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第一話

 俺は今、東京マラソンを走っている。ゴールまではあと2キロといったところだ。疲労は極限にまで達し、体の(いた)る所から(うな)りが上がる。それでも完走は間違いないだろう。ゴールが近いことに俺の気持ちは意味もなく高鳴ってゆく。ただタイムを(きざ)む腕時計を見ると、すでに4時間を回っていた。

 自分に課したゴール目標は3時間30分を切ることだった。けどそれはやっぱり無理だったらしい。いくら中学から大学まで陸上を続けていたからといって、初めてのフルマラソンで(かか)げる目標にしては、欲張り過ぎも(はなは)だしかったんだろう。

 改めて自分のバカさ加減に苦笑いが込み上げてくる。まさかこんなところでも現在(いま)の自分に過去(むかし)を重ねてしまうなんて、(みじ)めで不甲斐ないモンだね。

 社会に出てからのこの三年間、まったく運動なんてしていなかった。それなのに、過去の栄光だけを()り所にしながら始めた気まぐれな()()()()。息苦しい胸は今にも張り裂けそうだし、痛みを(ともな)鈍重(どんじゅう)な足は言う事を聞かない。

 途中で何度も走ることを止めようと思った。なんで自分はこんな事をしているんだと、苦しくなればなるほどに()やんだ。でも、それでも俺は走り続けてきたんだ。新しい自分の未来を手にするためにね。


 ゴメン。俺は約束を守れなかった。【君】を生涯守り抜く役目を果たしたい。俺と一緒に歩むことで、君の未来を幸せなものにしてあげたい。そう心に誓って、俺は君と付き合っていたはずだった。

 でもダメだった。その願いは叶わなかった。俺の脆弱な心が、君を(ひど)く傷つけてしまったから。俺の心無い言葉と態度で、君の(せつ)なる想いを強く踏みにじってしまったから。

 きっと俺はこれからもずっと、その自責に悩み続けて生きて行くんだろう。それほどまでに俺は、取り返しのつかない残酷な仕打ちを君にしてしまったんだからね。

 けど俺が犯したその一連の(あやま)ちを振り返る事で、改めて思い知ることが出来たんだ。俺が今を生きていられるのは、皮肉にもその全てが必要な出来事だったんだってね。

 俺にはもう、君に与えた苦痛を取り除くことは出来ない。それどころか俺の性格は(ゆが)んだままであり、またいつか同じような間違いをしてしまうかも知れない。そしてそんな()じ曲がった性格は、恐らく死ぬまで治らないんだろう。でもだからといって、俺はそれを諦める事が出来なかったんだ。もう君を幸せにすることは出来ない。だけど君への罪意識が俺の胸に息づいている限り、これから先に出会うかも知れない、君じゃない誰かを幸せにする努力は、決して(おこた)りはしないだろうってね。

 君は自分の弱さをよく理解していたからこそ、人に優しくできたんだ。そんな君の生き方が間違っているわけがない。俺に裏切られたからって、それだけは見失わないでほしい。俺はあくまで身勝手に、自分の恥ずかしさを隠す為だけに君との別れを選んだ。いや、君から逃げ出したんだ。君の愛情に応えるだけの自信が無かったから。それがどれほどのバカな間違いだったかは把握している。けれど俺には慈愛に満ちた君の優しさから逃げることでしか、自分自身の心情に折り合いを付ける事が出来なかったんだ。

 許してほしい――なんて、口が裂けても言うつもりはない。むしろ恨み続けてほしいくらいさ。でももし君と再び出会う事があったとするならば、やっぱり君は俺に優しく微笑んでくれるんだろうね。だからその時は俺も頑張って笑顔になるよ。そして君に伝えるんだ。どうしても面と向かって言えなかった『ありがとう』っていう感謝の気持ちをね。

 君が今どこで何をしているか、それは分からない。だから君に俺の想いを直接伝えることは出来ない。だけどね、君と共に過ごした思い出は、今でも俺の心を熱くさせてくれるんだ。そして俺はまた、こうして走り出すことが出来たんだよ。そこには嘘偽りなんてこれっぽっちも無くて、あの日々の記憶が支えになっているからに他ならないんだよね。

