第三話
正式に告白したわけじゃない。告白されたわけでもない。でもお互いの気持ちに逆らう事なく、自然の成り行きに身を任せた俺と君は付き合い始めていたんだ。ただ俺がそれを理解したのは周囲からの冷たい反応によるもので、心疾しくも君を慈しむ気持ちに気付いたからじゃなかった。
君は可愛かったからね。運動部に属する女子部員の中で可愛いほうだという次元ではなくて、普通に女の子として君は魅力的だったんだよ。その証拠に陸上部員だけじゃなくて、一般の男子学生の中でも結構人気があったはずなんだ。それに君は誰に対しても優しかったから、その人柄に皆は惹かれていたんだろうね。
君から感じ取れる温かさや穏やかさは自然に醸し出される雰囲気であって、そこに偽善的な要素は何もない。なにより君の笑顔は元気を与えてくれるんだ。活発におしゃべりをするほうじゃなかったけど、でも君は根が明るい性格なんだろうね。だから君はいつも笑って彼女と幅跳びの練習に励んでいたんだ。そしてその笑顔に皆は魅力を感じていたんだよ。
そんな誰からも慕われる君と付き合う事になった俺に対して、周りの反応が厳しくなるのは至って当然な結果だ。殺気とも言い替えられるキツい嫉妬心を度々感じ取ることが出来る。でも俺はその事に対してはあまり気にしなかったんだ。だって俺達は互いに惹かれ合って付き合い始めたんだし、そこに後ろめたい素行なんて有りはしないんだからね。
でも本心では、まさか君と交際するとは考えもしていなかったんだ。その理由は二つある。一つは俺が同じ陸上部員とあまり関わり合いたくなかったという事。本音を言えば恥ずかしかったんだろうね。だって俺は才能も無いのに練習だけは真面目に熟す不器用な男なんだからさ。そしてそれは同じ陸上部の者なら誰しもが承知している事実なんだし、もちろん君も俺の事を格好悪い奴だとバカにしているに違いないって決めつけていたんだ。
そしてもう一つの理由。むしろこっちの方が大きな理由なんだろう。実はその時の俺には、別に付き合っている彼女がいたんだ。いや、でも誤解はしないでほしい。これは決して浮気などではないのだから。だってその時付き合っていた彼女とはもうほとんど連絡は取ってなくて、事実上別れていたと言える状況だったのだからね。でも俺は自然消滅したはずのその交際に、少し気持ちが萎えていたんだ。
それまで付き合ってた彼女は、君と正反対でかなり我がままな性格の女の子だった。そんな気分屋の彼女に振り回されていた影響なんだろう。俺は暫くの間は女性と付き合う事は避けようと決めていたんだ。
自分の為だけに時間を自由に使いたい。要は他人に合わせる事が面倒臭かったんだろうね。懐の狭い奴だと罵られるかもしれないけど、でも大学生なんてそんなもんだろ? 法律的には二十歳を超えて大人になってはいるけど、でも内面的にはまだまだ子供なんだ。自分が一番大事だったんだよ。ただあの日を境にして俺の胸懐に僅かな変化が起きたんだ。
やっぱり人の命を背負った覚悟っていうのは、自分が思う以上に人を変えてしまうものなんだろう。決まり文句みたいな言葉だけど、やっぱり人っていうのは一人じゃ生きて行けないんだよね。
君は彼女に生きてほしいと強く願った。そして俺は彼女の命を全力で救った。そんな俺に生きる意志を確立させてくれるのは、紛れもない君の存在なんだよね。
冷たい彼女の感覚が未だ印象深く記憶に残っているからこそ、俺はそれを溶かしてくれる温もりを必要としていたんだ。そして俺は君の優しい温もりに身を委ねる事で、砕けそうな気持ちを繋ぐ事が出来ていたんだよ。
自分本位な都合で君に甘えているだけなんだ――って、はじめ俺はそう思っていた。だって自分自身が傷つく事に人一倍抵抗力が乏しい俺なんだ。自分の気持ちさえ補えれば、君の優しい心遣いだって卑しくも利用してしまう。そんなちっぽけな男なんだよ、俺なんてさ。
