第十三話
悶々と鬱積した心情を抱きながら商品を棚に補充する作業をしていた俺は、突然君から声を掛けられた事に吃驚するほどの衝撃を受ける。
どうしてこの場所に君が居るのか。なぜ俺に声を掛けたのか。そこに居るはずの無い君の姿に俺は混乱するばかりだ。まさか考え過ぎによって生まれた君の幻影でも見ているのだろうか。いや、そうだったのならどれだけ救われたのだろう。いっそ気が狂ってしまったほうが楽になれたろうからね。でも現実は俺にとって残酷でしかなかった。無慈悲とも呼べるほどに、現実は俺の気持ちを逆撫でするばかりだったんだ。
決して幻なんかじゃない。紛れも無く君はそこに存在したんだ。そして君は俺に向けて声を掛けた。昔と変わらない柔らか味のある温かいその声をね。ただ少し硬い表情からして、君の方も俺に声を掛ける事に何かしらの戸惑いを感じていたんだろう。その証拠に君は、その次の一言をなかなか切り出さなかったからね。
二人の間に強張った緊張感が走るのを感じる。とても重い感覚が体を縛りつける様な、そんな疎ましさを感じて仕方なかったんだ。
俺はそんな気まずさを誤魔化す為に、商品を棚に陳列する作業を続けた。何でもいいから体を動かしたい。そう思ったんだよ。手足が震えているのを悟られたくないっていう俺の本能が、仕事に意識を向かせようとしただけかもしれないけどね。ただこれだけは確信が持てるんだ。君とそのまま向き合っていたならば、間違いなく俺は取り乱しただろうってね。
俺は君に背を向けた姿勢で作業に勤しむ。もう勘弁してくれ。そう切実に願いながらね。だってやり場のない心の迷走が止まってくれないんだよ。いや、それどころか狼狽える心情は、スピードを加速させるばかりなんだ。
ちくしょう。今更俺に何の用があるっていうんだよ。少なくとも今の俺にはその理由がまったく見当たらない。だから俺は君がそのまま何も告げずに立ち去る事を期待するしかなかったんだ。ううん、俺の脆弱な心は現実を拒否したいが為に、切にそう願うしかなかったんだ。でもそんなに都合良く事が進むわけはないんだよね。
再び君が目の前に現れた瞬間に、俺はそれを覚悟していた。君の姿を垣間見た瞬間に、俺は直感として理解してしまったんだよ。今日の君は昨夜の君とは違う。偶然に再会した昨夜とは明らかに違うんだってね。だってそうだろ。君は今日、俺に会う事を目的としてこの店に来たはずなんだから。
「久しぶりだね」
君は落ち着きのある声で話し出す。
「昨日はすごく驚いちゃって。私、言葉が見つからなかった」
どんな表情で君は俺に語り掛けているのだろうか。それを確かめるわけにはいかない。そんな事をしたならば、俺は何を仕出かすか分からないからね。ただ君の言葉の節々に、不自然とも言える辿々しさが感じられる。たぶん君の方も震えるくらいに固くなっているんだろう。それを必死に堪えながら、俺に話し掛けているんだろう。
でもそれならなぜ俺なんかに会いに来たんだろうか。もう俺と君の間には何の関係もないはず。それなのにどうして君は極度の気まずさを覚えながらも、再び俺のもとを訪れたんだろうか。
今日は土曜日でそれもクリスマス。こんな場所で油を売っている暇なんて無いはずだ。しかも天候は外出するには最悪だったはず。しかし君は俺なんかに会うためだけにここに来た。そして話しを続けたんだ。
「昨日はごめんね。せっかく会えたのに何も話せなくて。でもあなたの元気そうな姿を見れて嬉しかった。だから」
「客で来たわけじゃないのか? 今、見ての通り仕事中なんだよ。悪いけど、買い物する気が無いなら帰ってくれないか」
「あっ、ご、ごめん。でも私、あなたと一度話がしたかったから。だから今度どっかで時間を作ってゆっくりと」
「昨日の彼氏、待ってるはずだよね。だから早く、帰ったほうが良いよ」
「う、うん。でも、でもね……。私の電話番号変わってないから。だから気が向いた時でいいの。――連絡、くれないかな」
