第二話
あの事故があった日から四日後のこと、俺はトラックに足を運んでいた。あの日以来初めて訪れたこの場所は、土曜日の午前ということもあり多くの学生がトレーニングに励んでいる。そんな中で俺は周囲に気を配りながら、いつもと変わらない練習を開始した。
少し心配だったけど、気にしていたほど騒ぎにはなっていない。恐らく彼女が無事だったからだろう。もし命を落とす様な事態にでもなっていれば、今頃大騒ぎのはずなんだから。
ただ俺は現場で対応を余儀なくされた当事者として、胸にしこりを残していた。ウォーミングアップでトラックの外周を軽く流すも、あの砂場だけは見ることが出来ない。やはりトラックにくるとリアルに思い出してしまう。助けたはずの彼女の異様なまでの冷たさが、手の平から離れないんだ。
思っていた以上に俺は小心者であるらしい。正直に言ってしまえば怖くて堪らないんだ。それなのに俺はまた、自分に都合の良い言い訳を模索してしまう。
風が強いし、思いのほか気温が低い。今日の天気は練習に適していないんだ。だから無理せずに家に帰ろう。そんなに頑張ったって、どうせインカレには出れないのだから――と。
春の大学対抗戦の出場選手に選ばれなかった悔しさを、練習をサボる理由として転換する。まさに俺の考えそうな見え透いた口実だ。だったら初めからトラックになど来なければよかったものなのに。
ただ変なところで俺は真面目だったんだ。才能が無い事は自分でも重々承知しているはず。それなのになぜか練習だけは続けてしまう。そこまで陸上が好きなのかと問われれば、間違いなく俺は『好きじゃない』と即答するだろう。なのに俺は練習をサボると罪悪感に駆られ気持ちが萎えてしまうんだ。
ガキの頃は努力さえしていれば良かった。結果はどうあれ、そこに挑む姿勢や過程が評価されたのだから。でも大学生にもなれば話は変わる。そう、結果こそ全てなんだ。ある意味練習なんてどうでもいい。結果さえ出せるのであれば、普段は遊びほうけていても構わないのだ。
センスが無いうえに不器用なんだろう。愚直にもただ勤勉にトレーニングに励む。そこに運動選手としての心の柔軟性が乏しいことは明白だった。一流のアスリートというものは、練習でも普段の生活においてもメリハリをつけて行動しているはずなんだ。それもごく自然に。
俺にはそれが出来なかった。与えられた課題を熟すのみで、その先の応用までは頭が回らない。素人が趣味の範囲で続けるにはそれで十分なのだろうが、上を目指すアスリートとしては致命的な欠陥だ。だけど更に厄介な問題がそこにはあったんだ。
自分は運動選手として大成することは無いだろう。だったら部を辞めてしまえばいいのだ。そうすれば年下の後輩にブッ千切られる事も無いだろうし、先輩に無理な雑用を押し付けられる事もない。そうすれば余計な恨みや辛み、妬みなどの歪んだ感情を抱くこともないはずなんだ。最も簡単で効果的な暗然たる現状からの脱却方法。しかし俺は部を辞めることが出来なかった。勇気が無かったんだ。
走るだけなら一人で出来る。部に属した今だって、現にこうして一人で走っているじゃないか。そこまで理解しているのに、でも何故か俺は部を辞めようとはしなかった。『逃げるのか?』などと、周囲にバカにされる事を恐れていたんだろう。でもそれは俺の完全な思い違いであり、根本的にズレている現象なんだ。だって周囲はそんな事を言うほど、俺に感心がないのだから。
勝手な自己嫌悪に陥った俺は、増々走る気力を削いでいった。病は気からなんて昔の人は言ったけど、それは運動にも当て嵌まるんだろう。トラックの外周をゆっくりと流していただけなのに、俺の足は完全に止まってしまった。
腰に手を当てながら少し歩幅を広げて立ち尽くす。視線はもちろん乾ききった土の上だ。俯くというよりは、落ち込むと言った表現の方がしっくりくるかも知れない。そんな状態の俺であったが、ふと腰に当てた右腕に気を留めた。
そこはあの日君に強く掴まれた場所だった。そしてあの日の帰り道で不思議な温もりを感じた場所でもあった。なぜ急にそんな事を思い出したのだろうか。
