第十話
時が経つのは早いモンだ。最近は切実にそう感じられずにはいられない。今という一瞬だけはやたらと長く感じているのに、気がつけばそれは過去という時間軸に刻まれた化石に変わり果てている。
何一つ代わり映えの無い生活。毎日が単調で同じ事の繰り返し。そんな日常が時間の経過を途轍もなく早く感じさせる要因なんだろう。辛うじて季節の変化くらいは気付くことができるものの、身近な曜日感覚なんかは怪しくて仕方がない。
さらに付け加えれば、昼夜が逆転した暮らしを続ける影響もあるのだろう。やっぱり人っていう生き物は、陽の光によって目覚め、月が昇る頃に眠りに落ちるモンなんだよね。そしてそんな生活が人の本来持つべき感覚を培っていくんだよ。だから真逆の生活を営む俺の感覚は狂ってしまった。壊れてしまったんだ。――って思いたいんだけど、それは少し違うのかな。
確かに世間一般でいうところの普通の生活とは正反対な生き方をしている。でも俺は自分からそんな暮らしを望み、そして実際に身を投じたんだ。誰に強いられたわけでもない、自分自身の意志でね。それに体調は至って健康だし、風邪なんて最後にひいたのかはいつだったのか思い出せもしない。だから時間の経過をやけに早く感じる本質は、俺の感覚的な因子でもなく、また肉体的な要素から来るものでもないんだよね。
あの日、あの瞬間に俺の時間は止まってしまった。なにをバカな話しをしているんだって失笑するかも知れないけどね、でも俺にとっては真面目な事なんだよ。もちろん生きている限り時間は進んでいく。だけど俺の心は遠い過去から一歩たりとも進めていないんだ。あの日、君が走り去ったあの瞬間からね。だから俺の心の時間は止まったままなんだよ。要は俺だけを置いてきぼりにして時間は相も変わらず進んでいく。それが正解なんだよね。
俺は胸の内でその答えを明確に把握出来ていたからこそ、あえてこんな暮らしを望んだんだ。ううん、俺はそんな暮らしに逃げ込んだんだよ。他人との接触を避けたいが為だけにね。
俺だけが取り残されている。そんな居た堪れない感覚に心が支配されているからこそ、俺は孤独に焦がれそれを欲したんだ。人並みの生活をしていたら、嫌でも周囲の人達と自分を比較してしまうからね。そして手っ取り早くそんな状況から脱するには、孤独に逃げ込むしかなかったんだよ。いや、少なくとも俺にはそれしか考えられなかったんだ。
そしてその効果は確かにあった。周囲との接触を最小限に止める事で、置き去りにされる感覚は多少なりとも息を潜めてくれたんだ。でもダメだった。俺の考えは甘かったんだよね。
一人の時間が増えれば増えるほどに、俺はあの日の記憶の残像に苦しめられる事になってしまった。君との関係が全て終わったあの日から、すでに【二年以上】もの歳月が経過している。それなのに俺は未だ悪夢にうなされてしまうんだよ。それこそ、いっそ死んでしまいたいって思うくらいにね。
でも実際に命を絶とうとまではしなかった。当然と言えばそれまでなんだけどさ、所詮俺に勇気がなかったっていうのが正直な理由なんだよね。だけどこう思ったりもしたんだよ。もしかしてこれが無限地獄というものなのだろうかって。これこそが君への冒涜に課せられた報いなのかも知れないってね。
もしそうだとするならば、俺はそれを甘んじて受け続けなければいけないんだ。不快な目覚めを繰り返す度に、俺はそんな自己嫌悪に陥っていく。そして消えることの無い罪悪感を胸にしながら、俺は今日も陽が暮れた時間に仕事にへと出掛けて行った。
俺は今、自宅近くのコンビニで深夜アルバイトをしている。やっぱり就職っていうのはさ、しっかりとした目的意識を持ってするモンなんだよね。どこでも良いから就職したい。そんな半端な考えじゃ、社会人なんて勤まるはずがないんだよ。
俺は一年経たずして会社を辞めた。きっと社会というものを完全に舐めきっていた罰なんだろうね。でもそこに後悔は無かったんだ。先にも言ったように、俺は孤独に逃げたかったから。だからむしろ真っ当な社会人なんて、俺の方から願い下げだったんだよね。