「ふぅ、分かってないな。俺と君はさ、もう何でもないんだよ。だからもう俺の前に現れないでくれないかな。頼むからさ」
君の顔を一度も見る事なく、俺は冷たくそう呟いた。気の利いた言い訳一つも告げられないまま、君を追い返えそうとしたんだ。だって仕方ないじゃないか。俺には君と向き会う資格が無いんだし、それに君に対してどんな表情を差し向ければいいのか考えつかないんだからさ。それなのに君は、まるで俺なんかに縋るかの様にして、最後の言葉を発したんだ。
「仕事の邪魔しちゃってごめんね。でも本当にいつでもいいから連絡がほしいの。メールでも何でもいいから、だからお願い。私、待ってるから」
惜しみながらも立ち去る君の足音が耳に付く。でもそれ以上に俺の胸を締め付けたのは、君が口にした『ごめん』ていう言葉だったんだ。
まったくふざけてるよ。いくらなんでも君は謝り過ぎなんだよね。俺は現状から逃げる口実を述べているだけで、君に落ち度はまるでないんだ。謝る必要なんて、これっぽっちも無いんだよ。それに本来なら、その『ごめん』て言葉を告げるべきなのは俺の方なんだよね。
つい数時間前の事さ。キャプテンだった彼と話し、その中で当時の君が抱えた苦悩を知らされた。そして俺はその痛ましさを十分に理解したはずなんだ。君に対して申し訳ないって、心の底から感じていたはずなんだよ。それなのに俺は君に冷たい態度しか取る事が出来ず、謝罪の言葉を伝える事が出来なかったんだ。
やっぱり俺なんて、生きてる価値ゼロなんだろう。いや、それ以前に俺が生まれてこなければ、君はその貴重な人生の中で無意味な心の傷を負う必要もなかったんだ。そして今回も俺はその傷に塩を塗るほどのつれない態度を取ってしまった。これじゃまるで俺は、君を苦しめる為だけに存在してるとしか思えないじゃないか。
クソっ。もう立ってなんかいられないよ。俺にはもう生きる意味が見つけられないよ。もう自分自身を嫌う事しか出来ないよ――。
溢れ出て来る涙を堪えるだけで精一杯だった。もちろん仕事なんて続けられるはずがない。俺は体調不良を理由にしてバイトの早退を願い出た。
あまりにも酷い顔に見えたのだろうか。店長は心配そうに俺の体調を気遣ってくれた。でも俺はそれに愛想笑いの一つも返せなかった。一刻も早く家に帰りたい。早く一人になりたい。――いや違う。もう誰もいない世界に行きたかった。もう二度と誰とも口を利きたくなかったんだ。
俺は当て所なく夜の街を彷徨い歩く。はっきりとした意識も無いまま、俺はただ闇雲に街をさすらったんだ。まるで大海原を漂流する小舟の様にね。するとそんな俺の頭に冷たい雨粒が一滴だけ降り注いだんだ。
(冷てぇなぁ……)
運命だけじゃなくて、天候までもが俺に冷たく当たるのか。俺はそんなにも許し難い大罪を犯してしまったと言うのだろうか。だとしたら俺はどうやってその罪を償えばいいのか。どうすれば許してもらえるのだろうか。どれだけこの暗い道を這いつくばれば、光に手が届くというのだろうか――。
もう俺の心は限界に達していた。この先どうやって生きて行けばいいか、考えられなかったんだ。そしてそんな歪みきった俺の胸の内は、さらに捩じ曲がった方向へと感情の矛先を向けていく。この世界に存在する全てが冷酷に俺を処遇するというのならば、いっその事、こんな世界無くなってしまえばいい。何もかもが消滅してしまえばいい。俺にはそう恨む事しか出来なくなっていたんだよ。
先程頭に落ちた雨粒が額にへと流れてくる。俺はそんな濡れた額を摩りながら、何気なく夜空に視線を向けた。俺を蔑む世界の夜空がどんな表情を覗かせているのか。それを確かめたかったから。