翌日の朝から感じた心臓マッサージの影響による過度の筋肉痛で、昨日の出来事が夢でないと改めて実感できた。そして冷えたお茶を注いだグラスに触れた時、彼女のあの無機質な感覚を思い返し嫌悪感に苛まれた。でも俺を救ってくれた君の微かな温もりだけは、どうしても思い出すことが出来なかったんだ。それなのに、なぜ今になってそれを思い出したのだろうか。
俺は君に掴まれた右手の手首を左手でそっと抑えてみる。実際そこには自分の体温以外に感じるところはない。でもなぜか心が穏やかに和む気がする。妙なほどに落ち着くんだ。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。俺はその場に目を閉じて静止していた。すごく長い時間に感じる。でも苦痛じゃない。むしろずっとこうしていたいくらいだ。実際はほんの数分だったが、俺は不思議な居心地の良さに身を委ねていた。
でもいくらその場所がトラックの片隅とはいえ、他のトレーニングを行う学生達にしてみれば俺は邪魔だったのだろう。誰にされたかは分からないが、悪意の籠った舌打ちに気付き俺は目を開けた。ただ俺はそこで偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎている光景に一驚する。そう、今俺が立っている場所は、あの日君が俺に助けを乞う為に駆け付け、そして俺の腕を強引に掴み走り出したあの場所だったんだ。
背筋にゾッとした寒気が駆け抜ける。まさかの偶然に心臓が口から飛び出そうだ。激しい動悸に苛まれた俺は、胸を強く抑えてその場に膝をつき蹲った。
体調の急変した原因はさっぱり分からない。気持ち悪いほどの偶然の一致に対して、正直に体が反応したとでもいうのか。でも今の俺にそんな理由を探る余裕はない。込み上げてくる吐き気は収まる事を知らず、口の中いっぱいに生温い唾液が充満していくんだ。とにかく早く、早くこの不快さを取り除かねば大変な事になってしまう。
焦る俺は這う様にしてその場から距離を取ろうと足掻いた。何処でもいい。とにかくこの場所から離れたかったんだ。でも自分の意志に反して体は思うように動いてくれない。
(フザけんなよっ、なんで俺がこんな目に遭わなくっちゃいけないんだ!)
心の中で俺は強く吐き捨てた。まるで自分一人が世界中の不幸全てを背負っているかの様に感じたんだ。
普通なら人の命を救えば褒められたり敬われたりするもんだろ。それなのに、俺はなんでこんな冷たい土の上で這いつくばらなければいけないんだ。理不尽過ぎるよ。別に神様なんて信じてないけどさ、もう少し優しくしてくれてもバチは当たらないんじゃないのかなぁ――。
俺は悔しくて泣きたくなった。気分の悪さよりも、自分の存在という曖昧な定義に痛烈な寂しさを覚えたんだ。俺の存在価値ってなんだろうって。俺の存在意義って有るのだろうかって。
爪を立てた指で硬い土を毟る様に掴み取る。そして俺は蓄積した怒りを激しく解放する様に、その土を投げるべく振りかぶった。――と、その時だった。
俺は真正面に立つ【君】の姿を見つけたんだ。なにが起きたのか理解出来ない。突然目の前に現れた君の姿に俺は狼狽えた。でもその時の俺の心は、恥ずかしさを隠そうとする気持ちで溢れ返っていたんだ。
つい先程まで感じていた自分自身に対する絶望などどこ吹く風であるのか。俺は君に最低な姿を見られてしまったと、無念にも口惜しむばかりだった。
恥ずかしい。逃げ出したい。でもどうすることも出来ない。いつもの俺なら気の利いた言い訳の一つでも呟き、この場を切り抜けようとするはず。しかしこの時に限って、得意とするはずの弁解が何一つ思い付かなかった。
そんな俺に対して君は不思議そうな眼差しを向けていたね。まぁ、それは当然だろう。大地に這いつくばっていたと思ったら、泣きながら掴んだ土を投げ捨てようとしたんだ。むしろその光景を見て、俺を変人に思わないほうがおかしいくらいだ。でも俺の予想に反し、君の告げた言葉は意外なものだったんだよね。
『無理しないで。どこか調子が良くないの?』
少し気が動転していた俺だけど、でも君の言葉に嘘がないことは理解出来たよ。直感としてそう感じたんだ。君は俺の事を素直に心配してくれている――って。
顔が赤くなるのが分かった。猛烈に恥ずかしかった。でもそれの何倍も嬉しかった。