 本当にありがとう。短い期間だったけど、でもそんな生涯忘れられない大切な【思い出の欠片(カケラ)】を残してくれた君に、心から感謝の気持ちを送ります。君に幸せが訪れることを心から祈りながら――。



 俺と君が初めて出会ったのは、大学二年が終わった春休みだったね。梅の花が綺麗に咲いた三月の初め頃だったけど、まだかなり寒かった事をよく覚えているよ。そんな中ひと汗流したくなった俺は、一ヶ月ぶりに構内の陸上トラックへと足を運んだんだ。後期試験で溜まりに溜まったうっぷんを晴らすのを目的として。でも一ヶ月のブランクは予想以上に(つら)くて、1万メートルを専門に日頃トレーニングを続けていた俺だったけど、その時は半分の5千メートルで足が止まってしまったんだ。

「試験勉強で練習出来なかったんだから、仕方ないよな……」

 俺はそんな自分本位な理屈で体力の(おとろ)えを誤魔化そうとしていた。ただ単に練習をサボっていた自分を認めたくなかっただけなのにね。誰が見ているわけでもないのに、強がりで(もろ)い胸の内を隠そうと必死になる。俺はガキの頃から自分自身に対してのみ、妙なプライドを抱く(くせ)があったんだ。だからいつでも言い訳だけは得意だった。そしてそんな都合の良い自分の解釈はすぐに忘れてしまう。性質(たち)が悪い事に、希薄な感情は記憶に残ってはくれなかった。

 自身に課したノルマであったはずの1万メートルを早々に(あきら)めた俺は、息を整えながらトラックの外周を軽くジョグし始める。俺が日々の練習の中で一番好きなのが、このクールダウンのジョグだ。ゆっくりとした動作で駆けながら、早まった鼓動を(しず)めてゆく。この気持ち良さが何とも(たま)らない。ただ一度それを友人に言ったらえらく馬鹿にされた。それってそんなに変わった事なのだろうか。

 流行(はやり)の音楽をダビングした携帯型のオーディオプレイヤーをポケットに仕舞い、細いコードの延びるイヤホンを耳に当てる。やっぱり好きな音楽を聴きながら走るのは気持ちが良い。本音では1万メートルのトレーニング時にも音楽を聞きながら走りたいくらいだ。それならもっと良いタイムが出せるはずだし、なにより辛い練習をもっと好きになれたはずなんだから。けどさすがにそれはコーチに見つかると(しか)られるため(あきら)めていた。教師に反発してまで我を通す勇気は無いし、そもそも俺は波風立てることを嫌う事なかれ主義者なんだ。厄介事(やっかいごと)は避けて通るに越したことは無い。


 夕暮れ時のトラックは静かだった。走り幅跳びの練習をしている二つの人影が遠くの砂場に見えるが、それ以外には誰もいない。いや、清掃作業をしている年配男性職員の姿も見えるか。でもそれだけだ。大学生にもなると、本格的に大会で上位を目指す者以外は、テスト明け直後から練習などするはずもない。俺が物好きなだけなんだろう。

 そんなどうでも良い事を思い浮かべながらトラックの外周を二回りした頃には、ほとんど息は整っていた。少し走り足りない気もするけど、今日は体を慣らすだけにしよう。そう思った俺は、あと一曲分だけ走ったら帰ろうと決めた。――がその時だった。突然女性の甲高い声で俺は呼びかけられたんだ。

 血相を変えて駆け寄って来る一人の女性。見覚えのあるジャージ姿に俺は直感的に(とら)えた。彼女は遠くの砂場で走り幅跳びの練習をしていた人影の一人であるのだと。

 そんな彼女が【君】だったんだね。でも運命的な出会いと呼ぶには穏やかではない。なにせその時の君が俺に向けた表情は、尋常でないほどに青冷めていたのだから。一体何が起きたというのか、不安を抱かずにはいられない。

 正直かなり戸惑った。俺が何かしてしまったのか。初めに頭に浮かんだのはそれだったからね。決して(やま)しい事はしていない。俺はただ音楽を聞きながらジョグしていただけなんだ。それなのに俺の頭の中には意味不明な言い訳だけが次々と浮かび上がってくる。尻込みする理由は何一つ無いはずなのに、俺は走り寄る君を前にして当惑するばかりだったんだ。