けど家で一人じっとしているだけじゃ、胸に抱き続ける不快感に苛まれてしまう。だから俺はあえて人との関わりが少なそうに思えたコンビニでの深夜バイトを始めたんだ。そして何一つ変化の無い毎日を淡々と生き続けている。
世間的には俺の様な立場の人間をフリーターっていう就労形態で呼ぶんだろう。ただ俺はそんな肩書きに良い印象を抱いたことがない。勝手なイメージだけど、人生を無駄に生きている。そんな連中を都合良く一括りにして指し示すのが、フリーターっていう言葉なんじゃないかって思えてしまうからね。でも矛盾した事に今の自分の身の丈には、それが妙に丁度良い塩梅に感じられるんだよ。食っていくだけなら困りはしないし、生きていく為の最低限の稼ぎくらいは補えている。それでいて責任や覚悟っていう大人が所持するべき意志から距離を置くことが出来るのだからね。だから俺は今の生活にこれと言って不満は感じていなかったんだ。もちろん将来を思えば不安や迷いは付きまとうし、様々なリクスは伴ってしまう。けれどそれと引き換えに束縛の無い精神的な自由が手に入れられる。これこそまさに時間に置き去りにされた自分に合致した暮らしなんじゃないか。俺はそう思っていたんだ。無理にでもそう納得しようとしていただけなのかも知れないけどね。
それと【彼女】との関係も続かなかった。君と別れてからというもの、俺は無慈悲極まりなくも彼女と付き合い始めたんだ。それが君にとって、どんなに酷い仕打ちであったか。俺にはそれが分かっていた。けどそれを無理やりにも考えようとはせず、彼女との成り行きに身を任せたんだ。
俺は自分の惨めさや寂しさを紛らわせる為だけに彼女と付き合った。君との関係が終った絶望感を打ち消す為だけに、都合良く彼女を利用したんだ。
俺と彼女の前から君が走り去ったその夜、俺は彼女を抱いた。もう何もかもが終った。そう思えて怖かったから、一人でいる事に耐えられなかったから、だから都合良くも彼女の体を宛がってしまったんだよ。俺を求めてくれた彼女の想いにつけ込む形でさ。
決して彼女の事が好きになったわけじゃない。その証拠に彼女を抱いているその瞬間でさえ、俺の頭の中は君で一杯だったんだ。でもそれって救いようがないほどに卑劣で穢く、そして賤しい姿なんだよね。君に対しても、そして彼女に対しても、俺は言葉で言い表せないほどの最低な行為に及んでしまったんだ。ただ傷付いた自分を癒したいだけ。苦痛を和らげたい為だけにね。それら全てが俺の責任だっていうのにさ。
君の気持ちを御座なりにして親密な関係になった俺と彼女。それは結果的に君と彼女の絶交も意味するんだよね。ただ俺の勝手な推測だけど、君は彼女との親友関係については、いつの日か壊れる時が来るんじゃないかって覚悟していたのかも知れない。そう思えて仕方ないんだ。
もともと君と彼女の関係には歪んだ蟠りが存在していた。いつも一緒にいたはずなのに、二人の間には目に見えない僻みや妬みっていう感情が渦巻いていたからね。そんな不純な想いが膨れ上がり臨界を迎えたとするならば、それは関係性の破綻という結果のみに辿り着く。それはある意味必然な結果だと呼べるんだろう。
いつの日か来るであろう決別の時。君は覚悟を決めていたつもりでも、実際にそれを受け止めるっていうのは容易な事じゃなかったはずだよね。今まで共に青春を謳歌していた思い出は決して消せはしないものなんだし、その過程には楽しかった事も沢山含まれているはずなんだからさ。でも必ず来るであろう破綻の時のために、君は他に縋るべき存在を必要としていたはずなんだ。そして君が望む未来であれば、その役目を担うのは俺のはずだったんだよね。それなのに、結果はこれ以上無いほどの残酷な結末に至ってしまった。だって君にしてみれば、親友であったはずの彼女を失うと同時に、縋るべき対象であった彼氏って存在まで失ってしまったんだからね。
君がどれほどの痛みを伴ったのか。それは想像することも出来ない。親友との決別。それは君に耐え難い苦痛を強いたはずだ。でも君はそんな時に俺が傍にいてくれたら、俺だけがその傍らにいてくれさえすればって願っていたはずなんだ。でも君と彼女の関係を破綻させた原因は、皮肉にも【俺】っていう存在なんだよね。
