最終話
「キャッ」
突然発せられた甲高い女性の悲鳴に、少し朦朧としていた俺の意識は現実にへと引き戻される。それにしても何があったというのだろうか。全身から感じる痛みと、もうすぐゴールなんだと沸き立つ気持ちが織り交ざる中で、俺は一瞬状況を飲み込めずにいた。しかし周りを見渡せば、沿道の観衆からもざわめきが巻き起こっている。何かトラブルが発生したのは間違いないはず。直感としてそう思ったのと同時に、走る俺の視界にあってはならない光景が映った。そこにはなんと、マラソン参加者であろう一人の男性が、うつぶせの状態で倒れていたんだ。
(ヤバいぞ、あれは……)
嫌な予感が背筋を駆け抜けていく。どうして俺がそんな懸念を感じたのか、その理屈は分からない。でも何故だか疼きだした胸騒ぎが止まらないんだ。
慌てて集まって来る複数のボランティアらしきスタッフ達。さすがにこんな大きな大会なら、すぐに救護スタッフも駆け付けて来るだろう。俺はそう疑わなかった。だからそのまま倒れている男性の横を、何事も無かったかの様に走り過ぎて行こうとしたんだ。
薄情なのは分かっている。でも俺にはどうする事も出来ないからね。それに周りを走る他の参加者達にしたって、誰一人として足を止める者はいないんだ。気の毒そうに男性を見つめつつも、みんなそのまま走り続けている。恐らく誰もが倒れている男性を気に掛けているに違いない。でも現実として自分が医者でもない限り、なんの力にもなれやしないんだよね。いや、むしろ軽はずみに手を出すなどしたならば、余計に男性を苦しませてしまうかも知れないんだ。
俺はこじ付けがましい理屈を頭の中に並べて走り続ける。止まらない俺が責められるというのならば、ここにいる参加者全てに責任があると言えよう。だから関係ない。俺は自分の目標に向かって進めばいいんだ。あともう少しでゴールなんだから。俺はそう無理やり自分自身を納得させようとしたんだ。でも時だった。
「まさか、そんな――」
ボランティアに混ざりながら立ち尽くしている一人の女性。俺はその女性を目にして足を止めた。足を止めざるを得なかったんだ。だって、だってそれが【君】だったのだから。
なぜ、どうして君がここにいるんだ。俺はそう自問自答を繰り返す。ただその理由は言わずと知れた事なんだよね。単に俺自身が混乱しただけで、一目見れば誰しもがそれを理解出来るものだったんだから。
その容姿からして、君も東京マラソンに参加していたんだね。それもあのクリスマスイブにコンビニに訪れた、新しい彼氏と一緒にさ。そして俺の背中に走り続ける嫌悪感の正体も同時に把握したんだよ。だってさ、今そこで倒れているのは、まさにその彼氏なんだからね。
「済みません、ちょっと退いて下さい」
俺はそこに集まっただけのボランティアスタッフを押し退けて進み出る。自分が何をしているのか。もう俺には冷静に考えている余裕なんてなかった。ただ体が勝手に動いてしまったんだよ。
君の前だから格好付けたかったのか。いや、そんな心疾しい気持ちなんて持ち合わせるわけがない。だって本当なら君の前に姿を見せること自体、俺には気恥ずかしくて耐えられなかったはずだからね。でもそんな俺の些細な心情なんて、今は気にしてなんかいられないんだ。一刻を争う事態が、すぐそこで起きているんだから。
比較的年配の人が多かったからなのか。ボランティア達の取り乱し方は常軌を逸していた。見るに堪えない程に落ち着きを失っていたんだ。でもそれは仕方のない事なんだろう。だってこれだけ周囲が騒がしくなっているのに、救護スタッフが駆け付ける気配がまるでないんだからね。
だけど俺はそんな慌てふためくボランティア達を垣間見る事で、逆に決意したんだよ。今、自分に出来る最大限の事をしようって。
それは決して君の姿を見たからじゃない。君の悲しむ顔を見たからでもない。自分ならば倒れている彼を救えるかもしれない。単純にそう思ったからなんだ。
