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第十二話

 彼はすでに冷め切ってしまったコーヒーを口に含むと、それを喉の奥へと一気に流し込む。そして一度だけ大きく息を吐き出した。その姿はまるでレースに挑む直前の心境そのものに映る。いや、俺と彼が囲むテーブル席一帯は、そんな試合での(たかぶ)る緊張感を遥かに凌駕(りょうが)するほどの張り詰めた感覚で覆われていたんだろう。

 俺は生唾を飲み込みながら、彼の口から告げられる話に集中力を高めていく。ううん、自然と彼の話す言葉以外は耳に入らなかったんだ。きっと彼からの話しを聞くことで、思い起こす過去の記憶が脳裏に強く浮かんできたからなんだろう。まるで昨日の事の様に思い出される過ぎ去った日々の記憶。とうに削除されたはずの思い出が、なぜこれほどまで鮮明に思い返されるのだろうか。俺はそれを不思議に感じながらも、しかしその感覚に抵抗しないで身を委ねていったんだ。


 全ての始まりは、あのグラウンドで起きた緊急事態からだった。俺の腕を強く掴んで駆けた君に頼られ、生命の危険に(おちい)った彼女を無我夢中で救助した夕刻のグラウンド。あの出来事があったからこそ、俺と君の関係が始まり、また彼女との繋がりも生まれてしまったんだよね。

 ただ事故当時の記憶として俺が覚えているのは、彼女を救ったのにも関わらず、なぜか職員等の関係者から責められる印象だけだったんだ。決して間違った行為はしていない。ただその時の俺は他人に対して、今と同じく()じ曲がった感情しか(いだ)けなかったんだろうね。他人との接触を(わずら)わしいだけだと思っていた。だから俺はそんな関係者と真面(まとも)に話そうとしなかったんだ。

 でもそれは完全に履き違えた考えだったんだね。関係者達は決して俺を責めていたわけじゃなかった。いや、それどころか高く評価してくれていたらしいんだ。心配蘇生行為なんて、なかなか素人に出来るモンじゃないからね。それに俺の迅速な対応が無ければ、彼女の命は高い確率で失われていた。それも否定しようのない現実として、皆は認識してくれていたんだ。でも関係者達は立場上、事故の起きた背景を明確に把握しなければいけなかったんだよね。だから彼らは事務的に対応せざるを得なかったんだ。

 俺はまだ子供だったから、そんな大人の責務を深読みする事が出来なかった。いや、そもそも周囲の反応を気に掛ける余裕が無かったんだ。だってあの時は彼女の冷たい感覚が手に(まと)わり付いて、気持ちが(すく)んでいたからね。その結果、俺は彼の厚意(こうい)にもまったく気付けなかったんだよ。

 きっと関係者の誰かしらより報告を受けたんだろう。キャプテンだった彼も、夕刻のグラウンドで発生した事故の一部始終を知った。そしてその時の彼は腰を抜かすほどに驚いたらしい。まぁそれは当然な感情なんだろう。だって(はた)から見れば、当時の俺は無口で一人黙々と練習に(はげ)根暗(ねくら)な部員にしか見えなかったはずだからね。そんな俺が適切な対応で突発的な難事を切り抜けた。まったく想像し得ない俺の行為に肝を潰したのは、彼にとってみれば至って真っ当な思いだったんだろうからさ。

 けどそれからというもの、彼は俺の事を強く意識するようになったらしい。いや、見直した。そんな表現が的確なんだろう。彼にしてみたって、そんな緊迫した状況を前にした場合、正しく対処出来たかどうか、分かるはずがないからね。俺の行為がどれだけ至難の業だったのか、彼は理屈抜きで理解したんだ。だから彼は俺の事を意識するようになってしまったんだよ。

 でも俺達はそれまでほとんど接触が無かったからね。彼にしてみても気難(きむずか)しく見えた俺に対して、安易に話し掛け(づら)かったんだろう。胸の内では彼女の命を懸命に救った俺に【敬意】の気持ちを素直に告げたい。そう思ってくれていたのに、彼はそれをなかなか表現する事が出来なかったんだ。