これを絶望と呼ばずに何て言えばいいんだろう。そこまでの痛みを強いる悲観的な理由なんて、君にはまったく無かったはずなのにね。もちろん俺だって君にそんな辛い想いをさせたいなんて思いもしなかったはずだ。それなのにどうしてこんなにも悲しい結末になってしまったんだろうか。
考えが及ばないほどに君を傷つけてしまった。でも俺が未だに自責に駆られる要因はそれだけじゃなかったんだ。君に与えてしまった苦痛だけでも遺憾極まりないっていうのに、俺が辛い痛みを強いたのは君だけじゃなかったんだよね。そう、新しい関係を始めたはずの【彼女】の心にも、俺は深い傷を負わせてしまったんだ。
彼女と始めた新しい日常。でもそこに愛情という温もりは微塵にも見当たらなかったんだ。だって俺の頭ン中はいつだって君の事ばかりで、そこに根付いた深い想いを断ち切るなんて不可能だったからね。
彼女は異性と付き合う事が初めてだった。いや、そもそも他者を愛おしく慕う行為自体が初めてだったんだろう。体に抱える病気の事情もあることから、それは別に驚く問題じゃない。でも初めて想いを寄せた異性と付き合うって事は、誰にしてみたって大切な出来事のはずだよね。だからたとえ俺にその恋を成就させる能力が無かったとしても、それに対する丁寧さを忘れてはいけないはずだったんだ。それなのに俺は彼女の気持ちを粗雑に扱ってしまった。
表面上はかなり勝気な性格の彼女。でもその内面は人一倍奥手な性質だったんだってことを俺は知っている。彼女が誰よりもお喋りなのは、そんな奥手な自分を隠すためのカモフラージュだったんだろうね。そして本来であれば、俺はそんな彼女の胸の内を優しく支えてあげるべきだったんだ。
人前では強がっているものの、俺と二人きりの時に見せた彼女の自信の無いその姿は、とても弱々しいものだった。異性と二人きりになる事に気恥ずかしさを覚えていたのかも知れない。でも俺が察するに、もしかしたら彼女は君との関係が途絶えた事実を後悔しているのではないか。いや、少なくとも心の片隅にはそんな気持ちの迷いが存在していたはずだ。そう思えてしまったんだよ。
腹の中では君に対する禍々しい感情を抱いていたんだろう。それでも彼女にしてみたって君は親友だったはずなんだ。そんな掛け替えの無い存在であるはずの君と、その彼氏であった俺の関係を引き裂いてしまった。そこに罪悪感がまったく無かったなんて言い切れるはずもない。けど彼女は君という存在を切り捨ててまで俺を選んだ。覚悟を決めて俺を君から奪い取ったんだ。
俺はそんな彼女を受け入れてしまった。寂しさを埋め合わせる為に彼女を必要としてしまったんだ。それなのに俺は彼女の事をどこかで許せなかった。君の苦痛の果てに成り立った彼女の幸せ。その不条理さに俺は腹を立てていたんだろう。その要因たる俺自身の責任には目を背けたままでね。
彼女は俺と共に過ごす生活に何を思い描いていたのだろうか。恋人同士が愛を語り合う甘い日々。そしてそんな生活が病んだ体と心を柔和に癒してくれる。異性との交際経験の無かった彼女にしてみれば、そんな穏やかで温かい想いに気持ちを馳せていたのかも知れない。いや、むしろそう信じていたからこそ、親友である君を傷付けてまで新しい未来を手に入れようとしたんだ。
でも結果的にそこには彼女の求める未来の姿は無かった。だって彼女が期待する未来と俺が渇望する将来は乖離し過ぎていたのだからね。それでも俺が彼女に歩み寄りさえすれば、そして俺がもっと気遣ってあげさえすれば、彼女は幸せを手に入れられたはずじゃないのか。そう詰問されるとするならば、俺はそれを否めない。だけど最後まで俺と彼女の間に愛情が芽生えなかったのは、少なからず彼女のほうにも問題があったと言わざるを得ないんだよね。
彼女は理想を追い求め過ぎた。ううん、彼女は夢にまで見た恋愛っていう幻想に期待し過ぎていたんだよ。そしてその胸に焦がれる強い想いを現実のものとしたいが為に、彼女は俺にせがみ続けたんだ。