けど今回は少し違ったんだ。言葉は悪いけど、俺は君の好意に甘え寄り添っていた。でも君の方も、俺に頼り縋っていたんだよね。
あの日の嫌悪感に怯える君は、震える心情を上塗りするため俺に強く包まれることを望んだ。胸に刻まれた怖さを無理やりにでも誤魔化すためには、きっとそれしかなかったんだろう。
要はお互い様だったわけだ。グラウンドの休憩所では、共に胸の内を曝け出して傷の舐め合いをした。その結果気分が晴れたのは嘘じゃない。そして今はお互いの体と気持ちを絡める事で、心の傷を柔和に癒している。
生きるための本能が表面化しただけだったのかも知れない。でも動機の理由は何であれ、そこには微かながらも確実に愛情が育まれていったんだ。そして俺は気付いた。君という存在が、ただ俺の心を癒す為だけにあるのではなく、掛け替えの無い大切なものになってしまったんだという事にね。
その想いは君と過ごす時間が増えれば増えるほどに強く高まっていったんだ。こんな気分は今まで感じた事が無い。俺は今までに二人の女性と付き合った経験があったけど、正直に言えば相手に愛しさを覚えた事が無かったんだ。
それまでの俺は、単にステータスとして女性と付き合っていたんだろう。相手の事をどうこうというより、こんな俺でも彼女が居るんだという自尊心に満足感を付け加えたいだけだったんだ。振り返って思い出しても、俺は相手を心から思い遣ったり、相手の為に何かをしてあげたいと考えた事が見当たらない。まして一人夜眠る前に、相手の事など考えたこともなかった。そんな俺が今では君の事を思うと眠れなくなってしまうんだよ。
君に早く会いたい。君と一緒にいたい。頭がイカれるんじゃないかって思うほどに君の事ばかり考えてしまう。でも決して苦痛なんかじゃない。いやむしろ爽快な胸の高鳴りを覚え、気持ちが前向きに熱く馳せるほどだ。そしてそんな愛らしい想いに胸が焦がれるのは、君も一緒だったんだよね。
『あなたの事を考えると、なかなか寝れないんだ』って、君は恥ずかしそうに言ってくれた。耳を真っ赤に染め上げた君のあの表情は忘れられない。ただそれを聞いた俺の方も、かなりこそばゆくて照れたけどね。
本来恋人同士っていうのは初めに相手を好きになり、そして交際に発展するモンだ。けど俺と君の場合はまったくの逆の展開になっている。付き合い始めたキッカケは、あの日の事故により抱えた心の傷を癒す事だった。寂しい言い方だけど、そこにはお互いに対する愛情は無く、ただ自分自身を慰めたいだけだったんだ。でも二人で過ごす時間が増えるにつれ、そこに【恋】が芽生え始めたんだね。
付き合い始めてから好きになった。だから余計に君の事が愛おしく思えたんだろう。共有する時間が増すほどに君の魅力を再認識し、そして更に君の素敵さを発見してゆく。
君の事をもっと知りたい。君の事をもっと好きになりたい。気が付けば俺は君の事ばかりを考える様になっていたんだ。
またそんな想いと反比例する様に、あの日の苦い記憶は薄れていった。人の記憶なんていい加減なモンなんだね。だってあれだけ心を痛めつけていたはずの苦い記憶が、今では人工呼吸や心臓マッサージを実施した事すら曖昧になっているんだから。でもそんな記憶を掻き消したのは、紛れもない君に恋した事が最大の要因なんだ。
所詮俺のちっぽけな脳ミソに備えられたメモリー容量なんて、たかが知れている。だから君との新しい思い出が記憶に保存されるたびに、過ぎ去ったあの日の記憶は脳から押し出される様にして消去されてしまったんだろう。
俺は幸せだった。自分の事ではなくて、他人を思い遣るだけでこんなんも心が満たされるものかと驚きもした。