 ただ彼はバカが付くほどに人の良い性格だからね。いつか俺に尊敬の念を伝えねばならない。そんな俺にしてみたらどうでも良い使命感を胸に抱き続けていてくれたんだろう。だから彼は俺に気を留め続けてしまったんだ。

 面倒見の良い彼の性格からして、きっと初めから部の中で疎外されている俺を放っておけなかったんだろう。そしてそこに敬意という概念が彼の中に付け加えられてしまった。恐らくそれが俺を陰で見守る主因として、彼に根付いてしまった動機なのかも知れない。命を救ったことで、本来であれば敬われなければならない俺を陸上部の中で孤立させ続ける事に、彼自身が慙愧に堪えない想いを感じ取ってしまったんだろうからね。

 だから彼は俺と接触する機会を(うかが)っていた。俺を放っておけなかったんだ。いや、それは少しオーバーな言い方なのかな。でも彼が俺と建設的な関係を築こうと努めていた事は確かな事実だったらしい。()しくも同じ1万メートル走という競技に身を費やす者同士という理由もあったろうからね。ただ当時の彼自身の状況として、インカレを控えた大切な時期ということもあり、俺の世話を焼く程の余裕が持てなかったっていうのが実状だったのだろう。そしてさらにその大会で彼は自己ベストを叩き出し、大学の陸上部始まって以来の快挙を成し遂げた。その結果、彼は周囲からの高い評価と次なる期待を一身に背負う立場となってしまったんだ。そんな彼が俺みたいな他人に対して気遣う余裕を持てるはずなんてない。それゆえに彼は俺に敬意を伝えられないまま、忙しく時間を消費していくしかなかったんだ。

 しかし夏が過ぎた頃になって彼は気付いた。見違えるほどに陸上選手として成長した俺の姿に目を見張ったんだ。その理由はもう知っているよね。大好きな君が見守ってくれることで、キツイ夏を無我夢中で駆け抜けたから。これ以上無いほど(つら)く苦しい練習に身を投じていられたから。だから俺は陸上選手として飛躍的に成長出来ていたんだよ。そして彼は俺のそんな直向(ひたむ)きな練習姿勢と、目に見えて短縮する走行タイムに目を丸くしたんだよね。

 俺に一体何が起きたのだろうか。彼がそう疑念を抱く気持ちは分からないではない。黙々と練習する姿勢はそれまでと変わらないまでも、その質の部分が激変していたからね。まったく妥協を許さず、部の誰よりも懸命にグラウンドを駆け抜けている。まだ長距離を走るには暑すぎる季節であるのに、それでも駆ける度に自己ベストを更新していく。どこからそんな力が湧き上がって来るのだろうか。彼は不思議がりながら、そう俺を見ていたんだろう。でもその理由を彼は直ぐに察するんだ。君っていう存在こそが、俺を強く前に駆り立てている原動力なんだってね。


 晩秋の陸上競技会へのエントリー。それは彼がコーチに俺を勧めてくれたのがキッカケだった。俺の(たゆ)まぬ努力が、きっと大会で成果を発揮するであろう。彼はそう確信していたらしい。いや、たぶん彼の事だ。俺が君の為に走るって心に誓っていた事を察してくれていたんだろう。だから彼は俺が君の前で輝けるチャンスの場を与えてくれたんだ。そしてそれは現実のものとなった。ううん、出来過ぎた結果をもたらしてくれたんだ。

 予想外のハプニングがたて続きに起きた異常とも呼べるレースだったけど、でもその中で俺は全力以上の力を出し切り、最高の成績を勝ち取った。それとは逆に負傷による棄権退場を余儀なくされた彼にしてみれば、悔しくて堪らなかったのは当然だろう。けれど彼は自分の身に起きた災難よりも、俺の頑張りを心より嬉しく思ってくれていたんだよね。

 誰にも劣らない努力をしていたとはいえ、俺がそこまでの成績を叩き出すとは彼自身も予想していなかったはず。でも最後まで諦めない俺の姿勢に胸を打たれた彼は、部員達を(あお)って必死にスタンドから応援の声を上げてくれたんだ。そしてその声援に後押しされて俺はゴールに駆け込んだんだよね。スタンドから温かい声を掛けてくれるみんながすごく(まぶ)しかった事は今でも忘れられない。ただ彼にしてみても、勇敢にレースを駆け抜けた俺の事を眩しく感じてくれていたんだ。