初めての恋愛だったからなのだろうか。それとも彼女の持つ本質がそうさせたのだろうか。彼女は俺からの優しさを要求するばかりで、その逆に自分から何かを寄与したいっていう感情に乏しかった。いつも求めるばかりで、それに俺が応えられないと忽ち機嫌を悪くしたんだ。
確かに俺の怠慢な態度が気に障ったっていうのも事実だろう。でも恋愛っていうのはお互いの為を想い譲歩し合うもののはずだよね。自分を犠牲にしてまでも相手を大切にしたい。そんなお互いを思い遣る優しさが重なり合ってこそ、恋愛っていうのは釣り合いが取れ、そこから愛情が育まれていくもののはずなんだ。それなのに彼女は自分の欲求を噴出させるばかりで、自ら我慢する気概を最後まで見せることが無かった。だから俺はそんな彼女の姿を垣間見る度に思い出してしまったんだよ。君なら自分を差し置いてでも俺の事を考えてくれたはずだって。君ならどんなに不合理な状況に身を置こうとも、俺の為と思うならば自らの犠牲を厭わなかったはずだってね。
彼女は幼くして病に苦しんでいただけに、周囲からの気遣いや優しさに慣れてしまったのかも知れない。もしそれが本質的理由だとするならば、それは彼女の責任とは呼べはしないだろう。しかし君を失ったばかりの俺の心情からすれば、残念だけどそれを受け入れる事は出来なかったんだ。だってその時の俺にしてみれば、むしろ与えてもらいたいのは俺のほうだったんだからね。
結局のところ、俺と彼女は互いに求め合うばかりで与える配慮に欠けていたんだ。だから俺は彼女を身近に感じるほどに虚しさを覚えて仕方なかったんだよ。彼女を抱くその一時だけは快楽に身を委ねて現実から解放される。でもそのすぐ後には底なしの喪失感に襲われてしまうんだ。そして挙句の果てに虚しさだけが積み重なってゆく。
彼女の事が許せない。だけど本当に許せなかったのは俺自身なんじゃないのか。胸の中に燻ぶる君への未練だけが卑しくも彼女に向けられ、自分の責任から逃げ続けている。そんな自分自身をよく理解できていたからこそ、俺は彼女の事を責める気になれなかったんじゃないのか。彼女の姿がまるで俺自身を鏡に映し出したかの様に思えたからこそ、俺は彼女を許せなかったんじゃないのか。だから俺は最後まで彼女を非難出来なかったんじゃないのか。自分で自分を傷付けることに躊躇いを感じてしまったから――。
そんな俺の態度に彼女が愛想を尽かしたのは当然だろう。それに自分が夢見ていた恋愛っていう希望に幻滅してしまった事も、その理由の一つなのかも知れない。だから俺達の関係は早々に終焉を迎えた。彼女の初めての恋にほろ苦い傷跡だけを残してね。
結局のところ、俺は誰一人として幸せにしてあげる事が出来なかった。いや、それどころか相手を悲しませてばかりだ。そんなつもりは一片も無いはずなのに、俺は俺を必要としてくれる大切な人達の心を次々に踏みにじっていく。そしてそれは俺自身の心にも大きな亀裂を生じさせ、そこから大事なものをどんどんと垂れ流していったんだ。
俺は何もかもを失った。残されたのは後悔っていう自責の念だけさ。どうせならそんな訝しい記憶さえも一緒に消え失せてほしいものなのに、でもそれだけは俺の脳裏にしぶとく腰を下ろしたままなんだよね。
くそっ、頭が痛い。それに吐き気まで込み上げて来たぜ。怠い体を引きずりながら、それでも俺は夜道を歩み続ける。街に灯る外灯は眩しいくらいに輝いているのに、でもそこに俺の姿が浮かび上がることはない。それなのに俺の影だけは、異常なほどに色濃く際立って見えるんだよね。まるで俺の心の闇を具現化しているみたいにさ。
光りは未来に進むものなんだって、何かの本に書いてあったのを読んだ気がする。だから時間の止まった俺の存在を光は通り越してしまうんだろう。抜け出せない闇に身を埋めている限り、光は俺を無視し続ける。それを心のどこかで理解はしていたけど、でも致命的な欠陥として俺は光を求めていなかったんだよね。