 しかし事態は予想以上に深刻だった。君は俺に近づくと、荒げた息に咽返(むせかえ)りながらも、強く救済を願い出たんだ。

「どうかしたの? 落ち着いて話してくれ」

 俺は物腰を柔らかに聞き尋ねる。混乱する君の口ぶりは錯綜(さくそう)していたため要領を得ることが出来なかったんだ。でも君の緊迫した姿から只事(ただごと)でないことは分かる。重大な何かが起きているのだろう。すると君は強引に俺の腕を掴んで走り出した。言葉に詰まる君は説明する事を(あきら)め、直接俺を現場に連れて行こうとしたんだ。

 強く腕を掴まれたまま訳も分からず俺は走る。どこに向かっているのか。でも俺は直ぐにそれを理解した。日の暮れかけたトラックはかなり暗くなっていたけど、君の目指す場所が砂場であることに俺は気付いたんだ。

 トラックの片隅にある走り幅跳び専用の砂場。俺が知りうる限り、君はそこでもう一人の学生と練習していたはずだ。だが見た目には砂場に人影は無い。しかしここに来て激しく鼓動が波打つのを感じる。掴まれた腕から君の(あせ)りや(おび)えが伝わったのだろうか。

 全力疾走しているはずなのに、やけに目に映る光景がスローモーションの様に感じる。まるで夢の中にでも迷い込んでしまったみたいにね。しかし現実は無情にも俺を追い詰めた。ようやく砂場に辿(たど)り着いた時、そこで俺は力無く倒れている一人の女性の姿を目にしてしまったんだ。


 女性は仰向(あおむ)けに倒れている。暗くてはっきりとは分からないけど、意識が無いのは間違いないだろう。もしかして死んでいるのか?

 極度の不安に駆られた俺はパニックになる一歩手前だった。突然目の前に突き付けられた現状に頭がついていかない。背中は尋常でないくらい泡立っているし、手足はガクガクと震えている。よく(ひざ)が笑うなんて体現するが、まさに今がそれなんだろう。

 俺は混乱のあまり逃げ出したくなった。はっきり言って怖かったんだ。だってそうだろ。目の前には意識の無い女性が倒れている。そして周囲には俺をこの場に連れて来た君一人しかいない。明らかに常軌は逸しているんだ。

 ドッキリでしたとからかってほしい。俺を(あざ)けてくれて結構だ。だから、お願いだから俺をこの悪夢から抜け出させてくれ。

 完全に臆病風に吹かれた俺は、ただ茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 ただそんな意気地(いくじ)の無い弱気な俺に君は(すが)った。大粒の涙を大きな瞳一杯に浮かべながら成す術無く項垂(うなだ)れている。でもそれはそうであろう。君は女性が倒れ込むのを目の当たりにしていたわけだし、なにより倒れているのは君の親友なのだから。


 陸上部に所属はしているものの、俺はツルんだ行動が得意でなかった。別に格好つけているわけじゃない。単に一人で黙々と走ることが好きだったんだ。だから他の部員と接触する機会は著しく乏しかった。それでも俺は君達の顔は知っていたんだ。いつも二人で幅跳びの練習に(はげ)む姿は微笑ましくあり、俺はそんな二人の姿に元気をもらっていたからね。

 アスリートとしての技量はお世辞にも高いとは言えない。けれど直向(ひたむ)きな練習姿勢は、他の誰よりも強い意志を感じ取ることが出来る。俺はそんな君達にどこか()かれていたんだろう。

 学部こそ違えど、君達は俺と同じ学年だった。そのせいなのか、助けを乞う君は俺の名前を知っていた。いや、逆に同じ陸上部員であるにも関わらず、君達の名前を知らない俺の方がおかしいのだろう。そんな事を考えた俺は、意識の無い女性の前で不謹慎でありながらも口元を緩めた。やっぱり俺は他人とは少しズレているのかも知れない。でもそんなバチ当たりな態度が、俺に不思議と冷静さを取り戻させたんだ。

 混乱した君の口ぶりは未だに支離滅裂している。それでも俺は意識のない彼女の身に何が起きたのか、漠然とはしつつも把握することが出来た。

 どうやら倒れ込んだ彼女の体調は、数日前から悪かったらしい。日ごろから貧血ぎみだったみたいだけど、今回はそれとは少し違う様だ。君は体調の優れない彼女を気遣い、練習することを控えさせていたようだけど、負けん気の強い彼女はそれを(こば)みトレーニングをし続けた。それほどまでに幅跳びが好きだったんだろう。

