第五話
秋季陸上競技会大会は土日の連続した二日間で実施される。その中で俺の出番である1万メートル走は、二日目の日曜日の午前十一時ちょうどに決勝スタートの予定だった。
まずは初日の土曜。俺は君と一緒に大会の雰囲気を感じ取ろうと競技場に足を運んだ。今まで補欠にすらなれなかった俺は、恥ずかしくも大学に入ってから真面に大会会場に来た事がなかったんだよね。だから君に案内してもらい、その場の空気がどういったものなのか本番前に感触を確かめたかったんだ。そして予想した通り、競技場の沸き立つ活気と興奮は凄まじく、俺は圧倒される空気を肌身で感じたんだ。
都内にある大学だけに参加資格のある小規模な競技会。公式なものではないことから、もちろん陸連などは関係していない。表現としては少し大きめな練習試合と言ったところだろう。それでも全国に名高い強豪校が複数参加しているため、その熱気は瞠目に値するものだった。
華やかに活気づく競技場の雰囲気に俺は面を喰らう。だって俺が知ってる中学や高校時代の大会とは根本的にスケールが違うんだからね。本格的な応援団やチアガールなんかもいるし、一般の観客なんかもけっこうスタンドに詰めかけている。まぁ中学や高校も全国大会クラスになれば、こういったものなのかもしれない。けど俺にしてみれば、ここは異次元の世界に紛れ込んだかのように思えるほどだったんだ。
君から事前情報を得ていただけに心構えはしていたつもりだ。でもここまで派手に活気溢れるモンだとは思わなかった。ただその異様とも言える会場の雰囲気と自分自身の感覚とのギャップが、ある意味それを感心してしまう気持にさせたんだよ。なんか他人事みたいにね。
正直はじめは気圧されるんじゃないかって腹を括っていたんだ。でも今のところは不思議なほどに落ち着いているんだよね。妙な気持ちの高ぶりや焦りなんかは、まったくと言い切れるほどに感じていない。明日の本番を前に決して余裕なんか無いはずなのに、なぜこれほどまでに落ち着いていられるのか。でもその理由をあえて深掘りする必要は無いんだよね。どうせ時間が来れば否応なく緊張感は高まって来るはずなんだし、せっかく心にゆとりが確保されているのだから、今はその状況を楽しめればいいじゃないか。俺はそんな事を一人思いながら、君と手を繋いで歩みを進めたんだ。
少し混み合った通路を抜けて、君は俺を観覧スタンドに案内した。そこには多くの観客の姿があったけど、その一角には大会に参加する各大学の応援団が構えていたんだ。もちろんその中には俺の大学の連中も含まれている。そして君は俺をそこに連れて行こうとしていたんだ。
近年はだいぶ力を付けて来ているとはいえ、俺の大学の陸上部はお世辞にも強豪校とは言えない。だから応援団といっても、それほど気合の入ったものじゃなかったし、人も疎らだった。でもそこでは少し気が引けたんだよね。だってその場所は大会に参加する陸上部員の控えスペースも兼ねていたんだからさ。
見知った顔の部員たちが俺達に視線を向ける。さすがに試合会場というだけあって、ナーバスになっている選手ばかりだ。表面上の感情は平静を装いながらも、血走った眼光は痛いほどに鋭く、そしてその奥では熱く気合が滾っているのが分かる。そんな殺気立った者達の視線が一斉に浴びせられたんだ。背中に嫌な疼きを覚えたのは言うまでもないよね。
俺と君が付き合っている事は、今となっては周知の事実だ。でも未だに皆からは快く思われていないんだよね。改めて痛感したモンさ。俺って嫌われ者なんだなってね。
それが俺に対する屈折した僻みなんだという事は理解してる。それでも直で味わうそのキツさは半端無いモンなんだよね。確かに決戦の場である試合会場に、君と仲睦まじく手を繋ぎながら現れた俺の配慮の無さにも問題があったのは否めない事さ。けど対戦相手は俺じゃなくて他校の選手や己に課したタイムだろうに。感情の矛先を向ける相手が根本的に間違っているんだって事に、こいつらはマジで気付いていないのか――。率直にそう感じ取った俺は、敵意を剥き出しにして俺を睨みつける同輩達に対し不快感を募らせた。
