第十四話
激しい暴行を受けた影響で体が唸るほどに痛い。また一晩中眠れなかった事もあってか、頭の中が酷く朦朧としている。それでも俺は自分自身を急かすかの様にして、早朝のジョギングへと出掛けたんだ。
いつ以来になるんだろう。俺は下駄箱の奥に忘れ去られていたランニングシューズを取出し、そしてまだ朝焼けの鮮やかさが空に残る外にへと飛び出した。とりあえず何でもいい。体を動かしたかったんだ。
肺で温められた空気は、呼吸として口から吐き出された瞬間に白い霧へと変化する。さすがに年の瀬も迫ったこの季節の朝は寒い。息の白さからも視覚的に否応なく気温の低さを実感してしまう。それに出不精癖が染みついてしまった為か、寒さに対して極端に弱くなっているんだろう。瞬く間に俺の心が言い訳がましい弱音を吐き出し始めたんだ。
寒過ぎる。それに息も苦しい。まして体は昨夜の暴行でボロボロなんだ。骨はきしむし、筋肉は引き裂かれるほどに悲痛さを轟かせている。それなのに何で俺は走っているんだ。何を理由として俺は走り出したんだってね。
家を出発してからまだ1キロも進んでいない。それなのに俺は足を止める為の道理を懸命に模索し続けた。もう止めよう。次の信号まで行ったら止まろう。そう自分自身に訴えかけたんだ。いつもの軟弱過ぎる俺の心の脆さが、悲嘆とも言うべき弱音を垂れ流しにしたんだよ。
でもなぜだろうか。俺は走る事を止めなかった。ボロボロになった体を引きずる様にしてまで、俺は前へと足を踏み出して行ったんだ。
もう蹲るだけの生活から抜け出そう。未来に向かって新しい人生にチャレンジしよう。そんな前向きかつ積極的な綺麗事を言うつもりはない。だって理屈じゃ説明なんて出来やしないんだからね。何となく気持ちが昂り、前へと足を駆り立てたくなる。まるで動物的な感覚。そんな本能的な何かに俺の胸の内は熱く滾っていたんだ。だからこそ、俺は走る事を途中で止められなかったんだよ。
およそ5キロを走り続けた俺は、自宅まであと少しという所まで来ていた。ただその時の俺の姿はもう、見るも無残なほどに居た堪れないものだったんだろうね。何かに憑り付かれたのではないかと疑われてもおかしくない。それほどまでに俺は極限を超えた息苦しさに悶え苦しみながら走っていたんだよ。
俺はそんな自分自身の見苦しさを身に染みて認識する。だって通学途中の二人組の女子高生とすれ違った時だ。彼女達は俺の姿を見て、それは厳しい眼差しを向けて来たんだよね。怪しい。汚らわしい。忌々しい。俺を低劣に見下げる彼女達の感情が、痛烈に伝わって来たんだよ。
でもたぶん自分でもその表情を見たならば、確実に引いてしまう自信が持ててしまう。決して他人には見せられない浅まし過ぎる顔。想像しただけで鳥肌が立ってしまう。俺はそんな醜い表情を浮かべていたんだろうね。だけど俺は走り続けたんだ。もう他人に何を思われても構わない。いや、それ以前に他者を気遣う余裕なんて無かった。一歩でも前に足を踏み出す事しか俺には考えられなくなっていたんだよ。歩いた方がむしろ速かったのかも知れないスピードだったんだけどね。
倒れる様にして自宅玄関になだれ込んだ俺は、その後少しの間、仰向けになって荒く乱れる息を整えていた。
全身から感じる痛みと、それを上回る息苦しさ。もう立つ事すらままならないほど体力は消耗し切っている。俺は素っ気ない天井を見つめながら、そんな辛い感覚に苛まれるばかりだったんだ。
でも不思議なんだよね。今まで感じたことが無いほどの尋常でない辛さを抱いているはずなのに、なぜか俺は言葉では表現出来ない満足感に浸っている。清々しい感覚。走り切った達成感とでも言えるのだろうか。そんな充実感に俺の心は意味も無く高揚していったんだ。