雲の切れ間から月の光らしきものが見える。だがそれだけだ。淀みきった雲の広がる空は黒く、僅かばかりに光る月の輝きを瞬く間に飲み込んでいく。まるで希望を吸い込む様な、絶望だけが広がる空。俺にはそうとしか見えなかった。俺はそこに苛立った失望感しか抱けなかったんだ。そして時折降り注ぐ真冬の冷たい雨粒が、俺の心を深く凍らせていく。
今日はクリスマス。もしこれが雪だったならば、少しはロマンチックな気持ちにでもなれたのだろうか。もう少しだけ心が荒む事を防げたのだろうか。いや、例えそうだったとしても、今の俺にはまったく必要のない気持ちだね。だってそんな些細な安らぎなんて、俺の心を禍々しく塗り潰す怨念じみた感覚の前では、何の意味も成さないだろうから。
俺を蝕む心の闇は深まるばかりだ。そして俺はただ呆然と夜空を見上げ、そこに意識を奪われていた。――とその時、
「ドンッ!」
俺の肩に何かがぶつかった。歩道の真ん中に突っ立っていたからだろう。通りすがりの誰かが俺に接触したんだ。でも俺はそれに構わず空を見上げていた。なんだかもう、面倒だったんだよね。人と関わる事がさ。ただどこまでも俺は運命に呪われているんだろう。俺に接触したのはいかにもヤンチャそうな若い青年であり、その青年を含んだ3人組が因縁を吹っかけて来たんだ。
「よう、あんちゃん。空なんか見てて楽しいんか? でもさ、こっちは肩が外れたみたいに痛いんだよ。だからさ、何か言う事あるんじゃね~の?」
もうどうでも良かった。それまで堪えていたものが、一気に音を立てて崩れ去るのが分かったから。もう我慢なんて仕切れない。俺は感情に身を任せるがまま、青年達にこう吐き捨てる事しか出来なかった。
「冗談は顔だけにしとけよ。カスどもが――」
人目の付かない裏路地へと誘われた俺は、そこで三人組の男達に袋叩きにされた。全身からは今まで感じたことのない強い激痛が発せられる。そんな激しい痛みに苛まれた俺は、どうする事も出来ずにただ地面にひれ伏すだけだった。
威勢の良い口ぶりに端を発したケンカは、あえなく返り討ちを喰らって終了する。たった一度の反撃も出来ないまま、それこそ為されるがまま一方的にボコボコにされたんだ。
でもまぁ、それは無理もないだろう。だって生粋の事無かれ主義者だった俺はケンカが大嫌いだったし、まして人を殴った事なんて生まれてこの方一度も無いんだからね。そんな俺が日常的にケンカに勤しむ不良どもなんかに敵うはずないんだよ。口の中は苦味の利いた出血で溢れ返り、きしむ肋骨が邪魔をして上手く呼吸が出来やしない。
それにしても最近のガキ達は手加減ってものを知らないんだね。感情の赴くまま力任せに顔を殴り、そして腹を蹴りつける。それも三人が交互に容赦なく俺を甚振り続けたんだ。
本当に死んでしまうのかも知れない。度が過ぎる暴行に、俺は身を強張らせて耐え続けるしかなかった。でもこんな危機的状況に置かれているのにも関わらず、なぜか俺は微かな感情の疼きを覚えずにはいられなかったんだ。そしてその疼きは激しさを増す暴行度合いに比例するかの様に、その高ぶりを強めていった。そう、まるで心地良さを覚えて【歓喜】に湧いているかの様にね。
初めからケンカに勝つつもりなんて無かったんだ。俺はただ、痛みに身を委ねたかっただけなんだ。真っ黒に染まった心の歪みから解放されるには、もう暴力による肉体的な苦痛で心を紛らわすしかなかったから。だから俺は無謀にも自分からケンカを仕掛けたんだよね。
俺はどんな表情を浮かべていたのだろうか。顔面を幾度も強打され、腹には数えきれないほどの蹴りが浴びせられた。その痛みと言ったら半端なモンじゃない。でも俺にはなぜかその痛みが嬉しかったんだ。次の瞬間には死んでしまうかもしれない。でもこの痛みを感じている間だけは、生きている事を実感できたから。だから俺はその哀し過ぎるまでの嬉しさに、喜びを感じずにはいられなかったんだよ。
きっと俺は笑っていたんだろう。血反吐をブチ撒いているにも関わらず、それに最も似つかわしくない微笑みの表情を浮かべていたんだろう。だから彼らは俺を気味悪く感じ、暴行の手を緩めたんだ。
