変わらぬ楼、変わる音
楼に辿りつくと、その入り口に簡単な封がしてあるのがわかった。札も錠も縄も無く、ただ常人が入るのを拒むだけの、ささやかな術だ。そっと扉に触れるとそれが弟の掛けたものだと気付く。何のために掛けたのだろう。人を入れないようにと思えば、封などせずとも錠を落とし、王命を以て立ち入りを禁ずればいい。何か良くないものを封じるならもっと強い呪いがいる。
フーは引き戸の合わせ目を指で撫でた。ほんのりと薄紅の、やわらかな光が触れたところに集まる。解こうと思えばそれも容易い封だけれど。
『おいで、フー。都を見よう』
弾かれるように、フーは顔を上げた。曇りのない朗とした声。記憶をなぞる幻の声。そうだ、この楼は火王が造らせたのだ、広がりゆく美しい南の都を見渡せるようにと。今の賑わいなど想像もつかぬほど、ぽつんと小さく造られたこの街を見るために。そして、遥かに広がる南の草の海を見るために。気がつけば、フーは格子の扉を引いていた。封印は元からなかったかのように、何の抵抗もなく消えた。
「いるの……?」
フーは金襴の袖をはためかせながら、上階へ螺旋に続く階段を駆け上がる。
『おいで、ずっと待っていたんだ』
応えるような言葉、ずっと昔に失われてしまった声。この楼は王宮内の他の建物とは違う。一万年前と、少しも変わっていない。まるで時が止められていたかのように、調度の品にも細かな装飾のついた内装にも傷みや褪せがない。赤丹に塗られた階段の手すり、赤樫を柿渋で磨き上げた内側の透かし窓、吊り下げられた花鳥の飾り。自分と共に入ってきた風の匂いも、窓の外の風鐸の音も、何一つ変わらず、あの時のままここに在る。自分を呼ぶ、懐かしい声も。微かに聞こえるのは、間違いなく彼の琴の音だ。
「ねぇ! いるの?」
声を上げ、息を切らしながら、フーは最上階へと上っていく。この建物は、どこよりも彼の気配がする。初めて名前を聞いてくれて、呼んでくれた人。この国を開いた朱を纏った楽人の。りん、と風鐸を鳴らし、吹く風は海棠の花の匂いを連れている。上へ上へと往くそれに押されて、フーは物見の階まで上りつめた。彼のつくった歌が、流れるような旋律が降ってくる。
『待っていたんだ』
桃実を模した手すりの飾りを掴み、フーは飛び込むように最上階へと駆けこんだ。ひと際強く風が吹きぬける。そして、音はぴたりと止んだ。
「あ……」
がらんと広い、物見の階。楼の窓はすべて開け放たれていた。ずっと開いていたのではない、きっとついさっき開いたのだ。ようやく聞こえ始めたのは、街のほうから聞こえる祭り支度の賑わい。
フーは唇を噛みしめた。
「馬鹿みたい……!」
誰もいるはずない。入口の封印は自分が解くまでかかっていたのだから。誰もいるわけがない。誰も、彼も。探した姿は尚更にあるわけなかった。一万年前に失われた人間を求めたところで、いるわけがない。
「馬鹿じゃないの、あたし」
強い調子で呟いて、フーは窓へと歩み寄った。どこまでも平らな南の地は、こんな僅かな高さでもずっと先まで見渡せる。この楼は変わらなくても、見える景色はまるで違う。あの時見えていた都を囲う城壁は、随分と遠くなってしまった。これだけ広くなった自分の国を見たら、彼はどう思うのだろう。自分の興したこの国を。
わかっている。きっと、誇らしげに笑うだろう。そして、嬉しそうに、子供みたいにはしゃぎながら、あちこちを指差して。ごらん、これが私の国だ、と。
フーは窓の桟に腰かけた。外を行く鳥がこちらに気付いて、仲間を呼びに行った。いろいろ教えてくれようというのだろう。外の温い風に蘇芳色の髪を揺らし、フーはため息をついた。
とうの昔に、彼は死んだのだ。そして、その時自分は傍にいなかった。戦から受けた不幸によって変わってしまったその性情と病み弱っていくその姿を見ているのが辛かったからだ。戦から崩御まで、それでも十数年あった。でも、人にとっては長き時間も自分にとっては一時のこと。病んで倒れ伏すまで、間などなかったのだ。
自分がいなくなったことを彼はどう思ったろう。それとも、いなくなったことに気付いていただろうか。もしかしたら、知らずにいたかもしれない。四方それぞれ、王が支払った、勝利の代償のために。
火王は、光を。戦の中で深手を負った彼は、あらゆる美しいものを愛でたその眼の光を失ってしまったのだ。
見えなければ、前のように歩くことすら難いし、出歩いたところで見えるのは滔々たる暗闇だけ。彼はふさぎがちになり、居室から出ることも減った。天の楽と名をはせた、琴の腕は変わらなかったが、花の紅に木々の翠に朗々と謡った、かつての歌の心は失われてしまった。琴の音はただ切なく、悲しげに響くばかりだった。
『君は、ずっと変わらない』
傍にいて欲しい。そう言って、火王が掴んだ手を、自分は振り払った。掴まれた腕の強さにも、合わなくなってしまった瞳も、恐ろしくなってしまったから。同時に、自分のせいで合わせられなかった瞳は、もう二度と合わないのだと嘆き悔いた。
そして、あの時は、変わらないと言われたことに少なからず腹を立てたのだった。見えていた時と見えなくなってからが変わらぬ自分は、見た目など無いに等しいものだったと。軽々しく外見を褒めたかつての彼と、それを易々否定したその時の彼を無意識に厭うた。
彼は確かに、弱っていた。だから、誰かを傍に置いておきたかったのかもしれない。それが、言葉通りに自分を求めて、それを拒んだのだとしたらどんなにか酷いことをしただろう。何も言わずに王宮を出て、彼は自分を探しただろうか。でも、その時の自分は酷いことだと知りながらもそうせずには居られなかった。初めは王宮の中にあって火王を避け、やがて古巣の山へと逃げた。
傍にいて欲しい。かつての彼のものならばその言葉をどれほどか喜んだだろう。そう思えば思うほど、酷薄な自分が一層嫌になるのだった。
陽山へと帰った後、何度王宮へ戻ろうかと考えた。でも、あの痛々しげな、切ない背中を見るとわかって戻ることは出来なかった。かつての姿を知っていれこそ、彼の心が乗せられた琴の音も歌も聞くことはできなかった。
「来なければ良かった」
共に過ごす時間を、何よりも求めて、何よりも恐れた。二人の間を流れる時間の河は、向こうばかりが足をとるような早瀬。
「あたしは、ひとりでいれば良かったのに」
フーは呟く。俯く自分を、小鳥たちが心配そうに見ている。人は嫌いだ、どんなにあがいても自分は人になれなかったから。同じ命を持てなかったから。時間を共有できないものと傍にいてはいけなかった。どんなに焦がれても、傍にいてはいけなかったのだ。
じわり、と視界が滲む。空は青いのに、朧に溶けていく。膝に下りてこちらを窺っていた小鳥が、落ちてきた雫に小さな体を振るった。