 その後、彼は俺を強引に打ち上げへと参加させた。この日を境にして疎遠だった部員達と打ち解けさせたい。そして彼自身も俺との親交を深めたい。それが彼の抱いていた心意なんだろう。だって彼はあの時からずっと、俺に敬意の念を抱き続けてくれていたのだから。

 結果を残すことで、彼の中で俺が陸上選手として一目置かれる存在になったのは事実のはず。でもそれ以前に彼の胸の内には、彼女の命を救ったっていう俺の人間性を敬う気持ちが、ずっと刻み込まれたままだったんだ。だから彼は俺に対して親切過ぎるほどに配慮してくれていたんだよ。そしてなにより、彼は俺と君との交際を心から支持してくれていたんだ。

 俺が頑張れる要因が君という存在なんだって彼はよく理解していたんだろう。それに俺と君との仲睦まじい姿に穏やかな安らぎを覚えてくれる。彼はそんな優しい性格だったからこそ、俺と君の交際を誰よりも応援してくれていたんだ。

 でもその慈悲なる優しさが、彼の心にシコリを残してしまった。些細な善意のつもりが、俺と君の関係を(こじ)れさせる原因になってしまったから。そう、彼はあの日、俺に対して彼女に荷物を届ける依頼をした事を後悔していたんだ。

 いつから察していたんだろう。人づてに聞いたからなのか、それとも洞察力の秀でた彼の性質が気付かせただけなのだろうか。ただ一つだけ断言できるのは、彼は君と彼女の間に潜む(わだかま)りに気付いていたって事なんだよね。

 健康な体でありながらも幅跳びの選手として陽の当たらない君と、持病を抱えながらもアスリートとして活躍する彼女。いつも一緒に練習する二人の姿からは想像出来ない心情でありながらも、彼はその間に隠れる(ゆが)んだ感情を漠然としながらも感じ取っていたんだね。

 ただその中で彼が特に気を掛けていたのが【彼女】の性格についてだったんだ。人当たりの良い彼は、大学入学当初より君や彼女を含む同学年の部員達とそれなりの関係性を築いていた。そして彼はその過程で彼女の特有とも言える性格を把握する。その二面性とも呼べる【性格の起伏】を良く理解していたんだよ。でも彼は彼女がそこまでの行為に及ぶとは考えなかったんだろう。だから彼は些細な善意として、俺に依頼を促してしまっただけなんだよね。

 そんな彼を責めるわけにはいかない。だって全ての始まりは、彼女の【嘘】から生まれたものなんだからさ。


 俺と彼女の馴れ合いは、もう述べた通りの結末を迎えた。彼女を大切にせず、まして深く傷付けてしまった俺の責任に反論の余地なんて一片もない。ただ俺は彼女と過ごした短い期間の中で、一つだけ腑に落ちない疑点を抱き続けていたんだよね。

 その疑点とは何か。ずっと心の中に(くす)ぶり続けていた悶々とした(わだかま)り。でも彼が告げた彼女の性質を改めて思い返す事で、俺はそれを明確に理解出来たんだ。荷物を届けたあの病室で彼女に告げられた俺への想い。その心意を今更になってようやく把握出来たんだよ。

 彼女はずっと以前より俺の事を意識していたと言った。君と付き合うよりも前から俺を慕っていたと告白したんだ。そしてその想いを断ち切る為にと切に願われ、俺は取り返しのつかないキスを彼女と交わしてしまったんだよね。

 その(あやま)った行為自体は俺自身の意気地の無さだったと痛感している。全ては彼女の想いをきっぱりと断り切れなかった俺の弱さだった。それについては受け止めざるを得ない事実なんだからね。でも俺は彼女の想いにどこか釈然としない違和感を覚えていたんだよ。だって言葉では俺への愛情を強く語り掛けるのに、それなのに俺の心は冴えなく彼女の想いを感じ取る事が出来なかったんだから。

