其の壱
嘉永七年江戸。下谷界隈に縄暖簾「すが屋」という居酒屋がある。惣菜一皿を七文程の手頃な価格で出して客足を稼いでいるが、だからといって大賑わいをみせる程でない、どこにでもあるいたって普通の居酒屋である。
夜四つつを迎えた頃、坂野泰三という、今年四十を迎えたばかりのひょうひょうとした男が、この「すが屋」に訪れた。奥の床几に腰をかけた坂野は、酒を飲みつつ惣菜をほうばるのだが、彼がこの店を訪れたのは単に一杯ひっかける為だけではなかった。この店の主人、菅谷勘蔵にある話をしようとしていたのだ。他人に聞かれてはまずい秘匿せねばならない話。他の客が退けるのを待ち、やがて残っている客が自分一人となったのを見計らい、残っていた酒を飲みほすと、彼は「親父さん、ちょっといいかい?」と菅谷を手招きした。
調理場で動いていた店の者と話をしていた菅谷だが、呼び掛けに応じて話を中断し、「何でございましょう?」と、坂野の元へ寄っていった。この客が新たな酒の注文をする為に自分を呼んだ訳ではないだろう、との見当はすぐついた。久しぶりの「依頼人」だ、と察した菅谷が店の者達に、「お前達は先に帰っていいですよ」と告げると、こうした事は心得ているとみえて、「ではお先に上がらせて貰います」と、素直に従って支度した後帰っていった。
店内は坂野と菅谷の二人だけとなった。そうして坂野が「実は随分前に聞いた噂を思い出してやって来たんですがね」と話を切り出した。
「この店に来りゃあ幸村誠二郎って人に連絡がつくって話だったんだが、本当ですかい?」
「左様にございますよ、お客さん。依頼したい事があるんですね?」
「そうなんでさ。ある男を殺って欲しいんだが……」
「わかりました。話を窺いましょう」
坂野はひとつ礼を言うと早速話始めた。
坂野が持ち込んだのは殺しの依頼である。菅谷勘蔵は、居酒屋を営む傍ら、殺し屋として飯を食っている幸村誠二郎という男へのこうした依頼のいっさいを取り持っているのだ。坂野からの話は、この菅谷を通して幸村誠二郎の耳に入る形となる。そうする事で、殺しという罪を負う幸村の所在を知れ渡り難くしているのだった。
坂野との話を終え、暖簾も行灯も片付け終えて店を出た菅谷は、表店の数軒先にある木戸の前で立ち止まった。夜ももう遅いとあって既に木戸は閉じられてある。菅谷が備え付けられてある鳴子板を鳴らすと、脇にある木戸番屋から、月番の親父が眠そうに目をしょぼつかせながら出てきた。
親父は菅谷の顔を見るなり「今、何刻だと思ってんだい」と、一頻り文句を口にするものの、丁寧に謝る菅谷の応対に免じてぶつぶつと不平を鳴らしながらも、くぐり戸開けた。親父に礼を述べながら木戸をくぐった菅谷は、木戸の閉まる音を背に受け、長屋の続く路地の奥へと歩いていった。
裏長屋の続く小路を歩いているうち、菅谷は三度傘の掛った家の前で立ち止まる。そうして玄関の板戸を二回、一回、二回、と叩いた。
暫くしてつっかえ棒の外れる音がしたかと思うと、戸が開いて男が顔を覗かせ、家に入るよう促した。菅谷は外に誰もいないのを用心深く確かめたのち、身を滑り込ませる様にして入ると戸を閉めた。
三間×三間程の狭い室内を瓦灯が照らし出している。先程の男は既に上がって中断した晩酌を再開していた。白い木綿の肌嬬袢姿のこの男が幸村誠二郎である。
最低限の家財道具しかなく、板間の上に筵をひいただけの殺風景な部屋に草履を脱いで菅谷が上がると、「相変わらず何もない部屋ですね」と、室内を見回した。お猪口の酒を流し込みながら、「金がなくなっちまったからな。みな売り払っちまったよ」と、情けなさそうに幸村は溜め息をつく。
「少し前まであったあの壺も……」
「売っちまったよ」
とほほ、と肩を落とす幸村。そんな様を見て菅谷は、やれやれ、といった具合に気遣わしそうな視線投をげ掛けながら、仕事が入った旨を伝えた。
仕事、と聞いて幸村の目がギラリと光った。
「内容は?」
「伊勢屋の番頭、山村兵衛と用心棒三人の始末です」