弛み切った体を酷使したことが、これ程にまで気持ちをすっきりさせるものなんだろうか。こんなにも満ち足りた気分になれるものなのだろうか。その根拠の無さに、まったく理解なんて示せやしない。でも現実として俺の心は爽快感に満たされて晴々としている。まるで生きている事を実感しているかの様にね。
暴力による痛みに耐える事でしか、生きているって確かめられなかった昨夜の俺。でも今は同じ苦痛に身を委ねつつも、まったく違った心境に胸が躍っているんだよ。俺を形成する細胞の一つ一つが歓喜に沸いている。そんな錯覚を感じてしまうほどに、俺は今という時間に心を満たして行ったんだ。
それから俺はバイトが始まる夕刻までの間、泥の様に眠った。自分でも驚くほどに熟睡したんだよ。恐らくそれまでバラバラだった心と体が、久々にシンクロして休息を促したんだろう。まるで脱皮直前の蛹の様に、俺は身動き一つしないで眠り続けたんだ。
昨日までの荒みきった緊張感から解放されたからなのか、それとも久しぶりに長距離を走った疲れの影響なのか。いや、たぶんその両方なんだろう。猛烈な睡魔に侵されて俺の意識は夢の中へと誘われた。でもそこで俺が改めて夢に見たのは、紛れもない君の姿だったんだよね。そして君は昨日見た夢と同じに微笑んでくれた。穏やかに語り掛けてくれたんだ。そう、あの『許しの言葉』も一緒にね。
俺はそんな君からの言葉に笑顔で頷いて見せた。快く受け入れたんだよ。君の言葉と気持ちをね。でも俺は君に対して頷く事しか出来ず、こっちからは何の言葉も伝えられなかった。ずっと言おうと心に仕舞っておいた大切な言葉を、結局夢の中でさえ告げられずにいたんだよ。
不甲斐ないよね。夢の中だっていうのに、どうして俺はいつまでもウジウジしているばかりなんだろうか。恥ずかしい気持ちに心が締め付けられる。だけど悪い気分ばかりじゃない。いや、それどころか俺の心は前向きに想いを馳せるばかりなんだ。だって夢の中の君に想いを伝えたところで、なんの意味も成さないのだからね。やっぱり現実の世界で君に直接伝えなければ意味が無い。それを俺は明確に把握していたんだよ。だから俺は夢の中の君に対して、穏やかに向き会う事が出来たんだよね。
携帯が奏でるいつもの無機質な音楽で俺は目を覚ます。目覚まし機能は相変わらず生真面目に仕事を熟すもんだ。俺は含み笑いを浮かべながら、そんな携帯を手に取った。まるで羽根でも背中に生えたのかって勘違いするほどに、軽く感じる体を起こしながら。
それからというもの、夜間のバイトが終わってからの早朝ジョギングが俺の日課となった。走り終えた後の何とも言えない充実感を覚えてしまったからね。それに捩じ曲がってしまった俺の心情が、少しづつだけど矯正されていく様な、そんな胸のすく気持ちになれたんだよ。
ただ走り出す前はいつだって身が竦む思いに悩まされる。どうして俺は自分から辛いランニングなんてしようとしているのか。こんな事を続けたところで、誰からも褒められやしない。一日くらいサボった所で、非難される相手もいないんだ。だから無理に走る必要なんてないのだと、俺の心は常に訴え続けていたんだよ。でも俺は走ったんだ。嫌がる胸の内に抵抗し、冷え込みの厳しい外の世界へと毎日飛び出して行ったんだよね。
足を止めるのが怖かったのかも知れない。走る事を辞めてしまったら、また元の根暗な俺に戻ってしまう。無意識にも俺はそう思っていたんだろうね。だけどもう御免なんだ。うんざりなんだよ。二度とあんな惨めな自分になんて戻りたくはない。絶対に戻ってはいけない。そう切実に俺は願っていたから、だから俺は毎朝のジョギングにへと気持ちを駆り立てて行ったんだ。
折れそうになる気持ちを懸命に支え、一歩一歩前へと進む。そしてその日の完走を果たした時、俺に訪れるのは至福の達成感だった。そしてその瞬間だけは満ち足りた感覚で癒されたんだよ。本当に俺は今を生きているんだって、そう心から思えたからね。
