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第十五話

 いつもの年であったならば、もう梅が満開に咲き誇る時期なのかも知れない。ただ今年に限っては、どうやら少し状況が異なる様子だ。たぶん冬が長かったせいなんだろうね。まだまだ厚手のジャケットが手放せないほどに寒い日が続いている。そして東京マラソン当日の今日に至っても、それは例外じゃなかったんだ。

 マラソンは冬の競技と呼べるくらいに、寒い環境下で適したスポーツなんだろう。だけど寒過ぎるってなると、話は別なんだよね。息が軽く上がり始めるくらいのウォーミングアップをしているのに、体が全然温まらない。それだけに、体から感じる気怠(けだる)さは思いのほか強く感じられてしまうんだ。

 厚い雲で覆われた空。まるで今にも冷たい雪を降らせるのではないか。そう思ってしまうくらい、見上げた空は灰色に(よど)んでいる。

「天気予報は悪くなるなんて、言ってなかったはずなのにな」

 俺はそうボヤキながらスタート位置へと進んでいく。予報を告げたテレビアナウンサーに文句の一つでも吐き捨ててやりたい。そんな気持ちを抱きながらね。ただスタート地点に集結する参加選手の多さを目にした俺は、そんな天気予報の些細なミスになんて構っていられなくなったんだ。

 見渡す限りの人だかり。すし詰めの満員電車が永遠に広がっている様な奇妙な感覚。そんな息苦しい嫌悪感を覚えながら、それでも俺は人混みを掻き分けて自分の立つべきスタート位置を目指し進んだ。

 俺の目標は3時間半で完走すること。一般的な市民ランナーにしてみれば、それなりに早いほうなんだろう。でもまぁそこは陸上経験者としての(わず)かなプライドもあるし、それに最近の練習成果でそれが決して不可能じゃないって思えていたからね。(あきら)めさえしなければ、きっと到達出来るであろうゴールタイム。だから俺は自信を持って、目標タイム『3時間30分』と掲示されたプラカードの立つ場所に進み寄って行ったんだ。

 ただスタート位置にたどり着いた俺は少し気が()えてしまった。だって俺が位置する場所は、軽く見計っただけでも正規のスタート位置からは百メートル以上離れているんだからね。

「やっぱ日本の最高峰の市民レースともなると、レベルが高いんだろうな……」

 俺は本気でそう思ってしまった。俺の周囲にいる全ての選手達が、自分と同等かまたはそれ以上の実力を兼ね備えた者達なんだって、勘ぐってしまったんだよ。東京マラソンはおろか、市民参加型マラソン自体が初めての経験だったからね。俺は勝手が分からず、バカ正直に自分が掲げた目標タイムのスタート位置に陣取ってしまったんだ。それが大きな間違いだって事にも気付きもしないでさ。


 都知事らしき人物が、遠くに見える特設ステージに現れる。もちろんスタートのピストルを奏でる為に。周りを見渡せば選手以外にも沿道に人がいっぱいだ。今日一日、選手を応援する歓声が鳴り止む事はないだろう。それにテレビ局のスタッフらしき人達の姿も多く見受けられる。もしかしたらすぐ近くに、マラソンに参加する芸能人でも居るのかも知れない。

 でもそんな事は今の俺には関係なかった。いや、他人を気遣う余裕なんてゼロだったんだよ。だって興奮する自分自身を抑え込む事で必死だったからね。

 気持ちは激しく沸き立っている。やってやるさ。そう強がりを吐き捨てずにはいられないほどに。俺の中にこんなにも熱い闘志が眠っていたなんて気が付かなかった。いつでもどこか一歩気持ちが引いてしまう俺だったからね。それだけに、今回のレースに懸ける意気込みは高かったんだろう。そしてそう感じた俺は、無意識の内に口元を緩めていたらしい。たまたま隣に居合わせた年配の男性選手に声を掛けられて、俺はハッとそれに気がついたんだ。

「笑っていられるなんて、頼もしい限りですね」

 参ったな。俺はただ苦笑いを浮かべていただけなんだろうに。それがそのおじさんには強い意気込みとして伝わってしまったんだろう。

「余裕なんて無いですよ。むしろガッチガチなくらいです」

 俺は照れながら頭を掻きむしった。こそばゆい恥ずかしさに顔を赤らめてね。でもおじさんが俺から感じ取った雰囲気は(あなが)ち間違ってはいないんだよ。だって俺の心は少し前から早く走り出したいと(うず)きまくっているんだからさ。そんな熱狂した士気と(すく)み上がるほどの緊張感が交錯する間で、それでも俺は前向きに気持ちを馳せて行ったんだ。