誕生日を目前に控えた俺は、運転免許の更新をしたばかりだったからね。その時にビデオで見た人命救助の方法を良く覚えていたんだ。皮肉なモンだけどさ、かつて彼女の命を救った記憶を思い返しながら、俺は食い入る様にして人命救助のビデオを見ていたんだよ。だから俺には自信が持てたんだ。根拠は無かったけど、でも彼を救えるのは自分しかいないのだと、純粋にそう思ったんだよ。
俺は声も無く佇む君の前を通り過ぎ、倒れる彼のすぐ隣に膝をつく。そして彼の体を優しく掴むと、ゆっくりと体勢を仰向けに変えた。そして彼の頬を軽く叩きながら、その耳元で大きく叫んだんだ。
「しっかりして下さい。俺の声が聞こえますか!」
クソっ、あの時と同じだ。まるで反応が無い。尋常でないほどの悪寒が全身を駆け抜けていく。またそれに呼応するかの様に、苦い吐き気が湧き上がって来た。
逃げ出したい。怖くて堪らない。自分から歩み寄ったっていうのに、臆病風に吹かれて身が竦み上がる。でも俺には諦めるなんて出来なかった。ううん、もう逃げ出す事の方が耐えられなかったんだ。だって君が強く願っていたから。君が俺に縋る想いにどう応えなければいけないのか、それを心が受け止めていたから。だから俺は震える手を懸命に押さえつけて、意識の無い彼に正面から向き合ったんだ。
君にしてみたって、冷静でなんかいられるはずがなかっただろうに。共に競技に参加していた彼氏が突然倒れ、その直後に元カレである俺がその場に現れたんだ。気が狂ってしまうくらいにパニックになって然るべきはずなんだよね。でも君は錯綜する口ぶりではあるものの、それでも俺に伝わる様、必死に状況を説明したんだ。
「彼、最近仕事が忙しくて、疲れが溜まってたんだと思う。実は昨日もあまり寝ていなかったみたいだし。だから私言ったの。無理しないでって。それなのに彼は――」
「彼は君の事を本当に大切に想ってるからこそ、無理を承知でこのマラソンに参加したんだよ。君と一緒の時間を何よりも大事にしたい。頼むからそんな彼の優しさを、責めないでくれ」
君に向かってそう呟いた俺は、彼の首をそっと持ち上げる。そしてその口元に耳を傾けて呼吸を確かめた。
彼の汗ばんだ首筋がやけに冷たい。人のものとは思えない奇妙な感覚に肝が震える。忘れるはずがない。かつて味わった事のある異質な不快感。そう、これは意識の途切れた彼女の体から伝わった、あの感覚と同じものなんだ。
案の定、呼吸は止まっていた。それによって強制的に甦るあの日の記憶。冷たくなっていく彼の感触に、かつての彼女の感覚が重なってしまい、尋常でない嫌悪感が急速に俺の心を支配していく。
それでも俺は動き続けた。一度でも止まってしまったならば、もうそれ以後は何もできなくなってしまう。無意識にもそう心が悟ったんだろう。だから俺は身震いしながらも、必死で動き続けたんだ。
Tシャツ越しに耳を彼の胸に押し当てる。まだ僅かに体が温かい。彼が倒れて間もない証拠だ。しかしそこで奏でられているはずの鼓動がまったく感じられない。
「ゾクッ」
背筋にまたも戦慄が駆け抜ける。気を抜けばその瞬間に心は萎縮してしまうだろう。そうなる事を恐れた俺は、例えそれが虚勢であったとしても、躊躇う事なく大きな声を吐き出したんだ。
「落ち着け、落ち着くんだ!」
大粒の汗が滝の様に流れ出す。それは走っていた時に流していた汗とは明らかに質が異なるものだ。ひしひしと圧し掛かって来るプレッシャーが重い。そんな極限の状態の中で、俺は喉元にまで出掛っている弱音を懸命に飲み込みながら、最後にもう一度だけ周囲を見渡したんだ。
(チクショウ)
淡い期待を微かに抱くも、やはり救護スタッフが駆け付ける気配は感じられない。彼らはどこで油を売っているんだろうか。でも事態は一刻を争うばかりだ。もうやるしかない。覚悟を決めろ。彼の体から伝わる感触からして、倒れて間もないっていうのは揺るぎない事実なんだ。ならまだ間に合うはず。絶対に彼を救えるはずなんだ。
