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第四話

 ニュースが言うには今年は冷夏であるらしい。確かに例年と比べれば若干過ごしやすい気もする。でもだからといって夏は夏なんだ。やっぱり暑い事に変わりはない。

 陸上の長距離競技に身を(つい)やす俺にしてみれば、冷夏とは言え真夏のトレーニングは辛く厳しいものだ。そしていつもの夏であれば、途中で練習を切り上げる事なんて、決してめずらしい行為ではなかったはずなんだ。

 でも今年は違った。それが気温35度を超す猛暑日であったとしても、俺は頑張れたんだ。その理由はあえて白状するほどのものではない。いつも君が俺の(そば)で見守っていてくれたからさ。

 誰に対しても(へだ)たりなく接する君は、陸上部内の誰とでも気さくに交流することが出来ていた。でも君には倒れた彼女以外に、心を打ち解けるほどの親しい友人が居なかったんだよね。

 もともと君は彼女といつも一緒だったし、練習はもっぱら幅跳びだけをしていた。それを逆に(とら)えれば、彼女が居たから君は陸上部に入り、そして彼女と共に幅跳びに精を出していたんだ。

 けど彼女の姿はもうトラックには無い。本来であれば、それと同時に君の陸上部での存在意義は消滅するはずだったんだろう。だけど君は俺と付き合ってしまった。

 すごく恥ずかしい言い方だけど、君が陸上部に残った理由。それは紛れも無く、好意を寄せる俺の(かたわ)らに居続けたかったからであり、俺の練習に(はげ)む姿が好きだったからなんだよね。

 練習が終わってからの帰り路で、つい君に聞き尋ねてしまったんだ。俺の何処(どこ)が好きなのかって。まったく野暮な質問をしてしまったと、口走った矢先に取り消したくなったモンさ。でも君はそれに正直に答えてくれたんだ。俺に好意を寄せる本当の理由をね。


 信じられないけど、君は俺の事を随分と前に一度意識した事があったらしいね。才能も無いくせに、クソ真面目に毎日練習する俺の姿のどこに惹かれる要素があったのだろうか。最初は揶揄(からか)われているんだと思ったよ。でも君の真摯(しんし)な眼差しを見て把握したんだ。君は本心を打ち上げてくれているんだとね。

 あの病室で彼女が告げた様に、俺と君は似た者同士なんだろう。そしてその事を君は無意識にも感じ取っていたんだ。練習する俺の姿と君自身の姿を重ね合わせる事でね。

 お互いにアスリートとしてのセンスは無い。でも練習だけは真面目に取り組んでしまう。そんな不器用な資質に共感を覚えたのが、俺を意識し出したキッカケだったんだよね。

 ただ俺が部の連中との接触を控えていたために、君は俺と触れ合う機会を設ける事が出来なかった。君の性格からして、用も無く自分から話掛けるなんて出来るはずも無いだろうし、まして告白するなんて行為が出来るはずもない。それに俺が陸上部で孤独に浮いた存在だった事も障害の一つだったんだろう。

 自分ではそんなつもりは無かったけど、周りから見れば俺は一風変わった独特な感性の人間に見えていたはずなんだ。そんな俺に好意を寄せているなんて、君自身の気が少し引けていたのも確かな心情なんだろうからね。さらに加えて君は、俺に当時付き合っている彼女が居た事を知っていたんだ。だから忸怩(じくじ)たるも遠巻きで俺の事を見ていただけなんだね。そしていつしか君は俺への想いを薄れさせて行ってしまったんだ。


 でもあの日、偶然にも俺と君の時間軸は交差してしまった。人気(ひとけの無いグラウンドで彼女の身に降り掛かった突然の災厄(さいやく)。君はそんな彼女を助ける為に、たまたまその場に居合わせた俺に救助を乞うたんだ。

 君は彼女を救おうと必死だった。だから助けを求めたのが俺だったということに初めは気付かなかったみたいだね。夕方で少し薄暗かったことも影響していたんだろうけどさ。それに当時の状況を思い返せば、君がかなり混乱していた事は覚えている。助けを願い出る相手の事なんて、一々気にしてなんかいられない。君は彼女を助けたいが為に無我夢中だったんだ。無理はないよね。

 そして君は俺の右手を引っ張り彼女の元へと向かった。ただ現場に到着した君は、それが俺だったという事に初めて気が付いたんだ。

 どうして【俺】がここにいるんだろう――って、君は一瞬困惑したらしいね。でも事態は緊迫していて、そんな些細な事に気を留めている暇は無かったんだ。どうする事も出来ない君は、ただ大粒の涙をその大きな瞳一杯に浮かべるだけで、俺を頼りにする以外なかった。