「もう過去を引きずるのはウンザリだ。だから行こう。俺自身の未来を掴み取るために……」

『パーン!』

 俺が心に強く願いを込めたと同時に、スタートを告げるピストルの空砲が鳴り響いた。

「ヨシ、行くぞ!」

 腕に()めた時計のボタンを素早く押した俺は視線を前へと向ける。そして耳にヤホンを装着し、ポケットに仕舞い込んでいた携帯型オーディオプレーヤーの再生を開始した。やっぱり音楽を聴きながら走った方がリズムが掴みやすいし、なによりも楽しいからね。本番のレースってことで少し気が引けもするけど、でも仮装しながら走る参加者もいるくらいなんだし、音楽を聴きながら走ったって違反じゃないはずなんだ。俺は都合良くそう解釈しながら走り出す準備を万全に整えた。

 ついに始まったんだ。俺の新しい未来に繋がる大切なレースの時間が。後は全力で走り抜くのみ。そう意気込みを露わにした俺は、イヤホンから流れて来るアップテンポの曲にも(あお)られ闘志を掻き立てる。しかしどうした事なのだろうか。現実はいきなり出鼻を(くじ)かれる、お粗末なものとなってしまった。


 一体どうなっているんだ。スタートの合図が発せられたっていうのに、集団はまったく前に進まない。沿道の観客から発せられる声援だけは大いに盛り上がりを見せているのに、いつになっても前方に連なる選手達が走り出さないんだ。

「何かトラブルでもあったのかな?」

 素直な感覚として俺はそう思った。あの秋の大会でのスタート直後の混乱を思い出したのかも知れない。ただそんな疑わしげに首を(かし)げている俺に向かい、またも隣にいたおじさんが声を掛けて来たんだ。きっとおじさんは怪訝な表情を浮かべる俺の気持ちを察してくれたんだろうね。

「お兄ちゃん、東京マラソンは初めてかい。分かるよ、今のお兄ちゃんの気持ち。早くスタートしたいのに、どうしてみんな走り出さないのだろうか。そんな感じなんじゃないのかな。でもまぁ無理もないんだよね。ここにいるマラソン参加者はざっと3万5千人もいるんだ。そして今、私達はその中で前から三分の一くらいの場所にいる。単純計算でも1万人以上の参加選手が私達の前にいるんだよ。いくらスタートの合図が鳴ったからって、この渋滞はなかなか解消しないってもんさ。だから(あせ)っても仕方ないよ。そう遅くないうちに動き出すから、それまではリラックスしてこの雰囲気を楽しむ事だね。これも東京マラソンの醍醐味の一つなんだから」

 目尻に深いシワを目立たせながら、おじさんは軽く微笑んでくれた。恐らくおじさんはマラソンの常連なんだろう。だから落ち着いて現在の状況を受け入れていられるんだ。ただ俺はそんなおじさんからのアドバイスを把握したにも関わらず、しかし前のめりになった気持ちだけは収める事が出来なかった。マラソンにおける絶対的な経験量の差。いや、人生を積み上げてきた(ふところ)の大きさの違いなのかも知れない。ただ俺は冷静に状況を楽しんでいるおじさんとは違い、闇雲に気持ちを波立たせる事しか出来なかったんだ。そしてそんな苛立(いらだ)ちを隠しきれない俺が正規のスタートライン通過したのは、それからおよそ十分後の事だった。

(まったく、冗談じゃないぜ)

 俺は腕時計を(にら)みつけながらボヤく。

(クソっ。これじゃ本番で目標タイムを十分短縮させるのと変わんねーじゃねぇかよ)

 俺は心の中でそう悪態付いた。新しい人生をスタートさせようと意気込んだレースの出鼻を(くじ)かれた事に、とても穏やかでなんかいられなかったんだ。

 でもこれは完全に俺の経験不足が露呈した結果なんだよね。いや、そもそも事前の知識が乏し過ぎたんだ。だってマラソンでのタイム計測は、ゼッケン裏に取り付けられたICタグが、スタート地点やゴール地点などのチェックポイントを通過した時間を記録するモンなんだよね。だけど俺はマラソン自体が初めてだったから、そんな事まったく知らなかったんだよ。単純にピストルが鳴った瞬間から、タイムは計測されるものと疑いもしなかったんだ。