「これから人工呼吸と心臓マッサージをします」
俺は君の目を直視してそう強く言った。責任を共有したいが為じゃない。まして怖さを紛らわせる為でもない。俺は彼を救うっていう【目的】を実行する為に、改めて自分自身に向き合おうと決意したんだ。逃げるなんて許されない。その気概を胸に刻み込む為に、あえて君の目を見て言葉を発したんだよ。
そんな俺に向かって君は即座に頷いた。まるで俺に絶対の信頼を寄せているかの様に。いや、俺になら絶対に出来る。君はそう頑なに俺を信じてくれたからこそ、迷いなく頷いてくれたんだ。
やっぱり励みになるね、君っていう存在はさ。すぐ傍で君が応援してくれている。そう思うだけで、俺の気持ちは勇気付けられたんだ。
あの時はうまく出来た。今度だって救ってみせる。俺はそう意気込みを新たにして、君が祈りを捧げる目の前で彼への救助活動を開始した。
まずは気道を確保するために、彼の顎を少し持ち上げる。そして鼻を指で摘むと、俺は躊躇する事なく彼の口に自分の口を重ね合わせた。
そのままの姿勢を取りながら、ゆっくりと息を吹き込んでいく。するとそれに反応し、彼の厚い胸板が膨らんだ。
よし! 人工呼吸の方法に間違いはない。そう確信した俺は、摘んでいた彼の鼻から一旦指を外し、その反応を窺ってみる。しかし変化は見られない。
「一度くらいじゃダメに決まってる」
俺は自分を納得させる為に、そう心の中で叫んだ。隙を見せれば瞬く間に心は折れてしまうだろう。だから俺は懸命に自分を奮い立たせようとしたんだ。そしてもう一度、彼の口に息を吹き込む。人工呼吸は2度息を吹き込むのが1セットだからね。俺は迅速に人命救助を遂行する事で、後ろ向きな気持ちが浮かばないよう無理やり努めたんだ。
それでも彼の意識は戻らない。ならば次は心臓マッサージをするまでだ。俺はゼッケンの付けられたシャツの上から彼の体を摩り、鳩尾の窪みを探し出す。そしてその位置を把握すると、今度はそこに右手の中指を置き、すぐその隣に人差し指を添えた。
「この場所で間違いないはずだ。いくぞ!」
俺は腕を一直線に伸ばした姿勢を取ると、彼の胸に置いた自分の手の平に力を込める。でもその時、
「!?」
ふいに温かい感触が俺の肩に伝わった。でもそれはとても優しくて、そしてどこか懐かしい。そんな不思議な感覚に俺はふと振り返る。するとそこには俺の肩にそっと手を添える、君の姿があったんだ。
張り詰めた緊張感が和らいでいく。背負っていた重い荷物を降ろした様な、そんな軽やかな感覚。恐らく俺は意図せずにして力み上がっていたんだろう。彼を救いたいと思うがあまり、気持ちばかりが早まっていたんだろう。でももう大丈夫。君のお蔭で落ち着きを取り戻せたから。
俺は一度だけ深呼吸をする。そして君の目を見つめながら黙って頷いた。そんな俺に君も頷き返す。真っ直ぐに俺の目つめ返しながら。
「1、2、3……」
大きめな声を張り上げて、俺はテンポ良く彼の胸を押していく。早く戻って来てくれ。俺は心からそう祈りつつ、彼の胸を押し続けた。
だがここに来て急激に体が重くなる。どうしてだ。腕が鉛の様に重い。強い張りを感じる背中に至っては、今にも攣ってしまいそうなほどだ。君のお蔭で無駄な力みが取れたはずなのに、なぜ体は言う事を利いてくれないのか。くそっ、一定のテンポを保つ事すら定まらない。いや、それどころか体にうまく力が入らないんだ。
俺は愕然とした。もう彼を救えないんじゃないか。そんな絶望が頭を過ぎったんだ。だってさ、俺は思い出してしまったんだよ。もう自分には、思い通りに体をコントロールするだけの力が残されていないんだってね。そうなんだ、俺はこの場所に到達するまでに、40キロ以上もの距離を走っているんだよ。それも自分の持ち得る限界以上の力を出し尽くしてね。それでもここまで頑張れたのは、強い前向きな気持ちで自分自身を駆り立てて来たからに他ならないんだ。そんな自分の足を前に動かすだけの微々たる力しか、俺にはもう残されていないんだよ。