「チッ、何なんだよコイツ。気持ち悪りぃからこのへんで止めようぜ」
彼らの中の一人が言う。すると他の二人もそれに同調して暴行を終わらせた。ただ単に殴り疲れただけなのかも知れない。けど少なくとも彼らが俺に対して只ならない嫌悪感を覚えたのは確かな様だった。その証拠に一人が口早に吐き捨てる。
「イカれてるぜコイツ。こんだけ痛めつけられてんのに妙な顔しやがって。ホント胸クソ悪ぃからさ、もう行こうぜ」
そう呟いた彼は、そのまま振り向き歩き出した。そしてそれにもう一人が続く。ただ大通りで最初に俺と接触した青年だけはその場に居残った。そしてその彼は倒れたままの俺にさっと近づく。すると次の瞬間、彼は俺のズボンのポケットから財布を抜き取ったんだ。
「こいつは慰謝料兼授業料ってことで貰っとくぜ」
そう言って彼は俺の財布から紙幣のみを抜き去った。そして空になった財布だけを俺に向けて投げ捨てる。更には唾まで俺の顔面に向けて吐き捨てたんだ。
人間ていう生き物は、これ程まで非道になり切れるものなのだろうか。俺は彼を見てそう思った。でもその時俺が垣間見た彼の目からは、どこか寂しげな印象も受け取ったんだよね。
逃げる様にして裏路地から立ち去って行く彼の後ろ姿を見ながら俺は思う。なぜ彼はあんな目で俺を見たのだろうか。憐れにひれ伏すだけの俺を不憫に感じたとでもいうのだろうか。いや違う。きっと彼は恐れたんだ。弱者の成り果てた姿ってやつをね。
生きている実感や存在価値を確かめる為に、耐え難い苦痛すら受け入れなければならない。辛酸に身を晒さなければ自我を保っていられない。自分自身に向けた怒りに心を焼き続けなければ満たされない。たぶん彼はズタボロになりながら地べたを舐める俺の姿に、そんな【絶望】を抱いたんだろう。それほどまでに俺の傷付いた姿が醜悪なものに感じられたんだろう。だから彼は振り返りもせず、逃げる様に駆けて行ったんだ。
遣り切れないね。まさかあんな不良にまで情けを掛けられるとは思わなかったよ。どうせならいっその事、命を絶ってほしかったのにね。でもこれが改めて現実なんだと実感せずにはいられない。だって彼ほどの非道極まりない不良青年が、俺なんかに哀憐の眼差しをかざしたんだからさ。
人っていう生き物は、たかだか失恋ごときでここまで地に堕ちるものなのだろうか。今更ながらにそう思わずにはいられないよ。いや、自分でも信じられないんだ。これほどまでに君を引きずっている俺自身の心情がね。だってそうだろ。君が俺の人生において全てなんかじゃないんだし、まして俺の将来を君が導いてくれるわけでもない。落ち着いた考えで結論付けるとするならば、君がいなくなったからって、俺の歩む未来にそれほどの支障が生じるはずなんてないんだよ。
でもさ、そう分かっているのにさ、俺は縮こまる事しか出来ないんだ。安っぽい恋愛ドラマみたいに、俺はいつまでも過去の輝いていた君との生活に想いを馳せる事しか出来ないんだよ。
恋は人を強くする。でも恋は人を弱くもするんだろうね。今の俺にはそれが身に染みて理解出来る。俺がかつて陸上大会で活躍出来たのは君の為に全力を尽くしたからであり、また俺が身勝手に君を傷付けたのは、その満ち足りた想いに甘えてしまっただけなんだからさ。
俺はそんな恋ってモンが怖くなってしまったから、もう二度とそれをしないって心に誓ったんだ。もう傷つきたくないから、恋する事を諦めたんだよね。だから俺は君との思い出のメールも写真も処分したんだ。居た堪れない憂鬱な気持ちになりつつも、手元に残った君の全てを抹消したんだよ。でもなんでだろうね。それなのに君と過ごした記憶だけは削除出来ずにいる。いや、それどころか君と付き合っていた頃の思い出は、眩しく輝きを増すばかりなんだ。俺はそんな思い出に身を焼かれながら、苦しみ続けているんだよ。