 そんな君の目に飛び込んで来たのが、迅速に救命活動を実施する俺の姿だったんだよね。そして君は俺の救命処置の手際の良さに目を見張ったんだ。

 俺の心情では、現場に居合わせた為に仕方なく蘇生行為を行ったに過ぎないし、内心は逃げ出したい気持ちで溢れ返っていたはずなんだ。けれど君には俺のそんな脆弱な胸の内なんて想像すら出来るはずもなく、むしろ毅然(きぜん)とした姿勢で救助に臨んでいる頼もしい姿に見えたらしい。

 そして彼女は無事に息を吹き返した。君はその事に涙を流して喜んだんだ。膝枕(ひざまくら)する彼女の温かい体温を感じながら、本当に良かったとその嬉しさを噛みしめた。でもそれと同時に薄まっていたはずの一つの感情が(よみがえ)ったんだね。そしてその胸の高ぶりは、時間と共に少しづつ膨れ上がっていったんだよね。

 消えかけていた淡い想いが事故への突発的な対応をキッカケに光を帯びる。そう、君は以前に感じていた俺への(ほの)かな恋心を思い出したんだ。そしてその想いは、彼女が冷たくなった苦い記憶を思い返すたびに強まっていったんだ。

 でもまだその時は俺と本気で付き合おうなんて思ってはいなかったんだよね。君はただ、あの日の痛ましい記憶に(さいな)まれる事から逃れたいだけで、それは震えながら縮こまる自分自身を誰かに(なぐさ)めてもらいたいだけだったんだ。そして都合良くも同じ時を共有した俺という存在がそこにあった。

 冷え切った気持ちと体を(ゆだ)ねるには格好の対象だったんだろう。かつてほんの(わず)かだけど、淡く想いを馳せた相手なんだからさ。でもそこからの君は俺と一緒だったんだね。触れ合う時間を増やすたびに、体を(から)めてその温もりを(じか)に感じるたびに、君は俺の事を心から(いと)おしいと感じる様になってくれたんだ。

 そんな君がいつも俺の(そば)で見守っていてくれる。これ以上の(はげ)みが他にあるはずも無く、俺は暑い夏の日を全力で駆け抜ける事が出来たんだ。


 そんな夏のとある週末に、俺は君を皇居の外苑を回るジョギングデートに誘った。実は最近また一つ君の特徴に気が付いたんだ。そしてその特徴が本物であるのか確かめたいが為に、俺は休みの日だというのに君をジョギングに誘ったんだよ。

 はじめ君はそれについて難色を示し躊躇(ためら)ったね。一般の人が数多く行き来する皇居の外苑で、汗だくになった姿を(さら)す事に抵抗感を覚えたのかも知れない。でも俺が気付いた君の素質とも言うべき隠れた才能は、絶対に当たっているはずなんだ。

 君自身すら気が付いていない素質。きっと俺以外には誰もその事に気が付いていないはずなんだ。だってそれに気付くには俺という存在が不可欠であり、また俺と君とが共有する陸上競技なる環境が契機(けいき)となっていたのだからね。

 彼女が倒れてからというもの、君の陸上部での立ち位置は大きく変わった。それは今更言うまでもない。君は走り幅跳びの競技から身を引いたんだ。でもその代わりに俺と一緒に走る事を選んだ。別にそこには長距離走選手として上を目指そうとしたわけじゃない。ただ単に俺のすぐ(そば)にいたかっただけなんだ。でもそこで眠っていた君の才能が、微かに目を覚ましたんだね。

 君に走る事を進めたのは他の誰でもない、俺だった。キッカケはちょっとした俺の照れ隠しだったんだ。幅跳びを辞めた君は、グラウンドの外側から走る俺を見守っているだけだったからね。でも俺にしてみれば、辛い練習で(ゆが)んだ痛々しい表情を君に見せつけているようで気が引けたんだ。だから俺は君にも同じ厳しさを味合わせ、君の苦しい表情をお返しとばかりに見たかったんだ。