屈強な筋肉に守られる彼の胸板が、さも分厚い鉄板の様に硬く感じられる。強く押しこむつもりが、逆に跳ね返えされてしまうんだ。辛い。辛過ぎる。どうして俺はいつもこんな厳しい状況にばかり追い込まれてしまうのだろうか。どうして俺はいつも肝心な所でうまく出来ないのか。クソッたれが、もう自分の運命を呪わずにはいられないよ。ただそんな俺の脆弱さを君は察したんだね。口惜しむ無念さに憤る俺を不憫にでも感じたんだろう。だから君は俺に言ったんだ。俺のすぐ隣に膝を着き、震えるだけで力の入らない俺の手にそっと自分の手を添えて、君はこう言ったんだ。
「もういいよ。もう直ぐ救護の人が来てくれるから、だからもうあなたは無理しないで。これ以上したら、あなたまで倒れちゃうよ……」
君は涙を浮かべながらそう俺に告げた。酷く哀しい瞳を俺に差し向けて。
君の見る俺の姿は、それほどまでに疲弊しきったものに映ったのだろうか。それほどまでに居た堪れない姿に見えたのだろうか――――。冗談じゃない。ふざけるな! 俺をどこまでバカにすれば気が済むんだ!
運命っていう名の神がもし存在し、俺を嘲笑っているとしたならば、それは大きな間違いだと言ってやる。だって申し訳ないけど今の俺には、諦めるって選択肢だけは死んでも選ぶつもりは無いんだからね。
反吐を撒き散らすほどの苦しみに悶えようとも、俺が今を生きている事に変わりはない。しかし意識の無い彼にしてみれば、今という一瞬をもし諦めてしまったならば、そこで全てが終わってしまうんだ。なら天秤に懸けるまでもない。だってもう少しなのだから。もう少しの努力で彼は絶対に戻って来るはずなのだから。
俺に迷いは無かった。ただ彼の命を救いたい。もう俺の中にはその気持ちしかなかったんだ。
大きく息を吸い込んだ俺は、再び彼の口から息を吹き込む。そしてありったけの体力を絞り出し、心臓マッサージをし続けたんだ。すると彼の表情に少しだけ変化が現れる。青冷めていた彼の表情が、次第に明るみを帯びて来たんだ。やはり倒れた直後だけに、蘇生までの時間が短いんだろう。
「もう少しだ。諦めてたまるか!」
俺は全身全霊を掛けて彼の胸を押す。今を頑張らずにいつ頑張るんだ。そう自分を叱咤しながら。そしてもう一つ、俺を人命救助に駆り立てる心境が、俺自身に訴えかけていたんだ。彼の命を助ける為に、俺は今まで生きて来たんじゃないのかと。君の幸せであるはずの彼っていう存在を救う事こそが、俺が生きて来た使命なんじゃないのかってね。
3度目の心臓マッサージが終った。俺の息は肩を上下させなければ成り立たないほどに乱れている。それでも止まっている時間は無い。無理やり大きく息を吸い込んだ俺は、その息苦しさに顔をしかめるも、構うことなく彼の口に息を吹き込んだ。――と、その時だ。
「ゴボッ、ゴホゴホッ」
突然彼がむせ返えった。自力で呼吸をし始めたんだ。激しく咳き込む彼の姿は、とても痛ましいものに見えて仕方ない。それでも俺は彼の命が取り留められたのだと確信した。奇しくもそれは、彼女が息を吹き返したのと同じ、4セット目の人口呼吸の時だった。
俺は君に彼を膝枕するよう指示する。君はそれに従って、優しく彼を介抱した。すると凄んでいた彼の呼吸が、みるみると沈静化していくのが分かった。
もう大丈夫のはずだ。落ち着きを見せた彼の姿を目にし、俺は安心したんだろう。ふと全身の力が抜け、その場に尻餅を着いてしまった。でもその時、俺は本心からの言葉を君に向けて発したんだ。自然に生まれた満面の笑みを浮かべてね。
「良かった。本当に良かった。もう大丈夫だよ」