 走り始めた俺は、出遅れた損失を取り戻そうと目を血走らる。しかしここでも俺の行く手を阻む障害が発生したんだ。

 人が多過ぎる。やっと走るだけの速度が出せる様になったんだけど、とても前を行く参加者達を抜き去るだけのスペースが見当たらない。無理やり追い抜こうとしたならば、他の選手との接触は間違いなく避けられないだろう。それに走るペースはまだまだ遅い。こんなんじゃ、ゴールタイムはどんどんと遅くなるばかりじゃないか。俺の中で膨れ上がる焦りばかりが加速度を増していく。

 こんな事ならキャプテンだった彼が、マラソン参加申し込み時に申告していた持ちタイムに従うべきだった。俺はここに来てそう後悔せずにはいられない。東京マラソンみたいな大きな大会では、スタートの進行をスムーズにするために、基本的には自己申告した持ちタイム、所謂(いわゆる)自分が完走出来るであろうタイムに合わせて並んでいる。でも俺はバカ正直だから、自分の目標に合わせたスタート位置に並んでしまったんだ。ちなみに彼が申告した持ちタイムによるスタート位置は遥か前方に位置している。そこに並んでいたのならば、この密集した状況よりはずっと恵まれた環境だったはずなんだよね。

 俺は爪を噛むほどの忸怩(じくじ)たる思いに(さいな)まれる。自分のバカさ加減が許せない。そんな感じにね。

 たとえ自分に嘘を付いたとしても、前衛からスタートしていれば良かった。そんな(したた)かさもレースには必要悪として許されているはずなんだ。どうせ周りのみんなも少しはサバを読んで並んでいたのだろうからね。でもそれを(なげ)いたところで意味が無いってことも理解している。巨大な人波の一部となってしまった俺という個人が、ここで何をどう足掻(あが)こうとしたって、もうどうする事も出来ないんだから。

 グッと奥歯を噛みしめて足を進めるしかない。俺はそんなやり場のない心情を抱えながら、仕方なく走り続けた。ただその時、ふと視界に飛び込んで来たビルに俺は息を止める。完全に忘れていた思い出のひと欠片(かけら)。そうだ、あのビルの一階にある店舗は、かつて君と一緒に(おもむ)いた、手作りが自慢の【パン屋】じゃないのか。

 あの日から変わらずそこに存在し続ける一軒のパン屋。(いま)だにその人気は高く維持されているんだろう。俺は懐かしい眼差しを向けながら、そんな思い出の店の前を通り過ぎて行く。入院していた彼女を見舞う為の口実として、君が俺を出し抜けに誘い訪れたパン屋。そして今日もその店の前からは、焼き立てのパンの香りが漂って来る。あの日と同じで蒸しパンが甘い香りを発しているのかも知れない。

 嬉しい限りだ。俺は素直にそう感じた。あの日から変わらずにその場所で美味しいパンを提供し続けている。そんなパン屋に君との楽しい思い出を重ねたのが、嬉しさを感じた要因なんだろう。でもさ、激戦極まりない飲食業界の中で、根強い人気を保ち続けているその店に【敬意】とも呼べる感情を抱いた事も、嬉しさを感じた要因なんだよね。

 きっとあのパン屋は足を運んでくれる客の為に、日々努力を積んでいるんだろう。客の喜ぶ姿を見たいが為に、美味しいパンを造り続けているんだろう。そしてそこにはしっかりとした目的があるはずなんだ。客がより満足出来るパンを造り続ける。また食べたいと足を運んでくれる商品を全力で生み出し続ける。そんな強い目的意識を常に抱きながら、強豪ひしめくこの大都会新宿で頑張っているんだ。

 やっぱりどんな事にも目的ってやつは必須事項らしい。改めて俺はそう感じた。でもだからこそ、俺は懐かしのあのパン屋を見て嬉しく感じたんだよね。

「無事に完走できたら、久しぶりに行ってみようか」

 ふとそんな事を考える俺の胸は、穏やかな温かみで溢れて行く。思い返せばこの東京マラソンのスタート地点である新宿っていう街は、君と度々デートをした場所でもあるんだよね。だから至る所に君との思い出が映し出されてしまうんだよ。

