから。
胸の奥に仕舞い込んだ熱い誓いを拠り所にして懸命に駆け続ける。するとそんな俺の目に、またしても信じられない事態が飛び込んで来たんだ。
スタート直後から先頭集団を引っ張っていたアフリカからの留学生の彼。その彼が突然転倒してしまったんだ。ただあまりにも予想外だったんだろう。後方を走る選手達は、転倒したその彼を避けきれずに接触してしまう。そして連続的に多数の選手が転倒してしまったんだ。
会場は騒然となった。ゴールまであと2周というところで立て続けに連発したアクシデントに、観衆の多くが悲鳴にも似た声を漏らしたんだ。
そんなある種緊迫した状況の中で、俺は直向きに前を目指した。肉体的な限界はとうに超えている。でも転倒した彼が物語る様に、疲労困憊なのは皆同じなんだ。誰もがギリギリのところでレースを戦っている。だから俺だって弱音なんか吐いてはいられないんだ。
キツイ体に鞭を打って走る。そして俺は先頭集団に肉薄するほどの勢いで距離を詰めた。ただ転倒した選手達もこれで諦めたわけじゃない。大半の選手は直ぐに立ち上がって走り出したんだ。
でも残念な事に、その中には足を引きずっている者が複数見受けられる。留学生の彼などは、動けずに座り込んだままだ。やっぱり昨日の1500メートル走の影響が残っていたんだろう。それでも彼は高い集中力で挑み続けていた。けど最後に発生したフェンス倒壊のよるアクシデントで、その集中力が途切れてしまったんだ。そうなってしまったら最後、さすがの彼でも踏ん張りが利かずに崩れ落ちるしかなかったんだろう。そんな痛まし彼らを気の毒に思いながらも、俺はその横を通り過ぎて上位を追った。
もうこうなったら行くしかない。この位置からじゃ表彰台は無理だけど、でも入賞くらいは行けそうなんだ。そして俺にはまだ頑張れる力が残っている。きっと暑い夏に積み上げてきた練習の成果が、俺を強く叩き上げてくれたんだろう。
ラスト1周を告げる鐘が審判員によって鳴らされる。思えばあの審判員に向けた怒りでこのレースは幕を開けた。けど今となってはそんな事はどうでもいい。俺の頭の中は一人でも多くの背中に追いつき、それを追い越したい気持ちしでいっぱいなんだ。
だが最後の向かい風であるバックストレートに差し掛かった俺は、その尋常でない風の強さに気持ちが萎えそうになってしまった。あまりにも強すぎる突風に、俺のか細い情熱の炎は掻き消される一歩手前だったんだ。そしてそれを思うのと同時に、俺は背後に迫る何者かの気配を感じた。
「クソっ。抜かすどころか抜かれるのか。ここまで頑張れたっていうのに、神様は俺にそんな惨い仕打ちを用意してんのかよ……」
絶望に近い感覚だったんだろう。最後の最後で努力が報われない。そんな失望感が俺の背中を音も無く突き抜けていく。でも背後から俺を抜き去ってゆくその姿は、まったく想像の範疇を超えたものだったんだ。
驚いたというよりは、焦ったと言うべきなんだろう。だって俺を抜き去ったそれは、スタート直後に集団の前を横切った、あの【白い猫】だったんだからね。そしてその猫は、まるで付いて来いとばかりに俺を先導していくんだ。
まったく状況を理解出来ないままに、でも俺はその猫に引っ張られる様にしながら足を前に向けた。するとどうしたことか、走るスピードがみるみると加速していく。決してそんな事は無いはずだけど、前を行く猫が強風から俺を守ってくれている。不思議にも俺はそう感じたんだ。
そのままバックストレートを駆け終えた時、俺は二人の選手を追い抜いていた。残すはもう、追い風のメインストレートだけしかない。そしてその先にあるのはゴールだけなんだ。足が折れたって構わない。肺が破裂しても本望だ。だけどあのゴールまでは何が何でも辿り着いてみせる。このまま全力を出し尽くした姿勢でね。