 ただあの時の俺にはそれを深く考えるなんて出来るはずがなかった。罪悪感に(さいな)まれて忸怩(じくじ)たる感情に(あふ)れ返っていたからね。自分自身にテンパってて、彼女に(いだ)いた妙な胸騒ぎになんか気を留める余裕が持てなかったんだよ。いや、それどころか俺は彼女の言葉を鵜呑みにし、君に取り返しのつかない暴言を浴びせてしまった。君が俺に寄せてくれる本当の愛情を無残にも踏みにじってしまったんだ。

 そして運命の就職祝賀会の日。俺は介抱する彼女から強引にキスをされ、またその現場を君に目撃された事で全てが終わった。そうなんだ。あのキスが全てを物語っていたんだよ。だってあれは飲み慣れない酒に悪酔いした彼女の【()れ事】だったんだからさ。

 彼が俺に対して正直に告げはじめた彼女特有の資質による危惧の念。それは彼女が嫉妬を主因とした【嘘】を、あたかも本心の様に吐き出してしまうっていう(あざ)とさについてだったんだ。

 正直なところ聞きたくはなかった。あえてそれを知らなければ、俺は現在(いま)をどうにか誤魔化して生きて行けたのだから。でも俺は彼女の心の闇を知ってしまった。そして結果的にそれが原因で君と別れた事も知ってしまったんだ。

 震え出した手が止まらない。キツイ圧迫感を覚えて吐き気が込み上げてくる。どうして彼女はそれほどまでに俺と君の関係を壊そうとしたのだろうか。なぜ彼女は強引なまでに俺を君から奪ったんだろうか。そんな腑に落ちない彼女への疑問が次々と俺の頭に湧いて来る。

 もちろんそんな権利が彼女に許されていたなんてあるわけがない。それに彼女にしてみてもリスクは大きかったはずなんだ。だって親友であった君と絶交する未来を選択しなければならなかったんだからさ。

 俺は強く拳を握りしめながら、込み上がって来る怒りを必死に抑え殺す。奥歯を目一杯の力で噛みしめなければ、憤りに満ちた猛々(たけだけ)しい苛立(いらだ)ちは暴発し兼ねない。それほどまでに俺の感情は憤激に駆られてしまったんだ。

 だけど彼女の内面を聞かされただけで、これほどにまで腹が立つものなのだろうか。彼女の屈折した心意を知らされただけで、ここまで気分を害すものなのだろうか。君との別れに至る本質を理解しただけで、こんなにも怖くて堪らなくなるものなのだろうか――。いや、そうじゃない。本質はもっと別の場所に存在したんだ。そうなんだ、俺はもうずっと前からそれに気付いていたんだよ。

 でもそれを受け止めるのが怖かったから。それを信じたくないが為に、俺は目を()らし続けていたから。だから俺は彼に告げられた今になって、ぶつけどころのない怒りを覚えるとともに、耐え難い怖さに身を(すく)ませてしまったんだよね。

 生まれ持つ病を抱えた彼女だからこそ、卑屈な性格が根付いてしまったのかも知れない。初めは単なる健康な他者を(うらや)む心の(なげ)きだったのだろうけど、でもそれはいつしか彼女の中で被害者意識みたいな間違ったものに変わってしまった。そしてそれが人一倍自意識過剰な彼女という人間性を形成してしまったんだ。だから彼女は自身の抱える(ひが)みや(ねた)みを晴らす為に、その逆恨(さかうら)みとも呼べる心の叫びを【嘘】に変えて表現する様になってしまったんだ。

 彼女は本心から俺に好意を寄せていたわけじゃない。ただ幸せそうに見える親友の君を(うと)ましく思い、その歪曲する感情が下した結論が、嘘として俺に想いを伝えさせただけだったんだ。

 ――悲しいね。親友であったはずの君を(ねた)むがあまり、彼女は嘘をついてまで俺との交際を掴み取った。君の幸せが許せなかったばかりに、それまで大切に(つな)いでいたはずの二人の深い(きずな)を簡単に断ち切ってしまったんだ。