絶望から抜け出すには光に向き合い、自分自身を照らし出す必要がある。だけどそれには身を焼くほどの痛みが伴われるんだ。光に自分を曝け出すってのは、穢れた醜い部分をも全て吐き出す事になるのだから。そしてそれを全て受け止め、自分の愚かさを改めて認識しなければならない。でも俺には光が眩し過ぎたから、俺にはそれが怖かったから、だから闇に潜み続けることを願い、そして光を拒絶したんだよ。
俺の存在には何の価値もない。誰も俺の存在に気付きもしない。心臓が鼓動しているために、生物学的には生きていると言えよう。だけどこれは本当に【生きている】って言えるんだろうか。
俺はそんな答えの見つからない自問自答ばかりを繰り返し、そしてどう足掻いても消せはしない荒んだジレンマだけを胸に抱えながら歩き続けた。外灯によって煌びやかに映し出される人波を、憎む目つきで睨みながらね。
どうやら発達した低気圧が日本海側をゆっくりとしたスピードで通過するらしい。それによって東京の天気がどこまで悪化するのかは分からないけど、でも明日の夜までは注意が必要だと言う事だ。
コンビニに着くと人当りの良い店長が俺にそう語り掛けて来きた。そんな店長に対して俺は愛想笑いだけを浮かべて無言のままレジへと入る。すると今度はそれまでレジに入っていた高校生バイトの男子学生が、俺に冗談を告げる様にして口走ったんだ。
「今日は金曜でクリスマスイブ。世の中のカップルどもはイチャつきまくってるんだろうなぁ。あんな事やこんな事。う~ん、溜まんねぇ~。それに比べたらオレなんてまだチェリーでしょ。悔しくて仕方ないっスよ、ホント。だからね、オレ思うんスよ。オレ達みたいな寂しい男にとっちゃ、むしろ天気がメチャ荒れてくれたほうが気分が良いなってね。先輩はそう思わないっスか?」
レジを交代した学生の彼は、それまで着ていたサンタの衣装を脱ぎ、バイトを切り上げる準備をしながら俺にそう呟やいた。口を尖らせる彼の姿は思春期の男子の姿をそのまま映し出したかの様で、ある意味微笑ましい。ただ俺はそんな彼に向かって気の利いた返しの一つもしてあげる事が出来なかった。だって彼の告げたストレートな心情が、俺のその時の気分とまったく重なっていたのだから。
「天気が崩れるのは本当なんだから、そんなつまらない事言ってないで早く家に帰ってゲームでもやってろ」
俺はそう当たり障りのない言葉のみを彼に告げ、そのままバックヤードにへと向かう。店長の言いつけで商品のおでんを補充する為に、在庫を取りに向かったんだ。でもその時の俺の頭の中は、先程彼が告げた言葉で溢れ返っていたんだよね。
違いない。クリスマスなんて滅茶苦茶になってしまえばいいんだ。俺は自分用に用意されたサンタの衣装を羽織りながら卑屈にもそう世間を呪う。低気圧の接近どころか、大型の隕石でも墜落してくれればいいんだ。そして世界を滅亡させてくれれば、どれほど愉快で心地良いことだろうか。俺は一人薄ら笑いを浮かべながらそんな思いを巡らせていたんだよ。学生の彼の告げた冗談交じりの浅い感情とは異なり、本心から社会全体を逆恨みする暗然とした心情でね。
それでも少しだけ気分が楽になったのを感じた。こんな感覚はすごく久しぶりな気がする。でも何が理由でそんな感覚を抱いたのであろうか。
人との関わりを極力拒絶したいがために始めたコンビニでの夜間バイト。だけどそれは、俺が当初予想していたよりも遥かに人と触れ合う機会が多い仕事だったんだよね。
来店する客への対応もそうだけど、店長を含めた他のスタッフ達との接触は避ける事が出来ない。それに夜の間はコンビニに商品を納品する色々な業者ともやり取りしなければならないんだ。だから最初の頃はそれらがすごく面倒だと思えて仕方なかったんだよね。
どうして俺はサービス業を選んでしまったのだろうか。それを今更ながらに痛感せざるを得ない。冷静に考えるまでもなく、接客業は人と関わってナンボの仕事なんだよね。本気で人との関わりを避けたいのであれば、むしろ工場での夜勤バイトでもしていたほうが俺の希望に近かったのかも知れない。それなのに俺はただ、夜ならば人に会う機会が少ないだろうなんて欠乏した考えだけで仕事先を選んだんだ。