 ズルい男だよね、俺って奴はさ。君は頑張っている俺の姿を応援していただけなのに、勝手な自分の思い込みで過酷な環境に君を引き入れたんだ。

「走ってる時は辛いけど、でもゴールした時の満足感は気持ち良いよ」なんて、さも有りげな理由を付けてね。

 そして(なか)ば無理やりに君は長距離を走る事になった。しかしそこで君が見せた反応は意外なものだったんだ。

 はじめの数日こそ、しんどそうに練習をしていた君だけど、次第に自分のペースを(つか)んだんだろうね。練習後の休憩所で君は笑顔で俺にこう言ったんだ。

『確かに走ってる時は苦しいけど、でも頭の中がだんだん空っぽになって気分が楽になるよ』ってさ。

 その時に俺は直感として思ったんだ。君には幅跳びなどで求められる瞬発力ではなくて、長距離走で必要になる持久力に(ひい)でているんじゃないかってね。


 もちろん俺に比べて走るスピードは格段に遅い。初心者なんだから当たり前だ。でも練習時間だけはそれほど俺と変わらなかった。休み休みではあるものの、君は暑い夏の日差しの中で懸命に走り続けられたんだ。

 純粋にすごいと思ったよ。だって普通に考えたら持久走なんて敬遠して(しか)るべき競技なはずだし、それにいくら君が頑張ったからって誰に(ほめ)められるわけでもないんだからね。同じ陸上部の女子選手の中には、俺より早い記録を持つ長距離走選手もいるんだからさ。それでも君は一生懸命走ったんだ。周囲からの冷ややかな視線など歯牙にも掛けずにね。

 俺はそんな君の姿を見て思ったんだよ。過去より抱いていた彼女への暗い影を振り払いたいが為に、一心不乱に走っているんじゃないかってね。走っていると何も考えずにすむと告げた、君の言葉からそう連想していたんだ。けど俺のそんな想像は浅はかなものだったんだよね。だって走っている時の君の表情は、とても楽しそうだったのだから。

 素直な気持ちで走る事に楽しさを感じているんだろう。誰かと競い合ったり、良いタイムを出そうとしているわけじゃない。純粋に走る事への(よろこ)びを感じているんだ。そんな君の姿に俺は胸を打たれ、そしてすごいと思ったんだよ。

 中学より陸上をはじめた俺は、今まで一度たりとも走るという行為自体に楽しさや嬉しさなんて覚えた事が無い。いやむしろ辛さや厳しさばかり感じていたくらいさ。でも走る君の爽快な表情を見て俺自身が気付いたんだ。やっぱり走るっていうのは気持ちが良いんだっていう事にね。

 長い陸上生活で、俺は気がつかない間に競技という熾烈な競争原理に心を支配されていたんだろう。ゴールした順番がそのまま結果として反映されるように、陸上競技はシンプルだから人の優劣が簡単に決められてしまう。元々俺は他人を蹴落としてまで上り詰めたいと考えるタイプじゃない。むしろ平穏を好み、波風立てる事を嫌う和順(わじゅん)な性格なんだ。だからそんな競争ばかりの世界に心底疲れ果てていたんだろうね。

 でもそんな俺にも一つだけ心休まる時間があったんだ。それは好きな音楽を聞きながら、何も考えず気楽に走るクールダウンのジョグの時間だった。けどそれって良く考えてみれば、君が走りながら感じている楽しさと同じなんじゃないのか。改めて俺にはそう思えたんだよ。

 センスが無いのに俺が走る事を辞めなかった理由。それはやっぱり走る事が好きだったからなんだ。誰の為でもなく、まして誰に強制されるわけでもない。自分のペースで走りたいだけ走り、その気持ち良さに心を委ねる。そんな感覚が大好きだったはずなんだ。


 皇居の外苑に来た目的は、そんな俺自身の初心を思い出したかっただけなのかも知れない。でも並走する君を見ていて、そんな事はどうでも良くなってしまった。だって君は内堀通り沿いを走る一周5キロほどのコースを、音を上げずに2周も走り切ってしまったんだから。

 少しでも暑さを避ける為に、朝の早い時間にスタートしたつもりだ。でも真夏の首都の暑さは想像を超えるほどに厳しい環境だったんだ。それなりのトレーニングに日々(いそ)しんでいた俺ですら、咽返(むせかえ)るほどの暑さに途中で心が折れそうになったくらいだからね。だから初めは一周だけ走れれば上出来だと思っていたんだ。

 君が頑張り屋さんだという事は十分把握しているつもりでいた。それは彼女と二人で幅跳びの練習をしていた姿勢より感じ取る事ができていたからね。でもまさかここまで忍耐強いとは思わなかったよ。走っている時の君はとても辛そうだったしね。