気の利いた言葉なんかじゃない。でも君は大粒の涙を流しながらその言葉に頷いてくれた。何度も何度も頷いていてくれたんだ。うまく言葉が出せないくらいに泣きじゃくりながら。でもそんな君の顔も、気が付けば嬉しさ溢れる笑顔でいっぱいになっていたんだ。それも今までに俺が見た中で、一番に思えるくらいの素敵な笑顔でね。
「頑張ったな、お兄ちゃん」
「凄いぞ、よくやった!」
拍手と喝采が湧き上がる。すっかりその存在を忘れていた俺は、そんなボランティアスタッフ達から掛けられる数々の労いの言葉に、驚きを露わにするしかなかった。いや、無我夢中で救助活動をしていたから、投げ掛けられる周りからの言葉の意味を理解出来なかったんだ。でもそれはほんの少しの時間だった。俺はすぐに自分に向けられている言葉の意味を把握したんだよ。それもこれは夢なんかじゃなくて、偽りの無い現実なんだって事も合わせてね。
俺は今、この場に詰めかけている全てのボランティアスタッフ達から、絶え間ない称賛を贈られている。気持ちが良い。とは決して言えない。いやむしろ気恥ずかしいくらいさ。それでもやり遂げた達成感で心が満たされていく清々しい気持ちには逆らえない。俺は君に照れ笑いを差し向けながら、胸の中で何とも言えない嬉しさを噛みしめた。
緊張冷めやらぬこの場所には、まだ興奮や動揺、そして安堵がひしめいている。そんな中、複数の乱雑な足音が近寄って来るのが分かった。
到着したその者達は、周囲にいるボランティア達を無理やり追い払う。そしてそんなボランティア達と一緒に、俺も蚊帳の外へと追い遣られてしまった。きっと野次馬にでも間違われたんだろう。少しイラッとしたけどさ、でもそれは仕方のない事でもあるんだよね。息を吹き返したっていっても、彼はまだ危険な状態かも知れないんだからさ。彼を助けに来た者達に、わざわざ噛み付いたって意味ないんだもんね。
未だ眠ったままの彼を取り囲む救護スタッフ達。今頃になって来るなんて、遅過ぎるんだよ。俺はそう心の中で呟いただろうか。でも手際よく彼に処置を施す、そんな遅れて来た救護スタッフの姿を見て俺は思ったんだ。彼らは常に人の命と向き合って仕事をしている者達なんだとね。そんな彼らがわざと遅れて来るはずがない。きっと彼らとて、全力で駆け付けて来たはずなんだ。だから後は彼らに託すしかない。俺の役目はもう、終わったのだから。
そう心の中で思った俺は、自分の目指すべき目標のある場所へと戻ろうとした。そうなんだ、まだ俺にとってのレースは終わってなんかいない。そしてその目指すべきゴールは直ぐそこにあるんだ。
俺は決意を新たに走り出そうとする。極度に重く感じる体は自分のものじゃないみたいだ。それほどまでに俺は体力を出し尽くしてしまったんだろう。だけど諦めるわけにはいかない。ここまで来たら、這ってでもゴールしてみせる――って、そう思った時だったんだ。
「待って」
俺はその声に耳を傾ける事を一瞬躊躇う。でもダメだった。俺は素直に振り返ってしまった。そしてそこで俺が目にしたのは、不安に怯える様な、そんな心許無い表情を浮かべた君だったんだ。
どうして君はそんな顔をしているんだ。彼の命が救われたんだから、もっと嬉しい顔をしなくちゃダメじゃないか。俺は胸の内でそう思った。その気持ちはいろんな意味合いが織り成した、俺の精一杯の強がりなのかも知れない。でもそう素直に感じたのも、紛れの無い事実なんだよね。それに俺は何となく、君の気持を察してしまったから。俺に縋ろうとする君の心を感じ取ってしまったから。だから俺は、あえて自分を戒めようと努めたんだ。それが君にケジメを付けられる、唯一の手段だと確信が持てたからね。
「ダメじゃないか。早く彼に付き添ってあげなよ。彼はこうしてる今も苦しんでいるんだから」
「それは分かってる、分かってるよ。でも私、これからどうしていいか分かんなくて。だからお願い、私と一緒に」