でもそんな仕事を俺は嫌々ながらも続けていた。いや、単純に辞められなかったんだ。『また逃げ出すのか』なんて、陰口を叩かれることを恐れていたから。
就職先はあれほど簡単に辞めてしまったっていうのに、どうしてこんなどうでもよいバイトは続けているのだろうか。まるで陸上部に身を費やしていた【あの頃】の様に。
仕事ぶりだけは真面目だった。そう、練習だけは愚直に熟していたあの頃とまったく同じにね。そしてそんな俺に温厚な店長は余計な信頼を寄せてしまったんだよ。その為に俺は無駄とも呼べる人との関わりを断ち切る事が出来なかったんだ。多少なりとも責任のある仕事を任されたりもしていたからね。
ただ俺はそんな時に決まってこう思ったんだ。もしかしたら俺の時間は止まったのではなくて、むしろ逆行しているんじゃないのかって。だって生活環境はまるで異なるけど、でも俺の精神的な感情は君と出会う前の状態に戻っている様に感じられていたのだから。
君との関係をやり直したいと願う心情が、無意識に俺を君と出会う前の感覚に戻してしまったのかも知れない。いや、もっと広い意味で俺はもしかしたら他者との関わりを欲していたのかも知れない。もう孤独はうんざりだ。そう救いを切望する俺の心の叫びが、こんなサービス業という職種を選んでしまった。そう思えてならなかったんだよ。
そして環境にも恵まれたんだろうね。人の良い店長や気さくな学生に囲まれ、俺は計らずも心のリハビリを受けていたのかも知れないんだ。気がつけば俺は人と接触する事に少し慣れていたんだよ。まだまだ素っ気なくはあったろうけど、でも時折冗談じみた言葉の掛け合いくらいは出来る様になっていたからね。それに店に訪れる様々な客達を垣間見る事で、余計に他人に対する抵抗を薄めていったんだろう。
特に夜間にコンビニを訪れる客層はバラエティに富んでいるからね。酒に酔ったホームレスや同伴出勤するキャバ嬢と連れの男。絶対に家出してきたろうっていう中学生くらいの女の子だってたまに来るモンだ。そして夜が更けた時間にもなれば、腐った社会の縮図が目の前で展開されてゆく。
石鹸の甘い香りを漂わせる中年のオッサン。体を売って尽くす女。そんな女を手玉にするホストの男。溜まった鬱憤の発散方法を見失い屯する若者達。そんな人間達の醜い姿を目の当たりにし、また少なからず言葉を交わす事で俺の荒廃した胸の内が少しずつだけど中和していったんだよ。俺はまだ底辺じゃない。俺なんかよりもっと暗い世界で生き続けている人達がいる。そう思えたから。
世の中を逆恨みする心情は、まだ俺の中に色濃く燻ぶり続けている。それでも俺は良い意味で社会を鼻にかける余裕を持てるまでになっていたんだ。たとえそれが他者を賤しんだ憐みや蔑みから生まれた歪んだ立ち直り方だとしてもね。でもその感情は俺自身に少なからず自分の置かれている現状を把握させてくれたんだよ。だからえげつなくも世間を愚弄する学生の彼の発言に自身の思いを重ね合わせ、それをガス抜きとして俺の淀んだ心を軽く感じさせたんだ。無垢な男子学生の、まだ穢れのない感覚を拠り所にしてね。
レジに戻った俺は、久しぶりに抱く安心感にも似た気楽さに心を委ねていた。不思議だね。あれほど自責に駆られた毎日に嫌気がさし、かつ社会を呪うほどに周囲を敵視していたはずなのに、今は大した考えも無い学生の嘲た言葉に共感し救われている。俺が単純なだけなのだろうか。ただバカなだけなのだろうか。でも俺はこうも考えたんだよね。少しは光を受け入れなければいけない頃合いなのかも知れないってさ。
暗がりに身を潜める事に慣れきってしまった俺は、光に身を焦す事を恐れていた。君との関係が終わりを告げた苦い記憶を思い出したくない。そう願っていたのだから当然だろう。でも心の奥底では、その真逆に君との甘い思い出をいつまでも引きずっていた。あの頃に戻りたい。そう切実に祈っていたんだよ。
そんな自分の正直な胸の内を把握出来るようになっただけでも、それなりに現実における時間の経過は俺を癒す役割を担ってくれたんだろう。そして大切なのは、いくら悩み悔やんだところで、決して君とは元に戻れないっていう事実なんだよね。