 生死の境を彷徨(さまよ)うほど自分は苦しんでいるのに、どうして親友である君は愛情という温もりに包まれて穏やかに生活していられるのか。きっと彼女はそう思ってしまったんだろう。生きる希望に(すが)りたいのに、自分にはその未来がどこにあるのか分からない。そんな深い苦しみに悩まされ続ける彼女にしてみれば、その(かたわ)らで幸せそうに話をする君に嫉妬するのは必然の感情だったのかも知れないからね。またそんな彼女の辛い想いに同情する余地は十分に存在するはずなんだ。でもそれだけが理由で彼女は俺と君との間を引き裂いたというのだろうか。

 俺は思うんだ。少なくともそこには彼女なりに思い描く恋模様が存在したんじゃないのかってね。だって異性との交際経験が無かった彼女にしてみれば、恋に焦がれる想いは人一倍強かったはずだからさ。病を忘れさせてくれるほどに熱く、疲れた心を柔和に癒してくれる甘い愛情に包まれた生活。彼女はそんな幻影を思い描いていたんだろう。そしてその希望を手に入れる為に、彼女はいつしか俺の事を本気で求める様になっていたんだ。恐らくその時の彼女が俺に向けた想いは本物だったんだろうね。ただその理想が高過ぎたがあまりに、彼女は現実の恋愛に幻滅してしまったんだ。ううん、それを追い求めたが故に、彼女はより俺に求め続けてしまったんだよ。

 でも残念な事に、俺にはその期待に応えるだけの資質が無かった。日増しに強まる彼女からの愛情を理解していたにも関わらず、俺はその気持ちを受け止める事が出来なかったんだよ。だって俺は初めから【それ】に気付いていたんだからさ。だから俺は最後まで彼女に冷たくしてしまったんだよね。

 就職祝賀会の会場で彼女を見た瞬間に、俺は直感として理解していたんだ。理屈なんてどこにもない。俺の心が感じ取ったんだよ。彼女の胸の内に潜む、(ねた)みから生まれた【嘘】っていう暗い影にね。


 彼女は全部を知っていた。俺と君の関係がうまくいっていないって事を。就職活動に行き詰まった俺が、ヒステリックに感情を取り乱したことが君と別れた一番の原因だったんだって理解はしている。でもその一端は間違いなく彼女との(あやま)ちから生まれた罪悪感だったって断言出来るんだ。そしてそれを彼女も分かっていた。俺と君の間に生じた亀裂の訳が、自分にあるんだって彼女は良く理解していたんだよ。

 彼女はどんなつもりであの祝賀会に顔を出したのだろうか。俺と君の仲を取り持つ協力を彼に依頼された時、彼女は何を感じたのだろうか。嫌な考えばかりが俺の脳裏に浮かんでは消える。でも俺にはどうしても確信が持てなかったんだ。初めから彼女が俺と君の仲を引き裂こうとしてたなんてさ。

 いい加減現実を見据えろって怒られるかも知れないね。それでも俺には彼女が初めから悪意を込めて祝賀会に来たとは思えないんだ。だって祝賀会会場で彼女が俺に多くを語ったのは【君の良い所】についてばかりだったんだからさ。

 今になって思い出す。そうなんだ、あの時の彼女は君の魅力を全面的に俺に告げ、その大切さを改めて知らしめようとしてくれていたはずなんだ。キャプテンだった彼の依頼に快く従い、仲違(なかたが)いした俺と君をもう一度引き合わせようと努力している。そんなふうに俺の目には映ったはずなんだよ。そして俺はそんな彼女の態度に嬉しさを感じていたはずなんだ。

 俺の心情は矛盾しているだろうか。確かに会場で彼女の姿を一目した時、鳥肌が立つほどの違和感を覚えて息苦しくなった。それは彼女の心を(むしば)む嘘が垣間見えてしまったからに他ならない。でもそれから彼女が体調を崩すまでのそれなりの時間、ずっと彼女は君のことを()めていたんだ。掛け替えのない親友として、君の事を心から(した)い、(うやま)っていたんだよ。