そんな俺の気持ちの変化に気が付いたんだろう。君は俺の上着の袖を摘んで、その場から離れようと歩き出したんだ。恐らく君にとってもあの場の雰囲気は受け入れ難かったに違いないからね。でもそれと同時に発せられた空砲の音を聞いた俺は足を止めた。いや、正確に言えば動くことが出来なかったんだ。
その空砲は男子1500メートル走予選のスタートを告げるものだった。そしてスタンドの観客からは、どよめきに近い歓声が湧き上がったんだ。それも一人突出したスピードで駆ける漆黒の選手に向けられてね。
まさに獅子奮迅と言ったところか。アフリカのほうから来た留学生なんだろうけど、その走る早さは他を圧倒するものだったんだ。たぶんその一コマを切り抜いたとすれば、それを見たほとんどの人がスプリント競技に見間違うほどだろう。それほどまでに漆黒のスピードスターはグングンと他の日本人選手を引き離していったんだ。そしてあっという間に1位でゴールしてしまった。
予選ということもあり、他の選手たちが全力疾走していたとは限らない。でも今のレース結果から想像するに、留学生の彼が決勝でも活躍するのは確実だろう。ざわつく観客たちの反応からしても確信が持てる。そして俺は初めて生で見る人並み外れた外国人の躍動感溢れる激走に、人知れず肌が泡立つのを感じたんだ。
でも不思議な事に気後れする感じは無かったんだよね。あまりにも自分の実力と掛け離れているだけに、別世界の話だと無意識に判断したのかも知れない。けど妙に胸の奥が震えたのも本当なんだ。まるで『望むところだっ!』と勝負に挑む挑戦者の感覚みたいにね。
レベルの高さに感覚が麻痺してしまったのだろうか。なぜかその時の俺には怖さというものが無かったんだ。バカみたいな話だけど、負ける気がしなかったんだよね。誰がどう見たって、俺と彼では同じ土俵にすら立てていない。それなのに俺は甚だしくも気持ちを前向きに馳せていたんだ。含み笑いを浮かべながらね。
君はそんな俺の表情を不思議そうに見つめていたね。でも君が察した俺への感覚は、弛みの無い頼もしさを覚えるものだったんだよね。
明日のレースが楽しみで仕方ない。君が見た俺の姿からは、そんな余裕に満ちた雰囲気が伝わったらしいんだ。
まったく、冗談じゃないぜ。そんなバカげた話があってたまるかよ。今更持ち上げたからって、実力以上のものなんて出やしないんだ。恥を掻くだけだから本当に勘弁してくれないか――。馳せる気持ちと現実を見据えた考えが俺の心情を矛盾した気持ちで満たしていく。そんな訝しい想いを誤魔化すために、俺は強く頭を掻きむしった。君にまで卦体な勘違いをさせてしまって申し訳ないと思ったんだよ。でも信じられない事にもう一人、君と同じ感覚を受け取ってしまった者がいたんだ。
それは陸上部のキャプテンを務める、俺と同学年の男子学生だった。そんな彼が俺に突然話し掛けて来たんだ。ビックリしたよ。なにせ俺は彼と入部以来、ほとんど口を利いた事がなかったからね。
彼は陸上の実力もさることながら、面倒見が良く非常に人望が厚い存在だ。まさにキャプテンと呼ぶに相応しい男なんだよね。もちろん俺だって彼の事を悪く思った事は無い。いやむしろ尊敬しているくらいなんだ。だって彼は俺と同じ1万メートル走の選手であり、そして今年の晩春に実施されたインカレで、並み居る強豪校の選手達と凌ぎを削り、俺の大学始まって以来の好成績を収めた実力者なんだからね。
照れたというのが本心だろう。目標の存在と呼ぶには大袈裟過ぎるかもしれないけど、でも彼の事を同じ陸上選手としていつも意識してきたことは事実なんだ。そしてそんな彼から思い掛けなく声を掛けられた。それも彼は俺に向かってこう言ったんだ。
