第十一話
震えそうになる手を必死に隠す。グッと奥歯を噛みしめなければ、それは音を立てて暴れ出し兼ねない。それほどまでに俺の精神状態は混迷を極めていたんだろうね。なにせ君を目の前にした俺は、気を抜けば意識を失ってしまいそうなほどに呆然自失だったのだから。
社会人になった君は少し大人びていた。その事にも俺は胸を摘まれる思いがしたんだろう。だって言葉を交わすほどの距離に近づくまで、俺はまったく君だという事に気付かなかったほどなんだからさ。
どちらかと言えば童顔だった君。大学の頃はその容姿の幼さに、よく高校生に間違われたくらいだしね。でも今夜の俺にはそんな君の姿がとても大人っぽく、そして凛々しく見えたんだ。髪型が変わっていたからなのだろうか。いや、そんな外見の変化は理由じゃない。社会人になって逞しく成長した姿。そんな感じに見えてしまったからなのだろう。目が眩むほどに素敵さを醸し出し、そしてさらに大人の女性としての魅力にも溢れている。レジ脇に茫然と佇むだけの俺には、少なくともそうとしか君を捉えることが出来なかったんだ。
社会のしがらみから早々にリタイヤし学生時代とさほど変わらないバイト生活に逃げ込んだ俺と、社会人としての責任を背負い懸命に今を生きる君。その乖離し過ぎた生き様に、俺は羞恥心と同義な気まずさを覚えずにはいられなかったんだ。だから意識が飛んでしまうほどに、目の前の君が眩しくて仕方なかったんだよ。
現状に戸惑うばかりの俺は即座に君から視線を逸らす。しかし固まってしまった体は言う事を聞いてはくれない。あれほど会いたかったはずの君がすぐそこに居るっていうのに、動悸の激しさに尋常でないほどの息苦しさを覚えてどうにもならないんだ。
このままでは失神して仕舞い兼ねない。いや、それよりも大声で叫び発狂してしまいそうだ。でもどうして君がここに居るんだろうか。なぜ今になって俺の前に姿を現したのだろうか。自分自身に向けられた後ろめたさを無理やり隠す為に、君が突然俺の前に現れた事を呪う様に疑問視する。それが完全な偶然の結果なんだと分かり切っているはずなのに、でも君が来店した事実が悪いのだと、俺は歪曲した責任を君に押し付けようとしていたんだ。
フリーターっていう燻ぶった姿を見られる事に耐えられなかったからなのだろうか。真っ当な社会生活を送る君の姿と比較をするならば、それはある意味正当な心情なのだろうからね。単純に自分の惨めさを痛感し、忸怩たる苦い思いに苛まれただけなんだろう。
けど俺が自分自身をこれ以上ないほど矮小に感じたのは、それだけが理由じゃなかったんだ。だって君が俺に差し向けた笑顔が、昔と何一つ変わっていなかったのだから。
目を背けずにはいられないほど眩し過ぎる君の笑顔。それによって俺は居た堪れない想いで胸がきつく締め付けられたんだ。まるで俺の脆弱な心を見透かされているような気がしてね。でもどうして君はそうまで無垢に微笑みを浮かべていられるのか。俺はそう考えられずにはいられない。だってそうだろ。君に対してあれ程までの残酷な仕打ちをしてしまった俺なんだ。恨まれたり憎まれたりするならともかく、笑顔を向けられる理由なんてまったく思い浮かばないんだからね。でも現実として君は俺に向かって笑顔をかざしてくれている。
もしかして大学を卒業したにも関わらず、アルバイト稼業に身を費やす俺の姿を嘲笑っているのだろうか。それとも社会の底辺をもがく姿に同情でもしているのだろうか。いや、それは考えられない。だって君の笑顔には一片の曇りも無く、俺との偶然の再会を心から喜んでいるふうにしか見えないんだからさ。