でも俺には走る度に痛感する苦い感覚も抱いていた。それは自分の予想を遥かに超えた、体力の衰えと筋力の低下だったんだよね。運動不足が否めない事実だって事はよく把握している。ただそれを自覚した上でも、俺の体は自らの意志に反して言う事を聞いてはくれなかったんだ。
正直なところ愕然としたね。まさかこれ程までに走れなくなっているとは思わなかったよ。気持ち的にはもっと走りたいのに体力が続かない。筋肉痛だって体の自由を奪うほどに唸りを上げている。極端な言い方だけど、仕事にも影響が出たほどだからね。特に商品の補充なんかは最悪だった。太ももが痛過ぎて屈む姿勢が取れやしない。時間ばかり喰ってしまって、他のスタッフにどれだけ迷惑を掛けてしまったことだろうか。申し訳ない気持ちで一杯だ。
だけどね、俺はそんな痛みすら嬉しく感じていたんだ。変わり映えが無く、生き甲斐の無い生活から少しずつだけど抜け出せている。その確固たる証拠こそがその痛みなんだと、俺は感じていたから。
暗い影の中に閉じこもっていたあの頃に戻りたくない。そんな恐怖心が俺をジョギングに駆り立てている。その想いは紛れもない真実なんだろう。でもね、俺は本当の自分の気持ちに気付きはじめたんだ。そう、俺は純粋に走る事が好きだったんだと。走る事が楽しいんだと。そして何より、走る事に飢えていたんだとね。
新年を迎えたのは、もちろん仕事中のコンビニだった。そして仕事を終えた俺は元旦の早朝だというのにも関わらず、日課のジョギングにへと出掛けたんだ。
走り始めてからちょうど一週間。この頃になると、体もだいぶ走る事に慣れてきたんだろう。体力的にはまだまだキツく感じるものの、筋肉痛は幾分鳴りを潜めてくれる様になっていた。
明日からはもう少しだけ走る距離を延ばしてみようか。ジョギングを終えた俺は熱いシャワーを浴びながらそう思う。今日の走行距離はおよそ5キロ。やっぱり1万メートルを走っていた昔の感覚からして、物足りなさを感じるんだろう。でも今はその頃の体とは根本的に質が違っている。本来であれば、もっとじっくりと体を慣らしていくべきなんだよね。だけど俺はついつい昔の自分をイメージして考えてしまうんだ。それも陸上選手として一番輝いていた頃の姿をね。悔しいけど、いつまで経ってもそんな考えの甘さは変わらないんだよ。
シャワーから出た俺は着替えをし終えると、準備していた熱湯をカップラーメンに注ぐ。腹が減って仕方がない。仕事を終えてから休憩する間も惜しんでジョギングに精を出していたからね。それは無理がないんだろう。
バイト先で購入しておいた弁当と共に食べようと、カップラーメンが出来上がるまでの間を炬燵に包まりながら待つ。そして暇を持て余すかの様に、俺は何気なくテレビのボタンを押した。
突如として響く大歓声。何事なのかと、俺はテレビから流れる映像を注視する。するとそこで放映されていたのは、毎年恒例の社会人ランナーによる駅伝大会だったんだ。
大学生が実施する箱根駅伝と共に、正月の風物詩となっている社会人駅伝。俺はそこで盛んに切磋琢磨し合う大人達の熱き走りに目を奪われたんだ。俺なんかとはまったく別次元の走りをする彼ら本物のアスリート達。そんな彼らを憧れの眼差しで見つめるとともに、俺は彼らと自分を重ね合わせてイメージしてしまったんだよね。もしあの秋の大会以降も真面目に練習していたならば、もしかして俺もこんな大舞台で走れていたんじゃないか。そんな有りもし得ない妄想を抱いていたんだよ。やっぱり正月だから、夢を見てしまったのかな。