 でもそんな彼女の努力をあざ笑うかの様に事故は起きてしまった。極度の体調不良によって目眩(めまい)を引き起こした彼女は転倒してしまう。そして運悪くもその拍子に、砂場を囲う硬い木枠に頭部をぶつけてしまったんだ。


 (かが)み込んだ俺は彼女の外傷を確かめる。暗がりでよく分からないけど出血は無さそうだ。次は確か意識の確認をすれば良いんだっけ。俺は記憶を呼び戻そうと必死になった。

 幸か不幸か。俺はつい2日前、運転免許を更新するため安全講習を受けていたんだ。その時は興味も無く聞き流していたけど、ビデオによって人命救助方法を視聴したのは確かなはず。自分には関係ないと、捨て去ってしまった記憶を懸命に探り出す。まだそれは頭の片隅に残っているはずなんだから。

「大丈夫ですか! 俺の声が聞こえますか!」

 かなり大きめな声で反応を見るも変化はない。同時に(ほお)を叩いたが、それもまるで無反応だ。悪寒と共に今まで感じたことのない緊張感が全身を駆け巡る。ビデオの演出とは経緯こそ違えど、そこに現実として生身の人間が倒れていることに違いはない。もうやるしかないんだ。考えている時間は一秒も無いのだから。

 覚悟を決めた俺は彼女の首を軽く持ち上げ上体を起こす。そして口元に耳を近づけて呼吸を確かめた。だが嫌な予感は的中する。彼女の呼吸は無情にも止まっていたんだ。

 俺は反射的に彼女のジャージのチャックを下ろし、Tシャツ越しに耳を胸に押し当てた。もちろん心臓の鼓動を確認するのが目的だ。しかしここでも彼女の反応を確かめることが出来なかった。そしてそれ以上に俺は彼女の体の冷たさに萎縮(いしゅく)してしまう。とても人の体とは思えない。無機質な感触に俺は肝から震えた。

「落ち着け、落ち着くんだ!」

 自分に言い聞かせるよう俺は強く叫んだ。内側から押しつぶされそうになる重圧を吐き出すかの様に。

 心肺蘇生は時間が命綱だ。彼女が倒れてからは、まだそれほど経っていないはず。きっとまだ間に合うはずなんだ。俺は自分の上着を脱ぎ捨てると、隣に(たたず)んでいる君に向かって大きく声を上げた。

「これから人工呼吸と心臓マッサージをします。いいですね!」

 同意を(うなが)す口調で叫んだ俺に対し、君は無言で(うなず)く。ただその姿に俺は少しだけ頼もしさを感じた。

 もしこのまま彼女の意識が戻らないとしても、決して俺に責任はない。でも救えなかったという罪悪感と彼女の冷たい触感は深く心に刻まれてしまうだろう。そんな怖さ、俺一人で耐えられるはずがない。だから俺は君に同意を促し、命を背負う覚悟を共有したかったんだ。

 こんな緊迫した場面だというのに、俺は随分と卑猥(ひわい)な考えに頭が回るもんだ。でもそんな俺の浅ましい考えなど知る由も無い君は、純粋に彼女を救いたいが為に強く(うなず)いたんだ。そんな心優しい君に俺は決まりが悪く恥ずかしさを覚えた。でもそれ以上に勇気をもらったんだ。何の根拠も無い。けど君が見守っていてくれるのなら、絶対彼女を救えるはずだと自分を信じれたんだ。


 気道を確保するよう彼女の(あご)を少し持ち上げてから指で鼻を(つま)む。そして俺は躊躇(ためら)うことなく彼女の口に自分の口を重ねた。最大限に広げた俺の口は、彼女の口を完全に覆ったはずだ。そのままの姿勢でゆっくりと息を吹き込んでゆく。それと同時に彼女の胸が大きく膨らむのが体感できた。人口呼吸としてのやり方は間違っていない。そう納得した俺は、一度(つま)んでいた鼻から指を離し彼女の反応を確かめる。ただ人工呼吸は二度息を吹き込むのが1セットだったことを思い出し、再び鼻を(ふさ)いで息を吹き込んだ。