くそっ。なんだって言うんだよ。どうして君はそんな表情でいられるんだ。冷静な状況判断なんて出来るわけがない。もちろん現状を切り抜ける答えなんて導き出せるはずもない。それでも何か君に向けて言葉を発せられたならば、もう少し俺の気持ちは落ち着いたのかも知れないね。でもその状況で初めに口を開いたのは俺じゃなかった。そして君でもなかったんだ。
「これもついでに頼むよ」
不意に現れた第三者という存在。歳は三十歳前後といったところか。大柄でガッチリとした体つきはいかにも健康そうに見え、学生時代にラグビーでもやっていたんじゃないかって想像するほどに逞しい。そして顔つきはイケメンと言うよりは男くさいと言った方がしっくりくるだろう。動物に例えるならば間違いなく【熊】と呼べる。でもそれは決して悪い表現ではない。同性の俺から見ても、どこか好感が持てる印象を得たほどだからね。無骨なれど穏やかな雰囲気が伝わって来る。恐らくその人柄も皆に慕われるものなんだろう。君にしてみれば頼れる上司。そんなところか。
その【彼】は君がレジ台に置いた買い物カゴに、手にしていた野菜ジュースを無造作に投げ入れた。君の買い物と一緒に会計することを目的としてね。ただそれに対して君は一瞬だけど気まずい面持ちを浮かべたんだ。俺にはそれが少しだけ胸につかえた。なんとなく違和感を覚えたんだよね。
混迷を極めていたはずの脳ミソが急速に回転を始める。理由は判然としないまでも、突如として冷え込んだ胸の内がオーバーヒート寸前の精神状態を強制的に落ちつかせたのだろう。そしてそんな俺の耳に届いたのは『乱暴に扱わないでよ。中身が出ちゃったらどうするのよ』っていう、君が彼に向けて返した親しみのある言葉使いだったんだ。
そのやり取りを見た俺は瞬時に察した。直感として確信したんだよ。彼は君の単なる先輩社員なんかじゃない。もっと親密な関係を築いている存在なんだってね。
胸の鼓動がさらに激しく高鳴っていく。目の前にいる君や彼に聞こえてしまうんじゃないのか。そう思えるほどに俺の心臓は大きく波打っていたんだ。
ちくしょう。このままじゃジリ貧になるだけじゃないか。意図せず君との再会を果たしてしまった。それだけでも一大事だっていうのに、その傍らには俺の【知らない彼】がいる。そして僅かにも冷静な判断力を取り戻してしまったばかりに、俺は余計な窮地に追い込まれる羽目になってしまったんだ。どうすればいい。どうすれば目の前の深刻な問題に対処することが出来るんだって具合にね。
この時は本当に困ったんだよ。だって君の息遣いはおろか、彼の瞬きまでもが正確に捉えられたのに、その反面俺は自分の体に通うはずの神経伝達については、まったくの制御不能状態に陥っていたんだからさ。指一本すら満足に動かすことが出来ない。頭はこれ以上無いほどに冴え渡り状況判断に優れているっていうのに、その対処のための行動が何一つ出来ないんだ。すると案の定、棒立ちのままの俺を見兼ねたんだろうね。彼が少しだけ怪訝な表情で俺に一言告げたんだ。『後ろにもお客さん並んでるし、早くお会計頼むよ』ってさ。
複雑な心情だった。いや、俺の捩じ曲がった影の部分が彼のその言葉を受けて一気に膨れ上がった。そんな感じだったんだろう。何がお会計頼むよだ。余裕ブッこいてんじゃねーよ。元彼の俺に今の君との幸せを見せつける事がそんなにも楽しいのか。優しそうな顔してるくせに、随分と腹黒いじゃねぇか――。表面には出さないまでも、俺の心はそんな歪んだ僻みでドス黒く塗り潰されていったんだ。