『今日のお前からは勝気を帯びた凄味を感じるよ。明日はなんかやってくれそうだな、期待してるぜ!』ってさ。
意味分かんね~よ。いい加減な事言って、俺を煽てて緊張を和らげようとでも気を使ったつもりなのか。さすがはキャプテンだぜ。俺みたいな部の日蔭者に対してまでよく配慮してくれるモンだ。
君の手前、そう強がる様に吐き捨てた俺だけど、でもその時は背中がやけにムズ痒かったんだ。嬉しくて堪らなかったんだよ。いつもその背中しか見ることが出来なかった彼と、明日は肩を並べて走ることが出来る。いや、実際は追いてきぼりを喰うのは間違いないんだけど、でも同じスタートラインに立つ事が出来る。そんな発想に俺は鳥肌が立ちまくっていたんだ。
それに彼が俺に告げた言葉には、嫌味はおろか人を小馬鹿にする素振りは受け取れなかった。共に同じレースに挑む仲間として、力の限りを尽くそうと奮励する。虚偽無しに彼は俺に対して心懸けてくれたんだ。そんな彼の男気に俺は悦びを抱かずにはいられなかったんだよね。
まったく単純なヤローなんだよ、俺なんてさ。けどある意味そんな純粋さが、これ以上なく明日のレースに俺の気持ちを駆り立ててくれたんだよね。
もう十分に会場の雰囲気は掴むことができた。あとは全力で本番に臨むだけだ。俺は両こぶしを強く握りしめながら己を鼓舞した。そして君に向けて力強く頷いて見せたんだ。明日、この応援席で君は俺に声援を送ってくれるだろう。恐らく俺に向けられる声援はそれだけのはずだ。でもそれだけで満足だよ。だって俺は君の為だけに走るんだからさ。
俺の想いを受け取ってくれたのかどうかは定かではないけど、でも君は俺の頷きに対して軽くガッツポーズをして応えてくれた。そんな君の姿が少し滑稽に思えて笑いそうになってしまったけど、でも勇気をもらったのも確かなんだ。
俺は増々意味不明な高揚感に包まれていった。優勝でも出来るんじゃないか。そんな妄想を抱くほどにね。でも君がくれた勇気に、そしてキャプテンの彼が告げてくれた優しさに俺は熱く心を震わせたんだ。明日の俺はやれるんじゃないのか――。なんて、本気で錯覚してしまうほどにね。そして日は変わり、気が付けば決戦の時間が目前に迫っていたんだ。
昨日と同様に、冷たい北風がグラウンドを強く吹きさらしていた。率直な予想として、この環境じゃ好タイムは望めそうにない。気温の低さは問題ないけど、風があまりにも強すぎる。これじゃ短距離競技なんて参考記録にしかならないだろう。決勝レース開始の1時間前、俺は軽めのウォーミングアップをしながらそんな事を考えていた。
いつもの様に携帯型オーディオプレイヤーを懐のポケットに仕舞い込み、イヤホンで音楽を聞きながら少し汗ばむ程度に体を動かす。昨日は自分でも驚くほど平常心を保っていたというのに、さすがにここまで来ると緊張感で吐き気すら覚えるほどだ。接地感の乏しい足元は、まるで他人のものなんじゃないかって思えるほどに神経が通わない。
「参ったな。これじゃ風が強いとか愚痴る以前に、レースになんかならないぞ……」
俺は湧き上がる焦りを必死に押し殺そうと奥歯を噛みしめた。逃げ出したくなる心の弱さを抑えつける事で精一杯だったんだ。でもここは決戦の舞台なんだよね。ひ弱で及び腰の俺みたいな奴に気を遣う他人なんているはずがない。いやむしろ相手を蹴落とす勢いの連中ばかりなんだ。だったらもう腹を括ってやるしかない。あとは自分自身で立ち向かうしかないのだから。
強がりで必死に自分を駆り立てる。でもそれ以上に俺の目に映る現実は、残酷にも厳しいものだったんだ。
まだ足慣らしの時間だというのに、考えられないスピードで俺を颯爽と追い越してゆく同種目出場の選手達。その姿がより一層俺の心を暗く淀ませていったんだ。