 それなのに彼女は君を裏切ってしまった。その理由を判然と答えられる者はいないだろう。恐らく彼女自身ですら、明確にあの時の気持ちを捕えられていないだろうからね。ただ俺が察するに、彼女は酒に呑まれて気分を害してしまった事を、持病による命の危険だと誤認してしまったんじゃないのか。そしてそれが原因で湧き上がった恐怖心に苛まれ、救いを求める様にして俺に(すが)ってしまったんじゃないのか。俺はそう思わずにはいられないんだ。いや、そんな彼女の弱さを感じ取ってしまったからこそ、俺は彼女を受け入れてしまったんだよ。

 酒に酔った勢いで迫ったキスなんかじゃない。もちろん君への当て付けに見せしめようとしたわけでもない。ただ彼女は身近に感じる死という恐怖心から逃れたい為に、俺という温もりを必要としたんだ。

 悔しくて仕方がない。どうして俺は彼女の気持ちを少しでも理解しようとしなかったのか。もしあの時彼女の弱さを感じ取れていたならば、俺にはその寂しさを和らげる努力が出来たはずなんだ。もちろん【君】と一緒にね。でもそれを今更(なげ)いたところで何も変わりはしない。だから余計に腹が立つんだよ、自分自身に向けてさ。

 この怒りはどこにぶつければいいのだろうか。残酷に課せられただけの運命を呪うしかないのだろうか。俺の頭には言い訳がましい後ろめたさだけが無限に浮かび上がって来る。だって君がもう少し早く会場に駆け付けていたならば、その後の未来は大きく変わっていたのだろうから。もしそうだったとしたならば、きっと彼女の事も君と二人で支えてあげられたはずなんだから。

 しかし現実にはそうならなかった。俺の中にはいつまでも君が居て、そして彼女の嘘にも気付いていたから、だから俺は付き合い始めたのにも関わらず、彼女に対して戸惑いを覚え、またその心意を問い(ただ)す事が出来なかったんだよ。だから最後まで俺は彼女に心を開けず、大切にしてあげる事が出来なかったんだ――。


 彼女は今、アメリカに行っているそうだ。なんでも彼女が抱える持病の専門医が見つかったらしい。たぶん彼女の事だから、遠い異国の地でも変わらずに饒舌なお喋りでもしているんだろう。そんな彼女に俺が抱く想いは、いつの日か丈夫な体を手に入れて日本に帰って来てほしい。そう願う気持ちだけなんだよね。

 俺と君の別れる原因が彼女にあったのは事実なんだろう。でも俺は彼女を恨む気にはなれないし、まして怒りなんて吐き出せるはずもないんだ。だって俺が彼女に刻んだ心の傷のほうが、よっぽど痛ましいものだったはずだからね。

 俺には彼女の行く末が明るいものであれと願うことしか出来ない。でもその想いは俺の気持ちを幾分和らげさせてくれるんだ。彼女の呪縛からは解放された。そう自分自身に折り合いをつける事が出来たから。それはきっと彼女の心の暗闇を正確に理解したことで、俺自身が抱える同意義なそれを都合良く(かす)ませられたからなんだろう。だけど彼から告げ続けられる話に、俺の胸の内は一向に明るい(きざ)しを感じ取る事が出来なかった。なぜならそこには俺の知らなかった、君の想いが多大に込められていたからね。

 彼は短く続けた。君への想いに俺がどうケジメを付けるのか。その答えは自分自身でしか決められない。彼はそれを俺に理解してもらうために、最後の話しを切り出したんだ。


 恐らく彼はこの話をする為だけに、俺との繋がりを保っていたのではないか。そう思わずにはいられない。それほどまでに彼は覚悟を決めた眼差しを俺に差し向けていたからね。でもその目の奥には優しさが感じられる。厳しい中にも俺に前を向いてほしいって言う強い励ましの気持ちが伝わって来るんだ。でも俺にはそんな彼の気概を受け止める余裕なんて持ち合わせてはいなかった。だってあの時、君がそんな想いを抱いて大学に来ていたなんて、想像すらしていなかったからね。

 彼は頭を下げながら言った。彼女の偏屈した性格を知っていたにも関わらず、その配慮に欠けた依頼を俺に告げてしまって申し訳なかったと。それさえなければ俺と君の関係は壊れなかったはずなんだと、悔しさを噛みしめつつ深く頭を下げ続けたんだ。そして彼は正直に白状し始める。ううん、彼は俺の知らなかった【過去(げんじつ)】を話し始めたんだ。