でも再び冷静さを失った事が功を奏す結果を招く。日頃からバイトを真面目に取り組んでいた成果なのだろう。彼を妬ましく思いながらも、体だけは粛々とレジ作業を始めたんだよね。君に注文されたチキンを紙袋に詰め、そして商品全てをレジ袋に納めていく。自分でも驚いたんだけどさ、会計時に金額を告げた俺の声に震えなんてまったく感じられなかった。いつもと何も変わらない俺がそこにいたんだよ。体に染みついた作業っていうのは恐ろしいモンだね。
ただ真っ赤に逆上せる俺の表情だけは隠し通せなかった。耳を強く摘まれているんじゃないかって錯覚してしまうくらいの火照りを頭部全体で感じていたからね。サンタの衣装を着てレジ作業を行っている姿に照れを覚えている。せめて君だけにはそういったふうに見てほしかった。俺の脆弱な本心を見透かす君だからこそ、あえてそう強がりを吐き捨てたかったんだ。
でもやっぱりダメだったんだよね。お釣りを受け取った君は、それまで以上の輝きを醸し出した笑顔で俺に応えたんだからさ。『ありがとう』ってね。
全てを見透かされている。俺はそう感じた。そうとしか考えられなかった。意識が過敏になり過ぎていたのかも知れない。でも俺は無防備にも君の笑顔を真正面から受け止めてしまったんだ。いや、それを受け流せるだけの抵抗力が備わっていなかったんだよ。だから俺はこれ以上無いほどに惨めで卑しい気持ちに苛まれてしまったんだ。
こんな姿、君だけには見られたくなかった。込み上げてくる苦々しさに胸が押し潰されそうになる。陽の当たる場所で正々堂々と今を生きる君と、地ベタを這いつくばりながら生き甲斐も無くその日を暮す俺。そんな二人の生き様を比較すれば、どちらが望ましいものなのかはあえて口にするまでもない。そして痛いほどにそれが覆しようのない現在の姿なんだって事が理解出来る。ううん、それを必要以上に理解してしまったからこそ、俺は自分の不甲斐なさに思い返しては身悶えするばかりだったんだ。
どう言い訳を取り繕ったところで、君を欺くことは出来ない。だって君はバイト姿の俺を目の当たりにすることで、皮肉なまでの現実を把握しただろうからね。そして恐らく君は、俺の心に潜む暗い影までも見透かしてしまったんだろう。俺が彼に向けた哀れな僻み根性と、大人の女性へと成長した君を見つめる気恥ずかしさ。それを十分に察したからこそ、君は無垢な笑顔で微笑んでいられたんだ。
俺を不憫に思う感情が滲み出た笑顔なんだろう。そう思わずにはいられない。いや、そう自分自身に暗示を掛けなければ、とても平静を装ってなんかいられやしないんだ。だって君が俺に差し向けた笑顔は、彼に向けたそれとは明らかに毛色が異なるものだったんだから――。
「君の綺麗さに緊張でもしたのかな」
去り際に彼が君へ放ったその一言が耳に付く。悔しかった。腹が立った。でもどうする事も出来なかった。だって仕方ないだろ。どう足掻いたって君との距離は埋め合わせられやしないんだし、まして君との関係を修復するなんて望んですらいけない事なんだからさ。
夜が明けるのがひどく長く感じた。とっとと家に帰って布団の中に逃げ込みたい。そう願えば願うほどに、時間の経過は俺にとって苦痛にへと変化していくばかりだった。
ぼやけていたはずの君の笑顔が、今では脳裏に明瞭な形でくっきりと映し出されている。そしてそれは消える事を許してはくれない。これこそが君を苦しめた俺への本当の報いなのだろうか。そう感じるほどに君の残像が俺の心をきつく締め上げていく。――でももう勘弁してくれないだろうか。もう十分罪は償ったのではないだろうか。耐え難い苦しみにもがく俺は、ついに我慢の限界を超えてしまった。俺はそれまで堪えてきた弱音を心の中で吐き捨ててしまったんだ。