「どうだ、やっぱこれだけじゃダメなのか」

 いつしか俺の(ひたい)からは滝の様な汗が流れ落ちていた。だがそんなものに構っている暇は無い。次は心臓マッサージの番だ。

 君に彼女の足を持ってもらい、俺は上半身を支えながらその力の抜けた体を砂場の外に運び出す。柔らかい砂の上では効果的な心臓マッサージができない事も思い出したんだ。

 彼女を仰向(あおむ)けに寝かせると、すぐに鳩尾(みぞおち)(くぼ)みを探し出す。そしてそこに右手の中指を置くと、その横に人指し指を添えた。

「たぶん、ここで良いはずだ」

 祈りにも近い思いで絞り出す様に声を吐き出す。こんな事ならもっと真面目にビデオを見ていれば良かった。でも後悔するのは今じゃない。俺がするべきは彼女の蘇生なんだ。

 折れそうになる心を必死に駆り立てる。どちらかというとネガティブな俺にとって、それはある意味死ぬよりも辛い事だった。だけどもう覚悟は決めたはず。(ひじ)を真っ直ぐに伸ばした姿勢を取り、先刻人差し指で確認した位置に手の平の根元を置く。よし、後は力一杯胸を押し込めば良いはずだ。――そう思った瞬間、俺の肩に何かが接触する感覚が伝わった。

「!」

 俺は血走った眼で思わず目を見張る。でもその時俺の肩には君の手が優しく添えらていたんだ。君がどういった意味で手を添えたのかは分からない。でもそのお蔭で異常なほど(りき)み上がっていた俺の肩から自然に強張ったものが消えてくれたんだ。

 一度だけ大きく深呼吸をする。知らず知らずのうちに俺は(あせ)っていたんだろう。でももう大丈夫だ。俺は君の目を見つめながら黙って(うなず)く。それに対して君も力強く頷き返した。

「1、2、3……」

 記憶に間違いがなければ、心臓マッサージは1分間に80回程度胸を押すはず。俺は声を張りながら、少し早いスピードで彼女の胸をテンポよく圧迫した。そして80を数え終わると、再び彼女の口元に耳を近づけ呼吸の有無を確認する。しかし(いま)だ彼女に変化は見られない。

 でもその時の俺にはもう、消極的な考えは皆無だった。彼女の意識が戻って来るまでやり続けるしかない。考えるよりも先に体が勝手に動いていた。

 口を重ねて息を吹き込む。そして無理な力を加えないよう留意しながら彼女の胸を押し続ける。それを3セットほど繰り返したころだ。さすがに体がキツくなってきた。特に心臓マッサージの疲労感はハンパない。今まで経験したどのウエイトトレーニングよりも辛く厳しいものを感じる。でもその時俺は気付いた。暗がりではっきりしないものの、薄っすらと彼女の顔色に赤みが戻って来たんだ。

「もう少しだ!」

 声にはならなかったが、胸の中で俺はそう叫んだ。(のぞ)き込んだ彼女の表情は明らかに変化している。気が付けばその体は弱いながらも熱を帯び始めていたんだ。

 大きく息を吸い込んだ俺は、彼女に人工呼吸を施す。4セット目にもなれば慣れたもんだ。俺は器用に鼻を摘み直すと彼女の口にもう一度息を吹き込んだ。――とその瞬間、突然彼女が咽返(むせかえ)ったんだ。

「ゴホゴホッ」

 彼女は激しくもがく様に呼吸をし始める。その姿は(ひど)く傷ましいものに見えもしたが、でも命を取り留めた事に違いはなかった。

 俺は君に彼女を(ひざ)まくらするよう指示する。そして横向きに寝かせた彼女の頭を君の膝に乗せた。これでもう(のど)に何かを詰まらせる心配もないだろう。荒々しかった彼女の呼吸も次第に静かなものへと収束してゆく。それを確認した俺は安心したのであろうか。腰が抜けた様に尻餅(しりもち)を着いてしまった。ただその時俺は無意識にも口走ったんだ。きっとそれが本心だったのだろう。