しかし俺はそんなテレビの中に映る一人の選手を見て声を失った。いや、なんて言えばいいんだろうか。それは決して悪い意味なんかじゃない。むしろ嬉しい意味合いのはずなんだよね。でも一驚した俺は息する事を忘れるほどに、意識をテレビに奪われてしまったんだ。俺が目にしたテレビの中で激走する一人の選手。そうだ、彼はあの時の――。
フラッシュバックする秋の陸上大会。あの時、俺と共にやる気なく最後尾からスタートした有力校の選手。その彼の巧みな走行法に肖って俺はあの大会で好成績を勝ち取ったはず。そんな俺の見本と成り得たあの彼が今、テレビの中で激走しているんだ。驚くなって言う方に無理があるだろ。そして今まさに彼は区間賞を取る勢いでスパートを仕掛けている。またそんな彼に追い抜かれながらも、最後の力を振り絞って猛然とその後ろを追い駆ける選手の姿にも俺は声を失った。まるで短距離レースでもしているかのような走りっぷり。そう、目覚めた猛獣さながらに、先を行く彼を猛然と追走する漆黒の選手もまた、あの時俺と共にレースに挑んでいた留学生の彼の姿だったんだ。
俺は身を乗り出してテレビに釘付けになる。力一杯に拳を握りしめて。頑張っている二人の姿に居ても立ってもいられないんだ。
区間賞目前だった彼は、最終的にそれを僅かなところで逃してしまった。それでも見事な走りでタスキを繋いだ事に変わりはなく、誇らしい姿だったのは言うまでもない。そしてそれから少し遅れて漆黒の彼もタスキを繋いだ。もちろん漆黒の彼もまた、その走る姿勢は輝かしものだった。
俺の心はそんな二人の熱い走りに意味も無く湧き上がる。興奮が留まる事を知らない。そんな感じにね。
彼らはあの時から変わらずに走り続けている。それも日本のトップランナーが集う大会で目を見張る活躍しているんだ。そんな彼らの頑張っている姿に心が何も感じないはずはない。いや、むしろやる気に満ち溢れる。やらなければいけない気持ちになる。俺はそんな熱狂した高ぶりを素直に感じたんだ。またそう思う事で、俺は今の自分に【足りないもの】を明確に知り得る事が出来たんだよね。
生きるための目的。まさに俺に足りなかったのは、そんな目指すべき【目標】だったんだね。俺はそれを忘れていたから、いつしか見失っていたから、だから俺は遣り甲斐も無く、変わり映えの無い人生を淡々と生きていたんだよ。それこそ、無駄に時間を消費するばかりにね。
それが本当に生きていると言えるのだろうか。人生を歩んでいると呼べるのだろうか。少なくとも今の俺にはそうは思えない。いや、ずっと昔から俺は分かっていたんだよ。人としてこの世に命を授かった以上、誰しもが何かしらの【目的】を持って生きるべきなんだってね。
元々面倒くさがりな俺にしてみれば、そんな目的なんてウザったいだけだったんだろう。生きる上でそれが必要なんだって理解しているのに、それでも俺は見て見ぬフリを続けていた。ううん、ただ臆病風に吹かれて縮こまっていただけなんだ。――――君と出会うまではね。
自分に自信が無かったから、目指すべき目標に正面から向き合えなかったのかも知れない。目的を持つって事は、ある意味責任や覚悟を胸に抱くってことだからね。それは言葉でいうよりも、ずっと厳しいもののはずなんだ。だから俺はそんな重責を嫌い、また不安や迷いから逃げ続けていたんだよ。
だけど君と出会ってしまった事で、君と付き合いはじめた事で、俺はもう自分を誤魔化すのは無理だって感じる様になったんだ。君と同じ時間を共有するほどに、俺はそう感じずにはいられなくなってしまったんだよ。だって君が俺に教えてくれたから。君が与えてくれたから。そうなんだ、俺にはそれまで漠然としていた生きる目的が、はっきりと見える様になっていたんだよ。だから俺は君の前では何事にも恐れず、懸命な姿勢で頑張れたんだよね。