このまま心を闇に留めて置いた方がどれほど楽であろうか。社会を逆恨みし、責任を放棄する事のほうがどれほど容易であろうか。でもそれがいけない事だって理解出来てきたからこそ、そしてこのままでは本当に自分の存在意義が失われるって分かって来たからこそ、俺は光に手を伸ばしてみようかと考える気になったんだ。
だけど君への過ちという苦い想いは、そう易々と俺の足を前には踏み出させてくれなかった。それもそのはず。自分から捨て去った過去を夢見ている限り、前向きに進もうなんて虫が良過ぎる話なんだよね。だからその罰として、俺は今になっても悪夢ばかりにうなされているんだろう。
光に身を投じるべきか。それとも闇に潜み続けるべきか。その判断に苦しむものの、しかしその答えを俺はもう出していた。その証拠に俺は全ての思い出を消し去ろうと努力を始めていたんだ。
君に関係する物は全て捨てた。君との写真は当然ながら、君と交わした数々のメール記録、それに君の電話番号も消したんだ。さらには俺自身の携帯番号も変更した。君からの連絡が来るかも知れない。そんな有りもしない幻想から脱却する意味でね。その甲斐もあってか、今では故意に思い出そうとしても、君の顔や声をはっきりとは思い出せないんだ。
薄情なモンだね。あれ程に君を近くに感じていたはずなのに、俺の記憶力なんてこの程度のものなんだからさ。けど悪夢に出てくる君の笑顔と泣き顔だけはしっかりしたものなんだよね。訳が分からないよ。
それでも前に踏み出すっていうのはさ、こんな痛みを伴っていくモンなんだろうね。少なくともそう自分に言い聞かせなくちゃ、とても未来へ進む決意なんて抱けやしないんだしさ。でも彼が言う様に、さすがにクリスマスイブのバイトっていうのは心に堪えるね。今夜の客層は明らかにカップルが多く、それらは皆例外なしに幸せそうに見えるのだから。今更ながら彼の嘆き節が胸に響いて来る様だよ。
でもそんな中で、会社帰りのOLが一人買い物をしていたんだ。俺の位置からじゃ後ろ姿しか確認できないけど、でもその佇まいからして素敵な女性を想像してしまう。ただ俺はおでんの補充に気を取られてしまい、その後の彼女の行方を気に掛ける事はなかった。
時間にしてその数分後だろう。先程のOLの彼女が選んだ商品を買い物かごに入れ、それらを会計するためレジに赴いて来たんだ。でも俺は満タンに補充したおでんに気を取られていて、彼女に対する注意を怠ってしまったんだよね。
それでも俺はレジ打ちしながら何気なくそんな彼女が買い物した商品を観察してみた。缶ビール3本に小さ目めなチーズケーキが2つ。まったく、シケたモンだね。こんな所にも寂しいクリスマスを送る女性がいるもんだ。俺は直感としてそう思ったんだよ。だってこんな小さなケーキ2つ買ったところで、まさかこれから彼氏とイブを過ごすなんてイメージ出来ないんだからさ。ただそれらの商品に追加して彼女は俺に注文したんだ。『チキンも2つ、お願いします』ってね。
でもその瞬間、俺は呼吸するのを忘れてしまった。いや、一瞬だけど心臓が止まってしまったんだ。そう表現したほうが共感を得られるかも知れない。だって信じられるわけがないだろう。目の前にいる買い物客の彼女が、紛れもない【君】だったのだから。
神様なんかいらない。俺は心からそう思った。いや、そう嘆いたんだ。だって俺同様に驚いた表情を見せた君だったけど、でもその表情は一瞬にして眩し過ぎるほどの【笑顔】に変わったんだからさ。
これがサンタからのプレゼントだっていうのなら願い下げだね。まぁ、嫌がらせとしてなら納得出来るかも知れないけどさ。だけどこの状況に俺は現実として戸惑うしかなかったんだ。
笑顔を差し向ける君に対し、その時の俺は一体どんな表情をしていたのだろうか。もう二度と出会う事が無いと諦めていた君との偶然な再会。それが俺にとって、この上なく残酷で哀愁たる未来の訪れを予感させる。でも正しくこれこそが、誤魔化し様のない現実だったんだよね。
忘れようと努めていたはずの淀みきった胸の鼓動が込み上げて来る。まるで日本海を進む爆弾低気圧の渦巻く唸り声の様に――。