すでに気持ちの悪さなど吹き飛んでいる。随分と気まぐれでいい加減なモンだ。君に向き直った俺の心と体は浮き上がるほどに軽く感じられた。でも心配そうに俺を見つめる君に、俺はなんて答えて良いのか分からず閉口するしかなかったんだ。だって恥ずかし過ぎるだろ。正直に胸の内を話すという事は、脆弱な自分自身を曝け出すだけなんだからさ。ただ俺は戸惑いながらも一つ気が付いた。君が僅かに肩を震わせているという事にね。
どうしたんだろう。理由は見当も付かない。それでも把握出来たのは、君が強がるようその震えに耐え忍んでいた事だ。
体感する今日の気温は確かに低いが、でも君から感じる震えの原因はそれとは違う気がする。寒さに身を震わせるというよりは、怖さで心が萎縮してるって感じだ。
つい先ほどまで俺自身が気分を害していたせいなのだろうか。俺の目に映る君の姿からは、そんな気がしてならなかった。そして俺は無意識にも口走ってしまう。君が俺と同じ心境であって欲しいと願うように。
「もしかして、あの日の事が怖いの?」
俺の問い掛けに君は何も答えなかった。視線を俺から外した君は静かに俯く。でもそこで君は一度だけ小さく頷いたんだ。
迅速な蘇生処置のお蔭で彼女は息を吹き返した。その嬉しさに君は涙を流して喜んだはず。でもやはり目の前で彼女が突然倒れ、冷たくなった印象のほうが強かったんだね。冷静になればなるほどに、そんな凄惨な状況を思い出してしまうんだよね。
厳しく悩み、辛く苦しむ。俺も同じだよ。彼女を救った嬉しさは早々に影を潜め、酷く切ない虚しさだけが深く心に傷跡を残す。俺は、俺達はあの日間違った行動は何一つしていない。いやむしろ最善の対処を施したはずなんだ。それなのに何故これほどまでに耐え難い苦痛に苛まれなければいけないのか。
それでも俺は少しだけ救われた気がした。苦しんでいたのは俺だけじゃないって、そう思えたから。自分本位の身勝手な考えだけど、君の心情を察した俺の不安は霞んでくれたんだ。
引きつった表情だったかも知れない。でも俺は君に向けて微笑んで見せた。君に言いそびれていた言葉を思い出したから。君を元気付ける為に用意した言葉じゃないけど、でもそれを伝えるには笑顔が一番しっくりくるはず。だから俺は俯く君に向けて、似合わない笑顔で言ったんだ。精一杯の想いを込めて。
「あ、あの時はお礼を伝える為だけに戻ってきてくれて、どうもありがとう。――すごく嬉しかったよ」
異性に対しての抵抗はさほど無いはずなのに、この時は緊張した。単純に恥ずかしかったんだ。
素直に感謝の言葉を口にした事など、思い返せば記憶に無い。照れという心の分厚い壁が立ち塞がり、今までの俺は誰に対しても恥ずかしむばかりで感謝の気持ちを表現することが出来ていなかったんだ。でもそんな俺が自分でも不思議なほど自然に口にした『ありがとう』の言葉。さらには『嬉しかった』などと補足まで述べている。
自分の意志では抑えられない顔の火照りを感じた。口から火を噴きそうなほどに気恥ずかしい。でも決して悪い気分ばかりじゃない。
自分の口から出た言葉の響きに鳥肌が立ったのは事実だ。けどそれ以上に俺は満足感を覚えたんだ。君に感謝しているのは本当の事だし、その想いを素直に告げる事が出来た。まるで喉に詰まった異物が取り除かれたかの様にスッキリと気分が晴れていく。こんな感覚は生まれて初めてのことだ。
あまりの爽やかさに俺は良い意味で驚いていた。そしてさらにもう一つ驚いたんだ。それは君が俺に向けて見せてくれた笑顔にだった。
あの日感じた嫌悪感を引きずる君は、俺とは違ってまだ気分を切り替える事が出来ていないはず。でも君は俺の告げた感謝の言葉に対して笑顔で応えてくれたね。少し驚きもしたけど、でも俺にはその時の君の笑顔がとても素敵に見えたんだ。
彼女を救ったあの日に見せてくれた笑顔も眩しいほどに輝いて見えたけど、今度の笑顔はすごく優しいものに感じられた。柔らかくて温かい。ホッと気持ちの安らぐ和やかさに包まれてゆく。そして俺も君の無垢な笑顔につられるよう、満面の笑みを浮かべ返したんだ。
グラウンドに併設された休憩所は、春の朗らかな日差しに包まれて穏やかだった。空気は少し冷たく感じるものの、風除けのフェンスに囲まれたこの場所は陽だまりになっていてすこぶる気持ちが良い。このまま昼寝でも嗜みたいものだ。