君を幸せにしてあげたい。それが俺に見えた、唯一と言っていい目標だった。そして君もそれを強く願ってくれていた。だから君はいつでも俺に温かい手を差し伸べてくれていたんだ。常にすぐ傍で俺を応援し続けていてくれたんだよね。そしてその期待に応えるべくして、俺は精一杯の力で頑張り続けたんだ。
俺の生きる目的。それは【君】そのものだったんだね。だから君を失うことで、俺は全てを諦めてしまったんだ。何もかもを放り投げ、自分の殻に閉じこもってしまったんだよ。
もう君との関係は元には戻らない。もうあの頃胸に抱いていた俺の目的は何処にも存在しない。何もかもが手遅れだったんだと、過去を悔やんで嘆く事しか出来なかったんだ。
でもさ、俺は今もこうして生きているんだよね。それだけは覆せない現実なんだよね。だったらさ、俺にはまだ、生きる目的を持つ資格があるって事なんじゃないのかな。
強がりなだけかも知れない。そう自分に折り合いを付けたかっただけなのかも知れない。それでも俺には生きる目的が、目指すべき目標が欲しかったんだ。ほんの些細なものでいい。とりあえずは自分が精一杯努力する事で掴めるだけの、生きる目的が欲しかったんだよ。
「やってみるか……」
少し離れたテーブルに置いてある東京マラソンのチケットを見つめながら俺はそう呟く。正直それまでの俺は、本気で東京マラソンに参加しようなんて思ってはいなかったんだよね。だって俺が再び走り出したのは、暗闇から抜け出したいっていう気持ちが行動として表れただけなんだからさ。
けどやっぱりキャプテンだった彼は、俺の事を本当に良く分かってくれていたんだろう。今の俺に足りないものが何であるのか。彼にはそれが良く分かっていたんだ。だから彼は目先の目標として、俺にこのチケットを渡したんだよ。俺に生きる目的を見出すキッカケを与えたかった為にね。
今更ながらに彼の気遣いが堪らなく嬉しくなる。またどうして御座なりな別れ方をしてしまったのかと後悔もした。でも彼の事だ。日本に戻ったならば、きっと俺に連絡をくれるだろう。だからその時は正直に感謝の言葉を伝えるんだ。そして報告しよう。俺が立ち直った証しとなるはずの、東京マラソンでの完走した結果をね。
翌日からのジョギングはトレーニングにへと変化した。俺は目指すべきレースに照準を定め、厳しい特訓を開始したんだ。少しばかりの焦りの感情を抱きながらね。
東京マラソンの本番は3月上旬に開催される。率直な思いとして時間が足りない。俺はそう痛感せざるを得なかったんだ。だっていくら俺が学生時代に陸上競技をしていたからって、それは過去の出来事でしかないんだからね。もうあれから三年近くも真面に走っていないんだ。いや、それどころか運動らしい運動を根本的にしていないんだよね。さらに言えば、俺は今までに最長でもハーフの距離しか走った事がない。それがいきなりフルマラソンに参加するつもりなんだ。もしマラソン愛好家が今の俺を見たならば『ナメてんじゃねぇよ!』って怒るに違いないんだよね。
でももう俺は決意してしまった。どんなに辛くても、絶対にゴールしてみせるって。その想いは曲げる事なんて出来やしない。もう誰も俺の決意を鈍らせることなんて出来やしないんだ。だってこのレースは俺にとって、今後の人生を決めるに等しい大事なものなんだからさ。
決してマラソンを侮っているわけではないし、まして軽視するつもりなんてない。いやむしろ俺はその厳しさを十分に承知しているつもりなんだ。紛いなりにも陸上経験者として、かつては長距離を走る苦しみを肌身で感じていたのだから。でもだからこそ、俺はそんなマラソンを自分の人生に置き換えて考えてしまったんだよね。
生きるってのは辛い事ばかりだ。それこそ弱音を吐き捨てたり、他人を嫉んだり、そんな収まりの悪さを常に感じていかなければいけないんだからね。だけどほんの僅かな幸せで前向きになれる。まして自分自身が努力した結果で掴み取ったものならば、それはさらに格別な至福にへと変貌することだろう。そして今の俺に必要なのは、まさしくその後者なんだよね。
