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燎人夜曲

 空は次第に透るような紺青に変わり、家々の向こう、城壁を越えた地平線が僅かに薄紅を残すばかりだ。今度は一度に二つ、離れた弦を弾いてみる。合わせた弦が悪かったのか、鈍い濁りが音の中に混じる。どれとどれなら良い音が鳴るのだろう、知らぬ自分には、これはただ音の鳴るだけの、木の置き物だ。でも、自分は、自分で弾くよりも――

『貸してごらん』

 顔を上げると、膝の上にあった竪琴から重さが引いた。そして、光輝を得て浮かびあがると、隣にまるで、別の者の膝の上に置かれたように宙で留まった。そして、それぞれの調子を確かめるように、全ての弦が順々に鳴る。

 フーは目を丸くして、それを追った。見えないけれど、そこには確かに。

「いるの……?」

 返事はなく、ただ、微笑まれたときのような微かな温かさが返ってくる。

『ずっと、君に聴かせたいと思っていたんだ』

 竪琴は鳴りだす。自分がただ弾いただけの音とは比べ物にならない、生きた音色で。かつての夢を、陽のあたる花園の、夕日に染まる物見楼の、火の映える夜の(ねや)の、彼が奏でた音を辿って響きだす。それは、在りし美しい日への追憶。そして。

 切なく、優しく奏でられた旋律は、一転して、明るく華々しく、軽やかに流れ出す。ああ、これは。彼がこちらの背中を押している。前へ進めと。過去に患うな、と、目の先を照らし、祝福する曲。――忘れずともよい、だが、進めと。自分を置いて、先に進めと。

「わかってる、わかってるの」

 フーは呟く。夕闇が水気に滲む。変わることは失うこと、そして、新たに得ること。

 目の前の怖いものから逃げた自分は、同時に、ちゃんとそれと向き合う機を逸してしまった。目の前にいるものと向き合ったら、それまであったものを失くしてしまうと思ったから。その代わりに、新しいものを得ることもなくなってしまった。竪琴は歌う。まだ、間に合う、生きているのだから、と。

 曲が止まり、竪琴は小さな音をたてて、床に下りた。震える弦の余韻は淡い光と共に消えてしまった。

「人は駄目ね、すぐ死んじゃうから」

 フーは僅かな星明かりにそれを撫で、呟いた。

「限りあるから、美しいんだよ」

 幻でない確かな声と、木の軋む音にフーは弦の弾けるように振り向いた。外で花火が上がる。明るい炎の粒に、照らされるのはこちらへと微笑む、懐かしい人。燎たる楽人の、優しい声。

「そして、その限りある時の、ひとときでも君と過ごせた。それでも私は充分だった」

 大きな音が空気を揺るがす。何を想う間もなく、フーは駆けだし、その影に飛び込んだ。確かな人の応えと、絹の服の匂い、夜気に冷やされる肌の熱、鼓動の音。飛びこんだ先の、服を、腕をしっかりと掴んで、フーはその胸に頬を寄せた。幻でも何でもそれで良かった。彼の手が肩を抱き、髪を撫でた。そして、笑み崩しながら言う。

「ああ、でも。欲を言うなら、もう少し生きてもみたかったな――君と一緒に」

莫迦(ばか)ね……」

 服地に涙を拭い、フーは顔を見あげる。見返すのは、懐かしいその人の顔。白く濁りながらも、それでもしかとこちらを見つめる瞳。フーは視線を下げ、再び胸に顔をうずめた。

「もう大丈夫、ありがとう。……さよなら」

 彼はもう一度髪を撫でる。随分遅くなってしまったが、これでようやく。

 また、後ろで光の花が咲いた。

 

「ん、お……? どうした、フー」

 飛び込んでいた腕の中から、微かに墨の匂いがして、フーは顔を上げた。そこにあるのは、かつての人に似た、けれど、確かに異なる、伴とつれた絵描きの顔。

「俺ぁ、さっきまで、あの衝立描き直しててよ。それで、終わって……ここぁどこだ?」

 辺りを見回し、服を改められたイェンジーははますます彼に似ていたが、やっぱり。

「その服、あんまり似合ってないわよ」

 イェンジーから離れ、微笑みながらフーは窓の方へ歩く。女官たちに着せられたのだろうが、本当に、着せられた、という風でその動きにも心にもちっとも馴染んでいない。見あげた先に、空の花がぱっと開いて、すぐ濃紺の空に吸われていった。

「おい、なんだもう花火始まってんじゃねぇか!」

「ここに来たら? 良く見えるんだって」

 本当か、と慣れぬ衣をばたつかせながら、イェンジーは窓の桟に飛び付いた。残った黒い左眼に赤や金の光を映しながら、子供のような表情でそれを見る男。光が開くたび、見ろ、と指差し、嬉しそうに顔を輝かせる。見てるわ、と応えながら、フーは小さく呟いた。

「ばかみたい。死なない命なんて無いのにね」

 苦笑をこぼし、空の高みで爆ぜる焔を見あげる。人も皆、花火に似ている。美しいのは、その輝きが一瞬だからだ。

「そりゃそうだろう、人はみんなそうだ」

 イェンジーが事もなげにそれに応える。照らされた横顔に、そうよね、と呟くと、イェンジーは空から目を離し、こちらを見つめ返した。

「何があったか知らんが、俺は死なねぇぞ」

「莫迦じゃないの。さっき言ってたことと……」

「まだ当分、死ぬ気がしねぇからな」

 イェンジーはそう言って、空に視線を戻した。

「そういや、あの女王さんによ、ここに残って絵を描かねぇかと言われたんだけどよ」

 不精髭の剃られた顎を、指で掻いて言う。

「断った。王宮にあるもんっつっても、外と変わらんしな。それに、俺ぁお前と一緒にいるほうがいい。……い、色々見られるからな」

 フーは目を丸くして、男の顔を見つめた。何だよ、と応える顔は気恥かしげで、こちらが見ているのに気付くと、イェンジーは花火見ろよ、と腕を伸ばして、空を指した。フーは微笑む。

「莫迦ね……」

 イェンジーに寄り添って、窓の桟に肘をつくと、フーも同じように空を見あげた。

 綺麗な火の華だ。これが終われば、麦の為に都の外の草原は地上の花を描いて焼かれるはずだ。

「花火見終わったら、上に野火を見に行かない? きっと、下で見るより綺麗よ」

「本当か! おう、頼むぞ、フー」

 嬉しそうな男の声に、フーはそっと目を閉じた。耳の奥で、あの曲が流れている。否、今だけじゃない。これからもずっと、心の中で流れ続けるだろう。優しき燎人の残した、あの美しき夜曲が。

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