 荒々しい呼吸は君の鼓動の高鳴りを否応なく俺に感じさせた。弱々しい両足のストロークは、次の瞬間には折れて粉々になってしまいそうだった。それなのに君は1周目を走り終える間際に俺に向かって言ったんだ。『お願いだから、もう一周だけ付き合って』ってね。

 額から流れる汗になんて構っていられない。君はそれほどにまで体力を消耗していたはずなんだ。だから俺は思いっきり驚いたよ。だってその時君が俺に見せてくれたのは、言葉で言い表せないほどの無垢な笑顔だったのだから。

 強がっているわけじゃない。もちろん暑さと疲れで気が変になったわけでもない。君は走る自分自身に何よりの心地よさを感じていたんだ。だからあの時の笑顔はとても自然で、それでいてとても輝いていたんだね。

 衝撃が全身を駆け抜けた気分だった。くだらない見栄やプライドで卑屈になりながら走る俺自身の心を、その笑顔の眩しさが浮き彫りにしてしまったように感じたから。でも不思議と後ろめたい気分にはならなかったんだ。どうしてなんだろう、理由はよく分からない。ただ一つだけ確信を持って言えるのは、君の走る姿勢がこの上なく俺にとって刺激になったっていう事なんだよね。

 もしかしたら君にとって走る事は、生まれて初めて得ることが出来た生き甲斐のようなものなのかも知れない。そしてそんな生きる意味と向かい合った君は、自分自身でも驚くほどに無我夢中でジョギングを楽しめたんだろう。俺はそんな君の姿に力強く背中を後押しされた気がしたんだ。今生きるこの瞬間を精一杯楽しめれば、それだけで良いんじゃないのかってね。

 その時は都会の真ん中で思いっきり叫びたい衝動に駆られたよ。そして走る君を後ろから抱きしめたくもなったんだ。だって君の事が本当に大好きになれたのだから。

 無意識のうちに自身の心を束縛していた陸上競技という重荷から解放された。俺はそう感じたんだ。はっきりと体感できたんだよ、身も心も軽くなったっていう事をね。そしてその主因が君なんだという事も理解出来た。オーバーな言い方だけど、世界ってこんなにも素晴らしいものなんだって思えたんだ。

 もしかしたら君の差し向けた笑顔が、俺の脆弱な心の影を掻き消してくれたのかも知れない。ううん、きっとそうなんだと信じたい。君が俺に与えてくれた勇気と希望は、それほどまでにこの胸を熱く焦がせているのだから。そして俺はそんな馳せる気持ちを大切に抱きながら、この夏を一気に駆け抜けたんだ。

 君が見守っていてくれるから頑張れた。キツイ夏だったことも否定できない事実だけど、でもこれ程までに充実した夏を送ったのも初めてだった。ただ夏が終わりを迎えた9月の中頃、そんな満ち足りた気分に(ひた)る俺に一大事が勃発したんだ。


 まったく予想もしていなかった。悪い冗談にしか聞こえなかった。でもそれは紛れもない現実だったんだよね――。

 手足に感じた震えは武者震いなのだろうか。いや、これは単に緊張と不安で怖いだけなんだろう。

 俺はその秋に実施される陸上競技会大会の出場選手に抜擢されたんだ。理由は簡単な事さ。有力選手のケガの代役にされただけの事なんだから。でも俺の大会エントリーを決めたコーチの発言に対し、耳を疑ったのはもっと別の理由についてだったんだよね。

 君が見守ってくれている中、これ以上ないくらい練習に没頭出来ていた事が影響したんだろう。実はその時の俺は、自分でも信じられないほどに良いタイムを記録していたんだ。

 初めにそれをコーチに告げられた時は信じられなかったよ。だってそれまでの俺の1万メートルでのベストタイムより、2分以上も早い記録だったからね。それもただ2分記録を縮めたんじゃない。この暑い夏の環境の中で縮めたんだ。

 そんなの部内全員を見渡しても俺だけだったんだよね。さらに言えば、これから季節は秋になり気温は下がっていく。言うなれば走るに適した環境になるのはここからなんだ。タイムが更に縮むことは確実だろう。だからコーチは俺を出場選手に指名したんだ。

 決してケガした選手の(たな)ぼた扱いだったわけじゃない。いや、例えその選手がケガをしていなかったとしても、今の俺の記録だったら実力で選ばれてもなんらおかしい事じゃないんだ。そう胸を張って言えるくらい、俺は自分でも気づかないほどに力量が嵩上げされていたんだよね。