俺は最後の気概を吐き出して懸命に走る。ただふと気がつくと、白い猫の姿は何処にも無かった。極度の疲労による錯覚でも見ていたんだろうか。確かに感じたはずのその存在に、俺はただ言葉を失った。まさかこのレース自体が夢なんてオチはないよな。ゴールがもう目の前だというのに、俺はそんな事を考えていたんだ。でもそんな俺を現実に引き戻してくれたのは、やっぱり【君】だったんだよね。スタンドの観衆が歓声を上げる中で、追い風に乗って君の声が俺に届いたんだ。
『頑張ってっ! もう少しだよ、頑張って!』ってね。
確かに君の声だ。俺がそれを聞き間違えるわけがない。少し声が枯れている気がしたけど、でもやっぱり君は俺を全力で応援してくれていたんだ。
けどそんな君の声援に混じり聞こえて来る歓声に俺は耳を疑った。君の声援を上塗りするほどに、俺に向けられて一際大きな声が上がったんだ。それも一人や二人じゃない。すごく大勢の声が俺に向け浴びせられる。俺の名前と共に、頑張れって強く励ます声が聞こえて来るんだ。
俺はゴールを目の前にした状況にも関わらず、軽率にもそんな歓声の沸き立つスタンドに目を向けた。するとそこに映ったのは、俺に向かって大声援を送る、陸上部員総出の姿だったんだ。
先頭で応援するのはスタートの事故によって棄権したキャプテンの彼だった。そんな彼を中心として大声援が巻き起こっている。彼が無理やり部員達を駆り立てて、俺に声援を送るよう仕向けたのか。いや違う。部員一人一人の表情を見る限り、そこには純粋に俺を励ます気持ちだけが伝わって来るんだ。
ゴールまでの数十メートルの間、俺はそんな大声援を背に受けて走った。言葉では表す事の出来ない嬉しさを噛みしめながらね。そしてついに1万メートルのゴールに到達したんだ。
考えられないアクシデントが多発した、異常とも言える今回のレース。でもそんな過酷なレースが、俺にとって生涯忘れる事の出来ない大きなものになったのも事実なんだよね。
ゴールを終えた俺は、まだ歓声の止まないスタンドの部員達に向け笑顔を向けた。本当は手を大きく振って応えたかったんだけど、腕に力が入らなかったんだよね。でも部のみんなは俺のそんな疲れ切った姿に快く理解を示してくれた。頑張った俺に対して、淀みない拍手と温かい声援が投げ続けられたんだ。
そして俺はそんなみんなの姿に輝きを感じて目を細めた。眩しくて堪らなかったんだよ。部の日陰者として阻害されていた俺なんかの為に、心から声援を送ってくれたみんなの気持ちが嬉しくて少し恥ずかしかったんだ。
「ありがとう、どうもありがとう――」
俺は言葉にならない感謝の想いを心の中で大きく叫んだ。最後まで頑張り切れた感謝の気持ちをみんなに届けたかったから。でもその時の俺は大きな輝きに埋もれてしまった、最も大切なはずの光を不覚にも見失っていたんだ。
あの大歓声を上げてくれたみんなの中に君もいたはず。そしてその中の誰よりも強い想いで俺を応援してくれていたはずなんだ。それなのに俺は現状に舞い上がり、一番感謝を伝えなければいけない君を見失ってしまった。
どうしてなんだろう。感極まって溢れ出た涙のせいだとでも言うのか。でも落ち着いて考えれば有り得ない事なんだよね。大好きでこの上なく愛おしい君の存在を見つけられないなんてさ。
それでもいち早くそんな心疚しい気持ちに気が付いて君を大切にすることが出来ていたなら、未来はもっと素敵なものへと繋がっていったんだろうね。でも生まれて初めて味わった歓喜に俺の心は深く酔いしれてしまったんだ。それが掛け替えの無い存在を哀しませてしまうんだっていうことに、まったく気付づきもしないでね――。