「それは無理なお願いだよ。俺に出来る事は全てしたつもりさ。だからもう、俺の役目は終わったんだよ」
「そ、そんな事ないよ。やっぱりあなたは頼りになるし、それに私――」
君は大粒の涙を流し出す。その姿は今にも崩れそうなほどだ。もしかしたら君の中では、耐え難いほどの寂しさが溢れ返っているのかも知れないね。だって俺の中の心情が、まさにそんな状況なんだからさ。
君を強く抱きしめてあげたい。耐え難い不安に身を竦ませる君を柔和に包み込んであげたい。俺はそう思った。でもだからこそ、あえて俺は君に厳しく告げたんだ。不器用な俺はそうする事でしか、君の幸せを願えなかったから。
「彼には君の助けが必要だ。ううん、君の存在そのものが必要なんだ。だからその気持ちを大切にしてほしい。大事に受け止めてほしい。今は辛いだろうけど、でもそうすればきっと、君は幸せになれるはずだから」
「でも怖いの。怖くて堪らないの。だからお願い。あなたも一緒に病院まで来て。私の傍にいて」
「ごめん、それは出来ないんだ。薄情な男だと嘲てくれて構わない。でもね、たとえどんな理由があったとしても、俺にはこのマラソンを途中で棄権するわけにはいかないんだよ。だからごめん。一緒に病院には行けないんだ」
「どうして、どうしてそこまでマラソンに拘るの? マラソンなら来年だってあるし、東京以外だって……」
俺は君の話しを遮り、わざと大きく首を横に振る。そして君の肩にそっと手を添え、穏やかに伝えた。
「君にとっては些細な事なんだろうね。だけど俺にとってこのマラソンは特別なんだ。やっと見つけた目標。やっと見つけた生きる目的なんだよ、このマラソンはね。だから途中で投げ出すわけにはいかないんだ」
声を殺して泣き続ける君に俺は続ける。
「分かってほしい。君になら特にね。俺はいつでも中途半端だったから。だからこのマラソンを完走する事で、最後まで頑張り抜く姿勢を自分自身に示したいんだ。そうする事で、俺はまだ未来を諦めなくていいんだって自信が持ちたいんだよ」
「でも、でも私は今でもあなたの事を」
「本当にごめんね。俺は不器用だから、融通が利かないんだ。生真面目だけが取り柄のバカな男なんだよ。でもさ、君ならそんな俺の性格を、分かってくれるはずだよね」
俺は精一杯に笑顔を浮かべた。もしかしたら引きつっていたかも知れない。それでも今の君に差し向けられる表情として思い付くのは、笑顔しかなかったんだ。だから俺は今出せる精一杯の笑顔を浮かべたんだよ。そして最後に言ったんだ。
「俺が彼を全力で助けられたのは、きっと彼なら君を幸せにしてくれるんだって信じれたからなんだ。自分でもすごく不思議に思うよ。一度も話した事の無い相手を、これほどにまで信頼してしまうなんてね。でもどうしてなのかな。君と彼が二人でいる姿に、幸せな未来しか想像出来ないんだ。少なくとも俺にはそうとしか思えないんだよ。だから今は彼の傍に寄り添い、彼を癒してあげてくれ。そんな君の事を、彼ならきっと幸せにしてくれるはずだから。だからいいね。君一人で彼に付き添ってあげるんだ」
君は無言だった。でも一度だけ、小さく縦に首を振ってくれたんだ。その姿に俺は胸を撫で下ろす。もう大丈夫だと、心から安心したんだよね。だから本当の最後に、俺は君に甘えてしまったんだ。
「最後にもう一つだけ、お願いを聞いてくれるかな」
涙を拭った君は、少し首を傾げて俺の問い掛けを待ち受ける。綺麗な瞳で真っ直ぐに俺を見つめながら。そして俺は満面の笑顔で告げたんだ。『君も笑顔になってくれないか』ってさ。
君の肩より伝わっていた震えがゆっくりと収まっていくのが分かる。きっと君の中でも、心の折り合いがつけられたんだろう。そして君は一言だけ俺に言ってくれたんだ。
「ありがとう」