長い時間燻ぶり続けた俺にとって、これから先の人生に希望を抱くのであれば、それは弛まない努力が不可欠なんだ。そしてその努力の積み重ねによって、明日を夢見る資格を手に入れる事が出来るんだよ。まさにその努力こそが、今の俺に最も必要な意志であり、俺自身を満たし明日へと駆り立てていく生き甲斐となるものなんだろう。
目前に迫った東京マラソン。俺はそれを目指すべき目標とした。そこに向かって努力する決意を固めたんだ。だからもう迷わない。振り返りもしない。真っ直ぐにゴールだけを目指して全力を尽くす。バカが付くほど単純な考え方かも知れないけどさ、今の俺にはそれだけで十分だったんだ。
ゴールした先に見えるであろう俺の未来。それがどんなものになるのかは想像なんて出来やしない。でも一つだけ確信しているのは、そんなマラソンのゴールこそが、俺の人生を再出発させるスタートラインなんだて事なんだよね。そんなゴールこそが、暗い過去を拭い去って生まれ変われる場所となるはずなんだよね。だってフルマラソンを走り抜くってのはさ、中途半端な覚悟なんかじゃ、とても成し遂げられやしないものなんだから。
それこそ血の滲むトレーニングに身を費やす必要があるんだろう。泣き言なんか叫んでいられないほどに、時間を惜しんで走り続けなければいけないんだろう。ただそんな辛く厳しい訓練を積み上げた者だけが到達出来る場所。それこそがフルマラソンのゴールなんだよね。
きっと軟弱者の俺の事だ。その厳しさに心が折れ、途中で逃げ出してしまうかも知れない。やっぱりダメだったと諦めてしまうかも知れない。でもね、そんな弱さに正面から向き合い、それに打ち勝ってこそ手に入れられるのが【未来】なんじゃないのかって、今の俺には思えて仕方ないんだ。だからこそ、俺にはそこを目指す価値があるんだって考えてしまうんだよね。
もう鈍った体に言い訳なんてしていられない。俺は無理やりに自分自身を過酷な状況に追い詰め始めた。無我夢中で走り続けたんだ。あの頃の様に――。
君に応援される事で乗り切れた、あの暑い夏のトレーニング。その感覚が俺の中に甦ってくる。
もっと早く。もっと強く。俺には出来たはずだと気持ちを懸命に駆り立てる。まだ十分に動かない体を補うため、せめて気持ちだけはと躍起になって心を奮起させていく。体を切り裂くほどの冷たい風に吹き付けられようとも、身を刺すほどの凍える雨に打たれようとも、それでも俺は足を前に踏み出し続けた。止まってしまう事を恐れるかの様に、俺は無理やり前を目指して走り続けたんだ。
もし君が今の俺の姿を見たらどう思うのだろうか。余計な事は考えないよう努めてはいるものの、ふいにそう思ってしまう時がある。それは決まっていつも、バイト中の暇な時間だった。
あれから君は一度たりともコンビニに来てはいない。外見からは想像出来なかったけど、君は強情な性格だったからね。たとえどんなにその胸の内が穏やかでなかったとしても、俺が連絡をしなければ会いはしない。君はそういう強い女性なんだ。
ゆっくりと話がしたい。それは君の本心なんだろう。もちろん俺だってそれに応えたい気持ちはある。今すぐにでも君と話がしたい。正直な所、やっぱり俺は未だに君を想い続けているんだね。
だけど俺は君の電話番号を消してしまったから。君のアドレスも消去してしまったから。だからもう二度と、君に連絡する事は出来ないんだ――――。いや、それは違うか。それは単に自分自身に嘘を付いているだけなんだろうね。だって記憶の片隅には、まだ君の電話番号が刻み込まれているはずなんだ。変な例えだけどさ、自転車の乗り方と同じで忘れようにも体が覚えているんだよ。