頬を伝うのは雨粒なのだろうか、それとも涙なのだろうか。俺はビルの壁にもたれ掛るようにして座り直した。街灯も差し込まない裏路地は、俺を飲み込む程に暗く冷たい。まるで俺の心の闇が溢れ出たかの様な、そんな錯覚を覚えるほどにね。ただそんな中で俺はふと空を見上げた。別に何かを感じたからじゃない。ただ上を向きたかったんだ。もう下を向き続ける事に疲れてしまったから。最後くらいは上を向いて終わりにしたかったから。俺にはもう、そんな力しか残っていなかったから――。
見上げた夜空は少しだけ明るかった。厚く空を覆っていた雲はもう、その姿をバラバラにして宙に散乱している。そしてその隙間から半分だけ顔を覗かせていた存在に、俺の意識は注がれたんだ。
俺が見上げた夜空で目にしたもの。それは半分に欠けた状態で光る【月】の存在だった。そしてそれは半身ながらも暗がりの裏路地に淡い光を差し向けている。暗がりに蹲るだけの俺に、か弱い光を浴びせていたんだよ。まるで俺の脆弱な心を照らし出すかの様にね。
俺はふと思い出す。あの夜、秋の陸上競技会の打ち上げ帰りに、君と見上げた満月の事を。あの時見た月の光はこの上なく優しいものだった。肩を寄せ合って歩む俺と君を柔和な雰囲気で包んでくれていた。なにより君を一際綺麗に見せてくれたんだ。でも今夜そこで輝いている月は、その半分でしかない。
月までもが現在を物語っているというのか。月までもが俺を蔑むっていうのか。だってそうだよね。まさに輝いている部分は君を表していて、欠けているのが俺なんだからさ。
まるで半身を抉られたかの様な月を見ながら思う。俺はいつの間にそんな難しい道に迷ってしまったんだろうかって。決してそんなつもりは無かったはずなのに、俺は今を彷徨うばかりで未来に繋がる正しい道を見つけられない。ならば引き返えそうと試みるも、重く鈍る足は立ち止まるばかりなんだ。だったらいっその事、その誤った道から身を投げ捨てたい。何もかもをリセットするかの様に、人生を終了させてしまいたい。そう思わずにはいられないんだよ。だってこの先に通じる道なんて俺には見えやしないんだし、それを探り出そうとする気持ちがそもそも皆無なんだからね。だから俺は自分自身を全否定する事しか考えられなかったんだ。
季節は移り変わっていく。そしてその中で人々は忙しなく歩み続け、また街は変わらずにざわめいていくんだろう。でもそこに俺が居なくても、何も変わりはしない。俺っていう存在が損なわれたとしても、毎日は何も変わらず進んでいくんだ。
俺は何の為に生まれて来たんだろうか。この世界に俺っていう存在が微塵にも必要とされていなく、またその意義さえも不明確なままなのに、どうして俺は生き続けているんだろうか。そう思わずにはいられない。だけどその考え方はいささか責任を放棄し過ぎている表現なのかも知れないね。だって人間なんて本来誰しもそこに存在価値なんて持ち合わせてはいないんだからさ。
ならばどうして人は生き続けるのか。どうやって日々足を前に踏み出しているんだろうか。きっとそれは自らの存在意義を勝ち取る為に、懸命な姿勢で社会の構成要素になって働いているからなんだろう。そしてそこに存在意義を見出し、自分ていう価値を築き上げる事で、明日に向け強く踏み出していく。そんな辛く厳しい世界に身を置いてこそ、人は生きる資格を手に入れられるんだ。心に覚悟を諭した者だけが、明日を夢見る希望を手に入れられるんだよ。
でも俺は社会の歯車にすらなれなかった。いや、歯車になる事すら放棄したんだ。俺は自分に甘かったから。自分が傷つく事に耐えられなかったから。誰しもがそんな苦痛に耐え忍んでいるのに、俺にはそれが受け入れられなかったんだ。責任や覚悟っていう人が背負わなければならない最低限の務めから、逃げる事しかできなかったんだよ。それなのに俺がした事と言えば、身勝手に自分本位な不満を吐き出し、撒き散らしただけだったんだ。傷付けるばかりで、何一つ君の想いに応える事が出来なかったんだよ。