君は新しい彼という存在と今を生きている。それは明るい未来に繋がるとても素敵なものなのだろう。それと引き換えなどと言ったら語弊があるかもしれない。けどここまで来たのなら俺を許してはくれないだろうか。暗がりに繋がれた足枷を外してはくれないだろうか。君に迷惑を掛けるつもりはさらさらない。だからどうか、俺にも心の安らぎを望む権利を認めてはくれないだろうか。俺は初めて本心から切にそう嘆いてしまったんだよ。
朝が来るのと共にバイトを終えた俺は、冷たい雨が降りしきる中、逃げる様にして急ぎ帰宅した。そして分厚く雲掛かった空を、か弱く白焼けさせる朝の明りがカーテンの隙間より差し込む部屋で、布団にくるまりながら願ったんだ。もう耐えられない。こんな生活から解放されたい。いっその事、誰か俺を楽にさせてくれないか――ってね。
目から無数の水滴が流れ落ちるのが分かる。でもそんな事に構ってなんかいられない。俺は僅かでもいいから自分自身の抱く希望に縋りたかったんだ。しかし俺の頭の中は消極的かつ否定的な考えで苛まれていった。きっと今日は悪夢にうなされるのだろう。それも今まで見たどの悪夢よりもキツイ悪夢によってだろうってね。
眠りたくない。いや、眠れない。悶々とした冴えない蟠りを抱きながら、俺は小さく身を竦めている事しか出来なかった。
シーツを冷たい涙でいっぱいに湿らせながら、震える手でそれを強く握りしめている。その姿をもし他人が見たとするならば、それは疲れ果てたがゆえに、土に埋もれただけの醜いモグラの姿に重なって映ったかも知れない。それほどまでに俺は光を拒絶し、暗闇に留まろうと蹲っていたのだからね――。
『ブーン、ブーン』
携帯のバイブレーションによる振動で目を覚ます。どうやら俺はいつの間にか眠っていたらしい。重く感じる体を起こし、少し離れたテーブルの上に置いた携帯に手を伸ばす。ただ腕に感じる怠さ加減は異常とも言えるほどに重苦しい。やはり君と再会した昨日の印象が、俺の体に対して過度に影響を及ぼしたんだろう。でも俺は携帯に映し出された着信相手の表示を見てハッとしたんだよね。
俺は簡単な勘違いをしていた。いつも携帯を目覚まし代わりに使用していたことから、もうバイトに行かなければいけない時間なのかと思ったんだ。生憎の雨模様のため、陽が陰っていたのも災いしたんだろう。でも窓の外から差し込む明りは昼間のものに違いない。横殴りの雨が激しく窓ガラスを叩く姦しい音を耳にしながら、俺は携帯の通話ボタンを押した。
「よう、久しぶりだな。相変わらず根暗に生きてんのか?」
電話の向こうからよく知った男気のある声がこだましてくる。まったく、こんな時間になんだっていうんだ。眠い目を擦りながら俺は座椅子に腰掛け直す。寝起きのせいで頭が上手く働かない。それもあってか俺はなかなか電話相手に受け答えする事が出来ずにいた。ただ電話の相手は俺のそんな状態をまるで見ているかの様に想像していたんだろう。その証拠に電話の向こうからは大きな高笑いが聞こえて来る。
冗談じゃないぜ。昨日あんな事があったばかりだっていうのに、こんな時に限ってこいつから連絡があるなんて、まったく何の因果なのか理解に苦しむよ。
俺は大きく溜息を溢す。面倒臭いと感じたんだろうね。それでも相手に対して拒絶感を抱いたかと問われれば、それは違うと言わざるを得ないだろう。だって電話の主は俺にとって唯一の【友人】と呼べる存在だったのだからね。そう、電話の向こうにいるのは、学生時代に陸上部のキャプテンを務めていた彼だったんだ。