 一向にペースが上がらない中で、俺はしばし君との思い出に浸りながら足を進めた。(まぶ)しいくらいに(よみがえ)って来る過去の記憶。でもそれらは一瞬の輝きを見せるだけで、俺の心を過ぎ去って行く。ううん、そうじゃない。きっと俺の方が先に進んでいるんだろう。止まっていた俺の時間が動き出したんだろう。だからそんな古い記憶達は、温かい香りだけを(かす)かに残して消えてしまうんだよ。自分自身にケジメが付けられた証し。その結果として、それらは最後の思い出として、俺の記憶の中に少しだけ顔を(のぞ)かせてくれたんだよね。


 気が付けばマラソンはちょうど半分の距離に差し掛かっていた。もうこの頃になると、だいぶ周囲に余裕が生まれている。トラック競技しか知らない俺にしてみれば、まだまだ人と人との間隔が狭過ぎるって印象は否めない。でもどうにか他者に迷惑を掛けることなく、追い抜くことは可能になって来てはいたんだよね。ただそうなると、単細胞な俺は再び馳せる気持ちを露わにせざるを得なかったんだ。

 早く遅れを挽回したい。視界に余裕が見れた事で、そんな想いが強く表面化してしまったんだろう。俺は無意識にペースを上げる。誰がどう見ても度返しだと言うほどのスピードで、前に進む選手達を片っ端から追い抜いたんだ。

 こんなにも人を追い抜いた経験が無かったから、尚更俺の感覚は麻痺したんだろうね。一緒に走る選手達をごぼう抜きする爽快感に心が浮き上がってしまった。それが正直な心情なんだろう。でも俺がそれを単なる勘違いなのだと察した時には、すでにガス欠寸前の状態だったんだ。

 完全に走るペースを見失っていた事に加え、大勢の選手を抜きまくった。その疲労度たるや半端なものではない。俺はそれにやっと気が付いたんだ。前を進む選手を抜かすって事は、その選手を避けて進む分、余計に距離を走らなければならない。それも俺は調子に乗ってごぼう抜きしていたんだ。聞こえは良いかもしれないけど、でもそんなに人を抜き去るって事は、コースを縦横無尽にジグザグと走りまくったって事になるんだよね。それに抜かすタイミングやコース取りに頭を使い、精神的な部分もかなりすり減らしてしまったんだ。

 目に見えてペースが(にぶ)っていく。感覚的じゃなくて、本質的に自覚出来るほどにね。けどこれは俺が初めから注意していた事だったはずなんだよ。だって俺はハーフまでしか走った経験がないんだからさ。今現在俺はそのハーフの距離を過ぎて、経験したことの無い未知の領域に足を踏み入れている。こうならない為にも、もっと自重して然るべきだったんだ。でも俺は人を追い越す爽快感に酔いしれ、それを完全に無視してしまった。疲れないわけがないんだよ。

「ポツッ」

 少し雨が降って来た。いつかは降り始めるんじゃないかって予想はしていたけど、まさかこんな時に降って来るとは思わなかった。やっぱり俺は天気に嫌われているんだろうか。それとも【運命】っていう神様が、前向きに走り出した俺を冷たくあしらっているとでも言うのだろうか。

「クソっ、冗談じゃないぜ。こんな所で諦めて(たま)るかよ」

 俺は懸命に歯を喰いしばって走ろうと試みる。でも重く感じる足がそれを拒否してしまうんだ。いや、足だけじゃない。腕も腰も俺の意思に反して言う事を利いてくれないんだよ。それどころか、体全体からはきしむ悲鳴が(とどろ)いてくる。肺は息をする度に、神経を逆なでするかの様な痺れを感じさせるほどだ。俺は不甲斐ない自分を呪うと共に、フルマラソンの過酷さをここに来て初めて痛感するしかなかった。

 鉛の様に重く感じる両足。かつてこんなにも自分の足を重く感じた事があっただろうか。俺は陸上に明け暮れた学生時代の記憶を辿る。しかしその中に今と同等な印象は思い出せない。それほどまでに現状は窮地に立たされているって事なのか。俺はそう驚くほどの辛さを感じずにはいられなかった。だけどそれにも増して俺が厳しさを覚えたのは、その足から伝わる激痛だったんだよね。

 運動不足だった体に鞭を打って強引に臨んだ今回のマラソン。それゆえに体は疲弊しきっていたと言わざるを得ないんだよね。正直なところ、数日前から走る度に(ひざ)の違和感を感じていた。また足の裏にはいくつかマメも出来ていたからね。もしかしたら靴の中でそれらのマメが潰れているのかも知れない。そう信じてしまうくらいに、俺の足は耐え難い激痛を発していたんだよ。

