魂の焔
「姉上は、人が嫌いなのではなかろ、話をするのが苦手なだけぞ」
聞き覚えのある曲を、二、三度さらい終え、朱雀は言った。
「さっきもそうだ、余はの、姉上。今まで一度も、神獣であったことを悔いてはおらぬよ。天の降りたる前までずっと一緒だったではないか、知っておろ。余は押し付けられたところで、たとえ天命とて嫌だと思えば意地でも受けぬ。これは余がやりとうてやったことよ」
屋根の上から、次第に日が降りて来る。もうすぐ日は赤く、弟と同じ色になるだろう。街から届く声も賑わいできた。
「それに姉上に天命がいったと聞いた時、余は然り、と思ったのだぞ。生まれて余が朱雀となるまで、姉上の方がずっと聡くずっと力があったからの」
「それは、うそ。あんたがそういうから、辺りがそう思っただけよ。私はあんたについていっただけ」
外で餌の残りを探す鳥たちを見ながら、フーは応える。初めて陽山から飛んで出た時も、弟が外に出たいというから、出ただけだ。
「そうだの。雛鳥の時分から、力もない余をそういって守ってくれたのだ。だから、天から余に朱雀の命が降りれば、姉上をこれ以上煩わせることもなかろうと思った。……姉上は、きっと天命を辞すと思っていたよ」
これで良かったのだ、と朱雀は笑った。
時のない世界で、火山の内に生まれた同胞。先に目覚めた自分を姉と呼んで、外へと連れだした明るい火の鳥。姉と呼ばれたときにも、初めは違うと首を振った。今ようやく、弟の朱の形に自分の紅はつり合うだろうが、それまでは同じ鳥の形をしていても、同じとは思えなかったのだ。それでも、朱雀は自分を姉だと言った。
『朱雀も君も、良く似ているよ』
同じことを、火王も言った。そして、やはり自分の方が姉に違いないと。何を見ているの、とそのときは応えたけれど、やはり今もそう思うのだ。あの時の自分のどこが。見た目でも心でも、自分は人が好んだり羨んだりするようなものは何一つなかった。
弟の隣、窓の桟に肘をつき、外を見る。屋根の上に敷布を上げる町人の姿が見える。花火を見ようというのだろう。
「のう、姉上。姉上は、火王に惚れておったろう」
唐突に、朱雀はそう言った。
「誰が!」
振り向くと、朱雀は悪戯っぽく笑う。違う、と否定しようと声を抑えて、弟は続けた。手遊びに弾いた弦が、ぽん、と音をたてる。
「あやつは、姉上を好いておったぞ。人間と獣という境を超えて」
ぽん、とまた同じ弦が弾かれて、鳴る。
「姉上が王宮を離れた後の、あやつのことを姉上は知らぬろ」
「いいの、聞きたくない」
首を振り、フーは階段に向かって歩き出す。自分のことを恨んでいてもそうでなくても、聞いて自分に何が出来ると言うことはないのだから。もうそれは万も昔に、失われたことだ。もう遅い、もう遅いのだ。
「聞きやれ、姉上!」
背後で朱雀が張り上げた声に、フーはびくりと体を震わせた。
「今聞いて何になるかではないのだ、姉上。ただ、互いに誤解したまま、それを良しとする姉上やあやつのその諦念が気にいらぬ。余の、久しぶりに会った弟のひとつの我がままと、どうか聞きやれ。あやつが居らぬでも、姉上はまだここに在られるのだから」
フーは振り返る。弟は、じっとこちらを見、そして、目を伏せた。
『フーに謝らなくては。私は分を超えて、彼女を求めてしまった。どんなにか傷つけたろう。彼女は、人間の私などが王宮に閉ざしていいものではなかったのに』
朱雀の声に、火王の声が重なる。フー、とこちらを呼ぶ声。
『盲いた私なら、見目に気を張らずに済むだろうと思ったけれど、そういうことじゃなかったのだろうな。見えずにいる今のほうが、彼女は美しかったと強く思うんだ。……それに、もし、もう一度会えるなら、聴かせたい歌があるんだよ』