もしかして別れた彼女の事が本気で好きだったなら、あの気紛れな我がままなんて気に病むほどの問題じゃなかったのかも知れない。ふと、そんな風に考えたりもした。でも俺は彼女の事を本気で好きになれなかった。それは言い訳のしようがない俺自身の責任だ。でも彼女にしてみても同様に責任はあったんじゃないかって思えて仕方ない。だって彼女も俺の事を本気で好きでいてくれたわけじゃないのだから。
比較するのはどうかと思ったりもするけど、でも君が俺に向けてくれる愛情の強さは彼女のそれとは根本的に違っている。君のその眼差しだけで、俺は十分にそれを感じ取る事が出来てしまうんだ。
恐らく俺が君を慕う以上に、君は俺の事を大切に想ってくれていたんだろう。だからこそ俺は君の事しか考えられず、また君を愛おしく想い続けたんだ。
君は眩しいほどに素敵な笑顔を俺だけに見せてくれる。だから俺も精一杯の愛情で君を包み込んだんだ。
俺達の恋はまだ始まったばかりだけど、でもその先に繋がる未来に一片の曇りも無い。その時の俺は純粋にそう思っていた。そして君もそう思ってくれているはずなんだと、信じて止まなかった。
どんよりと雲掛かった梅雨の時期、俺は君に誘われて新宿の副都心を訪れていた。
なんでも前々から気になっていたパン屋があり、そこへ行きたいらしい。特に否定する理由もないことから、俺は君に従い電車に揺られた。
時間帯が良かったのか、さほど電車内は混んではいない。ただそれでも俺達は立ったまま目的の駅まで移動したんだ。でも実のところ、これは完全に俺の自分よがりだったんだよね。身長差のある俺と話す為に、少し上目使いする君の表情が一番好きだったから、あえて俺は立ち話しする事を選んでいたんだ。
すでに君と付き合い始めてから4ヶ月あまりが経とうとしている。この頃になると、だいぶ君の事が分かってきていた。
基本的にはしっかり者の君。何をするにもテキパキとした行動から、育ちの良さが感じられる。まったく俺にはもったいなさ過ぎる恋人なんだよね、君はさ。ただ強いて欠点を上げるとすれば、料理の腕前はあまり上手とは言えなかった事かな。
初めて俺の為に作ってくれたチャーハン。悪いけど、しょっぱ過ぎて食えたモンじゃなかったよ。勢い良く吐き出してしまったけど、まぁ君自身も料理のヘタさについては自覚してたみたいだから、苦笑いして誤魔化していたけどね。ただその後に俺が作り直したチャーハンを食べて、目を輝かせていた君の姿が面白かったよ。
そして最近もう一つ気が付いた事があるんだ。君が意外と勘違い屋さんなんだっていう事にね。その片鱗は今回訪れたパン屋でも発揮されたんだ。
見るからに旨そうなパンが所狭しと陳列されている。焼き立ての甘い香りでヨダレが零れそうだ。その中で、どのパンを選ぼうか君は頭を悩ませていた。そこで俺は君に勧めたんだ。焼き立てホヤホヤで、まだ湯気の上がるクリーム色をした丸い蒸しパンをね。でもその時、君は蒸しパンに異常なまでの拒否反応を見せたんだ。
「え、もしかして蒸しパン嫌いなの?」
俺は即座に聞き尋ねた。尋常でない君の態度に驚かされたからね。ただ君の答えを聞いて、俺はポカンと口を開くばかりだった。だって君は蒸しパンの事を【虫パン】だと勘違いしていたのだから。
どうやら君がまだ幼い頃、表面にレーズンが散りばめられた蒸しパンを見て、本物の虫がついているものと思い込んだんだね。そして君は現在までトラウマの様に蒸しパンを避け続けていた。それを知った俺は、つい声を出して笑ってしまったんだ。
君はそんな俺に向かい頬を膨らませて怒っていたね。ゴメンゴメン、まったく悪気は無かったんだ。ただ本気でそんな思い違いをしていた君の姿がすごく滑稽に思えて、それを愛おしく感じてしまっただけなんだよ。
少し多めにパンを買った俺達は店を後にする。見た目によらず君はけっこう食べる方だったけど、でもちょっと買い過ぎなんじゃないのか? なんて思っていたら、君は僅かに渋い表情で俺に告げたんだ。これから一緒に倒れた彼女のお見舞いに行かないかって。