「やっぱり無理なのか。俺にはこんな些細な目標すら達成出来ないのか……」

 俺の胸の中に絶望感が溢れて来る。たったの3ヶ月間だったけど、でも今持てる力を全力で出し切って努力してきたじゃないか。もう(みじ)めな過去に戻りたくない。そう心に誓ったはずじゃないのか。君との思い出を払拭し、新しい未来を手に入れるんじゃなかったのか。

 強い決意で臨んだマラソンであるはずなのに、俺は現実として足から伝わる激痛に心を()えさせてしまった。耐え難い苦痛に気持ちが折れそうになってしまったんだ。やっぱり俺には諦める事しか出来ないのだろうかって。俺には()いる事しか出来ないのかってね。でもその時だった。

「!」

 イヤホンから聞き覚えのある曲が奏でられてくる。それもとても懐かしく、気持ちを柔和に癒してくれる様な、そんな優しい曲が。

 その曲はかつて、君が大好きだった女性人気歌手が歌っていた曲だった。そう、あの秋の大会の折、君が俺に悪戯(いたずら)でダビングしたあの曲だったんだよ。決して忘れるはずがない、ゆったりとした曲調のラブソング。でもどうしてこの曲が流れて来たのだろうか。

 このマラソンに臨む前、俺は最近リリースされた新しい曲ばかりを厳選してダビングしていた。それも元気が湧き出す様なアップテンポな曲ばかりをね。それなのに君が好きだったこの曲が流れて来るなんて、信じられるわけがない。

 確かに所持している携帯型オーディオプレイヤーは、かつて君と付き合っていた頃に使っていたものと同じ品だ。だからその原因は、俺が曲のデータを削除し忘れていただけなんだろう。でもさ、こんな事ってあるんだろうか。どう頭を(ひね)ったって信じられないよ。だけどね、偽りなしに俺の耳にはこの歌が聞こえているんだよ。それも疲れ切った体を温かく包み込んでくれる様に、気持ちを楽にさせてくれるんだ。

 俺は素直に自分自身の心に従った。いや、本当の自分を受け入れた。それが正しい表現なのかも知れない。そして俺は再び君との思い出を心に映し出す。それが掛け替えの無い大切なものだったのだと、十分に理解しながら――。


 いつだって君は俺との未来を強く望んでいた。君が俺に差し向ける愛情は本物だったんだ。俺はそんな温かい想いに幾度も励まされ、またそんな優しい気持ちに甘え過ぎてしまった。そんな俺自身の不甲斐ないバカさ加減については、もう十分過ぎるくらいに心に留めている。でもなぜなのかな。今になって考えられずにはいられないよ。ううん、そうじゃない。本当はずっと前から、君と一緒の時間を共有していた時から、俺は心の片隅で考えていたはずなんだ。どうして君はそれほどまでに、俺なんかを想い続けてくれたのだろうかって。

 俺にはそれが不思議でならなかった。自分で言うのもおかしいけど、ルックスや身長は人並みよりは少し良いはず。でもさ、逆に言えば俺にはそれだけしかないんだよね。いや、それどころか性格なんかは最悪だったはずなんだ。俺の本質は芯からの根暗であって、協調性なんて微塵にも持ち合わせていない、ちっぽけな男なんだからね。それなのに君は俺の事を心から想い、慕ってくれていた。

 才能が無いのに黙々と練習する俺の姿に共感したから。彼女の命を懸命に救った姿勢に胸を打たれたから。グラウンドの休憩所でお互いの心を(さら)け出したから。かつての俺は、それらの理由で君が好意を寄せてくれているんだと思っていた。いや、そう信じて疑わなかったんだ。だけど本当にそれだけが君の胸の内に秘めた俺への想いだったのだろうか。当時から俺は時折そんな事を考えていたんだよ。

 君に直接聞けば良かったのかも知れないね。でも俺にはそれが聞けなかったんだ。成り行き任せの冗談としてではなく、本気で向き合って君の心意を受け入れる事が出来なかったんだよ。その理由は至って簡単なんだよね。君の本当の気持ちを知ってしまうのが怖かったから。もしそれを知ってしまったなら、いつの日か俺は君を裏切ってしまうのではないかって思えてしまったから。