あの時見ていられなかった、病床に伏した火王の、やつれながらも変わらない笑み。フーは身の内で、ぽん、と弦の弾かれるのを感じた。彼の心を映して、その音が悲しくなるのなら、慰めることでそれはまた明るくなり得たのだろうか。それが自分に出来たのだろうか。彼も出来ると思ってくれたのだろうか。再び、琴の音の辿る、優しく美しい調べを二人で紡ぐことができたのだろうか。
悲しい音にすぐ耳をふさいでしまわなければ。
のう、姉上、と朱雀は夕日に翳る顔をこちらに向けて、微笑む。
「あやつは、姉上の魂に惚れておった。姉上もそうだ、きっと、人も獣もなく、何もかもを越えて、姉上たちは互いの魂を好いたのよ。自身の魂と響いた、同じ輝きの焔を求めたのだ」
心の、魂のよる方へ。歩みの違う、いつかどこかへ還りゆくそれが、互いを惹いた。
「謝る必要なんてないの。私が、ただ怖かっただけ。ただ、私が……」
永久に共に過ごせると一時でも思ってしまったから、それが誤りだと気付いた時、目の前に広がる無限の時に愕然とした。自分にはどうしようも出来ない力によって、やがてその手は、笑みは遠ざかる。ならば振りほどかれるよりも先に、自分で振りほどいてしまおうと思った。その方が、自分は傷つかずに済む。どこまでも我が身かわいさに、彼を傷つけたのは自分だ。謝るならば――
『でも、これで良かった。私はもうすぐ死に、彼女はこれからも生きる。それぞれの生き方を、これで全うできる。相応しい生き方を迎えられる』
幻の声は、どこまでも自分を許し、優しい響きだけを残していく。それでも、彼が自分を許し、許されても尚、ただただ謝りたかった。赤い落日に照らされて、火のような涙が、頬を伝う。
「姉上。余は余が神獣であって良かったと思う。王達の、善き者たちの死に、柔き心では耐えられぬ。とすると、国の主ではおれぬ。だが、その柔きこそ、余の持たぬ果てのない慈愛よ。姉上の美徳よ」
窓の外に落ちていった涙の意味を、弟は知らないだろう。自分は優しくなど無い。求められたような、慈愛などきっと与えられない。違う、ただ、自分はどこまでも臆病だっただけだ。傷つくのが怖くて、踏み出せぬのを優しさだと思われているだけなのだ。心の柔さこそが、人を傷つける自分の弱さだ。優しいのは、それを許してくれる、弟や火王のほうなのに。自分は彼の心も、弟の心も知らなかった。
陽が落ちるのと同時に、幾度目かの雫が落ちて、暮れまだきの中へ消えていった。晩鐘が聞こえてきて、朱雀は窓の桟から降りた。
「否、これも余が思っただけのこと、本当のこと全てなど、あやつは言い残していかなかった。姉上の思うところも余は真に知り得ぬ。余の想うことが真実と違っても、余はそれすら知り得ぬ」
朱雀は竪琴をこちらへと差し出す。木の重みがしっかりとしたそれを、自分はとっさに受け取ってしまった。
「ちょっと、これ……!」
引きとめようとすると、朱雀は振り返って笑う。
「聞けば、この楼からなら花火が良く見えるらしいの。夕餉があれば呼びに参るぞ、好きな時までゆるりとされよ。余は日暮れに、と王に呼ばれておるのだ」
つき返そうとするのを受け流し、朱雀は楼の入口へと降りていってしまった。次第に暗くなる外の、篝火の匂いを感じながらフーは茫然とそこに座りこんだ。
遥かな時を越えて彼は、自らの気持ちをこちらへ伝えた。が、それを知った今、自分は自分のこれまで思いと、彼の心を知って生まれたこの今の思いを、どこへやったらいいのだろう。
「弾き方、知らないのよ……」
フーは指で弦をはじいてみた。ぽん、と澄んだ軽やかな音が紫に暮れゆく楼に響く。彼はここに自らの心を乗せられた。けれど、自分がこれを弾いたところで、音はしても曲にはならない。言葉を預けるには、何もかもが足りない。
細い指を弦にかけ、もう一度弾く。それでも響くのは、行き場のないひとつの音だけだった。