ただろくに走ってもいないのに、やけに喉の渇きを感じた俺は自動販売機でスポーツドリンクを購入した。
「君も何か飲む?」
そう聞き尋ねるも、君は笑顔のまま首を横に振った。特に遠慮している風には見えない。単に飲みたくないのだろう。
ベンチに腰かけた俺は、ペットボトルのキャップを外すと一気に半分近くまでスポーツドリンクを飲んだ。カラカラの喉に冷たい水分が浸透していく。たまらなく旨い。まさかスポーツドリンクで喉越しを感じるとは思わなかった。
そんな驚きにも似た気分を味わう俺の横に君は腰掛ける。休憩所にベンチは幾つもあったけど、まぁ俺と話しをする為なら直ぐ横に座るのが自然な成り行きだろう。ただ少し緊張した。君と改めて二人きりになった状況に、俺は少し慌てたんだ。
何を話せばいいんだろう。何を聞けばいいんだろう。驚くほどに頭には何も浮かばない。いつもの言い訳がましい姑息な知恵はどこに行ってしまったのか。再び喉の渇きを感じた俺はドリンクを口に含む。ただその時、意外にも先に話し始めたのは君のほうだったね。
表情を少し曇らせて君は呟いたんだ。でも話の冒頭を聞いただけで、君の笑顔が消えた理由はすぐに分かったよ。病院に搬送された彼女の容体について。それが君の告げ出した話だったからね。
正直、話しの重みに身が竦んだよ。命の尊さなんて、今までまともに考えた事無かったからね。俺は勉強も運動もこれと言って誇れるものは無かったけど、でも体だけは丈夫だったんだ。まして家族や友人にも亡くなった人なんて一人もいやしないんだ。だから余計に健康について日頃から考えが希薄だったんだろう。そんな俺が初めて人の命というものに向き合ったんだ。気持ちが萎えないほうがむしろおかしいはずだよね。
俺の救命活動で彼女は息を吹き返した。でもその後しばらく昏睡状態が続いたらしい。ただそれでも昨日の夕刻に無事目を覚ました。
命に別状は無い。それが医師の出した診断だった。けれど本質はそこじゃなかったんだ。彼女が一時呼吸停止に至ったのは、あくまで砂場を囲う硬い木枠に頭をぶつけた二次的な事故によるもの。重要なのは眩暈を引き起こし転倒する原因となった持病についてのほうだったんだ。
どうやら彼女は幼い頃から内臓に重い疾患を抱えていたらしい。病名は聞いた事がないうえに、難しくて覚えられなかった。けどそのニュアンスから酷く重い病気なのだということは容易に想像することが出来た。
もう彼女は飛ぶことが出来ない。いや、普段の生活にすら何らかの後遺症が残ってしまうらしい。君は辛そうに言ったね。聞いてる俺も切なくて胸が痛かったよ。
練習に励む彼女の姿からは想像なんて出来やしない。けど現実は残酷なんだと痛烈に認識せざるを得ないんだよね。だって彼女がその病気を原因として生死の境を彷徨ったのは、覆しようのない事実なんだからさ。でも君は小さく告げたんだ。『いつかこんな日が来るんだと、覚悟していたんだ』ってね。
中学に入学して出会ってから、君と彼女は共に汗を流して来た。初めは知らなかったようだけど、でも比較的早い時期に君は彼女の病気を知ったんだよね。それから君は彼女と肩を並べて歩む事を決めた。君は誰よりも近くで彼女を支え、そして彼女の生きる時間を有意義なものにしょうと決意したんだ。
凄すぎるよ。中学生なんてまだ子供だ。それなのに君は彼女をしっかりと見守り続けたんだ。話す以上に生易しい事ではなかったはずだよね。同じ歳にも関わらず、俺は君のことを心から尊敬したよ。でも俺が君に向けた敬意は、もっと深い心情についてだったんだ。
君は肩を震わせてたね。そしてその瞳からは涙が零れていたよね。そんな君を前に正直俺は身震いしたよ。だって君の口からそんな想いが告げられるとは思いもよらなかったから。でも君は俺に本心を全て曝け出してくれた。たぶん自分の心に潜む暗い影に、君自身が一番傷ついていたんだろう。君はそれに耐えられなくなった。そして俺に歪んだ胸の内を吐き出したんだ。あの日、彼女の命の重みを共に背負った俺だけに――。