でもやっぱり今はまだ無理なんだ。君と向き合えるだけの準備が整っていないんだよね。君と対等に語り合うだけの俺を取り戻せてはいなんだ。だからまずは自分の自信を取り戻す為に、東京マラソンの完走を目標として誓ったんだよ。きっとその目標を成し遂げたならば、君に伝えられる。そう心が感じているから。
約束を守れず、君を裏切ってしまった事に頭を下げたい。耐え難い苦痛を科してしまった過ちを謝りたい。正直に言えず終いだった感謝の言葉を伝えたい。そしてもう心配しなくても大丈夫だって姿を見てもらいたい。そんな信念が俺を強く前に駆り立てて行く。そしてあっという間に月日は流れて行ったんだ。
もう本番は数日後に迫っている。それに伴ってか、気持ちは熱く高鳴るばかりだ。まるで完走する自信に満ち溢れているかの様にね。調整が上手くいっているからなのか、早く本番を走りたくて我慢できない。でもどうしてこんなにも心が昂ってしまうんだろうか。
それにはちょっとした理由があったんだ。自分が変わり始めている。ううん、かつての輝いていた頃の俺に戻りつつある。それが実感出来ていたから。だからこんなんにも気持ちが熱く滾ってしまうんだよね。
暴行を受けた明くる日。そう、俺が再び走り始めたあの朝。ジョギング途中で偶然すれ違った通学途中の二人組の女子高生。そんな二人から先日、声を掛けられたんだ。『頑張って下さい』ってね。
驚いた。いや、はじめは何を言われたのか理解出来なかったんだ。だって当初彼女達が俺に向けた眼差しは、それは厳しいものだったからね。それ以来、俺の方もバツが悪くて、あえて彼女達を気にしないよう心掛けて走っていたんだよ。でもその日彼女達が俺に掛けてくれた声は、そんな冷えた視線とはまったく違う温かいものだったんだ。都合の良い勝手な主観なのかもしれないけどさ、彼女達は本心から俺の事を応援してくれている。そう思えて仕方なかったんだよ。
きっと彼女達は通学途中で毎日俺が走っている姿を見ていたんだろう。そして日増しに逞しく成長していく俺に何かを感じてくれたんだろう。だから彼女達は笑顔で元気な声を掛けてくれたんだ。決して冷やかしなんかじゃない。心のこもった応援を送ってくれたんだよね。
やっぱ俺って男は単純なんだね。彼女達からの些細な応援によって増々力が湧いたんだ。そしてそれが自信となり、俺の気持ちを良い意味で強く前向きにさせてくれたんだよね。
三カ月にも満たない期間だったけど、死に物狂いで走り続けた。その成果もあってか、フルマラソンの完走は間違いなく達成出来るだろう。そう確信してしまうほどに、俺の体は仕上がっていたんだ。
でもそれだけでいいのだろうか。目に見えて手が届く目標に意味があるんだろうか。単なる俺の思い上がりなのかも知れない。それまでの練習でハーフまでの距離しか走ったことの無い俺にしてみれば、未だにフルマラソンの完走は未知の領域なんだからね。だけど俺はあえて目標を一段階引き上げたんだ。そう、ゴールするまでのタイムを新たな目標として自身に課したんだよね。
3時間半以内でゴールすること。それが新たに掲げた俺の目標だ。恐らく体調さえこのまま維持出来たならば、決して不可能とは言えない絶妙な時間設定と言える。たぶん現実を見据えた俺の心が下した、未来に強く進む為のはじめの試練なんだろう。
もう恐れる必要は何もないんだ。ただ全力を出し切りさえすればいい。そんな決意を胸に秘め、そしてついに俺はその日を迎えたんだ。
果たして最後まで目標を諦めることなく走り切れるだろうか。東京マラソンのスタートラインに立った俺は、そんな不安に気分を煽られる。でも大丈夫。ここまで努力出来たじゃないか。
俺は波立つ鼓動を感じながらも、それを上回る期待感に胸を膨らませながら、スタートの合図を今か今かと待ち侘びていた――。