声を潜め、菅谷は坂野泰三からの依頼を話だした。
一見しただけではただの町民だがは実は泥棒の常習者、という坂野泰三はある日の夜、木綿問屋の伊勢屋へ侵入し、金三十両を盗み出す事に成功した。しかし、その現場を伊勢屋の番頭山村甚兵衛に見られてしまった。数日後、さんざん探し回った挙げ句ようやく坂野の家を見付出した山村は、用心棒を引き連れて坂野のもとへやって来ると、金を返すよう言い渡した。だが、坂野は盗み出した金の半分を既に借金の返済と博打とで使ってしまっていた。仕方がないので残っていた金を返した坂野だったが、山村は承知しない。どこぞで盗んで来てでも残り半分を返すよう、用心棒を使って脅しかけてくる。拒否しようにも用心棒の存在が怖くもあり、そもそも訴え出られたらおしまいである。泣く泣く別なところへ盗みに入り、何とか返済する事が出来て坂野は胸を撫で下ろした。しかし、これで味をしめた山村は、口止め料と称して新たに金を要求して来たのである。
さすがに坂野も拒んだが、山村は用心棒の三人を使って追い込みをかけてきた。近日中に新たに三十両を用意しないと犯行を口外する、と迫り、どんなに逃げても用心棒の浪人らが何処まででも追い掛けるから妙な考えを持っても無駄だ、と睨みかけて来る。
坂野は悩んだ。
もし山村の言うがままに金を盗み出して渡したとしても、今後一体どうなるか。あの山村の態度からして口止料の要求が際限なく続く様に思えてならない。とはいえ拒否したところで口外されれば身の破滅。逃げたところで用心棒らに見付かってしまえば何をされるか知れたもんじゃない。
そんな時、ふと幸村誠二郎という男の噂話を思い出したのである。
金さえ積めばどんな人間の依頼であれ殺しの仕事を請け負う幸村誠二郎という男の噂話は、裏の世界で生きてきた坂野の耳にも入っていた。幸いにも残金返済の為に盗んだ金が十両程残っている。この金ではたして請け負ってくれるのかどうかわからないが、背に腹は変えられない。依頼してみよう。
そうして坂野は、窓口となっている縄暖簾「すが屋」にやって来たのだった。
ひとしきり話終えた菅谷は懸念した。用心棒の浪人三人を相手にしなければならないにも関わらず、報酬はたったの十両である。今回は断るだろうという考えを少なからず持っていた。しかしそれは杞憂であった。菅谷が話終えるやいなや「その伊勢屋ってなどこにある?」と幸村が聞いてきたのだ。依頼の内容と報酬額との釣り合いを、秤にかけてる様子などさらさら無い。
「この依頼、引き受けなさるおつもりですか?」
「あたぼうよ」
「依頼主は十両程しか出せないと言ってますが」
「それがどうした」
「三人の浪人相手に十両程度の報酬じゃあ、ちょっと割にあわないかと……」
菅谷の言葉尻に合わせて「へっ」と不適に笑った幸村は「確にそうだがよ。しかしな、助けを求めて俺んところに来た人間をよ、金が少ないからってだけで見捨てる様な真似なんざ俺には出来ねぇ。引き受けるぜ、この依頼」などといったご大層な文句を言って見栄を張ろうとした幸村だったが、その瞬間腹の虫が盛大に鳴り響いてへなへなとその場に崩れ落ち、「何でもいいから金が欲しい」と、ついつい本音が漏れたのだった。
必殺の暗殺剣を使う闇の殺し屋。それが幸村誠二郎の本性である筈なのだが、貧乏には敵わない。何とも言えずにいる菅谷だったが、ひとつ溜め息をついた後、伊勢屋のある場所を説明するのであった。
伊勢屋は日本橋で商いをしている大店であった。翌日、菅谷から店の場所を聞いた幸村は、早速日本橋までやって来ると、伊勢屋周辺の物陰から山村の動きを監視した。
山村は番頭だけあって一人だけ羽織を着て勘定場で台帳を手にしながら手代の者らに指示を与え、忙しそうに立ち回っている。仕事は出来る方なのだろうが、そうした者らが持ち併せている狡猾そうな印象が確にある。