バカとしか言いようがないよね、俺はさ。出せない答えばかりを追い求め、受け入れなければいけない現実から目を逸らし続けている。そこに明日なんて見えるはずもないのに、それを俺は分かり切っていたはずなのに、それでも俺は無意味な自問自答ばかりを繰り返す事しか出来なかった。決して到達しない答えに縋ろうとしていただけなんだよ。だって心を均等に保ち続けるなんて、俺には荷が重すぎたのだから。
希望と絶望のバランスは、いつだって釣り合いなんか取れやしない。いや、それどころかゼロを超えて簡単にマイナスになってしまう。たぶん人はそれを無意識に理解し、頑張って耐え続けて今を生きているんだろう。しかし俺みたいな脆弱男には現実を否定し続けるしかなく、報われない現実を逆恨みしながら世の中を憎む事しか出来ないんだ。幸せそうに今を生きる他者を妬み、僻む事でしか生きて行けないんだよ。そんな惨めで腐りきった人間なんだよ、俺なんてさ。
「バンッ!」
俺は徐に掴んだ財布を真正面に聳え立つビルの壁に向かって叩きつけた。胸の内に溢れ返った怒りをぶち撒けるように、腹いせとして目一杯の力で財布を投げ捨てたんだ。怒りの矛先を見失った俺にはもう、そんな無意味な態度でしか感情を吐き出す事が出来なかったから。
みんなにバカにされていた方が良かった。好成績なんていらなかった。ただ君さえ傍に居てくれれば、それだけで幸せだったんだ。それなのに俺は自分自身に酔いしれるだけで、君を御座なりにしてしまった。君の為にもっと努力していたのなら、未来は輝くばかりのものになっただろうに。でもさ、今更言えないよ。あの時こうしていればなんてね。泣き言を叫べば叫ぶほど、底知れぬ虚しさに溺れるばかりなんだからさ。でもね、それでもね、俺は君の声が聞きたいよ。君の笑顔に癒されたいよ。君の温もりを感じたいよ――。
半分に欠けた月を眺めながら、俺はそこに君を重ね合わせた。震える拳を強く握りながら、君への叶わない望みを切に願ったんだ。そして一度だけ大きく息を吐く。両方の肩に積み上がった自責を振り落すかの様に、力なくうな垂れたんだ。ただその拍子に俺はそこに見る錯覚に気が付いてしまった。目を逸らし続けていた自分の脆弱さに気付いてしまったんだ。恐らく全てを諦めたがゆえに、良い意味で体から強張った何かが抜け出てくれたんだろう。胸の奥に抱き続けていたシコリがポロッと剥がれ落ちた。そんな感じにね。そして弱すぎて誤魔化し続けていた自分自身を無防備に受け入れてしまったんだ。見えない君をずっと追い駆けていた自分を認めてしまったんだよ。でも逆にそれが俺自身の胸の内を軽くし、落ち着かせてくれたんだ。
俺はふと思い返す。そう言えば、不思議にも悪夢は見なかったんだとね。昨夜偶然の再会を果たした君の面影に苛まれ、絶対にうなされるだろうと覚悟していた悪夢。しかしそれはまったく存在を露わにしなかった。いや、むしろ俺は温かい感覚を夢に見ていたんだ。
俺は忘れていた。君が夢に出て来ていた事を。でもそこに居た君は俺の予想とかけ離れたものだったんだ。そう、夢に現れた君は優しく俺に語り掛け、そして柔和な温もりで包み込んでくれていたんだ。昔と変わらない穏やかな笑顔でね。
ろくに話してもいない彼女の話しを鵜呑みにし、大好きだった君を信じる事が出来なかった。それは間違いなく俺が過ちを犯したからに他なく、また俺の心が脆弱過ぎたからなんだろう。そしてさらに付け加えるとするならば、俺と君が別れたのは彼の依頼が原因でもないんだ。だってたぶんあの日に彼女の病室に赴かなかったとしても、彼女との間違いがなかったとしても、同輩達との遊びに夢中になっていた俺は君を御座なりにしていたはずだし、そう遅くないうちに君との関係は終わりを迎えていたはずなんだからさ。それほどまでに俺は身勝手で救いようの無いバカだったんだよ。