腐れ縁と呼ぶには差し出がましい。俺なんかと違い、彼は真っ当な社会人として活躍する存在なのだからね。ただどういうわけか、彼は大学を卒業した後もしばしば俺と連絡を取り合い、付き合いを続けてくれていたんだ。
でもどうして彼が俺を見捨てずに未だに構ってくれているのか。面倒見の良い彼の性格が、荒んだ生活を営む俺を放っておけなかった。そんな一面があるのかも知れない。けどそれだけが理由だなんて、俺には到底納得出来やしなかった。
一流企業に就職した彼は、連日の激務による多忙さゆえ時間的余裕なんてなかったはずなんだ。それなのに彼は時折俺に連絡をくれ、他愛のない時間を共有してくれていた。俺なんかの為に時間を浪費する筋合いなんて、これっぽっちも無いはずのなにね。
ただその事に俺がどれだけ救われていたかは計り知れない。恥ずかし過ぎて直接言えやしないけど、でも本当に感謝しているんだよね、彼にはさ。燻ぶり続けながらもどうにか俺が生きていられたのは、少なからず彼の優しさに支えられていたからなんだし、その好意に救われていたのは確かなんだよ。だから俺は睡眠を遮断された憤りにも増して、どこか気持ちが落ち着く感じに浸っていたんだよね。
俺の意識は完全に目を覚ます。時計を確認すれば午後3時を少し回ったところだ。バイトは6時からだから、本音を言えばもう少し眠っていたい。でも彼からの急な呼び出しに、俺は対応せざるを得ない理由を察する。そして急ぎ支度を整え、俺は家を飛び出したんだった。
(こんな大荒れの天気の中、人を外に呼び出すなんて正気じゃないぜ……)
胸の内でそう苦言を吐くも、俺は彼に指示されたファミレスへと足を進める。横殴りの雨に傘なんて役に立ちはしない。どうにか吹き飛ばされないよう支えているのがやっとと言った感じだ。それでも俺が懸命に歩み続けた理由。それは今日を境にして、しばらく彼と会えなくなる。それが俺を懸命にも駆り立てる事情だったんだ。
彼はもう随分と先にファミレスに来ていたのだろう。その証拠に彼の前には平らげた後のステーキ皿だけが残っていた。俺を待ち侘びて腹が減ったのかも知れない。ただ彼は満足げな笑みを浮かべて俺に腰掛けるよう告げたんだ。それが腹を一杯にさせた至福感から来るものなのか、久しぶりに俺の顔を拝めたからなのかは分からないけどね。
俺はびしょ濡れになったズボンを気に掛けながらも彼の正面の席に座った。ひどく水を含んだ冷たいズボンが煩わしい。でもそんな嫌悪感はすぐに影を潜めた。それは数ヶ月ぶりに会った彼の表情の変化に気を取られたからだ。
彼の顔つきは明らかに痩せ細っている。相変わらず眼光に力強さは見受けられるけど、でも学生時代の意気揚々とした表情から比べれば、それは間違いなく衰えを感じてならない。恐らく仕事に追われる過酷な日々を送っている現れなのだろう。弛みきった生活をする俺とはえらい違い様だ。
「特に最近は忙しくってな。まともに食事したのは久しぶりだよ。やっぱ菓子パンとかカップラーメンばかりで凌ぐのは良くないよな」
「まだ二十代だからって、いい加減な食生活してるとブッ倒れるぞ」
「ハハッ。それはお前にだけは言われたくないセリフだな」
彼と会う時は決まってこんな感じの始まり方だ。やはり話し始めてみると、いつもの彼なのだという事を認識出来る。俺に変な気を遣わせないよう、あえて自虐的な話題から自然に話しを膨らましていく。それを彼が意図して行っているのかどうかは分からない。けど少なからず俺にとってはそれが一番嬉しかったんだ。