しかし、日中の間ずっとそうして山村の動向を探っていたが、用心棒らしき浪人の姿はついぞ見掛ける事は無かった。伊勢屋で働いている間は裏の顔を見せないのだろう。幸村からすれば山村本人よりも用心棒の方にこそ注意すべきで点であるので、両者を結び付ける接点がどこにあるかを確認したいところである。それが見い出せないとあるなら長居は無用で、幸村はその場から立ち去ろうとした。
すると
「そこの兄さん」と背後から声をかけられたので振り向くと、いかつい人相の男が三人、肩をいからせて歩いてくる。腰に大小を差し、擦りきれた着物を着流している如何にも浪人といった風体の男達であったので、一目で山村の用心棒だろうと推察した。
男達は近付いて来るなり幸村を囲む。そうして「兄さん、ここで何をしとる」「なんや伊勢屋さんの方をずっと見とったのう」「あすこに何ぞ用でもあるんか?」などと口々にいちゃもんをつけつつ詰め寄りながら、幸村の上から下まで視線を這わせる。ガラの悪い、そうする事で威圧感を与えていると信じきった三人の男達に、肝を冷やすといった事態に陥る事のない幸村は、身のこなしからして三人とも体して剣の使えん奴らだ、との断を下した。これが人の絶えた夜中であるなら、いとも容易くこの場で全員斬り捨てる事も出来たであろう。幸村の見立ではそれ程まで腕の差異があったのだったが、まだ日の暮れてない内に事に及んで人の目につくのはいささか不味い。 だから
「人待ちしているだけだ」
と、幸村はでまかせ口にしてその場を逃れようとしたのであったが、
「ちょっと待てや」
「怪しい奴」
「面貸せや」
と男達は幸村を逃そうとはしなかった。
どう言って誤魔化そうかと幸村が考えていると
「あら、誠二郎さん」
と女の声が割って入って来た。見てみると、顔見知りのうら若い女である。菅谷の娘、佐菜子だった。
何ともうまい具合いに居合せたものだ、と幸村は内心驚いたが、これ幸いに、
「佐菜ちゃん、待ちくたびれたよ」と男達の間をすり抜けて佐菜子の方へ寄っていくや腕を取った。
呆気に取られる佐菜子におかまいなく、
「そうい事で」と、男達に一瞥くれた幸村は、苦虫を潰した顔付きで舌打ちする男達をよそにさっさとその場から立ち去っていった。
「助かったよ佐菜ちゃん」
と、幸村が礼を言うと、
「絡まれていたの?」と佐菜子が尋ねる。
「まぁ、そんなところ」「あの三人、後藤さんのところの浪人でしょ?」
意外な発言に驚いた幸村は、「知っているのか?」と、佐菜子の顔をまじまじと見つめた。
「うん」
と頷いた佐菜子からの話によると、その浪人達は両替商の後藤という男のお抱え用心棒であった。
後藤は裏で高利貸しをやっていて、その用心棒らを使って強引な取り立てをしているらしい。佐菜子の知り合いの娘の親も後藤から金を借り、最初の十両がいつのまにやら三十両まで膨れ上がって難儀な目にあったという。
「その娘の家に遊びに訪ねた時取り立てに来たのがさっきの三人だったって訳よ」
「なる程ね」
そうした高利貸しの用心棒と繋がりがあるという事は、やはり山村はきな臭い男と見ていいだろう。二人がどの様にして繋がっているのかはわからないが、後藤の方も調べてみた方が良さそうだ。
幸村がそうして思案していると、「ねぇねぇ、何かあったの?」と、佐菜子が興味深々で聞いてきた。
「えっ?」
ギクッ、と体を震わせた幸村の背筋に寒感が走った。ついうっかり失念しまっていた。どんな事にも首を突っ込みたがる好奇心旺盛なこの娘の前では迂濶な言動は厳禁であった。
「ねー、何があったのっ?」「あの三人組が何かやらかした?」「教えて教えて」
わくわく。
といった具合いに幸村の袖をしっかり握り矢継ぎ早に聞いてくる。
「何も知らない知らない」
まいったな、と幸村は閉口しつつも何とかシラを切り通そうとする。しかし、佐菜子からの追求はいよいよ勢いを増すばかりである。
このままでは勢いに圧されて変な事を口走ってしまいかねない、と思った幸村は、「悪い、用事を思い出した」となかば強引に佐菜子を振りきり、小走りに駆け出した。
「あ、こら。まだ何も聞いてない〜」
遠ざかる佐菜子の声を背に受け、足早に立ち去る幸村であった。
続く