午後に実施される五千メートル走と並び、俺の出場する1万メートル走は各大学の有力選手が終結するクラスになっている。だから当然この種目は各大学のエース級がずらりと並んでいたんだ。その中にはテレビで見たことのある、箱根駅伝出場選手の顔も複数見受けられる。優勝候補はもちろんそんな箱根でも力走した選手達であろう。そして間違いなくこの中にいる者達の中には、今度の箱根で活躍する選手がいるはずなんだ。
あまりに場違いな感覚に俺の心は萎縮する。でもそんな箱根の勇士達に混ざりながらも、黙々と走る一人の外国人選手に俺の目は釘付けになってしまった。
屈強な漆黒の肉体が飛ぶような早さで風を切り駆け抜けて行く。そう、昨日1500メートル走の予選で圧倒的な勝利を収めた留学生の彼が、今日は俺と同じ1万メートル走にもエントリーされていたんだ。
驚きを通り越して呆れるほどだったよ。だって彼は昨日、1500メートルを予選と決勝で2レース全力で走っているんだからね。そして彼はその種目で優勝しているんだ。でもいくら実力があろうとも、少し頑張り過ぎなんじゃないのか。1500メートルは走る時間にしては4分程度と大した事は無いように思う人もいるだろうけど、でも本番のレースで走るっていうのは肉体的にはおろか、精神的にもかなり効くはずなんだ。それなのに休養無しで1万メートル走にまで参加するなんて恐れ入るよ。
それともアフリカ人と日本人では、根本的に体の造りが違うって事なのだろうか。いや、そもそも彼にしてみれば1500メートルなんて、走った内に入らないのかもしれない。たぶん貧弱な俺の考えが乏しいだけなんだろう。それに俺以外の選手達は彼をそれほど意識していない気がする。きっと箱根を目指す勇士達にしてみれば、彼はライバルの一人ではあれ、恐れるに足りない存在なのかも知れない。俺から見れば化け物にしか見えない彼の存在がね。
ここに来てあまりのレベルの高さに俺の心は完全に冷めきってしまった。諦めたと言ったほうがしっくりくるほどにね。でも心が折れた事で、張り詰めていたキツイ気持ちからも解放されたんだ。それが幸いしたのか、気分がどんどん楽になるのが分かる。そしてそんな俺の胸の内を、さらに腰砕けさせる現象がその時発生したんだ。
自分の大好きな曲ばかりをダビングしたはずのオーディオプレイヤーから、聞きなれない音楽が流れて来る。それは絶妙なミディアムテンポで俺からやる気を削ぎ取ってゆくんだ。いや、例えを変えるならば心が和むと言ったところだろうか。
爆発的な人気を誇る若手の女性ヴォーカリストの曲だということは直ぐに理解出来た。でもなんでこんな曲が俺のオーディオプレイヤーに入っているんだと耳を疑ったんだ。だって俺はどちらかといえばアップテンポのロックミュージックを好んで聞いていたし、何よりこれから試合に臨む大切な時間に聞く音楽なんだから、尚更闘志を掻き立てる激しい楽曲ばかりを選曲しダビングしていたはずなんだよね。それなのに身に覚えのない曲が確かに聞こえて来る。
君の仕業か――。証拠は無いけどそれしか考えられない。だって君はこの歌が大好きだったし、この女性歌手のファンだったはずなんだ。そう思い返せば君は昨日、俺のオーディオプレイヤーをいじっていた気がする。俺に内緒でその時に仕組んだんだろう。きっと君の事だ、自分の大好きな曲だから、俺もそれを聞けば力が湧くだろうと考えたんだね。
別に俺だって、この曲や歌手のことが嫌いってわけじゃない。まぁ、君に勧められて初めて聞いた時は、ストレートな恋心を綴った歌詞に気恥ずかしさを覚えたのは正直な気持ちだけどね。でも何度も聞くうちに歌詞に込められた想いが俺なりに理解出来て、今ではすごく好きになったのも本当なんだ。けどこの曲は君とデートする時にぴったり合う様な曲なんだよね。
闘志を熱く燃やすのとは正反対に、心を穏やかに落ち着かせる。そんな曲なんだよね、これはさ。まったく、大事なレースの直前なのに、こんな気分になるなんて勘弁してほしいよ。