 ただそれでも俺は不安に駆られた。自信が無かったんだ。だってそうだろ。今までろくに大会なんて出場した事がないんだ、緊張するなって言うほうがおかしいはずなんだよ。2ヶ月も先の大会の事で頭が一杯になり眠れなくなる。こんな思いをするくらいなら、選手になんてならないほうが良かった――。

 相変わらずの(およ)(ごし)は変わらない。気が付くと尻込みする弱気ないつもの俺が、隙あらば逃げ出そうと屁理屈に頭を回転させていた。

 でもその時の俺に現実から逃げ出す事は許されなかったんだ。だって俺の隣にはいつも君がいるんだし、そんな君に恰好悪い姿を見せるわけにはいかないじゃないか。それに、少しは良いところも見せたいしね。

 高まる不安と馳せる期待の交錯する妙な気分に心は苛まれてゆく。そんな中で俺は全力で練習に明け暮れた。もう我武者羅(がむしゃら)に走りまくったんだ。俺にはそうする事しか出来なかったから――。いや、違うか。一心不乱になれるくらい、練習に没頭出来たんだ。だって君が心強くも優しく応援してくれていたのだから。

 叱咤激励(しったげきれい)してくれるわけじゃない。ただ頑張ってと見守り続けるだけだった。でもそれが何よりの(はげ)みになったんだ。そして君はこう言ってくれたね。『別に成績が良くなくたって、自分が納得出来ればそれで良いんじゃない』ってさ。

 その言葉にどれほど心が救われた事か。確かに君が言うように、高望みする筋合いは何もないんだ。少しくらいタイムが良くなったからって、別に部内で一番になったわけでもないし、まして大会で上位に食い込むことができるほどの記録に到達しているわけでもないのだから。要は俺に誰も期待なんかしていないんだよね。

 だったら自分が今出せる力を精一杯使い切って走り抜く。ただそれだけで上出来なんじゃないのかって思えたんだよ。またそう思う事で、辛い練習にも耐えられたんだ。


 俺が全力で駆けるのと比例するようにして、日々は加速して消費される。まだまだ練習が足りないというのに、大会の日程はもうすぐそこにまで迫っていた。

 気を楽に保とうと努めていたつもりだったけど、やはり緊張と不安は徐々に俺を(むしば)んでいったんだろうね。ここに来て伸び悩むタイムに少し焦りを覚えていた俺は、一度だけ君に強く荒立った気持ちをぶつけてしまったんだ。もう何をやっても上手くいかない。完全に気が病んでいたんだろうね。

 でもそんな俺を君は穏やかに包み込んでくれた。心許無く震える手を優しく握りしめてくれたんだ。すると不思議にも強張った肩からすっと力が抜けたんだよね。

 そう言えばあの日、砂場で倒れた彼女に心臓マッサージをしようとした時も同じだった気がする。我を忘れるほどに(りき)みきった俺の肩に君は手をそっと添えてくれた。それをキッカケにして俺は落ち着きを取り戻したんだ。

 本当に助けてもらいたい時に救いの手を差し伸べてくれる。俺はその時改めて君の存在感を強く把握したんだよ。そして心に決めたんだ。今度の大会は自分の為じゃなくて、君の為だけに走り切ろうってね。

 根拠はまるで無いんだけど、そう思えば精一杯の力が出し切れる気がしたんだ。それに例えその結果が報われなかったとしても、君だけは俺の事を心から祝福してくれると信じれたんだ。

 君の小さな手から感じる温もりは、俺の縮こまった胸の内を柔和に温めてゆく。そんな安らぎに気持ちを寄り()わせながら、俺は自分の心に誓いを立てたんだ。何があってもこの手だけは離さないってね。その気持ちに偽りなんてもちろん無いし、そう決意した事に自然と胸が高鳴った事も本当なんだ。


 でも、そんな大切な誓いをずっと胸に抱き続けていく事がどうして出来なかったんだろうか――。俺にはそれが出来たはずなのに、君もそれを強く望んだはずなのに、それなのに俺達の未来はそうはならなかった。

 その事を人は理不尽とでも呼ぶんだろう。けど俺にはその言葉の代わりに【必然】という言葉だけが深く心に刻まれるんだよね。

 悔しいよ。それに怖くて(たま)らないよ。でも俺にはそれがどうしてなのかは分からない。逆に君になら、その答えが分かるのかなぁ。

 俺と君が付き合いはじめてから7ヶ月あまりが過ぎ去ろうとしていた。そして冬の到来を感じさせる冷たい北風の強く吹く日に、皮肉にも俺が人生で最も輝いた、あの大会の開催を告げる空砲が鳴り響いたんだ――。

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