 きっと当時の俺はまだ子供だったんだろう。だから君の気持ちを自分が思っている以上に重く受け止めてしまったんだろう。言い換えるとするならば、君の想いをどこか面倒だと感じていたんだよね。結局のところ、自分が一番なだけだったんだよ、俺はさ。

 だけど君が俺を想う気持ちは、そんな難しいものじゃなかったんだよね。ただ一緒にいるだけで安心する。自然に笑顔が(こぼ)れてくる。同じ時間を共有するだけで嬉しくなれる。漠然とした表現しか出来ないけどさ、でも人を愛おしむ気持ちなんて結局のところ、そんな曖昧(あいまい)な感覚でしか示す事が出来ないんだよ。そして君が俺を慕い続けていた理由は、そんな理屈の無い心の融和を感じられていたからに他ならないんだよね。

 たぶんそう言った心の一体感は、運命的な偶然の一致でしか味わう事が出来ないんだろう。きっと今を生きる全ての人たちの中でも、それを実感出来た者は稀なはずなんだ。その多くが何も気付けないままで生涯を終わらせて行く。願ったとしても容易には掴めない。ましてお金なんかじゃ手に入れられやしない。そんな神秘的とも言える心の一体感を俺に見出したからこそ、君は最後まで俺を【必要】だと言ってくれたんだ。そして俺も恐らくはそんな気持ちを分かっていたはずなんだよね。

 ただ俺はそんな掛け替えの無い大切な感覚を履き違えて捕えてしまった。失う怖さに身を(すく)ませるあまりに、はじめからそれを受け入れたくないと抵抗してしまったんだ。俺が脆弱過ぎた事で、最後の最後ってところで君に心を開ききれなかったんだよ。

 その結果として、俺は君を(ひど)く傷付けてしまった。君が切実に願った約束を破り、かつ君が心から寄せていた俺への想いを踏みにじってしまったんだ。

 悔やんでも悔やみきれない。君っていう俺にとっての唯一の生きる目的を自ら手放し、そこにあるはずだった存在価値をも御座なりにしてしまった。本当は、本心では君以上に心の一体感を感じていたはずなのに、それなのに俺は自分勝手に怖気(おじけ)づいて、後ろ向きに否定し続けてしまったんだ。

 バカとしか言いようが無いよね。救いようの無いバカだよ。でもさ、本当にもう遅過ぎるんだけどさ、俺は今になってやっとその気持ちに正しく向き合える事が出来たんだよね。

 何もかもが手遅れになってしまった現在(いま)になって(さと)った心。だけどバカ過ぎる俺にしてみたら、君との全ての出来事は、それを知り得る為の必然な成り行きだったのかも知れないんだよね。

 代償としてはあまりにも大き過ぎるとしか思えない、掛け替えの無い君という存在。でもやっとそれを見つけ出せたからこそ、俺は今を生きて行こうと前向きになれたんだ。前を向く為の目的を定め、そこに向かう為の努力に身を費やせるようになったんだよ。そんな俺に今更ながらなれたからこそ、君は夢の中で微笑んでくれたんだよね。

 君の笑顔が俺の心を満たしていく。穏やかに優しく、温かく和やかに。そして君はその笑顔を絶やさぬまま、夢の中で俺にこう告げてくれたんだ。

『もういいんだよ。苦しむ必要はないんだよ。お互いに別々の道を進むことになってしまったけど、でも私はもう大丈夫だから。新しい未来に進む決意を固めたから。だからお願い。あなたも自分自身を信じてあげて。新しい未来に進む勇気を持って。きっとあなたなら見つけられるはず。希望に満ちた素敵な未来を。だからもう、自分を責めないで。自分を傷付けないで。私は信じてる。努力を惜しまないあなたなら、きっと自分の未来を切り開いてくれるって。そしてもし今度出会う事があったならば、その時は笑顔で向き会おうね。だから最後に言わせて。あなたと出会えて本当に嬉しかった。本当に、ありがとう――』

 夢の中で君が告げた許しの言葉。それは俺自身が都合良くそうあってほしいと祈った願望が、夢として表れただけなのかも知れない。でも優しい君の事だ。きっと現実でもそう思ってくれているんじゃないのかな。身勝手なのは分かってる。それでもね、俺には君がそう思ってくれているんだと、信じる事しか出来ないんだよ。