ウォーミングアップを切り上げた俺は、そんな緩い思いを頭に浮かべながら控え場所のあるスタンドに向かおうとした。でもそこで俺を待ち受けていたのは他の誰でもない、君だったんだ。
スタンドに繋がる階段脇の人目の付かない場所で君が俺を出迎える。ただその表情は、してやったりといった満足げな軽い微笑みを浮かべていたんだよね。だから俺は開口一番君に伝えたんだ。
「なかなか良い選曲だったよ。お蔭でやる気ゼロだけどね」ってさ。
それに対して君は鋭い目つきで俺を睨んだんだ。『なによ、それじゃ私が悪い事したみたいじゃない』って言いたげにね。でもその通りなんだから謝りはしないよ。むしろ説教を窘めたいくらいさ。それなのに君の反撃は厳しかったんだ。
予想外に突き出された君の拳が俺の腹に捻じ込まれる。冗談だったんだろうけど、その拳にはそこそこの力が込められていた。それに輪を掛けて俺の腹は脱力感で気が抜けていたんだ。そんな君の不意な攻撃に成す術無く、俺は無残にも撃沈してしまったんだよね。
「ゲホゲホッ……」
俺はむせ返りながら体を丸めた。そしてゆっくりと膝を付きその場に沈み込んだんだ。上手く息が出来ない。あまりの苦しさに死んでしまいそうだ。よくマンガなどでは人の体には無数の急所があり、些細な力であってもそこを突けば大きなダメージを与える事が出来るなんて描いてあった気がする。もしかしたら君の一撃が、俺のそんな急所に命中してしまったのかも知れない。
亀の様に背中を丸めながら、俺は冷たい通路に額を擦り付けて痛みを堪えた。ただ一向に痛みが引く気配が無い。生まれてこの方感じたことの無い耐え難い鈍痛に戦慄を覚える。どうなってしまったんだ、俺の体は。これじゃ1万メートルどころか、もっと遠い世界に行ってしまいそうだよ。
生温い唾を口から垂らしつつも、俺は懸命に君に縋ろうと腕を伸ばした。すぐ隣の階段からは多くの人の行き交う気配が感じられる。でもここは階段からは見えづらい、少し奥まった場所なんだ。自分から助けを呼びに行かなければ気付いてもらえそうにない。まさに完全な死角空間と呼べる場所なんだよね。だから俺は君に早く助けを呼んでくれと促そうとしたんだ。
ただその時俺はふと思ったんだ。このままこの冷たく暗い競技場の片隅で、惨めに死んで行ってもいいかなってさ。だって今なら君に包まれながら、その温もりを感じながら死ぬことが出来るんだからね。
尋常でない姿で苦しむ俺に君は血相を変えて肩を寄せた。『嘘でしょ! ねぇどうしたの、しっかりしてよ!』って、泣きそうな顔で俺の背中に抱きついたんだ。俺はそんな君から伝わる温かさに心を委ねて妄想してたんだよ。俺がここで本当に死んでしまったら、君はこの先どうなってしまうのだろうかってね。それを知りたくなった俺は、縋る様に掴んだ君の腕に力を込めて顔を持ち上げた。そして汗ばんだ顔を君に差し向けて、はっきりとこう伝えたんだ。
「バ~カ。こんなの冗談に決まってるだろ。なに本気で泣きそうになってんだよ。内緒で俺のオーディオにダビングしたお返しさ!」
そう言って俺は力強く立ち上がった。大体あんな貧力なパンチが利くわけないじゃないか。それを本気にするなんて、君はよっぽど人が良いんだろうね。いや、もしかしたら俺の演技が迫真過ぎたのか。
俺は声を上げて笑ってしまった。まんまと陥れられた君の姿が可笑しくて堪らなかったんだ。そしてそんな俺に対し、君は頬を膨らませて怒るものとばかり思っていた。でも君は涙を浮かべたまま、その場に力無く蹲ったままだったんだよね。膝の上に乗せた握り拳が僅かに震えているのが分かる。怒るというよりは、悲しんでいるといったほうが合っているだろう。
君を笑った事が、そんなにも心を痛めるものだったのだろうか。――いや待てよ。もしかして、俺の冗談を真似するつもりなんじゃないのか?