「良かった、本当に良かった。もう大丈夫だよ……」

 何でもない言葉。でもその言葉を耳にした君は、嬉しそうに大粒の涙を流していたね。でもその涙は初めに俺に見せた悲しみから出るものではなくて、嬉しさから(あふ)れ出てるく温かい涙に変わっていたんだよね。俺はそんな君の優しい表情を垣間見ながらホッと胸を撫で下ろしたんだ。達成感や満足感に(ひた)る様に――。


 嵐が過ぎ去ったかの様に、トラックは静けさを取り戻していた。するとそんな中で俺達に近づいて来る足音が聞こえて来る。只事でない雰囲気を感じ取ったのであろうか。清掃作業をしていた年配の男性職員が、急ぎ足で歩み寄って来たのだ。

 肩を大きく揺らしながら駆け付けた男性の姿からして、必死に向かって来たことが分かる。でももう少し早く来てほしかった。男性にまるで非は無いのだが、それでも俺は(ののし)りたい衝動に駆られ口先を(とが)らせた。ただラッキーだったのは、男性が携帯電話を所持していたことだ。落ち着きを取り戻した君から詳細を告げられた男性は、直ぐに救急車を呼んでくれた。そしてその10分後、駆け付けた救急隊員によって彼女はタンカーに乗せられる。そして救急車へと運ばれて行った。

 俺はその間、同時に駆け付けた大学の職員に事情聴取的な事をされ辟易(へきえき)していた。とりあえず彼女が無事だったんだから良いじゃないか。こっちは疲れてるんだから早く解放してくれ。彼女の命を救った満足感はもう、俺の胸の内で見当たらなくなっていた。けどそんな嫌気の差していた時だ。君が俺に駆け寄って来てくれたんだよね。

 俺はてっきり君は彼女に付き添って、救急車へと向かったものとばかり思っていた。いや、もちろん君はそうするつもりでいたんだろう。でも君は俺にお礼を告げる為だけに、急いで駆け寄って来てくれたんだ。彼女に付き添う為に急いでいるのが分かる。でも君は俺に満面の笑顔で言ってくれたんだ。

『ありがとう。本当にありがとう』って。

 俺にはその笑顔が(まぶ)しく感じられて、思わず目を背けてしまった。なんとなく恥ずかしかったんだ。蘇生処置を繰り返す間、何度も逃げ出したくなっていた俺の弱い心を見透かされそうに思えて。だから俺は君に返事をすることが出来なかった。本当に俺はバカな奴だ。なんでもっと素直に君の感謝を受け止められなかったのだろうか。


 自宅への帰り道で、俺はそんな自責(じせき)(さいな)まれながら歩みを進めた。大汗を掻いた影響で、初春の風がひどく冷たく感じる。このままでは風邪を引いてしまいそうだ。さらに手の平には彼女の冷たい体の感触がまだ残っている。本当に俺は上手(うま)くやれたのであろうか。

 ここに来て急に恐怖心が甦って来る。無事に彼女の命を取り留めたというのに、なぜか胸が締め付けられるほどに息苦しくて(たま)らない。自分の脆弱(ぜいじゃく)さに無理やり(ふた)を閉めて強がった反発力が、一気に膨れ上がってきたのだろうか。俺は胸に腕を押し当てながら、グッと奥歯を噛みしめた。

 俺は恐怖心に(おび)え立ち止まる。まるでアスファルトに同化してしまったのではないかと思えるほどに足は動かない。極度の不安に俺の心は黒く塗り潰されてゆく。でもそんな心細い胸の中で、俺は一つの温かい感覚を思い出したんだ。柔和で温かく、力強くて頼もしい。そんな感覚に俺の疲弊した心は支えられた。

 俺は右腕の手首に視線を向けた。そこは砂場に俺を同行させるために君が強引に掴んだ場所だった。それを思い出した俺は、そこを左手でそっと抑えてみた。

「あったかいな……」

 そこに君の温もりなど残っているはずもない。それでも俺はホッと気持ちの休まる穏やかさを感じ心を(なご)ませていた。


 いつしか冷たい風は心地よいものに変わっていた。いや、俺の気分がそう感じさせただけなのだろう。けれど今はそれで良かった。

 緊迫した火急の事態だったけど、でも彼女を無事に救えたわけだし、何より君と同じ時間を共有出来た事に、その時の俺は嬉しさを覚えられずにいられなかったんだ。それが(つら)(かな)しい二人の関係の始まりなんだなんて、これっぽっちも知らずにね――。

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