そう言う事か――。彼女は現在もまだ入院中だった。そしてその病院はここから比較的近い場所にあるのだという。どうやらパン屋に行くっていう理由は、彼女を見舞うための口実だったんだね。でも君は俺を気遣って、遠回しに誘ったんだ。
相変わらず優しいよね、君は。でももうそんな心配はいらないよ。だって今の俺にはあの日の苦い記憶なんて、霞みきってしまってるんだからね。
それでもいざ病室で彼女と向かい合うと、少し気持ちが萎縮してしまった。無理やり思い出そうとしても漠然とした記憶しか思い出せないあの日の出来事。しかし改めて彼女の痩せ細った姿を目の当たりすると、あれが現実だったのだと思い知らされる。そこにいる彼女にはもう、幅跳びに精を出すあの元気な面影は見当たらないのだから。ただ彼女のほうもゲッソリと頬が削げている自分の姿に恥ずかしさと戸惑いを覚えている様だった。
もともと陸上体型の彼女はかなり痩せた体つきをしていた。でも俺の知る彼女の体は、それでも筋肉の引き締まった躍動感溢れる力強さを感じさせたはずなんだ。けれど今目の前にいる彼女の姿にその名残は感じられない。命には別状ないとはいえ、これほどまでに衰弱した姿になってしまうなんて、よほど病状が酷いのであろうか。
ただそれでも彼女は気丈にも笑顔で俺達に話し掛けたんだ。入院してからは家族以外とはほとんど話す機会が無かったらしい。だから親友である君が久しぶりに顔を見せた事に嬉しさを感じたんだろう。それに時間が経つにつれ、俺に対する決まりの悪さも影を潜めていった様だしね。
彼女にしてみれば、俺は命の恩人と言える存在なんだ。俺自身はそんな事に気を留めやしてないし、恩を売るつもりなんてさらさらない。けど彼女はさすがに俺への対応に戸惑ったのだろう。ただ開口一番に彼女が俺に告げたのは、意外にも救命活動に対するお礼ではなくて、ファーストキスを奪われた事に対する遺憾の念だったんだ。
でもその時は救われたよ。彼女の衰弱した姿を目にした俺は、無意識のうちに竦み上がっていたからね。弱気にも病室から逃げ出したい気持ちで一杯だったんだ。けれど彼女が自虐的に笑いながら話し掛けてくれたことで、俺は気持ちが落ち着いたんだよ。
もちろん彼女と直接話しをするのは初めてだった。ただそれほど抵抗は感じなかったんだ。不思議だね。人見知りの俺が初対面とも言える相手と自然に話せるなんて、今まで経験し無かった事なんだからさ。まぁ予想外に炸裂した彼女のマシンガントークで、一方的に聞いている時間の方が長かったっていうのが本当の所なんだけどね。
地声の大きな彼女のおしゃべりは止まらない。俺の勝手な想像だけど、まるで生きている自分という存在を必死で確かめている様に見える。でもそうする事で、彼女はきっと自身が抱く不安感や恐怖心を紛らわしているのだろう。決して強がっているわけではないけど、やっぱり彼女は自分の抱える病気が怖くて仕方ないんだ。話を止めたら孤独に苛まれてしまう。彼女の本能が生きる為に講じた手段が、恐らくはこの止まらない長話という現れなんだろうね。
ただそんな騒がしい病室の中で、彼女の長話しを笑顔で聞く君の姿がとても印象的だったんだ。大方普段から君と彼女の関係は、今日の病室と同じなんだろう。激しく捲し立てる様にしゃべる彼女の話を、君は笑顔で受け止める。まったく正反対の性格をしているからこそ、逆に馬が合ったんだろう。俺は時折話に加わりながらも、そんな君達二人の姿を微笑ましく見守っていた。
でもふと思ったんだ。君とグラウンドで初めて話した時も、自然に話しが弾んだっていう事をね。
俺と君はお互いにあまりおしゃべりする方じゃない。それなのにあの時は双方とも気取らないで胸の内を話す事が出来ていた。本当に不思議だよ。もしかしたら彼女がこれ程までに饒舌になるのは、相手が君だからなんじゃないのか。そして俺が心を開けたのも、君だったからじゃないのだろうか。