騙されないぞとばかりに不敵な笑みを浮かべた俺は、君の前にしゃがみ込む。でもそんな俺に向かって口を開いた君は、静かにこう告げたんだ。
『そういう冗談だけは止してよ。あの日の事、思い出しちゃうじゃない……』
軽率な行為だったと悔やんだのは俺のほうだった。トラウマになった君の気持ちを俺は無残にも踏みにじってしまったんだ。救い様のないバカだよ、俺って奴はさ。まだ微かに感じるレース本番への緊張感を和らげたいだけだったのに、なぜこうも簡単に人を傷付けてしまうのだろうか。
言い様の無い無念さに駆られ俺は胸を痛めた。取り返しのつかない酷い仕打ちを君にしてしまったのだと、心の中でただ嘆く事しか出来なかったんだ。
何か一言だけでも、君の気持ちを癒してあげる言葉を掛けてあげなくちゃ。焦りながらそう必死に考える俺は、君の震えた手をそっと握った。でも結局口からは何も出て来はしなかったんだ。
ただやっぱり肝心な時に強さを見せるのは女性のほうなんだろうね。俺の手をギュッと握り返した君は、まだ少し潤んだ瞳を向けて言ったんだ。
『バカね、これも冗談に決まってるじゃない。悔しかったからお返ししたんだよ。ほら、それよりもう直ぐ決勝の時間だから、準備しなきゃ』
いくら俺が手の施し様のないバカだからって、それが君の精一杯の強がりだってことくらいは簡単に見破れるよ。だけど今はその気持ちに甘えようと考えたんだ。だっていくら俺がフォローしたつもりでも、君を慰めるには至らないんだからね。それに、俺が今出来る君を最大限労える行為は、これから始まるレースで懸命に走る姿を見せる事だけなんだ。だからレースに集中しよう。君の為だけに走るって、初めからそう決めていた事なんだからさ。
その場で脱ぎ捨てたジャージとオーディオプレイヤーを君に渡す。そして君に向けて強く拳を握りしめて見せたんだ。気合十分だということを知らしめる様にね。するとその時、君が俺の体を引き寄せたんだ。
突然の事で一瞬何が起きたのか分からなかった。でも唇に感じた温かい感触でそれを理解したんだ。
『応援する私の方が緊張してきちゃったみたい』
キスを交わし終えた君は、顔を真っ赤に染め上げながらそう囁いた。でも恐らく君は傷ついた胸の内を紛らわせたかったんだろう。だから思い切ってこんな大胆な行為をしたんだ。もっともそうな動機を後付けしてね。
ただ君の言葉に嘘がない事も伝わって来る。これから試合に臨む俺に変なシコリを残したくないというのも、君の本音なんだろうからさ。
ただ少し敢然とし過ぎではないだろうか。確かに沈みかけた俺の気分は一変した。けどいくらこの場所が人目に付かないからって、キスをするにはあまりに不適当過ぎる。お蔭で俺の顔まで真っ赤に火照っちゃったよ。嬉し過ぎてね。
俺は必死に照れを隠したつもりだった。でも溢れ出る胸の高鳴りは、君にまで伝わっちゃったんだよね。だってそれが俺にとって、何よりの勇気注入になったのだから。
スタートラインに立った時ですら、まだ君の唇の甘い感触が残り続けていた。
不思議だね。今まで何度も重ねてきた唇なのに、今回のキスはそれらとはまったく印象が違ったんだ。まるで君じゃない、別の誰かとしたんじゃないかって錯覚するほどにね。でも俺はそんな口元を軽く指で摩りながら、もう次の瞬間には始まるであろうレースに向けて気合を高めていったんだ。君の為に全力で駆け抜ける。ただそれだけを誓って。
しかしそんな昂る俺の胸の内と相反する様に、猛烈な風がグラウンドを駆け抜けていった。
そして1万メートル走のスタートを告げるピストルの音が鳴るとほぼ同時に、誰も予想だにしない【最初の】アクシデントが発生したんだった――。