どうしても後ろ向きになりがちな俺の性格からして、出だしを間違えるとたとえそれが気心知れた仲だとしても上手く話せなくなってしまう。それを彼が承知していたかは定かではない。けど彼は始めに自分のダメな部分を正直に曝け出し、しかもそれも笑い話しに置き換えながら俺の心を掴んでいく。そんな彼の優しさに俺の心は柔和に癒され、嬉しさを感じたんだよね。
それから少しの間、俺達は互いの近況を話し合いながら談笑を続けた。まぁ変わり映えの無い暮らしをしている俺にしてみれば、あえて彼に告げるほどの出来事はないのだけどね。どちらかといえば彼の仕事でのエピソードばかりを聞き続けている。そんなところなのだろう。それでも俺にしてみれば有意義な時間だった。
彼の話し方にもよるのだろうが、その内容は聞いていて飽きる事が無い。若いなりにも彼は相当に仕事の出来る男なのだろう。俺にとってそれは確信するに揺らぎはない。でも彼の話しにはそれを鼻に掛ける素振りは微塵にも感じられず、むしろユーモラスに聞こえる話に俺は引き込まれていったんだ。
その頃になると濡れていたズボンもだいぶ乾いたため、不愉快さはさほど気にならなくなっていた。でも彼が近況で起きたとある仕事の話しをし終えた時、俺の表情は一変したんだ。そう、それこそが今日、彼が俺をここに呼び寄せた本題だったんだよね。
悪戦苦闘しながらも困難を乗り越えた彼は、まだ会社内では若輩ながらも大きな実績を残すことに成功する。彼の不屈な頑張りが成果を収めた当然の結果なのだろう。しかしその実績によって、彼は社内における一つのプロジェクトを担う事になってしまったんだ。そしてその結果、彼は年明け早々から海外現法への出向が義務付けられてしまったというのだ。
「ただでさえ忙しいっていうのに、急な海外出向が決まっちまったからな。これでお前とはしばらく会えそうにない。こんな大荒れの天気の中で悪いと思ったんだけどさ、それでも最後にお前だけには会っておきたかったんだよ」
彼は少し寂しそうな表情でそう告げた。自分の将来に対する不安や迷いより、俺の身を案じてくれている。そう思えるほどに、彼からは痛切な哀しさが伝わってきたんだ。まったく、どれだけ人が良いと言うんだろうね、彼はさ。普通の転勤だって心配は尽きないだろうに、海外出向なんていったらその何倍も気苦労が絶えないはずなんだ。それなのに彼は俺みたいな小さい人間を放っておくことが出来ない。真っ先に切り捨ててもなんら問題の無いちっぽけな存在の俺を、彼は最後まで見捨てようとはしないんだ。
それなのに俺の脆弱さは身勝手極まりなかった。だってその瞬間に俺が考えたのは、置いてきぼりにされる寂しさに対して身悶えするばかりだったんだからね。俺の心の弱さは本当に呆れたモンなんだ。これで俺は完全な一人ぼっちになってしまうのか。孤独っていう地獄に突き落とされてしまうのか。そう感じる恐怖感に苛まれてしまったんだ。
その時の俺の落胆ぶりは、どれだけ酷く暗いものだったんだろうね。年に数度しか会わないまでも、彼と共有できる時間は俺をどれだけ救ってくれていたのだろうか。どれだけそれに俺は縋っていたのだろうか。もう会えなくなると知った今になって、その大切さに気付かされる。クソっ、いつだってそうなんだ。何にしても永遠なんて有りはしない。それなのに俺は身近にある間はそれが当然の成り行きだとばかりに甘え、そして御座なりにしてしまうんだ。そしてそれらを失ったとき、その重要性に改めて気づかされ意気消沈する。もう決して元に戻りはしない。そう、流れゆく時間の様に、失った存在は掛け替えの無いものばかりであり、どれだけ望んだとしても戻ってはくれないんだ。