 無意識に流れ出した涙が(ほお)を伝う。でも決して哀しい涙なんかじゃない。むしろ気持ちがすっきりと晴れ渡ったかのような、そんな清々しさを感じる嬉しい涙だったんだ。

『本当に、ありがとう』

 君が告げた最後の言葉が胸の中で繰り返される。そしてその言葉を噛みしめる度に、俺の心は言葉で表す事の出来ない爽快感で満たされていったんだ。疲弊しきった体すら、軽やかに感じられるほどにね。ただ俺は考え事に気を向け過ぎるあまり、現実を完全に忘れていた。マラソンの真っ最中だって事を完全にド忘れしてたんだよ。だから唐突に掛けられた声に俺はハッとするしかなかったんだ。

「どこか体調でも悪いのかい?」

 振り向くと、そこにはスタート時に親切な声を掛けてくれた、あのおじさんが並走していた。そしておじさんは涙を流しながら走る俺を心配して声を掛けてくれたんだ。でもそんなおじさんに涙の訳なんて話せるわけもないからね。俺は気恥ずかしく照れ笑いを浮かべるのが精一杯だった。

「スミマセン、何でもないんです。ただこのマラソンを走れているのが嬉しくて、つい……」

 変なところを見られてしまったと、決まりの悪さを感じずにはいられない。俺はそそくさと涙を(ぬぐ)って前を向く。そして少しだけ走るスピードを上げて進み出したんだ。恥ずかしさのあまり、おじさんから距離を置きたかったのかも知れないね。だけどその時、俺は不思議な感覚に包まれたんだ。いや、なんて言うのかな。疲れ切っていたはずの体が、とても軽々しく感じられたんだよ。まるでスタートしたばかりの頃の体みたいにね。

 自分でも信じられないほどにスピードは加速されていく。あれほどボロボロだった体が、嘘の様に俺の意思を受け入れてくれるんだ。躍動感溢れる両足は力強くアスファルトを蹴りつけ、前へ前へと俺の体を押し進める。大きく振る両腕は、風に乗る翼の様に俺の体を浮き上がらせるほどだ。それはまるで、未来が俺を(いざな)ってくれているかの様な、あれだけ(さげす)んでいた世界が俺に味方してくれているかの様な、そんな不思議な感覚を俺に抱かせてくれたんだよね。

 息を吹き返したかの様にひた走る俺。そして気が付けば、どんよりと雲っていたはずの空からは、太陽がその顔を(のぞ)かせていた。(まぶ)しく燦々(さんさん)と輝く太陽の温かい光が俺を包み込む。そしてそれは俺の心を焦すほどに熱く(たぎ)らせるんだ。もっと早く走れ、もっと強く走れって。

 何か得体の知れない力で支えられている。俺にはそんな気がしてならなかった。でもそれはとても素敵な力、とても喜ばしい力に思えて仕方ない。いつまでも包まれていたいと思う様な、そんな優しい力で俺は支えられていたんだ。

 不思議に感じられる力に身を(ゆだ)ねながら俺はひた走る。自分の持ち合わせる限界以上の力を出し続けながら。するとその時、俺はとても信じられない存在を目にしたんだ。(にわ)かに信じ難い小さな存在が、俺の足元を追い越して行く。まさか、そんなはずは――。

 よく目を凝らして見れば、あの時のそれとはまったく違う存在なのだということは理解出来る。でもあまりに偶然過ぎる現象の一致に、俺は我を忘れて息を飲み込む事しか出来なかった。そう、俺の足元を颯爽と追い越して行った小さな白い存在。それはどこから紛れ込んで来たのだろうか。全身が真っ白な毛で覆われた、一匹の野良猫だったんだ。

 まるで引き寄せられるかの様にして俺はその猫を追い駆けて行く。あの秋の大会でゴール間際に俺を先導してくれた、あの白い猫に付き従う様に。それも猫は俺のペースメーカーみたいに、最適なコース取りで前に進んで行ってくれるんだ。無駄のない最小限の動きで前を行く選手達を抜かしていく。俺はそれにただ従いながら、足を前へと踏み出して行った。そして走る勢いは更に加速し、俺を目指すべき目標へと駆り立てて行ったんだ。熱い太陽の光に照らされながら――。



 俺は今、東京マラソンを走っている。ゴールまではあと2キロといったところだ。疲労は極限にまで達し、体の(いた)る所から(うな)りが上がる。それでも完走は間違いないだろう。ゴールが近いことに俺の気持ちは意味もなく高鳴ってゆく。ただタイムを(きざ)む腕時計を見ると、すでに4時間を回っていた。