楽しそうに彼女と話す君の横顔を眺めながら、俺はそんな事を考えていた。すると君を見つめる俺の態度に何かを感じ取ったんだろう。彼女は口元を不敵に緩めて冷やかす様に告げたんだ。
『もうすっかり二人は恋人同士なんだね』ってさ。
俺と君は揃って赤面してしまった。彼女のあまりにもストレートな表現に対し、急に恥ずかしさを感じてしまったんだ。
どうにも居た堪れない気持ちになった俺は君に視線を向けた。君ならこの状況を無難に切り抜けられると思ったからね。でも同時に君も俺を見つめたんだ。そしてお互いの視線が絡み合った瞬間に察した。君も俺と同様に戸惑っているんだとね。
妙な部分で重なってしまった波長に、俺と君は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。するとそんな俺達の尻込みする姿を眺めた彼女は大声で笑ったんだ。『似た者同士のラブラブなカップルだね』って言いながらね。
彼女から見た俺と君は、もう普通に交際するカップルとして映ったんだろう。そして彼女は自分なりの表現で俺達を祝福してくれたんだ。『私がこんなにも辛い思いをしているのに、二人は楽しんでいるんでしょ』って、少し皮肉を付け加えながらね。でもその眼差しは温かいものに感じられたんだ。そして彼女は穏やかに続けたんだよね。『すごくお似合いだよ』ってさ。
赤面していた表情が、さらに赤く上塗りされてゆく。そんな錯覚を感じるほどの恥ずかしさを覚えたけど、でもそれは純粋に嬉しかったからなんだろうね。
俺達の交際を認め、そして応援してくれる人がここに居る。初めてそう思えたから、俺は心から嬉しさを噛みしめたんだ。
自分が言うのもなんだけど、俺のルックスは決して悪いほうではないはず。身長なんて高いほうだ。だから可愛らしい君とそれなりに釣り合いが取れているんだろうと思っていた。でもそんな見た目の要因なんて、君が俺に好意を寄せてくれる本質じゃなかったんだよね。彼女が言ってくれた『似た者同士』っていう表現。俺はそこに君と惹かれ合い、そして付き合い始めた主意があるんだと理解できたんだ。
表面的じゃなくて、心の深くから結ばれている。そんな君との繋がりに気付く事が出来た。どうやら俺が彼女の命の恩人なのなら、彼女は俺にとって君と引き合わせてくれた恩人だと言えるんだね。そう思えた俺の胸の内は嬉しさで溢れ返り、自然と穏やかな気持ちに浸っていったんだ。
すっかり打ち解けあった俺達三人だったけど、彼女の定期検査の時間が訪れたために、楽しい時間は切り上げる運びとなってしまった。少し寂しそうな表情を浮かべた彼女に対して、君はまた会いに来るからと元気付けていたね。居心地の良さを覚えていた俺も、その意見には素直に同意したんだ。ただやけに彼女が切ない表情を浮かべた事を覚えている。哀しい眼差しがひどく印象深かったからね。でもその時彼女が心に何を思っていたのか、俺には知る由も無かった。
病院から帰る途中、君もどこか沈んだ気持ちになっていたね。気にはなったけど、でも俺にはその理由を尋ねる事が出来なかった。
痩せ細った彼女の姿を目の当たりにしたことで、急に不安が募ったとでもいうのだろうか。でも見た目以上に彼女は元気そうだったじゃないか。
単純な男の考えなんて、そんなレベルなんだろうね。君と彼女の間に潜む根深い感情の蟠りなんて、その時の俺には考えも及ばなかったんだからさ。
その後彼女の体調が悪化した事から、君と揃って見舞いに行くことは無かったね。でも君が彼女に会いに行かなかった理由がそれだけじゃないって事に気付いていたなら、俺と君の未来は違った形になっていたのかも知れないね。
けど俺はバカだからさ。君の気持ちにも、彼女の想いにも、全然気付いてあげる事が出来なかったんだ――。