大学を卒業し、それまで付き合いのあった同輩達とはすっかり疎遠になってしまった。就職を機にそれぞれが地元に戻って行ったっていうのが、その大部分の理由なのだろう。ただ俺と同じで東京に住み続けている奴らも少なからずいるはず。でもキャプテンだった彼以外の同輩達とは、もうほとんど連絡は取っていない。結局のところ、俺とあいつらは夜な夜な遊び呆ける程度の付き合いだったんだ。でも彼とだけは未だに付き合いが続いている。いや、むしろ彼とは大学を卒業してからの方が親密になった。俺にはそんな気がしてならなかった。
どうして彼は俺を見捨てないのだろうか。改めてそう考えずにはいられない。だって初めから彼が俺との繋りを保っていなかったとするならば、今更になって孤独に怯む必要も無かったろうからね。でももし彼が初めから俺を見放していたとするならば、俺は今頃どうなっていたのだろうか。そうも考えずにはいられなかった。ただ結局のところ、俺が下した結論はこれだったんだよね。
『遅かれ早かれ、俺は一人ぼっちになってしまう存在なんだ』
これこそが覆し様の無い現実。俺はそう諦めてしまったんだよね。心がポッキリと折れてしまった。そんな感じだったんだろう。だから俺は言うつもりのない心情を彼に呟いてしまったんだ。自分自身の心底に潜んだ惨めで不甲斐ない本心をね。
「昨日の晩なんだけどさ、バイト先に客として【あいつ】が来たんだよ。それも今付き合ってる彼氏を連れてさ。それが単なる偶然だったってことは分かってる。でもさ、俺は今のあいつを見て嫉んじまったんだよ。俺がこれだけ苦しんでいるっていうのに、あいつは今を幸せに生きている。それが許せなかったんだ。俺があいつに何をしたか。そんな事は棚に上げてしまってね。それなのにあいつは昨日、昔と変わらない笑顔を俺に向けてくれた。温かく微笑んでくれたんだよ。でも俺はただ戸惑うだけで、それを逆恨みしてしまったんだ。情けないよ。自分の馬鹿さ加減に泣けてくるほどだよ。悔しくて仕方がないよ……」
もう彼に会えなくなる。その事実が俺を正直な気持ちにさせてしまったのかも知れない。いま胸の内に溜まっている想いを吐き出さなければ、もう二度とその機会は訪れないだろう。そう心が察したために、無意識にも俺の防衛反応が作動したんだ。そして俺は我慢していたはずの弱音を彼に向けて吐き出したんだよ。目から溢れる涙と一緒にね。
俺は肩を震わせて涙を流す事しか出来なかった。もう自分自身の感情ではコントロール出来はしない。ただ彼はそんな俺の弱々しい姿を温かく見守っていてくれた。一緒に痛みを分かち合うが如く、共感する様に頷いてくれたんだ。そして俺がひとしきり泣き終え、少しばかりの落ち着きを取り戻した時、彼は小さく告げ始めた。彼が俺をこの場に呼び出した本当の理由。それを語り出したんだ。
まったく想像していなかった彼からの話しに、俺の気持ちは竦み上がった。いや、君に対して申し訳ない。そんな感情が溢れて来たんだ。だって彼が俺に告げたのは、俺の知らなかった君の、そして彼女の胸の内を的確に表現したものだったのだから。
一歩退いた立場から俺達を見ていた彼だったからこそ、客観的にあの時の状況を把握出来ていたんだろう。そしてその一部に彼自身も負い目を感じていた。だから彼は旅立つ前に俺に対して全てを語ろうとしたんだ。彼自身にもまた、心にシコリが残っていたのだろうから。
雨は増々強さを増していた。季節外れの大雨によって、店内にはさほど客の姿は見受けられない。そんな閑散とした店内で俺は彼からの話しに過去の記憶を辿って行く。もう霞んでしまったあの頃の記憶。でもそこには俺の知らなかった君の想いが、哀しいほど膨大に込められていたんだった――。