 自分に課したゴール目標は3時間30分を切ることだった。けどそれはやっぱり無理だったらしい。いくら中学から大学まで陸上を続けていたからといって、初めてのフルマラソンで(かか)げる目標にしては、欲張り過ぎも(はなは)だしかったんだろう。

 改めて自分のバカさ加減に苦笑いが込み上げてくる。まさかこんなところでも現在(いま)の自分に過去(むかし)を重ねてしまうなんて、(みじ)めで不甲斐ないモンだね。

 社会に出てからのこの三年間、まったく運動なんてしていなかった。それなのに、過去の栄光だけを()り所にしながら始めた気まぐれな()()()()。息苦しい胸は今にも張り裂けそうだし、痛みを(ともな)鈍重(どんじゅう)な足は言う事を聞かない。

 途中で何度も走ることを止めようと思った。なんで自分はこんな事をしているんだと、苦しくなればなるほどに()やんだ。でも、それでも俺は走り続けてきたんだ。新しい自分の未来を手にするためにね。


 ゴメン。俺は約束を守れなかった。君を生涯守り抜く役目を果たしたい。俺と一緒に歩むことで、君の未来を幸せなものにしてあげたい。そう心に誓って、俺は君と付き合っていたはずだった。

 でもダメだった。その願いは叶わなかった。俺の脆弱な心が、君を(ひど)く傷つけてしまったから。俺の心無い言葉と態度で、君の(せつ)なる想いを強く踏みにじってしまったから。

 きっと俺はこれからもずっと、その自責に悩み続けて生きて行くんだろう。それほどまでに俺は、取り返しのつかない残酷な仕打ちを君にしてしまったんだからね。

 けど俺が犯したその一連の(あやま)ちを振り返る事で、改めて思い知ることが出来たんだ。俺が今を生きていられるのは、皮肉にもその全てが必要な出来事だったんだってね。

 俺にはもう、君に与えた苦痛を取り除くことは出来ない。それどころか俺の性格は(ゆが)んだままであり、またいつか同じような間違いをしてしまうかも知れない。そしてそんな()じ曲がった性格は、恐らく死ぬまで治らないんだろう。でもだからといって、俺はそれを諦める事が出来なかったんだ。もう君を幸せにすることは出来ない。だけど君への罪意識が俺の胸に息づいている限り、これから先に出会うかも知れない、君じゃない誰かを幸せにする努力は、決して(おこた)りはしないだろうってね。

 君は自分の弱さをよく理解していたからこそ、人に優しくできたんだ。そんな君の生き方が間違っているわけがない。俺に裏切られたからって、それだけは見失わないでほしい。俺はあくまで身勝手に、自分の恥ずかしさを隠す為だけに君との別れを選んだ。いや、君から逃げ出したんだ。君の愛情に応えるだけの自信が無かったから。それがどれほどのバカな間違いだったかは把握している。けれど俺には慈愛に満ちた君の優しさから逃げることでしか、自分自身の心情に折り合いを付ける事が出来なかったんだ。

 許してほしい――なんて、口が裂けても言うつもりはない。むしろ恨み続けてほしいくらいさ。でももし君と再び出会う事があったとするならば、やっぱり君は俺に優しく微笑んでくれるんだろうね。だからその時は俺も頑張って笑顔になるよ。そして君に伝えるんだ。どうしても面と向かって言えなかった『ありがとう』っていう感謝の気持ちをね。

 君が今どこで何をしているか、それは分からない。だから君に俺の想いを直接伝えることは出来ない。だけどね、君と共に過ごした思い出は、今でも俺の心を熱くさせてくれるんだ。そして俺はまた、こうして走り出すことが出来たんだよ。そこには嘘偽りなんてこれっぽっちも無くて、あの日々の記憶が支えになっているからに他ならないんだよね。

 本当にありがとう。短い期間だったけど、でもそんな生涯忘れられない大切な【思い出の欠片(カケラ)】を残してくれた君に、心から感謝の気持ちを送ります。君に幸せが訪れることを心から祈りながら――。


「キャッ」

 突然発せられた甲高(かんだか)い悲鳴。君への想いを胸に抱きながらゴールを目指す俺が耳にしたそれは、東京マラソンという大舞台には明らかに相応しくないものだ。そしてそこで俺に待ち受けていたのは、最後の試練とも言うべき、苦痛に満ちた過酷な現実だったんだ――。

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