 彼は病室で俺と彼女の間に起きた(あやま)ちを知っていた。それについて俺が驚いたのは言うまでもない。誰にも告げる事のない秘密の行為だったはずだからね。でも俺が驚きを見せたのは、単に彼がそれを知っていたって事じゃなかったんだ。そう、彼はあの過ちを、大学に居る頃にはもうすでに知っていたんだよ。それもまだ俺と君が別れを迎える前にね。

 どうやって彼はそれを知り得たのか。気にはなるけど、でも今更俺はそれを詮索するつもりはない。休学からの復活で学年が変わってしまったけど、彼と彼女は同じ学部だったからね。頻繁(ひんぱん)とは言わないまでも、それなりに顔を会わせる機会には恵まれていたんだろうから。

 むしろ俺の方がバツが悪くなってしまった。そんな事実を聞いてしまったならば、きっと彼は俺を軽蔑したんだろうって思えてしまったからね。けど実際にはそんな事はなかった。いや、俺の考えとは真逆の対応を彼はしてくれていたんだよ。

 彼は本心から俺と君との仲を快く応援してくれていたんだね。だから俺が彼女との間違いに苦悩するって察してくれていたんだ。そしてその苦悶が原因として、俺と君の関係が悪化する事を危惧してくれていたんだよ。

 だけど上手く進まない就職活動に心折れた俺は、そんな自分自身の不甲斐ない心情を隠したいが為だけに、暴言を吐き捨てて君を絶望の淵に突き落としてしまった。生涯を共に過ごしたいと切に願った君との関係を、自分から投げ捨ててしまったんだ。

 彼は言う。それでも君が懸命に俺を想い続けていてくれたんだと。俺からの『ごめん』ていう一言と、『もう一度やり直そう』っていう誠意ある言葉を待ち続けていてくれたんだとね。

 あれ程の苦痛に(しいた)げられ、君の方こそ辛く苦心する日々を送っていたんだろうに。でも君は大学に顔を出し続けていた。その心情に何を思い描いていたんだろうか。君の気持ちが知りたくてたまらない。そして彼が俺に教えてくれたのは、まさにその胸懐についてだったんだ。

 君は偶然でもいいから俺と会いたい。どんな形でもいいから俺ともう一度向き合い、ちゃんと話がしたい。君はそう思ってくれていたんだ。言葉では表せないほどの寂しさや怖さ、そして(むな)しさを(いだ)き、それに押し潰されそうになっていたはずなのに、だけど君は俺を想う気持ちだけに(すが)り、それだけを支えにして大学に来ていた。一途(いちず)に俺を想い続けることで、(にぶ)る足を必死に前へと踏み出していたんだ。

 そうやって君は無理に気持ちを奮い立たせ、その壊れそうになる心の傷を()()ぎだらけに埋め合わせていたんだろう。でも君がそこまで懸命に俺を想い、頑張れた根源って何だったのだろうか。それは彼の口から聞くまでもない。だって俺はそれを良く理解していたんだから。そうなんだ。君が心から俺を【必要】としてくれているんだって、初めから知っていたはずなんだ。君がどれほど俺の事を愛してくれていたのか、それを十分感じ取っていたはずなんだ。

 申し訳ないって言葉なんかじゃ全然足りないよね。それに悔やまれるのは、俺はその時の君の姿を一度も見ていないって事なんだ。君がどれだけ思い詰めていたのか、俺にはそれが分からない。だから余計に苦しくなってしまうんだよ。君の不憫な姿を想像してしまうからね。

 そしてそんな俺の想像が、さほど間違ってはいないんだって痛感してしまう。だって彼は君の当時の姿を良く知っていたのだから。

 彼は懸命にもがく君の姿に胸を締め付けられた。見ていられないほどに居た堪れない君の姿に、彼は見て見ぬ振りなんて出来なかったんだ。だから彼は就職祝賀会っていう理由をこじ付けて、俺と君の仲を修復させようと試みたんだね。

 それ程にまで気配りの出来る彼の事だ。祝賀会の開催を呼び掛ける際、彼女に対しても忠告してくれていたんだね。俺と君は幸せになるべきなんだと。だからこれ以上俺や君に干渉するなって言ってくれていたんだ。