かつてないほどの輝きを醸し出す笑顔がそこにあった。心に深く浸透する和やかさを感じずにはいられない。君が見せてくれた最高の笑顔。俺はその笑顔が最後に見れて、本当に嬉しかった。
新しい自分に生まれ変わろうと心に誓った今日という特別な日に、君と偶然にも巡り会えた。そんな奇跡に感謝の気持ちが止まらない。そして去り行く君の後姿を見つめながら、俺は胸の中で唱えたんだ。
「さよなら。大好きな君」
心の中を少しの寂しさと虚しさが駆け抜けていく。でも不思議と悪い気はしない。ううん、どちらかと言えば、むしろ心はすっきりした気分を感じるくらいなんだ。きっと君の笑顔が俺の中の暗い影を、全て掻き消してくれたからなんだろうね。
でも一つだけ心残りがある。結局のところ俺は最後まで君に『ありがとう』っていう感謝の言葉を伝える事が出来なかった。それどころか、逆に君から告げられてしまったくらいなんだ。
まだまだ俺っていう男が弱い証拠なんだろう。でも後悔はしていないよ。きっと君は俺の想いを感じ取ってくれただろうって、そう思えているからね。
そんな君とはもう、会うことはないだろう。だけど辛くはないよ。俺は走りだしたから。生きる目的を見つけられたから。そうなんだ。再びゴールへと向かい走り始めた俺は、その更に先にある目指すべき新しい目標を見つけていたんだよ。
【人を助ける仕事に就きたい】
それが俺の導き出した新しい目標だ。彼の救護に駆け付けた医療スタッフの働きぶりを見てハッとしたんだよ。これこそが、俺の目指すべき場所なんじゃないのかってね。
安易な考えだって叱られるかも知れない。それはそうだよね。彼や彼女を救ったっていう達成感に浸り、満ち足りた気分を味わう心地良さを知ってしまった俺だからこそ、そんな考えを簡単に思い抱いてしまったのかも知れないんだからさ。でもね、俺は誰かの為になれる事がしたいんだよ。
決して褒められたいとか、敬われたいとか思っているわけじゃない。ただ自分が弱いから、誰かを助ける事で自分に自信を付けたい。自分の存在意義を確立したいが為に、その道を進みたい。そう思っているんだよね。それが本音なんだよね。
それじゃまるで偽善者になるだけじゃないか。そう思われても反論は出来ない。でもさ、人を助ける辛さや厳しさってやつも、俺は同時に理解しているんだよ。それが半端な決意で目指せる目標なんかじゃないって事も、十分理解しているつもりなんだ。
想像を絶するほどの険しい道のりに臨まなければ辿り着けない場所。それが医療に従事する者達って事なんだろう。でもだからこそ、そんな目標を目指す事で自分を強く成長させられる、脆弱過ぎる自分を変えられるって思えるんだ。そしてそんな想いを曲げる事が、俺にはもう出来ないんだよね。
君は走り続けていてくれた。それが何よりも嬉しかった。恐らく絶望の中に自分を支える希望を見つける事が出来た。それが君にとって走る事なんだろう。そしてそれと同じ様に、俺は人を助ける仕事を目指す事で前向きに生きて行く。そう心に誓ったんだよね。
そんな新しい決意をいつまでも胸に抱いていられたなら、俺にもまたいつか、誰かに想いを伝えられる日が来るんだろうか。またかつて君との間に芽生えたほどの恋をすることが、俺に出来るんだろうか。それを考えると正直怖い気もするよ。でもね、もしこれから先、君じゃない誰かを好きになったとしても、目標を見失わず前に進んでいられたなら、その時は頑張れる気がするんだ。ううん、絶対に投げ出したりはしないよ。だって君も俺の幸せを、切に願ってくれているだろうからね。その想いを裏切るわけにはいなかいだろ。
燦々と輝く太陽の下、俺はゴールに向かって走り続ける。まるで天気までもが、新しい生きる目的を見つけ出した俺を祝福してくれているかの様だ。
俺はそんな晴れ渡った空を眺めながら、思い出の欠片を心の奥へと仕舞い込む。希望へと繋がる明日に、胸を焦すほどの熱い想いを馳せながら――。
おわり