君は彼女が体を丈夫にすることを理由として陸上競技に励んでいるんだと知った。もともと君はそこまで運動が得意というわけではない。そんな君だからこそ、病弱な彼女と一緒にいれば、適度な運動量で部活に参加できると考えたんだろう。でも皮肉なモンだね。陸上の神様は彼女に才能を与えたんだ。
彼女はメキメキと記録を伸ばしていく。まるでか細い命を更に削り研ぐ様にして。そんな彼女に対して君は嫉妬していたんだね。どう足掻いたとしても、その背中には追いつけない。肩を並べて歩み出したつもりが、いつしかずっと差を広げられている。そんな感覚に君は醜くも嫉ましく、心を黒く塗り潰していたんだ。それも無意識の内にね。
体は至って丈夫なのに運動センスの無い君と、体に爆弾を抱える身でありながらも才能溢れる彼女。君はその図式に絶望していたんだね。でもそれが良くない想いだということも理解していた。だって君の本質は、人一倍優しいはずなんだから。ただそれでも君は心のどこかで期待してしまったんだろう。いつか自分の目の前で、才能溢れる彼女が成す術無く倒れるという事を。だから君は彼女のそばに居続けたんだ。
したたかな女。少なくとも俺はそうは思わなかったよ。だって他人を羨ましがる気持ちなんて、誰しもが持っているはずの感覚なんだからさ。それに君は彼女の事を心の中でやっかみながらも、実際には彼女のことを誰よりも助け力になっていた。それは否定出来ない【真実】なんだ。そんな事、他の誰に出来たと言えよう。そして何より倒れた彼女が一番君に感謝しているはずなんだ。それはいつも楽しそうに幅跳びの練習をしていた彼女の姿から確信することが出来る。きっと彼女は幅跳びで記録を出す以上に、君と共有する時間全てに喜びを感じていたはずなんだから。
俺はそう意見を伝えた。すると君は人目を憚らずに大声で泣き始めたんだ。まるで迷子にでもなった幼子の様にね。その姿に少し当惑したけど、でも俺は君を静かに見守り続けたんだ。その涙が枯れ果てた時に、きっと君の心を覆う濃い霧が吹き消されているんだと思えたから。
君はあの日、現実に倒れた彼女の姿を目の当たりにして気が付いたんだね。彼女を嫉み蔑むのは、自分の脆弱な本心に向き合う事を忌避していただけなんだと。そして君はもう一つ気付いた。彼女の存在が、君自身にとっても無くてはならない大切なものになっていたんだということに。
君は彼女を失いたくないと心から願った。生きてほしいと切に願ったんだ。だからあの日、彼女が息を吹き返した時に君が俺に見せた嬉し涙は温かかったんだよ。そして君が望んだ通り、彼女は今も無事に生きている。なんて素晴らしい奇跡なんだろうか。
俺は未使用のタオルを君に渡した。もちろん涙を拭いてもらう為に。君はそれを快く受け取ると、もう流れ尽くした涙を拭いた。ただ君は少し恥ずかしそうにしながら俯いたね。化粧が涙で流れた落ち、ほとんどスッピンになってしまったことに決まりの悪さでも感じたのだろう。でも大丈夫、そんなの気にすることは無いよ。だって君は元々薄化粧だし、なにより素の状態でも十分可愛いのだから。
君が全てを話してくれたお返しに、俺もあの日何度も逃げ出したくなっていた不甲斐無い脆弱さを白状した。お互いの傷の舐め合いでもいい。それでも胸の内をさらけ出す事で互いの気分が晴れるのであれば、今はそれで十分だと俺は思ったんだ。
軽く一時間は経過したであろう。さすがに話し疲れた君は一つ大きく息を吐いた。でもその時の君の表情は、耐え難い重圧から解放されたかのように穏やかだったね。そして君は俺に言ったんだ。
『話し過ぎて喉乾いちゃったよ。それ、一口ちょうだい』
君は俺の手にしていたペットボトルをさっと奪い取ると、飲みかけのドリンクを口に含んだ。そしてもう一度、生き返ったかのように深く息を吐いたんだ。
その後の事はあまり良く覚えていない。あの日の事ではなく、他愛のない世間話しでもしたんだろう。でも割と自然に話が弾んだ事だけは覚えている。
それでも少し歪んだ本心を語り合った俺と君は、惹かれ始めた互いの心の疼きに嘘なんてつけやしなかった。
そんな俺達二人の関係が急速に親密になるのはごく自然な流れであり、また理由も必要とはしなかったんだ。でもそれが結果的に君を、そして俺自身を酷く傷付ける未来に繋がるなんて、その時の俺達には想像も出来なかったんだけどね――。