 俺はバカだ。君や彼、そして彼女さえもが俺を気遣ってくれていたっていうのに、でも俺はその事に何一つ気付く事が出来なかった。いや、それどころか当時の俺は同輩達と夜な夜な遊び呆け、君の想いから逃げていたんだよ。不甲斐ない自分が恥ずかしいばかりにね。そして更に俺が救われないのは、君からの連絡を期待していたって事なんだよね。

 一方的に悪かったのは俺の方なのに、裏切ってしまった俺が謝らなければいけないのに、それなのに俺は君の方から声を掛けてくれるよう望んでいた。俺の方から向き合わなければいけないのに、君はいつまでもそれを待ってくれていたのに、俺は問題を先送りするばかりでその怖さから逃げてしまったんだよ。まったくもって救いようが無いのは、俺のバカげた心の脆弱さだけだったんだよね。

 俺は後悔っていう自責に(さいな)まれるしかかなった。もう死んだ方がマシだ。そう思ってしまうくらいにね。もし誰かに殴られでもしたならば、(わず)かながらも心の痛みを誤魔化すことが出来るのだろうか。それが本当であるならば、俺は甘んじてその苦痛に身を投じよう。そう本気で思うほどに、俺は自分の脆弱さに嫌気がさしてしまったんだ。心底から軟弱過ぎる自分自身に呆れ返ってしまったんだよ。


 いつの間に置かれたのだろうか。気が付けば俺は彼が差し出した1枚のチケットに視線を向けていた。まるで抜け殻の様に意識が喪失していた俺は、それが何であるのか把握するのに異常なほど時間を要する。ただ彼は俺が落ち着きを取り戻すまで無言で待ち続けていてくれた。

「東京……マラソン?」

 覚束(おぼつか)ない言葉で俺はチケットに書かれたその文字を小さく(つぶや)く。すると彼は軽く微笑みながら、その経緯を優しい口調で俺に話した。

「せっかく当選したんだけどさ、急な海外出向で参加出来なくなっちまったんだ。でも捨てちまうのはもったいないだろ、プレミア物なんだしさ。一応会社の奴にも声掛けたんだけど、みんなマラソンに興味なくてね。だからお前さ、良かったらこいつに参加してみないか? まぁ、無理()いはしないけどよ……」

 唐突に告げられた彼からの提案とも呼べる問い掛けに、俺は何も答えられなかった。ううん、彼が俺に何を告げたのか、その意味を理解出来なかったんだ。もう何もかもが嫌になってしまった。もう生きる事に疲れ果ててしまった。きっとそんな感じだったんだろうからね――。

 彼と最後に何を話したのか。それすらも覚えていない。俺の為に彼は貴重な時間を設けてくれたっていうのに、結局のところ最後まで俺は自分の事で目一杯だったんだ。

 急速に天候は回復に向かっているんだろうか。ファミレスを後にしてバイトに向かう道すがら、雨はもうほとんど降ってはいなかった。風はまだ強いままだけど、傘をさして歩いている人は誰もいない。ただそんな中で俺は一人傘をさし続けた。恐らくすれ違う人々に顔を見られたくなかったんだろう。まるで生き恥を(さら)しているかの様に考え込んでしまったから。

 そしてコンビニに着いてからも、俺の気持ちの整理は着かなかった。いつもと変わらずに冗談を告げる高校生バイトの彼にも、人当たりの良い店長からの呼び掛けにも、何一つ反応することが出来なかったんだ。

 俺っていう存在価値はどこに有るのだろうか。俺の存在意義って何なのだろうか。決して見つける事の出来ない自問自答ばかりが脳裏に溢れ返ってゆく。

 もうダメだ。生きる事に何の意味も見つけられない――。俺は全てを投げ出してしまいたいと強く願った。何もかもを諦めたいと心の中で大きく叫んだ。でもその時だった。

「あの……」

 不意に掛けられた女性からの呼び掛けに俺はハッとする。いや、現実を受け入れる事が出来なかったんだ。だってその時俺に声を掛けたのが、見紛(みまが)うはずのない【君】だったのだから――。

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