それでも君は俺に想いを寄せていてくれた。こんな俺に嫌われたくない。君はそう思っていたから、だから何も言わずに堪え続けていたんだ。そう、あの日言ってくれたように、君にとって俺は必要な存在だったから。
君の中にこそ、俺の存在意義はあったんだ。存在価値はあったんだよ。でもさ、でもだからこそ今更ながらに気付くんだよ。本当に必要としていたのは、俺の方だったんじゃないのかってね。
孤独を分け合える唯一の存在。そう、君となら喜びも悲しみも、孤独さえも分かち合えたはずなんだ。だってそうだよね。グラウンドの休憩所でお互いの胸の内を露わにした俺達なら、お互いの気持ちをより深く理解し合えるはずだったんだからさ。
何もかも気が付くのが遅かったんだ。もっと早くそれに気付いていたならば、それがたとえ昨夜のような偶然の再会だったとしても、君に対して正直に話す事が出来ていたのだろうからね。そして現在の君を快く応援する事が出来ていたはずなんだよね。
君は今を懸命に生きる事で、新しい彼という幸せを掴み取った。それは賛美に値すること。だって俺に裏切られ傷ついた心を、君は癒せていたんだからね。そして俺はそれを嬉しく思わなければいけなかったんだ。君に訪れた幸せを、誰よりも祝福しなければいけない立場なはずだったんだよ。それなのに俺は矮小な僻みで君を嫉んでしまった。君が新しい彼という存在と今を生き始めた、それまでの厳酷な過程など考えもせず、自分の惨めさばかりを呪ってしまったんだ。
でもさ、偶然にも君の成長した姿を見れて、俺は内心で嬉しさを感じていたんだ。すっかりと立ち直り、以前にも増して魅力的に輝く君の姿を見れて安心したんだよ。そして何より、君の変わらない心を感じ取れて救われたんだ。
きっと君は今でも俺に対して、僅かながらも想いを寄せていてくれたんだろうね。だから偶然の再会で居ても立ってもいられず、再度コンビニに足を向けてくれたんだ。でもたぶん君が俺に向けてくれる心情は、昔の様な恋い焦がれる想いとは異なるんだろう。恐らく君は今の自分の姿を俺に見せる事で、俺にも新しい未来に進んでほしい。迷わないで前に踏み出してほしい。そう思ってくれていたはずなんだよね。だから君は夢の中で俺に『許しの言葉』を掛けてくれたんだ。
君が夢の中で俺に告げた言葉が鮮明に甦ってくる。そして俺はその言葉を想い返す度に、なんとも言えない安心感に癒されていったんだよね。
俺を苦しめ続けた君との輝かしい過去の思い出。でも俺が現在をもがきつつも生きていられたのは、逆にその思い出に支えられていたからに他ならないんだ。本当に遅いけどさ、今更になってやっとその気持ちに気付くことが出来たんだよ。
俺は再び夜空を見上げた。半分に欠けた月を見る為にね。そして俺はその月を見て思う。まるで消え去ってしまったかの様に見える月の欠けた部分だけど、でもそれは見えないだけで、そこには存在しているんだと。そしてまたいつの日にか、必ず満月として輝ける日が来るはずなんだとね。
俺はそんな月に自分自身を重ね合わせた。自分にもまた、輝ける未来が来るのだろうかってね。だってあの綺麗な月の光が、俺を希望へと誘う道標になってくれる様な気がしたから。
もしかしたら君もあの月を見ているんじゃないのだろうか。根拠も無くそう思った俺は、ふと視線を元に戻す。するとそこには無造作に転がった財布が落ちていた。そして俺はそんな財布からはみ出した紙切れに目を止めたんだ。
金はすべて抜き取られたため、それが紙幣でないのは明らかだった。でも暗がりの為それが何なのか分からない。ただ妙に気持ちが引き寄せられた俺は、目を凝らしてその紙切れに注視したんだ。そして俺はその紙切れの正体を把握したんだよね。そう、それはファミレスで彼から最後に渡された、東京マラソンの参加チケットだったんだ――。